学位論文要旨



No 119395
著者(漢字) 垰田,善之
著者(英字)
著者(カナ) タオダ,ヨシユキ
標題(和) o-カルボランの特異な置換基効果 : 芳香族求電子置換反応と加溶媒分解
標題(洋)
報告番号 119395
報告番号 甲19395
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1056号
研究科 薬学系研究科
専攻 分子薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 影近,弘之
 東京大学 教授 小林,修
 東京大学 教授 柴崎,正勝
 東京大学 教授 福山,透
 東京大学 助教授 眞鍋,敬
内容要旨 要旨を表示する

カルボラン(dicarba-closo-dodecaborane, C2B10H12)は炭素原子2個を含む二十面体型ホウ素クラスターであり、炭素原子の位置によりオルト、メタ、パラの3種の異性体が存在する。カルボラン骨格は26個の電子が非局在化することにより、水素化ホウ素化合物としては例外的な熱的および化学的安定性を示すため、3次元のベンゼンに例えられる。このような特異な形状と安定性により、カルボランは材料科学や医薬化学の分野で機能性分子や生理活性物質の構造単位として利用されている。カルボランの置換基としての電子的性質はハメット則とタフト法によって解析されており、炭素置換カルボランは誘起的で強力な電子求引基であり、その強さはオルト >> メタ > パラの順である。ところが、外部π電子との相互作用を示唆する報告もあり、カルボランの電子効果については依然として不明な点が多い。そこで本研究では、カルボランの電子効果を解明することを目的として、これまであまり行われてこなかった有機反応化学的な手法を用いて以下の実験を行った。その結果、o-カルボランに特異な置換基効果があることを見出した。

フェニルカルボランの芳香族求電子置換反応

芳香族求電子置換反応におけるカルボランの置換基効果の解析例は少なく、例えばニトロ化ではo-カルボラニル基がパラ配向性を示すことが報告されているが、詳細な検討はされていない。そこでまず3種のカルボラン異性体およびそのC-置換体のニトロ化について検討し、カルボラニル基の配向性および反応性を検討した(Table 1)。

混酸(15% HNO3 , 85% H2SO4)でのニトロ化では、1a, 2a, 3a (R = H)のいずれも定量的に反応は進行しパラ配向性を示した。o-ニトロ体の生成が少ないのは嵩高いカルボラニル基の立体障害によると考えることができる。C-置換体については、2b, 3b (R = CH3), 2c, 3c (R = Br)では大きな変化はなかったが、1b (R = CH3), 1c (R = Br)ではメタ配向性に変化した。

次にフリーデル-クラフツ反応を行った。塩化アルミニウムを触媒とした場合には、カルボラニル基の強力な電子求引性により反応が進行しないことが報告されていた。そこで、カルボランが酸性条件に高い安定性を示すことに着目してトリフルオロメタンスルホン酸(TFSA)を用いたアセチル化反応を試みた(Table 2)。2a, 3aでは、100当量のTFSA、10当量の塩化アセチルを加え、60℃で7時間撹拌すると90%以上の収率でアセチル体が生成した。しかし、1aではより強い条件にすることにより、収率を53%まで向上させることはできたが反応は完全には進行しなかった。これはo-カルボラニル基の強力な電子求引性を反映しているといえる。配向性については1a, 2a, 3aのいずれもパラ配向性であった。メチル体(1b, 2b, 3b)、ブロモ体(1c, 2c, 3c)の結果はニトロ化と同様に、1b (R = CH3), 1c (R = Br)ではメタ配向性に変化し、反応性も低下した。

以上のように、3種のカルボラニル基は無置換の場合にはパラ配向基であることが明らかとなり、共鳴効果の存在が示唆された。しかし、o-カルボラニル基では炭素原子に置換基が入ることでメタ配向性に変化し、その共鳴効果が減弱するという特異な性質があることが明らかとなった。この現象にはo-カルボランに特有のC-C結合が関与していると考えられる。o-フェニルカルボラン(1a, 1b, 1c)のX線結晶構造では、フェニル基と置換基との立体反発が大きくなるとo-カルボランのC-C結合が長くなることが報告されている。この構造の変化によりC-C結合間の相互作用が弱くなり共鳴効果が弱くなるのではないかと考えている。

カルボラニルベンジルトシレートの加溶媒分解

カルボラニルベンジルトシレートの加溶媒分解では、カルボラニル基による立体障害とフェニル基による安定化によりSN1機構で反応すると予想し、カルボランの隣接カルボカチオンに対する電子効果を速度論により調べた。加溶媒分解反応としてアセトリシスと含水ジオキサン中での加水分解を行い、反応速度を1H-NMR法により測定した。得られた擬一次反応条件での反応速度定数と活性化パラメータの値をtable 3, 4に示す。

アセトリシスではカルボランの電子求引性の強さを反映し、反応速度はo-カルボラニル体(4)で最も遅かった。ところが加水分解では、4は5よりも76.1℃で71倍反応が速かった。活性化パラメータにおいても、4では5, 6に比較してΔH‡が小さく、またΔS‡が非常に大きな負の値という特異性を示した。生成物の立体化学については、アセトリシスでは4, 5, 6のいずれもラセミ化した。加水分解では5, 6ではラセミ化であったが、4では70% eeで立体は保持された。

このように、4の加溶媒分解では溶媒によって反応機構が変化する可能性が示唆されたので、溶媒効果を詳細に検討した。その結果、メタノール、エタノールでも4は5, 6よりも反応速度が速く、生成物の立体が70 ~ 80% eeで保持された。

4の加溶媒分解における溶媒による反応機構の変化は、溶媒の求核性と関係があるのではないかと考えた。そこでアルコールよりも求核性の強いアニリン中で反応を行ったところ、5, 6では反応は進行せず原料回収になったのに対し、4では室温で速やかに反応が進行しアニリンが置換した生成物が得られた。アニリン-d7中での反応速度を測定したところ、活性化パラメータは加水分解と似た値を示した(ΔH‡= 17.5 kcal/mol, ΔS‡= -16.3)。

以上のように、4は求核性の強い溶媒中では特殊な機構で反応することが明らかになったので、その反応機構に関する詳細な検討を行った。まず、溶媒分子がトシル基のS原子を求核攻撃してS-O結合開裂が起きていることが考えられるが、H218Oを用いて4の加水分解を行ったところ、18Oはカルボラニルベンジルアルコールの方に取り込まれていたので、その可能性は否定された。

溶媒の求核性と関係があり、m-カルボランやp-カルボランと異なるo-カルボランに特有の性質として、アルコキシド、脂肪族アミン、フッ素アニオンのような求核剤によってo-カルボランの3位もしくは6位のホウ素原子が求核攻撃を受けてデボロネーションが起こり、nido-アニオンになるという反応が知られている。ハロゲン化されたo-カルボランでは水やアルコールによってもデボロネーションが起こるが、m-およびp-カルボランでは同様の反応は起こりにくい。この点を考慮して4の加溶媒分解について次のようなダブルSN2機構を提案する。水やアルコールのように求核性が強い溶媒中では、溶媒分子とo-カルボランの3位のホウ素原子との間に相互作用が生じ、コンプレックスを形成する。このコンプレックスを中間体として分子内でSN2反応を起こしてトシル基が脱離し、別の溶媒分子がトシル基と同じ方向からSN2的な求核攻撃をしてベンジル位での置換が起こり、最後にホウ素原子と溶媒分子との結合が切れて立体を保持した生成物となる。この反応機構では電子求引性の強いo-カルボラニル基の隣接位に正電荷が発生しないために反応速度の加速を説明することができる。これに対し、トリフルオロ酢酸(TFA)、2,2,2-トリフルオロエタノール(TFE)、酢酸のような低求核性の溶媒では通常のSN1機構で反応する。

この反応機構を検証するために、o-カルボラニルベンジルトシレートのフェニル基とカルボラニル基に置換基を導入してその影響を調べた。

フェニル基上に置換基を導入した7のアセトリシスにおいては、置換基の電子供与性の増大とともに反応速度は速くなるという結果になり、ハメット式の反応定数ρ+は大きな負の値(-4.37)を示した。しかし、加水分解では反応速度は置換基によらずほぼ一定の値となった。この結果は、加水分解では反応の遷移状態でフェニル基が関与する部位に電荷が発生していないということを示しており、ダブルSN2機構を示唆している。

o-カルボラニル基の炭素上にp-置換フェニル基を導入した8のアセトリシスでは、ハメット式の反応定数ρは負の値(-0.63)を示したが、加水分解では正の値(+1.12)を示した。これは加水分解では反応の律速段階で反応中心に電子密度の増加が生じることを示しており、ダブルSN2機構では溶媒分子がo-カルボランの3位のホウ素原子を求核攻撃することが反応の引き金になることと一致している。

o-カルボランのピリジンコンプレックス

o-カルボランの3位のホウ素原子と求核剤との相互作用は、デボロネーション反応においても重要である。しかし、その存在を直接示した例は少ない。1-ブロモ-o-カルボランをピリジンと反応させると、ピリジン2分子の付加体が生成するという報告はその一つであるが、その構造は明らかにされてはいなかった。そこでこの反応を追試し、X線結晶構造解析により構造を決定することを試みた。その結果、ピリジン2分子は両方とも3位のホウ素原子に付加しており、デボロネーション過程の中間体の一つに相当する構造をしていることが明らかになった。また、求核性の弱いm-クロロピリジンでは反応は起こらず、求核性の強いp-メチルピリジンではさらに反応が進んでデボロネーションが起こったことから、ピリジンの求核性によってo-カルボラン骨格が異なる反応性を示すということを見出した。

Carboranes

Nitration of phenylcarboranes

Phenylcarboranes

Friedel-Crafts acetylation of phenylcarboranes

Carboranylbenzyl tosylates

Rate constants (k1, s-1) and activation parameters of acetolysis in CD3COOD.

Rate constants (k1, s-1) and activation parameters of hydrolysis in 30%D2O-dioxane-d8.

Rate constants in solvolysis (relative to that of 5).

Plausible mechanism in solvolysis

Solvolysis of 7

Solvolysis of 8

Pyridine adduct of 1-bromo-σ-carborane

審査要旨 要旨を表示する

カルボラン(dicarba-closo-dodecaborane, C2B10H12)は炭素原子2個を含む二十面体型ホウ素クラスターであり、炭素原子の位置によりオルト、メタ、パラの3種の異性体が存在する。カルボラン骨格は26個の電子が非局在化することにより、水素化ホウ素化合物としては例外的な熱的および化学的安定性を示し、材料科学や医薬化学の分野で機能性分子や生理活性物質の構造単位として利用されている。カルボランの置換基としての電子的性質は、ハメット則とタフト法によって解析され、炭素置換カルボランは誘起的で強力な電子求引基であり、その強さはオルト >> メタ > パラの順であると考えられているが、外部π電子との相互作用を示唆する報告もあり、その電子効果については依然として不明な点が多い。本研究は、カルボランの電子効果を解明することを目的として、有機反応化学的な手法を用いてその化学的性質を解明することを試みたものであり、その結果、o-カルボランに特異な置換基効果があることを見出した。

申請者はまず、芳香族求電子置換反応におけるカルボランの置換基効果を検討した。フェニルカルボラン類の芳香族求電子置換反応に関する解析例は少なく、例えばニトロ化ではo-カルボラニル基がパラ配向性を示すことが報告されているが、詳細な検討はされていない。申請者は3種のフェニルカルボラン異性体およびそのカルボラン炭素上置換体のニトロ化について検討し、カルボラニル基の配向性および反応性を検討した。混酸によるニトロ化では、1a, 2a, 3a(R = H)のいずれも反応は定量的に進行し、パラ配向性を示した。一方、C-置換体については、o-カルボラン体1b、1cだけがメタ配向性へと変化した。更に、申請者は、この傾向がニトロ化だけでなく、フリーデル-クラフツ反応でも観測されることを見いだした。塩化アルミニウムを触媒とした反応では、カルボランの強力な電子求引性により反応が進行しないことが報告されていたが、トリフルオロメタンスルホン酸を用いることで反応は進行し、やはり1a, 2a, 3aはパラ配向性を、1b、1cではメタ配向性を示した。以上の結果は、3種のカルボラニル基(無置換)がパラ配向性基であり、共鳴効果の存在を示唆している。また、o-カルボラニル基の場合にだけ炭素原子上に置換基が入ることでメタ配向性に変化した。この現象は、o-カルボランにおいてはフェニル基と置換基との立体反発が大きくなるにつれ、そのC?C結合が長くなり共鳴効果が弱くなるためと考えられる。

次に、申請者は、加溶媒分解におけるカルボラニル基の効果を検討した。カルボラニルベンジルトシレートの加溶媒分解では、カルボラニル基による立体障害とフェニル基による安定化によりSN1機構で反応すると予想できる。実際、アセトリシスではカルボランの電子求引性の強さを反映し、反応速度はo-カルボラニル体4で最も遅かった。一方、加水分解では、4は5よりも76.1℃で71倍反応が速いという結果を得た。この時、4では5, 6に比較してDH‡が小さく、またDS‡が非常に大きな負の値という特異性を示した。生成物の立体化学については、アセトリシスではいずれもラセミ化したのに対して、加水分解では4の場合だけ、70% eeで立体が保持された。そこで、4の加溶媒分解における溶媒溶媒効果を検討したところ、メタノール、エタノールでも4は5, 6よりも反応速度が速く、生成物の立体が70 ~ 80% eeで保持された。一方、求核性の強いアニリン中での反応は、5, 6では原料回収になったのに対し、4では室温で速やかに反応が進行し、この反応における活性化パラメータは加水分解と類似の値を示した。

申請者は、このo-カルボランの特異な置換基効果を解明する目的で反応機構に関する詳細な検討を行った。まず、H218Oを用いた4の加水分解反応の解析から溶媒分子がトシル基のS原子を求核攻撃してS-O結合開裂の可能性を否定した。そこで、申請者は、溶媒の求核性と関係するo-カルボラン特有の性質として「求核剤によるo-カルボランの3位(6位)のデボロネーションが起こり、nido-アニオンになるという反応」に着目した。このデボロネーション反応はハロゲン化されたo-カルボランでは水やアルコールによってもが起こるが、m-およびp-カルボランでは同様の反応は起こりにくい。この点を考慮して、申請者は4の加溶媒分解について次のようなダブルSN2機構(下図)を提唱した。本機構では、水やアルコールのように求核性が強い溶媒分子とo-カルボランの3位のホウ素原子との間に相互作用が生じて、コンプレックスを形成する。この中間体が分子内でSN2反応を起こしてトシル基を脱離し、別の溶媒分子がトシル基と同じ方向からSN2的な求核攻撃をして置換が起こって、最終的に立体を保持した生成物となる。この反応機構では電子求引性の強いo-カルボラニル基の隣接位に正電荷が発生しないために反応速度の加速を説明することができる。

申請者は提唱した反応機構を検証すべく、o-カルボラニルベンジルトシレート4のフェニル基とカルボラニル基上の置換基効果を検討した。フェニル基上に置換基を導入した場合の反応速度は、アセトリシスでは置換基の電子供与性の増大とともに速くなったが(ρ=-4.37)、加水分解では置換基によらずほぼ一定の値となった。また、o-カルボラニル基の炭素上にp-置換フェニル基を導入した化合物の加水分解ではp位の置換基に対してハメットの反応定数ρは正の値(+1.12)となり、この結果は、反応の律速段階で反応中心に電子密度の増加が生じることを示しており、上記機構を支持する。

最後に、申請者はo-カルボランの3位のホウ素原子と求核剤との相互作用がデボロネーション反応においても重要であるにもかかわらず、その存在を直接示した例が少ないことに着目し、カルボラン類とピリジンとの反応を詳細に解析し、デボロネーション過程の中間体に相当する構造を同定した。本結果は、申請者の提唱した加水分解反応機構を支持するとともに、カルボランのデボロネーション機構について示唆するものである。

以上のように、申請者は、カルボランの興味深い置換基効果を見いだし、詳細な解析によってその反応機構を解明した。本研究成果は、ボランクラスターの基礎科学に新たな知見を与えるとともに、カルボランを材料科学や医薬化学に応用展開する上での重要な化学的基盤となる。従って、有機化学、医薬化学研究に寄与するところ大であり、博士(薬学)の学位を授与するに値すると認めた。

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