学位論文要旨



No 119275
著者(漢字) 山道,光恵
著者(英字)
著者(カナ) ヤマミチ,ミツエ
標題(和) SW13細胞はBRG1、Brm遺伝子が転写後に発現制御を受けることで形質転換する
標題(洋) SW13 cells can transition between two distinct subtypes by switching expression of BRG1 and Brm genes at the post-transcriptional level
報告番号 119275
報告番号 甲19275
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2249号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中村,義一
 東京大学 教授 澁谷,正史
 東京大学 助教授 小林,一三
 東京大学 助教授 仙波,憲太郎
 東京大学 助教授 田中,廣壽
内容要旨 要旨を表示する

背景と目的

多細胞生物を形成する個体内の細胞は、基本的に同一ゲノムを有しているが、それぞれが固有の細胞機能を果たし、自身のアイデンティティを維持している。これは、ゲノム上の遺伝子の発現が塩基配列の変化を伴わない後生的な修飾(エピジェネティクス ; epigenetics)により制御されて、選択的に活性化または不活性化されていることを反映している。このような修飾にはDNAメチル化やヒストンの修飾、クロマチン構造の形成とその構造の変換、さらには転写調節因子のネットワークなどが含まれるだろう。

ある種の腫瘍細胞では癌抑制遺伝子がDNAメチル化によって発現が抑制されているという報告があることから、エピジェネティカルな遺伝子発現制御の異常が発癌を引き起こす可能性が考えられる。また、クロマチン構造変換因子SWI/SNF複合体を構成するサブユニットを欠失するヒト癌細胞株がいくつか見いだされ、これらをコードする遺伝子には癌抑制遺伝子としての機能があると考えられている。SWI/SNF複合体上に生じた異常はエピジェネティカルな転写の制御を乱し、細胞の個体発生の記憶をそこなう可能性が高いと思われるが、その標的遺伝子群の同定や発癌との直接の結びつきについては、ほとんど解明が進んでいない。

SWI/SNF複合体は必須の触媒サブユニットとしてBRG1とBrmのいずれか一方を含むが、ヒト副腎腺癌由来のSW13細胞株では両タンパク質の発現が検出されないと報告されている。このエピジェネティクスを担う重要な複合体が機能しないことから、SW13細胞では遺伝子発現がエピジェネティカルに不安定になっている可能性がある。事実この細胞株には、細胞内フィラメントであるvimentinを発現している細胞(SW13 (vim+))と発現していない細胞(SW13 (vim-))が混在していること、それらは限界希釈法によるクローニングによって分けることが可能であることがこれまでに報告されている。本研究ではこの現象に注目し、BRG1、Brm遺伝子の発現制御と細胞の形質との関連を追究した。

結果および考察

これまでの報告と同様に、SW13に対して限界希釈法によるクローニングを行い、免疫染色によるvimentinタンパク質フィラメントの有無の確認によりSW13 (vim+)とSW13 (vim-)に分離し、さらにRT-PCR、Western Blottingでvimentin遺伝子の発現を調べた。これらの細胞の表現型は、SW13 (vim-)クローンはいずれもvimentin遺伝子の発現が検出されず、SW13 (vim+)ではいずれのクローンでもこれらの発現が認められた。また、これらの2種の細胞は、その増殖速度や形態に大きな違いは見られなかった。

vimentin遺伝子はそのプロモーター領域にAP-1結合配列を持ち、転写制御因子AP-1によりその転写が活性化されることが知られている。このAP-1は細胞の増殖や癌化に関与し、その構成成分の中でもc-Fos/c-JunダイマーはSWI/SNF複合体のサブユニットの一つであるBAF60aと高い親和性で結合することにより、この複合体全体を不活性な染色体上のAP-1結合配列へと動員して転写を活性化することが我々の研究室で既に示されている。これらの知見から、AP-1制御下にあるvimentin遺伝子の発現が検出されるSW13 (vim+)では、BRG1またはBrmタンパク質の発現が回復しているのではないかという仮説を立てた。RT-PCR、Northern Blotting、Western Blottingにより解析した結果、SW13 (vim-)クローンはいずれもBRG1とBrm遺伝子の発現が検出されなかった。しかしSW13 (vim+)ではいずれのクローンでもこれらの発現が認められた。また、単層培養下でこれらの細胞に対してBRG1、Brm、vimentin mRNAのin situ hybridizationによる検出を行ったところ、SW13 (vim-)では培養下の全ての細胞でこれらのmRNAは検出されず、一方、SW13 (vim+)では全ての細胞で検出された。これらのことから、SW13 (vim+)ではBRG1とBrmのどちらのタンパク質も発現が回復しており、またクローニング後のSW13 (vim-)細胞とSW13 (vim+)細胞の表現型は継代を繰り返しても長期に安定であることがわかった。

さらに、AP-1制御下にある他の遺伝子としてcollagenase (MMP-1)、c-met、CD44遺伝子を選びその発現をRT-PCRで解析すると、SW13 (vim-)ではどの遺伝子も発現が見られず、一方SW13 (vim+)では全ての遺伝子の発現が検出された。また、SW13 (vim-)にBRG1またはBrm遺伝子を外来的に導入してもvimentin、collagenase、c-met、CD44のAP-1制御下の遺伝子のmRNAの発現がいずれの場合にも誘導された。これらのことから、SW13細胞はBRG1とBrmタンパク質の発現の有無によって、下流の様々な遺伝子の発現がSWI/SNF複合体を介して転写レベルで発現が制御されていると考えられる。

SW13 (vim-)において、BRG1とBrm遺伝子の発現が抑制されている原因として考えられる可能性としては、これらの遺伝子が欠失していること、またはエピジェネティカルな遺伝子の発現抑制が起こっていることが挙げられる。そこで、これらの可能性を検証するために、エピジェネティカルな制御に関わる薬剤をSW13 (vim-)に添加した。その結果、HDAC阻害剤の添加によりBRG1、Brm遺伝子の発現がタンパクレベルで回復し、これらの発現は薬剤を除いた後にも安定して維持されることから、SW13 (vim-)ではこれらの遺伝子には変異があるわけではないと考えられる。さらに、その下流で制御されるvimentin、collagenase、c-met、CD44遺伝子の発現も回復したことから、SW13 (vim-)におけるBRG1とBrmタンパク質の誘導によって機能的なSWI/SNF複合体が再構成されたと考えられる。また、単層培養下のSW13 (vim-)の全ての細胞でBRG1、BrmのmRNAが薬剤添加によって発現が回復していることがin situ hybridizationで確認できたことから、SW13 (vim-)はSW13 (vim+)と同様の性質の細胞に転換可能であるといえる。

そこで、SW13 (vim-)ではBRG1とBrm遺伝子がどのような機構で抑制されているのかを知るために、SW13 (vim-)においてこの抑制が遺伝子発現のどの段階でおこっているのかを解析した。細胞核抽出物をrun-onトランスクリプション法で調べたところ、SW13 (vim+)、SW13 (vim-)ともに、BRG1、Brm遺伝子は高い頻度で転写開始を受け、しかも全遺伝子領域で伸長反応が進行していた。これらのことから、SW13 (vim-)においてはBRG1、Brm遺伝子が転写を受けた後に負に制御 (post-transcriptional suppression) を受けていると考えられる。また、SW13 (vim-)にHDAC阻害剤を添加した場合でもrun-onトランスクリプション法で測定したBRG1とBrm遺伝子の転写量に変動はなかったことから、HDAC阻害剤は、BRG1とBrm遺伝子の転写活性化に直接作用しているのではなく、SW13 (vim+)で特異的に機能していると思われる転写後の抑制に拮抗する因子の転写の活性化をしている可能性が高い。

以上の結果から、SW13細胞はBRG1とBrm遺伝子のmRNA成熟過程を転写後に制御することにより低い頻度で二つの細胞型を変換しうることが示唆される。この細胞で見られる転写後抑制は、いくつかの他のヒト癌細胞におけるBrm遺伝子発現制御においても観察されたことから、遺伝子発現制御の新しい機構として非常に興味深い。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、ヒト副腎腺癌由来細胞であるSW13細胞における、クロマチンリモデリング因子SWI/SNF複合体の触媒サブユニットをコードするBRG1、Brm遺伝子の発現制御の解析を行い、下記の結果を得ている。

SW13細胞は、SWI/SNF複合体の必須の触媒サブユニットであるBRG1とBrmの発現が検出されない細胞であると報告されている。また、この細胞株は、中間径フィラメントであるvimentinタンパクを発現している細胞(SW13 (vim+))と発現していない細胞(SW13 (vim-))が混在していることも報告されている。しかし、この細胞を限界希釈によりクローニングし、vimentiタンパクの有無によってSW13 (vim+)とSW13 (vim-)に分類したところ、SW13 (vim+)クローンではいずれのクローンでも培養下の全ての細胞でBRG1とBrm遺伝子の発現が認められた。また、SW13 (vim-)クローンはいずれもこれらの発現が検出されなかった。これらのことから、SW13 (vim+)ではBRG1とBrmのどちらのタンパク質も発現が回復しており、クローニング後のSW13 (vim-)細胞とSW13 (vim+)細胞の表現型は継代を繰り返しても長期に安定であることがわかった。

SW13 (vim+)細胞では、BRG1、Brmのタンパク発現回復によって、AP-1制御下の遺伝子であるvimentin、CD44、c-met、collagenase遺伝子の発現が転写レベルで活性化されていることが示された。

SW13 (vim-)細胞にHDAC阻害剤を添加するとBRG1、Brm遺伝子の発現が回復し、AP-1制御下の遺伝子の発現に関してもSW13 (vim+)と同様の性質を示したことから、この細胞ではBRG1、Brm遺伝子に変異があるわけではなく、その発現はエピジェネティカルに抑制されていることが示された。また、SW13 (vim-)はSW13 (vim+)に転換可能であることが示唆された。

SW13 (vim-)ではBRG1、Brm遺伝子のmRNAは発現していないが、これらの遺伝子はSW13 (vim+)と同様に高い頻度で転写開始を受け、しかも全遺伝子領域で伸長反応が進行していた。これらのことから、SW13 (vim-)においてはBRG1、Brm遺伝子が転写を受けた後に負に制御 (post-transcriptional suppression) を受けていることがわかった。また、SW13 (vim-)にHDAC阻害剤を添加した場合でも、BRG1とBrm遺伝子の転写量に変動はなかったことから、HDAC阻害剤は、BRG1とBrm遺伝子の転写活性化に直接作用しているのではなく、SW13 (vim+)で特異的に機能していると思われる転写後の抑制に拮抗する因子の転写の活性化をしている可能性が高いことも明らかになった。

以上、本論文は、SW13細胞がBRG1とBrm遺伝子のmRNA成熟過程を転写後に制御することにより低い頻度で二つの細胞型を変換しうることを示した。この細胞で見られる転写後抑制は、いくつかの他のヒト癌細胞におけるBrm遺伝子発現制御においても観察されたことから、癌細胞における遺伝子発現制御機構の解明に大きく貢献することが考えられ、学位の授与に値するとものと考えられる。

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