学位論文要旨



No 119418
著者(漢字) 高月,香菜子
著者(英字)
著者(カナ) タカツキ,カナコ
標題(和) 小脳長期抑圧障害マウスの瞬目反射条件付けにおける海馬の役割
標題(洋)
報告番号 119418
報告番号 甲19418
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1079号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 川原,茂敬
 東京大学 助教授 西山,信好
内容要旨 要旨を表示する

瞬目反射条件付けとはパブロフの犬に代表される古典的条件付けの一種で、条件刺激(CS)を音、無条件刺激(US)を瞼への電気刺激としてCSとUSの組み合わせを繰り返し提示していくと、本来音を聞くだけでは瞼を閉じないのに、学習すると条件応答(CR)として音を聞くだけで瞼を閉じるようになる連合学習である。この学習には小脳皮質の平行線維−プルキンエ細胞間のシナプスに見られる長期抑圧(LTD)が重要であり、このシナプス可塑性に障害を持つグルタミン酸受容体δ2サブユニット(GluRδ2)欠損マウスはCSとUSが時間的に重なる遅延課題の学習が障害される。しかしながら、CSとUSが時間的に重ならない短トレース課題(CSとUSの間の無刺激時間をトレース間隔(trace interval; TI)と呼ぶが、これが0-100 ms程度の短い課題)は正常に学習することから、瞬目反射条件付けには小脳LTDを中心としたメカニズムの他に、小脳LTDを必要としないメカニズムが存在することが明らかになっている。私は修士課程において、GluRδ2欠損マウスの短トレース課題の学習が海馬破壊により障害されることを見出した(Fig.1A,1B)。このことから小脳LTD非依存的メカニズムには海馬が重要な役割を果たすことが示唆された。本研究では、この小脳LTD非依存的メカニズムにおける海馬の役割を破壊実験、電気生理学的実験により詳細に明らかにすることを目的とした。

方法と結果

GluRδ2欠損マウスの記憶の保持に対する海馬の関与

上述したように小脳LTD非依存的メカニズムには海馬が重要な役割を果たすが、ここでの海馬の役割は学習の獲得に限定されたものなのか、それとも獲得した記憶の保持も含めて海馬が重要になるのかは明らかにされていない。そこで、学習獲得後の記憶保持にも海馬が重要であるかを検討するために、GluRδ2 欠損マウスに短トレース課題を学習させてから海馬を破壊し、破壊前の記憶の保持を調べた。

学習直後に海馬を破壊した場合

まず学習直後に海馬を破壊した場合の効果を調べた。野生型マウス、GluRδ2欠損マウスの両方において、瞼に筋電位記録用電極と刺激電極を埋め込む手術を行い、回復後短トレース課題を学習させた。学習試行ではCS-USの組み合わせを1日100回提示し、CRが出た割合を学習率(CR%)と定義するが、本実験ではCR%が70%を超えるまで条件付けを行い、70%を超えた翌日に海馬破壊手術を行った。海馬破壊群では背側海馬と海馬を覆っている大脳皮質を、コントロール群では海馬を覆っている大脳皮質のみを吸引除去した。手術後は2週間の回復期間を置いた後、保持試験として学習試行を7日間行った。GluRδ2欠損マウスで学習直後に海馬を破壊すると、その後の記憶保持に有意な障害が見られた(Fig.2B)。しかしながら記憶保持の程度を示すretention indexの値についてはGluRδ2欠損マウスの海馬破壊群で低い傾向は見られたが、この値に有意差はなかった(Fig.2C)。野生型マウスでは、学習直後に海馬を破壊してもその後の保持に障害は見られなかった(Fig.2A,2C)。

十分に学習させた後海馬を破壊した場合

次に十分に学習させた後海馬を破壊した場合の効果を調べた。本実験では海馬破壊前の学習試行を7日間行って十分学習させ、翌日に海馬破壊手術を行った。その他の手法は(1)と同様とした。GluRδ2欠損マウスで十分に学習させた後海馬を破壊しても、コントロール群と同程度に破壊前の記憶を保持しており(Fig.3B)、retention indexの値にも有意差はなかった(Fig.3C)。この場合でも野生型マウスでは、障害は見られなかった(Fig.3A,3C)。

野生型マウス、GluRδ2欠損マウスにおける短トレース課題学習中の海馬脳波(electroencephalogram; EEG)の比較

GluRδ2欠損マウスの学習に海馬がどのように関与するかは破壊実験からは明らかにされない。そこで、学習中のGluRδ2欠損マウスの海馬の脳波(EEG)を記録した。海馬から記録されるEEGのうち、海馬ニューロンの集団的同期活動であるシータ波 (4-12 Hz)に着目した。海馬シータ波は、atropine非感受性のtype 1 (8-12 Hz)、atropine感受性のtype 2 (4-8 Hz)の2種類に分けられている。瞬目反射条件付けにおいては、scopolamine投与や中隔破壊による学習障害が報告されていることから、特にシータ波type 2(以下type 2)に注目して解析した。

海馬EEGの取得には、ステンレス線(直径100 μm)を2本よりあわせ先端を500 μmずらした電極を用い、電極の長い方の先端が海馬fissureに入るように電極を挿入して歯科用セメントで固定した。取得したEEGは高速フーリエ変換(FFT)及びゼロ交差法を用いて解析した。

条件付け前の海馬シータ波レベルと学習速度の関連

ウサギにおいて条件付け前からもともと海馬シータ波が良く出ている個体は遅延課題の学習が早いという報告がある。そこで条件付け前に海馬EEGを15分間取得し、その後の学習速度との相関を調べた。CS-USの組み合わせ10回を1 blockとし、2 block続けてCR%が80%を超えるまでに要したCS-US提示回数(trials to criterion)とシータ波type 2レベルの関連を調べたが、野生型マウス、GluRδ2欠損マウスともに相関は見られなかった。

条件付けに伴う海馬シータ波の変化と学習率の関連

学習に伴う海馬シータ波の変化を調べるために、条件付け中の海馬EEGを50分間取得した。野生型マウス、GluRδ2欠損マウスともに、毎日の条件付けに伴ってtype 2レベルが減少する傾向が見られた。各個体において学習との相関を調べたところ、GluRδ2欠損マウスでは7日目の学習率(学習達成度)とtype 2の減少率との間に相関が見られた(r = -0.76, P < 0.01)。これに対し野生型マウスでは学習率との相関は見られなかった(r = -0.33, P > 0.05)。

考察

実験1によりGluRδ2欠損マウスの小脳LTD非依存的な学習において、海馬は形成されたばかりの記憶の保持には関与するが、十分に学習した後は海馬を必要としないことが明らかとなった。この結果は、記憶保持に関しての海馬の役割が部分的であるという意味では、野生型マウスの長トレース課題(TIが250 ms以上、500 msが典型的)についての報告と合致している。しかしながらGluRδ2欠損マウスの海馬を学習直後に破壊した場合でもある程度の記憶の保持が見られ、この点では顕著な障害が見られる野生型マウスの長トレース課題の報告と異なる。このことから、GluRδ2欠損マウスでの海馬の役割は、野生型マウスの長トレース課題における役割と異なることが示唆された。

実験2によりGluRδ2欠損マウスではtype 2の変化率と学習率の間に相関があるが、野生型マウスでは相関がないことが明らかとなった。野生型の遅延課題では学習時に海馬神経活動が増大するが、海馬を破壊しても学習にあまり影響を受けないことが知られている。今回の結果は、野生型マウスでは短トレース課題においても海馬の活動は変化するが学習率とは対応しないことを示しており、海馬の役割が遅延課題と同様であることを示唆している。一方、GluRδ2欠損マウスでは条件付けに伴ってtype 2が良く減少する個体ほどよく学習していた。海馬の活動の変化と学習率が対応していることから、GluRδ2欠損マウスの短トレース課題の学習には海馬が深く関与していることが電気生理学的実験からも明らかとなった。

以上をまとめると、本研究により私は、小脳LTD非依存的メカニズムにおいて海馬は学習の初期段階、つまり獲得の過程で重要な役割を果たしていることを破壊実験、電気生理学的実験から明らかにした。今後小脳LTD非依存的メカニズムの詳細をさらに明らかにしていくことは、長トレース課題も含めた瞬目反射学習における海馬の役割、ひいてはこれまで不明な点の多かった学習記憶全般における海馬の機能的役割を解明するためにも重要な研究課題であると考えられる。

野生型マウス(A)、GluRδ2欠損マウス(B)の短トレース課題の学習における海馬破壊の効果

学習直後に海馬を破壊した場合の記憶保持に対する効果。(A)野生型マウス、(B)GluRδ2欠損マウス。-1;学習試行最終日、p1-p7; 再学習試行(保持試験)(C)Retention Index (=保持試験1日目のCR%/学習試行最終日のCR%)。学習保持の程度を示す。C;コントロール群、h; 海馬破壊群

十分に学習させた後海馬を破壊した場合の記憶保持に対する効果。(A)野生型マウス、(B)GluRδ2欠損マウス。1-7;学習試行、p1-p7; 再学習試行(保持試験)(C)Retention Index (=保持試験1日目のCR%/学習試行7日日のCR%)。c;コントロール群、h; 海馬破壊群

Takatsuki, K., Kawahara, S., Mori, H., Mishina, M., Kirino, Y. (2002) Neuroreport, 13: 159-162Takatsuki, K., Kawahara, S., Kotani, S., Fukunaga, S., Mori, H., Mishina, M., Kirino, Y. (2003) J. Neurosci., 23: 17-22
審査要旨 要旨を表示する

瞬目反射条件付けは、条件刺激(CS)を音、無条件刺激(US)を瞼への電気刺激としてCSとUSの組み合わせを繰り返し提示していくと、条件応答(CR)として、音を聞くだけで瞼を閉じるようになる連合学習である。この学習には小脳皮質の平行線維−プルキンエ細胞間のシナプスに見られる長期抑圧(LTD)が重要であり、このシナプス可塑性に障害を持つグルタミン酸受容体δ2サブユニット(GluRδ2)欠損マウスはCSとUSが時間的に重なる遅延課題の学習が障害される。しかしながら、CSとUSが時間的に重ならない短トレース課題[CSとUSの間の無刺激時間をトレース間隔(trace interval; TI)と呼ぶが、これが0-100 ms程度の短い課題]は正常に学習することから、瞬目反射条件付けには小脳LTDを中心としたメカニズムの他に、小脳LTDを必要としないメカニズムが存在することが明らかになっている。高月香菜子は、GluRδ2欠損マウスの短トレース課題の学習が海馬破壊により障害されることを見出し、小脳LTD非依存的メカニズムには海馬が重要な役割を果たすことを示唆した。そこで、高月香菜子は、さらに、この小脳LTD非依存的メカニズムにおける海馬の役割を破壊実験、電気生理学的実験により詳細に明らかにしようとした。

GluRδ2欠損マウスの記憶の保持に対する海馬の関与

小脳LTD非依存的メカニズムにおける海馬の役割は、学習の獲得に限定されたものなのか、それとも獲得した記憶の保持にも重要であるのかはふめいであった。そこで、GluRδ2 欠損マウスに短トレース課題を学習させてから海馬を破壊し、破壊前の記憶の保持を調べた。

学習直後に海馬を破壊した場合

野生型マウス、GluRδ2欠損マウスの両方において、瞼に筋電位記録用電極と刺激電極を埋め込む手術を行い、回復後短トレース課題を学習させた。学習試行ではCS-USの組み合わせを1日100回提示し、CRが出た割合を学習率(CR%)と定義するが、本実験ではCR%が70%を超えるまで条件付けを行い、70%を超えた翌日(すなわち学習直後)に海馬破壊手術を行った。海馬破壊群では背側海馬と海馬を覆っている大脳皮質を、コントロール群では海馬を覆っている大脳皮質のみを吸引除去した。手術後2週間の回復期間を置いた後、保持試験として学習試行を7日間行った。GluRδ2欠損マウスで学習直後に海馬を破壊すると、その後の記憶保持に有意な障害が見られた。しかしながら記憶保持の程度を示すretention indexの値についてはGluRδ2欠損マウスの海馬破壊群で低い傾向は見られたが、この値に有意差はなかった。野生型マウスでは、学習直後に海馬を破壊してもその後の保持に障害は見られなかった。

十分に学習させた後海馬を破壊した場合

海馬破壊前の学習試行を7日間行って十分学習させ、翌日に海馬破壊手術を行った。その他の手法は(1)と同様とした。GluRδ2欠損マウスで十分に学習させた後海馬を破壊しても、コントロール群と同程度に破壊前の記憶を保持しており、retention indexの値にも有意差はなかった。この場合でも野生型マウスでは、障害は見られなかった。

野生型マウス、GluRδ2欠損マウスにおける短トレース課題学習中の海馬脳波(electroencephalogram; EEG)の比較

学習中のGluRδ2欠損マウスの海馬の脳波(EEG)を記録し、中でも、海馬ニューロンの集団的同期活動であるシータ波 (4-12 Hz)に着目した。海馬シータ波は、atropine非感受性のtype 1 (8-12 Hz)、atropine感受性のtype 2 (4-8 Hz)の2種類に分けられている。瞬目反射条件付けにおいては、scopolamine投与や中隔破壊による学習障害が報告されていることから、特にシータ波type 2(以下type 2)に注目して解析した。

海馬EEGの取得には、ステンレス線(直径100 μm)を2本よりあわせ先端を500 μmずらした電極を用い、電極の長い方の先端が海馬fissureに入るように電極を挿入して歯科用セメントで固定した。取得したEEGは高速フーリエ変換(FFT)及びゼロ交差法を用いて解析した。

条件付け前の海馬シータ波レベルと学習速度の関連

ウサギにおいて条件付け前からもともと海馬シータ波が良く出ている個体は遅延課題の学習が早いという報告がある。そこで条件付け前に海馬EEGを15分間取得し、その後の学習速度との相関を調べた。CS-USの組み合わせ10回を1 blockとし、2 block続けてCR%が80%を超えるまでに要したCS-US提示回数(trials to criterion)とシータ波type 2レベルの関連を調べたが、野生型マウス、GluRδ2欠損マウスともに相関は見られなかった。

条件付けに伴う海馬シータ波の変化と学習率の関連

学習に伴う海馬シータ波の変化を調べるために、条件付け中の海馬EEGを50分間取得した。野生型マウス、GluRδ2欠損マウスともに、毎日の条件付けに伴ってtype 2レベルが減少する傾向が見られた。各個体において学習との相関を調べたところ、GluRδ2欠損マウスでは7日目の学習率(学習達成度)とtype 2の減少率との間に相関が見られた(r = -0.76, P < 0.01)。これに対し野生型マウスでは学習率との相関は見られなかった(r = -0.33, P > 0.05)。

以上をまとめると、実験1によりGluRδ2欠損マウスの小脳LTD非依存的な学習において、海馬は形成されたばかりの記憶の保持には関与するが、十分に学習した後は海馬を必要としないことが明らかとなった。この結果は、記憶保持に関しての海馬の役割が部分的であるという意味では、野生型マウスの長トレース課題(TIが250 ms以上、500 msが典型的)についての報告と合致している。しかしながらGluRδ2欠損マウスの海馬を学習直後に破壊した場合でもある程度の記憶の保持が見られ、この点では顕著な障害が見られる野生型マウスの長トレース課題の報告と異なる。このことから、GluRδ2欠損マウスでの海馬の役割は、野生型マウスの長トレース課題における役割と異なることが示唆された。

実験2により、GluRδ2欠損マウスではシータ波type 2の変化率と学習率の間に相関があるが、野生型マウスでは相関がないことが明らかとなった。野生型の遅延課題では学習時に海馬神経活動が増大するが、海馬を破壊しても学習にあまり影響を受けないことが知られている。今回の結果は、野生型マウスでは短トレース課題においても海馬の活動は変化するが学習率とは対応しないことを示しており、海馬の役割が遅延課題と同様であることを示唆している。一方、GluRδ2欠損マウスでは条件付けに伴ってtype 2が良く減少する個体ほどよく学習していた。これより、GluRδ2欠損マウスの短トレース課題の学習には海馬が深く関与していることが電気生理学的実験からも明らかとなった。

以上、本研究は、東京大学大学院薬学系研究科・神経生物物理学教室において発見された「瞬目反射条件付けにおける小脳LTD非依存的メカニズム」において、海馬は学習の初期段階、つまり獲得の過程で重要な役割を果たしていることを破壊実験、電気生理学的実験から明らかにしたものであり、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判定した。

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