学位論文要旨



No 119333
著者(漢字) 境,洋二郎
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,ヨウジロウ
標題(和) パニック障害患者の脳内グルコース代謝
標題(洋) Regional Brain Glucose Metabolism in Patients with Panic Disorder
報告番号 119333
報告番号 甲19333
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2307号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 加藤,進昌
 東京大学 教授 門脇,孝
 東京大学 助教授 百瀬,敏光
内容要旨 要旨を表示する

[背景]

パニック障害は、不安障害の代表疾患の一つであり、その生涯罹患率は、1%から3%と報告されている。パニック障害に罹患することにより、その患者の QOL は低下し、社会的経済的損失も大きい。適切な治療は、患者にとっても、社会にとってもそれらを改善させうることが示されている。パニック障害に対し、抗うつ薬などによる薬物療法が奏効すること、乳酸や二酸化炭素などがパニック障害の主症状であるパニック発作を誘発させることが示されており、脳の機能障害がパニック障害の大きな要因であると考えられている。

パニック障害の治療としては、薬物療法とともに、認知行動療法の有効性も多く報告されており、認知行動療法の方が、治療終了後において、再発がより少ないことも報告され、その発展、普及が望まれている。認知行動療法などの心理療法の神経生理学的効果に関して、最近、関心が持たれているが、これに関連した報告は少なく、パニック障害に関するものはこれまで報告がない。

また、パニック障害の神経解剖学的仮説として、恐怖条件付けを用いた動物実験などをもとに、扁桃体を中心とした恐怖ネットワークが想定されている(Gorman ら 2000)。その仮説では、扁桃体からの投射先である脳幹や視床下部の神経核の興奮により、パニック発作の多様な症状が生じること、及び、孤束核、視床、前頭前野、前部帯状回、海馬から扁桃体は入力刺激を受けることが示されている。また、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)などの薬物療法は、扁桃体や脳幹、視床下部を不活化しパニック発作を減少させることにより作用し、認知行動療法は、扁桃体より上流に働き、海馬で生じた文脈性の恐怖条件付けの消去により恐怖症性回避を減少させ、扁桃体に抑制的に作用する内側前頭前野の機能強化により、誤った認知の再構成や異常感情反応を減少させることにより作用するのでないかとされている。しかし、これまで、患者対象の治療研究では、この点に関して明らかにされていない。

これまでのパニック障害患者を対象にした神経画像研究では、側頭葉の形態異常や海馬領域の脳血流やグルコース代謝の異常などの報告があるものの、一定した結果は示されておらず、扁桃体を中心とした恐怖ネットワークを実証したものはなく、更なる神経画像研究が望まれている。また、近年の、高解像度のPET(positron emission tomography)装置は、脳内のより微細な構造の検出が可能になっている。

[目的]

本研究の目的は、高解像度 PET 装置を用いて脳内グルコース代謝を測定し、全脳におけるボクセルベイスト解析を行い、【研究1】治療前パニック障害患者の脳内グルコース代謝を、正常統制群と比較し、その特徴を評価すること、及び、【研究2】薬物療法を用いず、認知行動療法により治療し、効果のあった患者における治療前後の脳内グルコース代謝を比較し、どのような変化があるか評価することである。

[方法]

アメリカ精神医学会診断基準DSM-IVのパニック障害診断項目を満たし、大うつ病をはじめとした精神疾患、人格障害、及び、身体疾患の合併例は除外としたパニック障害患者を対象とした。薬物服用のない状態で非発作安静時の18F-FDG (fluorodeoxyglucose)-PET画像を撮像し、患者群と正常統制群との脳内グルコース代謝の群間比較を SPM(Statistical Parametric Map)99を用いて行った。

その後、パニック障害患者に対し、薬物療法を行わず、認知行動療法を約6か月間に10セッション施行した。その治療は、心理教育、リラクセーション法、エクスポージャー法、選択的注意の振り分け法、自己教示法、自己強化法、思考中断法、認知の再体制化法からなるものである。

治療後、再び非発作安静時の18F-FDG-PET画像を撮像し、有効例における治療前後の脳内グルコース代謝変化をSPM99を用いて比較した。

[結果]

【研究1 治療前パニック障害患者の正常統制群との比較における脳内グルコース代謝の特徴】

パニック障害群は、正常統制群と比較して、両側扁桃体、海馬、視床、及び、背側の橋下部から延髄にかけての脳幹部、小脳において有意な代謝亢進を認めた。有意な代謝低下領域は認めなかった。

【研究2 有効であった認知行動療法前後の脳内グルコース代謝の変化】

認知行動療法が有効であった患者群では、治療前と比較し治療後において、左内側前頭前野、右前部帯状回、右下後頭から右中側頭領域、左上頭頂領域に有意な代謝亢進を認め、右海馬、橋中部、左小脳、左被殻領域において有意な代謝低下を認めた。これらの有意所見領域のグルコース代謝と重症度の相関を評価すると、右海馬と有意に正の相関、左内側前頭前野と有意な負の相関を認めた。

[考察]

治療前のパニック障害患者の脳内グルコース代謝は正常統制群と比較し、Gorman らの扁桃体を中心とした恐怖ネットワークの仮説の中で言われたいくつかの領域で有意に亢進しており、神経画像研究において、初めてこれを支持する結果となった。仮説では、パニック発作時の神経活動を示したものであるが、今回の結果は、非発作安静時においても、そのいくつかの部位の活動性上昇を示している。このことは、治療前のパニック障害患者では、普段の発作のない状態においても、これらの活動性が高まっていること、または、PHT 検査という拘束状況で、正常統制群より不安に関する神経活動が高まりやすいことを示していると思われる。脳幹の神経核をPETの結果から同定するのは困難であるが、背側の延髄には、この仮説で言われる孤束核を含んでいる。海馬、視床、孤束核は、扁桃体に対しての入力経路であり、発作を起こしてない安静時にはパニック発作に直接関係する扁桃体からの出力系でなく、この入力経路領域の活動の高まりが示されると考えられる。小脳に関しては、パニック障害の仮説では、触れられていないが、動物実験で、小脳の働きを化学的にブロックすることで、恐怖条件付けが阻害されるとの報告 (Sacchetti ら 2002) があり、恐怖条件付けと深く関連のあるパニック障害において、今回の結果は小脳の活動性上昇を捉えたものと考えられる。

認知行動療法が有効であった患者群での治療前後の脳内グルコース代謝の変化では、内側前頭前野及び前部帯状回領域の上昇、海馬領域の低下を示した。この結果も、Gorman らの仮説で言われる「海馬で生じた文脈性の恐怖条件付けの消去により恐怖症性回避を減少させ、扁桃体に抑制的に作用する内側前頭前野の機能強化により、誤った認知の再構成や異常感情反応を減少させる」ことを、支持している。

相関の評価より、認知行動療法による症状の変化を含むパニック障害の重症度の改善と、右海馬の代謝低下、及び、左内側前頭前野の代謝増加の間に関連があることが示された。

他の不安障害との異同を検討すると、強迫性障害では、前頭葉-線条体系の異常の報告があり本研究の結果と異なるが、外傷後ストレス障害や社会恐怖では、本研究同様の扁桃体を含む辺縁系の異常を指摘された報告が複数あり、全般性不安障害については神経画像研究の報告が少なく検討できないが、特定の恐怖症の一つである、くも恐怖患者に対し認知行動療法を行うことで、恐怖刺激時における、海馬領域の賦活が消失されるなど、本研究結果と一致すると考えられる所見の報告もある。

本研究の限界としては、パニック障害の発症前やパニック発作時の評価を行っておらず、病因についての検討にはなっておらず、また、研究2の結果には、認知行動療法の効果に加えて、慣れの効果を含んでいる可能性のある点が挙げられる。今後、長期の完全に改善後の測定や、正常統制群やパニック障害患者待機群の6か月後の測定を行うことにより、それらの評価に役立っと考えられる。また、パニック発作誘発時の測定や、薬物療法前後の測定を行うことで、扁桃体から投射先の視床下部や脳幹の評価が出来る可能性があり、パニック障害の病因の評価やより優れた治療の開発に役立っと考えられる。

[結論]

パニック障害群は、正常統制群と比較して、両側扁桃体、海馬、視床、脳幹部、小脳において有意な代謝亢進を認め、認知行動療法が有効であった患者群での治療前後の比較では、内側前頭前野、前部帯状回に有意な代謝上昇を認め、右海馬、橋、小脳において有意な代謝低下を認めた。これらの結果は、パニック障害における病態や治療機序についての神経解剖学的仮説を、神経画像研究で初めて支持した。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、不安障害の代表疾患であり、罹患率が高く、罹患により患者の生活の質を大きく低下させる疾患である、パニック障害の患者に対し、PET(positron emission tomography)を用いて、脳内のグルコース代謝を測定し、脳内機能の評価を試みたものであり、下記の結果を得ている。

治療前のパニック障害患者群は、正常統制群と比較して、両側扁桃体、海馬、視床、及び、背側の橋下部から延髄にかけての脳幹部、小脳において有意なグルコース代謝亢進を認めた。

治療前のパニック障害患者群は、正常統制群との比較において、有意なグルコース代謝低下領域は認めなかった。

認知行動療法が有効であった患者群では、治療前と比較し治療後において、左内側前頭前野、右前部帯状回、右下後頭から右中側頭領域、左上頭頂領域に有意な代謝亢進を認めた。

認知行動療法が有効であった患者群では、治療前と比較し治療後において、右海馬、橋中部、左小脳、左被殻領域において有意な代謝低下を認めた。

認知行動療法前後の有意所見領域のグルコース代謝と、パニック障害重症度との相関の評価において、右海馬と有意に正の相関、左内側前頭前野と有意な負の相関を認めた。

以上、本論文はパニック障害患者の脳内グルコース代謝を、治療前の段階で、正常統制群と比較することにより、病勢の盛んな時期の脳内機能を評価し、認知行動療法前後で比較することにより、その作用脳内機序を評価した。本研究は、動物実験等により言われている神経解剖学的仮説を、パニック障害患者を対象とした、機能的神経画像研究で初めて支持する所見を示しており、パニック障害の脳内機序の解明や、今後の治療の発展において重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク