学位論文要旨



No 119348
著者(漢字) 康,祐大
著者(英字) Kang,Woodae
著者(カナ) コウ,シゲトモ
標題(和) 重度食餌制限が貪食細胞の細胞内シグナル伝達に与える影響
標題(洋) Effects of Severe Diet Restriction on Intracellular Signal Transduction in Phagocytes
報告番号 119348
報告番号 甲19348
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2322号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 矢作,直樹
 東京大学 教授 中原,一彦
 東京大学 助教授 小池,和彦
 東京大学 助教授 有田,英子
 東京大学 講師 北山,丈二
内容要旨 要旨を表示する

緒言

低栄養では免疫能によって、しばしば外科侵襲後に感染性合併症を生じ、予後の悪化を招く。低栄養に伴う免疫能低下の原因として、マクロファージや好中球、リンパ球などの機能異常が注目されている。腹腔常在マクロファージは刺激下にさまざまなサイトカイン、ケモカインを産生し好中球の腹腔内への動員を促し、腹腔内細菌感染初期の生体防御に中心的役割を果たす。近年、マウス栄養制限モデルで、重度食餌摂取制限が腹膜炎時の腹腔内サイトカイン、ケモカイン濃度と末梢好中球の接着分子発現を低下させること、それに関連して腹腔内滲出好中球数を減少させること、さらに滲出好中球の貪食能を低下させることが示されている。すなわち、低栄養状態ではマクロファージや好中球などの貪食細胞に機能異常が生じると考えられる。

貪食細胞におけるサイトカインやケモカイン産生、活性酸素産生、遊走、貪食、脱顆粒、細胞死などの炎症反応修飾に重要な機能は、さまざまな細胞内シグナル伝達経路により調節されている(図1)。チロシンキナーゼ (PTK) をはじめとするチロシン燐酸化は貪食細胞の細胞内シグナル伝達において重要な役割を演じている。また、細胞内シグナル伝達分子の一つで、Mitogen-activated protein kinase (MAPK) スーパーファミリー分子である Extracellular signal-regulated kinase (ERK)のシグナル伝達経路における役割も大きい。Nuclear factor kappa B (NFκB) も重要なシグナル伝達分子で細胞質から核への移行で標的遺伝子を発現させ、炎症性サイトカインやケモカイン産生を調節する。従って、低栄養時の貪食細胞機能低下には、細胞内シグナル伝達の変化が関与していることが推察される。しかしながら、これらのシグナル伝達経路に及ぼす栄養状態の影響を調べた報告は数少ない。また、低栄養状態と細胞内シグナル伝達との関係を Laser scanning cytometry などの新しい方法で形態的に観察し、評価した報告はない。

本研究は、短期食餌制限が貪食細胞の細胞内シグナル伝達に与える影響を明らかにすることを目的とした。このため、1) 食餌制限の有無による敗血症生体へのPTKシグナル阻害の影響と、炎症性刺激によるマウス腹腔常在貪食細胞と滲出貪食細胞のPTKに及ぼす重度食餌制限の影響、2) Laser scanning cytometry による食餌制限が腹腔常在貪食細胞のチロシン燐酸化に及ぼす影響、3) 食餌制限の有無による敗血症生体へのERKシグナル阻害の影響と、炎症性刺激による滲出貪食細胞のERK活性に及ぼす重度食餌制限の影響、4) 重度食餌制限下マウス腹腔常在貪食細胞の炎症性刺激による Nuclear factor kappa B活性に及ぼす短期間食餌再摂取の効果、を順次検討した。

チロシンキナーゼシグナル阻害の敗血症生体に及ぼす影響;食餌制限の有無による検討

マウスを1週間の食餌制限後(自由摂取時の25%と50%食餌量相当)に、PTK阻害剤あるいはその溶媒を腹腔内投与し2時間後に盲腸結紮穿刺 (CLP) をおこない腹膜炎を惹起し、CLP施行後7日間にわたり生存を観察した。その結果、PTK阻害の有無に関わらず、食餌制限群では自由摂取群に比べて生存が悪化した。PTK阻害は自由摂取群で生存を悪化させたが、食餌制限群では影響を及ぼさなかった。

マウスを1週間の重度食餌制限下(自由摂取時の25%食餌量相当)に管理し、腹腔常在細胞とグリコーゲン腹腔内注入2時間後に誘導された滲出細胞を腹腔洗浄で採取して、N-formyl-methionyl-leucyl-phenylalanine(fMLP)刺激によるチロシン燐酸化やPTK活性に与える食餌制限の影響を、フローサイトメトリーとウェスタンブロッティングにて検討した。その結果、腹腔常在細胞は主にマクロファージで、滲出細胞は主に好中球であった。どちらも、自由摂取群ではチロシン燐酸化やPTK活性はfMLP刺激下に増加したが、食餌制限群では増加しなかった。

これらの成績から、PTK活性は生体防御に重要であり、栄養障害時の免疫能低下の一因として、腹腔マクロファージや好中球における炎症性刺激に対するPTK活性の抑制が示唆された。

Laser scanning cytometry による食餌制限が腹腔常在貪食細胞のチロシン燐酸化に及ぼす影響の検討。

マウスを1週間の重度食餌制限後に、蛍光染色による定量化と細胞の形態観察が同一スライドガラス上でできることを特徴にもつ Laser scanning cytometer (LSC) を用い、fMLPやLipopolysaccharide (LPS) による刺激が腹腔常在細胞のチロシン燐酸化に与える影響を、食餌制限の有無によって検討した。その結果、LSCによって、刺激の有無によらず食餌制限群の腹腔内常在マクロファージのチロシン燐酸化は自由摂取群に比べ有意に高値を示すことが観察できた。また、自由摂取群では腹腔内常在マクロファージのチロシンリン酸化は両刺激で増加したが、食餌制限下では増加しなかった。また、fMLP (100nM)刺激前後のLSCを用いた測定結果はフローサイトメトリーでの同検体を用いた測定結果と有意に相関していた。さらに、燐酸化チロシンは約7割が細胞質に存在することが判明した。

これらの成績から、LSCによって栄養障害時の貪食細胞におけるチロシン燐酸化の明確な変化を示せた。LSCはチロシン燐酸化の観察、測定に有用であり、貪食細胞の細胞内シグナル伝達の研究に大きく寄与できることが示唆された。

短期食餌制限がfMLP刺激下滲出貪食細胞のERK活性へ与える影響-マウス腹腔内炎症惹起モデルを用いて

マウスを1週間の重度食餌制限後に、ERK阻害剤あるいはその溶媒を腹腔内投与し2時間後にCLPをおこない、生存を観察した。その結果、ERK阻害は自由摂取群で生存を悪化させたが、食餌制限群では影響を及ぼさなかった。

マウスを1週間の重度食餌制限下に管理し、グリコーゲン腹腔内注入2時間後に誘導された滲出細胞を腹腔洗浄で採取して、fMLP刺激によるERK活性に与える食餌制限の影響を検討した。その結果、主に好中球からなる腹腔滲出細胞のERK活性はfMLP刺激時に自由摂取群では有意に増加するが、食餌制限群では増加しなかった。

これらの成績から、ERK活性は生体防御に重要であり、栄養障害時には炎症性刺激に対する滲出貪食細胞のERK活性が抑制され、生体防御能低下の一因になると考えられた。

重度食餌制限下マウス腹腔常在貪食細胞の炎症性刺激による Nuclear factor kappa B活性に及ぼす短期間食餌再摂取の効果

マウスを1週間の重度食餌制限後に、1日間のみ、自由に食餌を摂取させた。その後、腹腔洗浄で腹腔常在細胞を採取し、Tumor necrosis factor-α (TNF-α) 刺激によるNFκB活性に与える食餌制限と食餌再摂取の影響を検討した。その結果、主にマクロファージからなる腹腔常在細胞のNFκB活性は、食餌制限群でTNF-α刺激時に抑制された。しかし、1日の食餌再摂取は、食餌制限により障害されたTNF-α刺激に対するNFκB活性化反応を、細胞質内NFκB量の増加を伴い回復した。

このことから、栄養障害時には短期間の食餌再摂取で、抑制されたNFκB活性は回復し、生体防御能を改善すると考えられた。

結語

貪食細胞の細胞内シグナル伝達経路で重要なPTK、チロシン燐酸化、ERK、NFκBに与える重度食餌制限の影響を検討した。その結果、

1) PTK活性は生体防御に重要であるが、重度食餌制限下では腹腔常在貪食細胞や滲出貪食細胞における炎症性刺激に対するPTK活性は抑制される。

2) LSCによって、腹腔常在貪食細胞のチロシン燐酸化によるシグナル伝達は主に細胞質で起きており、重度食餌制限下では異常をきたしていることが示された。

3) ERK活性は生体防御に重要であるが、重度食餌制限下では腹腔滲出好中球における炎症性刺激に対するERK活性は抑制される。

4) 1日の食餌再摂取は、重度食餌制限により障害された腹腔常在貪食細胞のTNF-α刺激に対するNFκB活性化反応を回復した。

以上の検討より、栄養障害時には貪食細胞のPTK活性、チロシン燐酸化、ERK活性およびNFκB活性に異常が生じ、生体防御能低下、局所の炎症の遷延化につながることが示唆された。また、重度食餌制限により、障害されたマクロファージのNFκB活性は、極めて短期の食餌再摂取で改善された。従って、栄養不良時には、栄養療法により、このような異常を是正して局所の生体防御能を改善させることが示唆された。低栄養時の生体防御能低下におけるこの分子生物学的な機序の解明が、今後の適切な栄養療法の戦略となることが期待される。

貧食細胞の細胞内シグナル伝達

審査要旨 要旨を表示する

本研究は細菌感染時の生体防御において重要な役割を演じている貪食細胞、好中球、マクロファージにおいて、サイトカインやケモカイン産生、活性酸素産生、遊走、貪食といった炎症反応修飾を調節している細胞内シグナル伝達経路、特にチロシンキナーゼをはじめとするチロシン燐酸化や、Mitogen-activated protein kinase(MAPK)スーパーファミリー分子であるExtracellular signal-regulated kinase(ERK)、そしてNuclear factor kappa B(NFκB)に、低栄養状態が及ぼす影響を検討したものである。そして、下記の結果を得ている。

チロシンキナーゼに対する検討では、マウス盲腸結紮穿刺腹膜炎モデルにおいてチロシンキナーゼ阻害剤が栄養障害がない群では生存を悪化させたが、重度食餌制限群では影響を及ぼさなかった。また、腹腔常在マクロファージや、滲出好中球にN-formyl-methionyl-leucyl-phenylalanine(fMLP)刺激を加えると、どちらも、栄養障害がない群ではチロシン燐酸化やチロシンキナーゼ活性はfMLP刺激下に増加したが、重度食餌制限群では増加しなかった。つまり、チロシンキナーゼ活性は生体防御に重要であるが、栄養障害時では腹腔マクロファージや好中球における炎症性刺激に対するチロシンキナーゼ活性の抑制が起こり、免疫能低下につながることが示唆された。

Laser scanning cytometryによるチロシン燐酸化に対する検討では、細菌性刺激の有無によらず重度食餌制限マウスの腹腔常在マクロファージのチロシン燐酸化は栄養障害がないマウスに比べ高まることが観察できた。さらに、燐酸化チロシンは約7割が細胞質に存在することが判明し、Laser scanning cytometryはチロシン燐酸化の観察、測定に有用で、貪食細胞の細胞内シグナル伝達の研究に大きく寄与できることが示された。

ERKに対する検討では、マウス盲腸結紮穿刺腹膜炎モデルにおいてERK阻害剤が栄養障害がない群では生存を悪化させたが、重度食餌制限群では影響を及ぼさなかった。また、腹腔滲出好中球にfMLP刺激を加えると、栄養障害がない群ではERK活性は増加したが、重度食餌制限群では増加しなかった。つまり、ERK活性は生体防御に重要であるが、栄養障害時では腹腔滲出好中球における炎症性刺激に対するERK活性の抑制が起こり、免疫能低下につながることが示唆された。

NFκBに対する検討では、マウス腹腔常在マクロファージのNFκB活性はTNF-α刺激時に、栄養障害がない自由摂取群では増加するが、重度食餌制限群で抑制された。また、わずか1日間の食餌自由摂取は重度食餌制限により障害されたTNF-α刺激に対するNFκB活性化反応を、細胞質内NFκB量の増加を伴い回復した。つまり、栄養障害時には短期間の食餌再摂取で、抑制されたNFκB活性は回復し、生体防御能を改善することが示唆された。

以上、本論文はこれまで未知に等しかった、貪食細胞の細胞内シグナル伝達において重要なチロシンキナーゼ、チロシン燐酸化、ERK、NFκBに対する、重度食餌制限による低栄養状態の影響を明らかにした。低栄養時の生体防御能低下におけるこの分子生物学的な機序の解明が、今後の適切な栄養療法の戦略に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値すると考えられる。

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