学位論文要旨



No 119409
著者(漢字) 鹿毛,枝里子
著者(英字)
著者(カナ) カゲ,エリコ
標題(和) 線虫の嗅覚行動と神経回路形成における転写因子MBR-1の機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 119409
報告番号 甲19409
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1070号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 教授 一條,秀憲
内容要旨 要旨を表示する

【序】

多くの動物において、感覚情報の処理・統合には中枢神経系の介在ニューロンが重要な役割を果たす。昆虫においては、脳のキノコ体を構成する介在ニューロン群が嗅覚や視覚の情報処理に関わると考えられている。昆虫の中でもセイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)は発達したキノコ体をもち、高度な感覚処理能力や多彩な社会性行動を示す。私たちはこれまでに、ミツバチ脳でキノコ体選択的に発現する転写因子Mblk-1を同定した(図1)。その発現パターンから、Mblk-1はミツバチの高次行動を支えるキノコ体神経回路の形成や機能維持に関与する可能性が考えられた。

一方、Mblk-1ホモログは線虫からヒトに至るまで広く存在しているが(図1)、いずれの動物種においてもその神経系における機能は不明であった。そこで私は、最もシンプルな神経系をもつモデル動物である線虫C.elegansに着目し、まずMblk-1の線虫ホモログであるmbr-1のcDNAを単離した。本研究では遺伝学的手法によるmbr-1の機能解析を行ったので、以下に報告する。

【方法と結果】

GFPをレポーターとしたmbr-1の発現解析

まずmbr-1の発現部位を調べるため、プロモーターを含むと予想されるmbr-1の5'上流約5kbpをクローニングし、その下流にGFP遺伝子を繋いだベクター(mbr-1p::gfp)を作製した。このベクターを線虫野生株にマイクロインジェクションし、形質転換株を得た。細胞同定の行いやすい幼虫期の線虫について、微分干渉顕微鏡および共焦点レーザー顕微鏡を用いて観察を行った結果、主に頭部神経節(神経環)の介在ニューロンAIM, RIC, AIN, RIH(またはRIR), RIP, RIF(またはRIG)においてGFP由来の蛍光が検出された(図2)。成虫においても同様の発現パターンが確認された。また胚発生期においては、多くのニューロンが既に分裂を終えて分化を開始している胚発生後期から発現が認めらた。以上の知見は、mbr-1は介在ニューロン選択的に発現することを強く示唆しており、またそれらニューロンの分化あるいは機能維持に働く可能性を示唆している。

mbr-1欠損変異体の作製

次にMBR-1の機能を明らかにするため、TMP/UV法を用いてmbr-1欠損変異体を単離した。TMP/UV処理によりランダムに欠損変異を誘発したライブラリーの中から、mbr-1をはさむように設計したプライマーを用いてPCRを行い、mbr-1領域が欠損した変異体を同定した。得られた変異体からゲノムDNAを抽出し、シークエンス解析を行ったところ、転写開始部位から上流約600bpと開始コドンを含む領域の2278bpが欠損していることが分かった。mbr-1ホモ欠損変異体は、見た目は正常であり子孫も残すことから、MBR-1は線虫の発生や生存、生殖には必須ではないと考えられる。

MBR-1の嗅覚情報処理機構への関与

線虫でよく調べられている感覚情報処理機構のひとつに、匂い物質に対する走性やその可塑性がある。線虫では、本来好むはずの匂い物質の水溶液に予め短時間曝されると、その匂いへの走性が低下したり、逆に忌避するようになるという、嗅覚行動の可塑性を示すことが知られている。またこの現象には、感覚ニューロンの興奮が抑制されることによっておこる順応や慣れとは異なり、介在ニューロンが重要な役割を果たすことが示されている。そこで、mbr-1欠損変異体について調べたところ、誘引性匂い物質のひとつであるbenzaldehydeに対する走性の可塑性に欠陥をもつことが分かった(図3A,B)。Benzaldehydeに対する感受性や走性は正常であることから、この欠陥は走性を変化させる機構の異常によるものと考えられる。この表現型は、mbr-1欠損変異体に野生型mbr-1を導入することにより、部分的にではあるがレスキューされた(図3B)。以上の結果から、MBR-1がbenzaldehydeに対する走性の可塑性に関与することが示された。

MBR-1の神経回路形成への関与

次にMBR-1が神経回路形成に関わるか調べる目的で、mbr-1欠損変異体にmbr-1p::gfpを導入してmbr-1発現ニューロンを可視化し、軸索形態や神経接続の様子を観察した。その結果、mbr-1欠損変異体の成虫では左右のAIM介在ニューロンから野生型では見られない突起が伸び、腹部正中線をこえて互いに連結していることが分かった(図4A,B)。この表現型は野生型mbr-1の導入によりレスキューされた(図4C)。mbr-1欠損変異体について成長過程をおって調べてみると、幼虫期(L1期)から成虫になるまで、ほぼ一定の割合(30%〜50%)でAIM間に軸索の連結が見られた(図4C)。一方、野生型の線虫でも、L1期の幼虫においては約40%の個体で連結が観察され、これが成虫になるまでに消失することが明らかとなった(図4C)。以上の結果は、線虫において、幼虫から成虫になる過程で不必要な軸索やその接続を解消する機構が存在すること、またMBR-1がその機構に関与することを強く示唆している。

【まとめと考察】

本研究において、私は線虫のMBR-1が嗅覚行動の可塑性や神経回路形成に関与することを示し、全ての動物種を通じてMblk-1ホモログの神経系における機能を初めて明らかにした。また、線虫においてAIMニューロン間の軸索様構造が成長に伴い消失する現象を見出した。哺乳類やショウジョウバエにおいては、発生初期には必要以上の軸索誘導が起き、その後、不要な軸索が収縮や崩壊により消失するというpruning機構が知られているが、線虫においては報告されていない。線虫のAIMニューロンの軸索形態の変化は、pruning機構を解析するための有用なモデルになると考えられる。また本研究で得られた結果は、AIM介在ニューロンがbenzaldehydeに対する走性の可塑性に関わる可能性を示唆するものであり、現在、この点についての検証を試みている。

近年、ショウジョウバエでは変態期において、エクジステロイドの作用によってキノコ体の神経回路の再編成がおこることが報告されている。Mblk-1のショウジョウバエホモログであるE93は、エクジステロイドによって発現誘導される代表的な転写因子であることを考えると、ミツバチのMblk-1もキノコ体の神経回路形成/再編成において機能することにより、例えば、ミツバチの働き蜂の加齢にともなう多彩な行動変化等に寄与しているのかもしれない。今後、MBR-1の作用機作を詳細に解析することで、線虫やミツバチのみならず、動物一般における感覚刺激に対する行動や、その可塑性を成立させるための神経回路、分子的基盤の理解に寄与するものと期待される。

謝辞

本研究の一部は、本学大学院薬学系研究科衛生化学教室、同理学系研究科生物科学専攻、遺伝子実験施設の方々との共同研究として行った。

Mblk-1ホモログの構造比較

(A)ドメイン構造の模式図。(RHF1&2:helix-turn-helix DNA結合ドメイン、 NLS ; 核移行シグナル、LXXLL :核内レセブター結合モチーフ) (B)種間でのRHF2ドメインのアミノ酸配列の比較。脊椎動物間、無脊椎動物間それぞれで保存されているアミノ酸残基をグレーで、両者において保存されているアミノ酸残基を黒の反転で示す。ヘリックス構造をとると予想される領域を下線で示す。3番目のヘリックス(認識ヘリックス)のアミノ酸残基は種間で100%保存されていることから、その認識するシス配列をある程度共通しているのかもしれない

頭部神経節におけるmbr-1の発現

共焦点レーザー顕微鏡によりmbr-1p::gfpの発現を検出した結果。成虫(雌雄同体)を腹側から見た写真(A)とその模式図(B)

誘引性匂い物質(benzaldehyde)に対する走性とその可塑性

(A)匂い走性の可塑性アッセイ。(B)野生株、mbr-1欠損変異体、mbr-1欠損変異体に野生型mbr-1を導入した株のbenzaldehydeに対する走性の可塑性。5回以上の試行の平均値とその標準誤差を示す。*はf検定でmbr-1欠損変異体と有意差(p<0.05)があることを示す。

AIM介在ニューロン間の軸索連結

背側から見た野生株の成虫(A)およびmbr-1欠損変異株の成虫(B)のmbr-1発現細胞の形態。矢印でAIM介ニューロンを、矢じりで軸索様の連結構造を示す。Bar=10μm。(C)成長過程におけるAIM間に連結が見られる個体の割合。それぞれの株、ステージで21〜70匹ずつ観察した。*はx2検定で野生株と有意差(p<0.01)があること、**はmbr-1欠損変異体と有意差(p<0.05)があることを示す。

Takeuchi, H., Kage, E., Sawata, M., Kamikouchi, A., Ohashi, K., Ohara, M., Fujiyuki, T., Kunieda, T., Sekimizu, K., Natori, S. and Kubo, T. Insect Mol Biol. 10, 487-494(2001)
審査要旨 要旨を表示する

多くの動物において、感覚情報の処理・統合には中枢神経系の介在ニューロンが重要な役割を果たす。昆虫では、脳のキノコ体が感覚情報処理に重要であるとされている。当研究室ではこれまでに、セイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)の脳でキノコ体選択的に発現する転写因子Mblk-1を同定している。Mblk-1ホモログは、線虫からヒトに至るまで広く存在しているが、いずれの動物種においてもその神経系における機能は不明であった。本論文は、最もシンプルな神経系をもつモデル動物である線虫C.elegansを用いてMblk-1のホモログmbr-1を同定し、遺伝学的手法により、mbr-1の機能解析を行なった結果を報告している。

まずmbr-1の発現部位を調べるため、mbr-1の5'上流約5kbpの下流にGFP遺伝子を繋いだベクター(mbr-1p::gfp)を作製し、線虫野生株にマイクロインジェクションすることで、形質転換株を得た。微分干渉顕微鏡および共焦点レーザー顕微鏡を用いて観察を行った結果、主に頭部神経節(神経環)の介在ニューロンAIM, RIC, AIN, RIH(またはRIR), RIP, RIF(またはRIG)においてGFP由来の蛍光が検出された。このことは、mbr-1が介在ニューロン選択的に発現し、これらのニューロンの分化あるいは機能維持に働く可能性を示唆している。

次にMBR-1の機能を明らかにするため、mbr-1欠損変異体を単離した。得られた変異体のゲノムの塩基配列を解析した結果、転写開始部位から上流約600bpと開始コドンを含む、2278bpからなる領域が欠損していることが分かった。mbr-1ホモ欠損変異体は、見た目は正常であり子孫も残すことから、MBR-1は線虫の発生や生存、生殖には必須ではないと考えられる。

線虫では、本来好むはずの匂い物質の水溶液に予め短時間曝されると、その匂いへの走性が低下したり、逆に忌避するようになるという、嗅覚行動の可塑性を示すことが知られている。mbr-1欠損変異株について調べた所、誘引性匂い物質のひとつであるbenzaldehydeに対する走性の可塑性に欠陥をもつことが分かった。Benzaldehydeに対する感受性や走性は正常であることから、この欠陥は走性を変化させる機構の異常によるものと考えられる。この表現型は、mbr-1欠損変異体に野生型mbr-1を導入することにより、部分的にではあるがレスキューされた。以上の結果から、MBR-1がbenzaldehydeに対する走性の可塑性に関与することが示された

次にMBR-1が神経回路形成に関わるか調べる目的で、mbr-1欠損変異体にmbr-1p::gfpを導入してmbr-1発現ニューロンを可視化し、軸索形態や神経接続の様子を観察した。その結果、mbr-1欠損変異体の成虫では左右のAIM介在ニューロンから野生型では見られない突起が伸び、腹部正中線をこえて互いに連結していることが分かった。この表現型は野生型mbr-1の導入によりレスキューされた。mbr-1欠損変異体について成長過程を追って調べてみると、幼虫期(L1期)から成虫になるまで、ほぼ一定の割合(30%〜50%)でAIM間に軸索の連結が見られた。一方、野生型の線虫でも、L1期の幼虫においては約40%の個体で連結が観察され、これが成虫になるまでに消失することが明らかとなった。

以上の結果は、線虫において、幼虫から成虫になる過程で不必要な軸索やその接続を解消する機構が存在すること、またMBR-1がその機構に関与することを強く示唆している。哺乳類やショウジョウバエにおいては、発生初期には必要以上の軸索誘導が起き、その後、不要な軸索が収縮や崩壊により消失するというpruning機構が知られているが、線虫においては報告されていなかった。線虫のAIMニューロンの軸索形態の変化は、pruning機構を解析するための有用なモデルになる可能性がある。

以上、本研究では、線虫のMBR-1が嗅覚行動の可塑性や神経経路形成に関与することを示し、全ての動物種を通じてMblk-1ホモログの神経系における機能を初めて明らかにした。今後、MBR-1/Mblk-1の解析を通じて、線虫やミツバチのみならず動物一般における感覚刺激に対する行動や、その可塑性を成立させるための神経回路、分子的基盤の理解が進むものと期待される。本研究は、神経生物学や行動生物学の分野に寄与する点があり、博士(薬学)の学位に値すると判断した。

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