学位論文要旨



No 119413
著者(漢字) 小谷,定治
著者(英字)
著者(カナ) コタニ,サダハル
標題(和) モルモット除脳標本を用いた小脳運動学習の解析
標題(洋) Analysis of Cerebellar Motor Learning Using Decerebrate Guinea-Pig Preparation
報告番号 119413
報告番号 甲19413
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1074号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 川原,茂敬
 東京大学 講師 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

学習・記憶の機構の解明は21 世紀の科学の最大の課題の1 つである。しかし、多くの学習課題は関与する脳の領域が複数にまたがり、かつそれらの間の連絡経路、感覚入力・運動出力経路が明らかになっていないため、神経回路レベルでの解析の大きな障害となっている。その中で、小脳運動学習の1つである瞬目反射条件付け遅延課題は、必須となる脳の領域、学習に関与する入出力経路が明らかになっている唯一の学習課題である。つまり学習・記憶の神経機構の解明には、この課題を対象とする研究が大きく貢献しうると考えられる。

瞬目反射条件付けではCS (Conditioned Stimulus)として音、US (Unconditioned Stimulus)として瞼への侵害刺激を時間的に組み合わせて反復提示することにより、音を聞いただけで瞼を閉じるようになる(CR: Conditioned Response)。このとき瞼は音を聞いて直ぐではなく、US の直前に閉じることが知られている。つまりこの学習ではCS の意味とともにCS-US の時間間隔も学習しているといえる。この学習の機構を明らかにするためには、学習特異的に変化する神経活動を記録することが重要である。従来のintact 動物を用いた電気生理学的研究では、数日にわたる条件付けによる学習成立後のCS に対する神経細胞の応答を記録しているが、それが学習により獲得されたのか、学習と関係なくCS に対して発現するのか分からない。そこで本研究では、学習中の神経活動を記録し続けることが重要であると考え、この学習に必須な領域のみを残し上位中枢を除去することにより数時間に及ぶ連続した条件付けが可能な除脳標本学習系の開発をおこなった。さらに、その除脳標本を用いて、瞬目反射条件付けの学習機構を明らかにすることを目的とした。

【除脳標本学習系の開発】

瞬目反射条件付けには、小脳・脳幹が必須で海馬・大脳新皮質が修飾的にはたらくことが知られている。そこで、モルモット(Hartley)を用いてイソフルラン吸入麻酔下に視床と脳幹の間を切断し、除脳標本を作成した(Fig. 1)。

麻酔停止後、CS として音、US として瞼への電気刺激を用い、USがCS に遅れて始まり、同時に終了する遅延課題の条件付けをおこなった。CS とUS の時間間隔を250 ms として条件付けを行ったところ、約300 試行でCS に対して瞼を閉じるようになった(Fig. 2A)。またそのCR は、US 提示付近にピークを持っていた(Fig. 2B)。一方でCS とUS を時間的に組み合わせずに提示した場合(偽条件付け)には、CS に対する応答は見られなかった。

【CR 獲得時のプルキンエ細胞活動の解析】

数時間に及ぶ連続した条件付けにより学習することが明らかとなったモルモット除脳標本を用いて、この学習における電気生理学的解析をおこなった。除脳標本後、破壊実験の結果から瞬目反射条件付けに重要なはたらきをすることが知られている小脳皮質simplex lobe (Lobule HVI)にガラス被覆タングステン電極を挿し、細胞外ユニット記録を開始した。そしてプルキンエ細胞のユニット記録を続けながら、CS-US の時間間隔が400 ms の遅延課題(条件付け群)、あるいはCS とUS を時間的に組み合わせずランダムに提示する偽条件付け(偽条件付け群)を連続しておこなった。CS として音、US として瞼への電気刺激を用いた。解析は1 session (50 trial)毎におこない、各session におけるCS に対するプルキンエ細胞の応答を興奮性応答、抑制性応答、両者を含む複合型応答、無応答の4 種に分類した。

条件付け群、偽条件付け群とも半分超のプルキンエ細胞でCS に対する応答の変化が見られた。条件付け群ではCS に対する応答が減少する細胞(興奮性応答→無応答→抑制性応答)が多数見られた(Fig. 3)。偽条件付け群ではCS に対する応答が増加する細胞(抑制性応答→無応答→興奮性応答)が多数見られた。また一方でCS に対する応答が増加する細胞が条件付け群で、減少する細胞が偽条件付け群で見られたが、これらは興奮性応答と無応答の間の変化だった(Fig. 3)。つまり無応答→抑制性応答という変化が条件付け特異的なCS に対する応答の減少であり、抑制性応答→無応答という変化が偽条件付け特異的な応答の増加であることが明らかとなった。また興奮性応答を示す細胞の数は最初のsession と学習後あるいは偽条件付け後のsession の間でほぼ同じだった。これは学習前から学習後まで興奮性の応答を示し続けていた細胞に加えて、興奮性応答→無応答の変化を示す細胞と無応答→興奮性応答の変化を示す細胞の数がほぼ同じだったことに起因していた。

また学習成立後の瞼の筋電位とプルキンエ細胞の応答の発火パターンの相関解析をおこなったところ、CRの波形と高い相関をもつ応答を示す細胞が存在した。プルキンエ細胞より抑制性の入力を受ける中位核は瞬目反射学習後にCR の波形と同様の発火パターンを示すことが知られている(Fig. 4)。よってCR の波形と有意な負の相関をもつ発火パターンを示すプルキンエ細胞をCR のタイミングに関与する細胞とした。この有意な負の相関を示す発火パターンがnaiveの状態から存在したのか、それとも条件付けにより獲得されたのかを明らかにするために、学習後の瞼の筋電位と条件付けの最初のsession のプルキンエ細胞の発火パターンの相関係数を計算した。すると学習後にCR の波形と負の相関をもつ興奮性応答を示すプルキンエ細胞は、naive の状態から既にこのような発火パターンを示していた、つまりこれは条件付けにより獲得されたものではないことが明らかとなった。一方で学習後にCR の波形と負の相関をもつ無応答、あるいは抑制性応答を示すプルキンエ細胞はnaive の状態ではこのような発火パターンを示していなかった、つまりこれらは条件付けに伴って獲得されたものであることが明らかとなった。またこれらの細胞の多くはCS に対する応答が条件付けにより減少した細胞であった。つまり小脳皮質simplex lobe には、条件付けにより、CS に対する応答がUS 提示付近の時点で減少するような細胞が存在することが明らかとなった。

【まとめ】

本研究は、除脳標本における瞬目反射条件付け学習系を開発し、またその学習中の単一プルキンエ細胞の応答の経時変化を記録・解析した最初の研究である。そしてプルキンエ細胞の活動の変化を偽条件付けの場合と比較することにより、学習に関連した活動変化を特定することができた。多くの場合、学習成立後に条件刺激に応答しない細胞は、学習に関係のない細胞と見なされてきた。しかし本研究では、学習することによって応答しなくなる、という細胞も多数見つけた。これらの応答変化は、学習前のnaive の状態から学習後まで細胞の記録を取り続けてはじめて明らかになったことである。プルキンエ細胞は中位核に対して抑制性シナプスを形成している(Fig. 4)。これより本研究で明らかとなった学習に伴うプルキンエ細胞の発火の減少は、中位核の発火増加とそれに続くCR の発現を誘起すると考えられる。一方で偽条件付けではプルキンエ細胞の発火が増加し逆方向の変化が起きると考えられる。またCRの波形とプルキンエ細胞の発火パターンの相関解析より、US 提示付近で中位核の脱抑制を起こすことでCR のタイミングの形成に寄与する細胞が存在することも示唆された。上記の考察は30 年以上前から理論的には予想されていた。本研究は実験的にその現象を捉えることに成功し、学習による行動の発現と神経回路の可塑的変化という2 つの階層を結びつけることができたという点で非常に意義がある。一方で、本研究では偽条件付けにより条件付け時とは逆方向のプルキンエ細胞の活動変化が起こり、何らかの学習が起こっていると考えられる。現在の小脳の運動学習モデルにこのCS とUS のランダム提示による可塑的変化を取り込む必要があるであろう。また、そうすることにより小脳機能の新たな理論的予測が得られ、それを検証する実験が必要になるかもしれない。このように理論的予測と実験的事実が積み重なることで学習機構の全容が徐々に明らかになっていくことが期待される。

除脳標本の作成

除脳標本における瞬目反射条件付け

条件付け群、偽条件付け群におけるプルキンエ細胞の応答の変化

条件付け、あるいは偽条件付けによるプルキンエ細胞、中位核のCSに対する応答の変化

Kotani S., Kawahara S. & Kirino Y., Eur. J. Neurosci., 15, 1267-1270 (2002)Kotani S., Kawahara S. & Kirino Y., Eur., J. Neurosci., 17, 1445-1454 (2003)Kotani S., Kawahara S. & Kirino Y., Brain Res., 994, 193-202 (2003)
審査要旨 要旨を表示する

小脳運動学習の1つである瞬目反射条件付けは、CS (Conditioned Stimulus)として音、US (Unconditioned Stimulus)として瞼への侵害刺激を時間的に組み合わせて反復提示することにより、音を聞いただけで瞼を閉じるようになる(CR: Conditioned Response)学習である。瞬目反射条件付けの遅延課題は、学習に関与する入出力経路が明らかであり、また、必須の脳領域が小脳と脳幹であることが解明されている唯一の学習課題である。この学習の機構を明らかにするためには、神経細胞の活動を記録して、学習特異的な活動変化を見出すことが重要である。しかしながら、同一細胞からの電気生理学的記録は数時間から半日程度を超えて行うことは一般に困難であるので、条件付けに数日を要するintact動物の瞬目反射条件付け学習では、このような研究は不可能であった。そこで小谷定治は、この学習に必須の小脳と脳幹のみを残し上位中枢を除去することにより数時間の連続した条件付けで学習をさせることが可能な除脳標本学習系の開発をおこなった。そして、その除脳標本を用いて、単一プルキンエ細胞からの学習特異的神経活動変化を記録し、解析をおこなった。

【除脳標本学習系の開発】

瞬目反射条件付けには、小脳・脳幹が必須で海馬・大脳新皮質が修飾的にはたらくことが知られている。そこで、モルモット(Hartley)を用いてイソフルラン吸入麻酔下に視床と脳幹の間を切断し、除脳標本を作成した。麻酔停止後、CSとして音、USとして瞼への電気刺激を用い、USがCSに遅れて始まり、同時に終了する遅延課題の条件付けをおこなった。CSとUSの時間間隔を250 msとして条件付けを行ったところ、約300試行でCSに対して瞼を閉じるようになった。またそのCRは、US提示付近にピークを持っていた。一方でCSとUSを時間的に組み合わせずに提示した場合(偽条件付け)には、CSに対する応答は見られなかった。

【CR獲得時のプルキンエ細胞活動の解析】

数時間に及ぶ連続した条件付けにより学習することが明らかとなったモルモット除脳標本を用いて、電気生理学的解析をおこなった。除脳標本に対し、瞬目反射条件付けに必須であることが知られている小脳皮質simplex lobe (Lobule HVI)にガラス被覆タングステン電極を挿し、細胞外ユニット記録を開始した。そしてプルキンエ細胞のユニット記録を続けながら、CS-USの時間間隔が400 msの遅延課題(条件付け群)、あるいはCSとUSを時間的に組み合わせずランダムに提示する偽条件付け(偽条件付け群)を連続しておこなった。CSとして音、USとして瞼への電気刺激を用いた。解析は1 session (50 trial)毎におこない、各sessionにおけるCSに対するプルキンエ細胞の応答を興奮性応答、抑制性応答、両者を含む複合型応答、無応答の4種に分類した。

条件付け群、偽条件付け群とも半分超のプルキンエ細胞でCSに対する応答がトレーニングの過程で変化した。条件付け群ではCSに対する応答が減少する細胞(興奮性応答→無応答→抑制性応答)が多数見られた。偽条件付け群ではCSに対する応答が増加する細胞(抑制性応答→無応答→興奮性応答)が多数見られた。また一方でCSに対する応答が増加する細胞が条件付け群で、減少する細胞が偽条件付け群で見られたが、これらは興奮性応答と無応答の間の変化だった。つまり無応答→抑制性応答という変化が条件付け特異的なCSに対する応答の減少であり、抑制性応答→無応答という変化が偽条件付け特異的な応答の増加であることが明らかとなった。また興奮性応答を示す細胞の数は最初のsessionと学習後あるいは偽条件付け後のsessionの間でほぼ同じだった。これは学習前から学習後まで興奮性の応答を示し続けていた細胞に加えて、興奮性応答→無応答の変化を示す細胞と無応答→興奮性応答の変化を示す細胞の数がほぼ同じだったことに起因していた。

また学習成立後の瞼の筋電位とプルキンエ細胞の応答の発火パターンの相関解析をおこなったところ、CRの波形と高い相関をもつ応答を示す細胞が存在した。プルキンエ細胞より抑制性の入力を受ける中位核は瞬目反射学習後にCRの波形と同様の発火パターンを示すことが知られている。よってCRの波形と有意な負の相関をもつ発火パターンを示すプルキンエ細胞をCRのタイミングに関与する細胞とした。この有意な負の相関を示す発火パターンがnaiveの状態から存在したのか、それとも条件付けにより獲得されたのかを明らかにするために、学習後の瞼の筋電位と条件付けの最初のsessionのプルキンエ細胞の発火パターンの相関係数を計算した。すると学習後にCRの波形と負の相関をもつ興奮性応答を示すプルキンエ細胞は、naiveの状態から既にこのような発火パターンを示していた、つまりこれは条件付けにより獲得されたものではないことが明らかとなった。一方で学習後にCRの波形と負の相関をもつ無応答、あるいは抑制性応答を示すプルキンエ細胞はnaiveの状態ではこのような発火パターンを示していなかった、つまりこれらは条件付けに伴って獲得されたものであることが明らかとなった。またこれらの細胞の多くはCSに対する応答が条件付けにより減少した細胞であった。つまり小脳皮質simplex lobeには、条件付けにより、CSに対する応答がUS提示付近の時点で減少するような細胞が存在することが明らかとなった。

本研究は、除脳標本における瞬目反射条件付け学習系を開発し、またその学習中の単一プルキンエ細胞の応答の経時変化を記録・解析した最初の研究である。そしてプルキンエ細胞の活動の変化を偽条件付けの場合と比較することにより、学習に関連した活動変化を特定することができた。プルキンエ細胞は中位核に対して抑制性シナプスを形成していることから、本研究で明らかとなった学習に伴うプルキンエ細胞の発火の減少は、中位核の発火増加とそれに続くCRの発現を誘起すると考えられる。一方で偽条件付けではプルキンエ細胞の発火が増加し逆方向の変化が起きると考えられる。またCRの波形とプルキンエ細胞の発火パターンの相関解析より、US提示付近で中位核の脱抑制を起こすことでCRのタイミングの形成に寄与する細胞が存在することも示唆された。上記の考察は30年以上前から理論的には予想されていた。本研究は実験的にその現象を捉えることに成功し、学習による行動の発現と神経回路の可塑的変化という2つの階層を結びつけることができたという点で非常に意義がある。一方で、本研究では偽条件付けにより条件付け時とは逆方向のプルキンエ細胞の活動変化が起こり、何らかの学習が起こっていると考えられるので、現在の小脳の運動学習モデルにこのCSとUSのランダム提示による可塑的変化を取り込む必要があることを示唆する。

以上の通り、本研究は、小脳皮質Simplex lobeプルキンエ細胞の、瞬木者者学習に伴う活動変化を初めて明らかにしたものであり、学習・記憶の神経生物物理学に寄与するところ大である。よって、本研究は、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判定した。

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