学位論文要旨



No 119435
著者(漢字) 山下,哲生
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,テツオ
標題(和) 回虫成虫ミトコンドリア複合体Iのロドキノン還元部位の解析
標題(洋)
報告番号 119435
報告番号 甲19435
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1096号
研究科 薬学系研究科
専攻 生命薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北,潔
 東京大学 教授 長野,哲雄
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 助教授 原田,繁春
内容要旨 要旨を表示する

多くの寄生性蠕虫は、嫌気的環境である哺乳類などの宿主体内に適応するため、嫌気的なエネルギー代謝系を保有しており、この嫌気的なエネルギー代謝系は寄生性線虫、回虫 Ascaris suum において最も詳細に解析されている。宿主小腸内の酸素分圧環境で成育する回虫成虫は、NADH-フマル酸還元系という複合体Iと複合体IIから構成される、酸素を利用しない呼吸鎖によりエネルギー代謝を行っている(図1)。この嫌気的呼吸鎖において、NADHの電子は複合体Iを介して、低電位ベンゾキノンであるロドキノン(RQ)に渡され、次いで、複合体IIを介して最終電子受容体のフマル酸へと伝達される。我々哺乳類の好気的呼吸鎖電子伝達系とは、電子伝達の方向性、基質特異性の異なる回虫成虫の呼吸鎖は、抗蠕虫薬開発における標的として有効であると考えられている。なかでも呼吸鎖酵素複合体I、複合体IIにおいて、ユビキノン(UQ)とは構造の異なる、RQの認識に関わる部位(RQ還元部位)は宿主との差異を利用した薬剤標的部位として有効であると考えられる。実際、私の所属する研究グループは、回虫を含む蠕虫類の嫌気的呼吸鎖複合体Iを低濃度で阻害し、UQ を電子受容体とする哺乳類の好気的呼吸鎖の酵素は阻害しない化合物ナフレジンを見い出している。このナフレジンはin vivo においても寄生性線虫の卵の産生を抑えるという抗寄生虫作用を示す(Omura et al. 2001)。これらの結果は、複合体Iが化学療法剤の標的酵素として有用であることを示すとともに、ナフレジンが回虫複合体Iのキノン還元部位を特異的に阻害することから、複合体Iのキノン還元部位の構造に、種間における相違が存在することを示唆している。

そこで本研究では、このような寄生虫類に特有なRQを基質にする呼吸鎖複合体Iのキノン還元部位についての知見を得ることを目的として、複合体Iに特異的な阻害剤を用いて様々な解析を行った。

結果と考察

複合体Iの酵素活性測定

複合体IのNADH-キノン還元活性の測定は、一般的に好気条件で行うが、回虫成虫ミトコンドリアを試料として用いた場合、同じ条件下ではミトコンドリアとNADHを反応溶液中に添加しただけで、外来性キノン非依存的なNADHの強い酸化が観察された。これは、還元型RQと酸素との反応性が高いために、内在性RQ9が、酵素と酸素の間で電子の授受を行っているためだと考えられる。そこで、内在性キノンによるNADHの酸化を防ぐため、グルコースオキシダーゼとカタラーゼによる嫌気アッセイ法を導入した。この測定法により、人工キノン添加前のNADHの酸化は全く観察されなくなり、正確なNADH-キノン還元活性を測定することが可能になった。

キナゾリン系阻害剤の回虫複合体Iに対する構造活性相関

本研究では、阻害剤として回虫複合体Iを低濃度で選択的に阻害するナフレジンではなく、ウシ心筋複合体Iを低濃度で阻害することが報告されているキナゾリン系阻害剤を用いた。キナゾリン系阻害剤はナフレジンに比べ化学的に安定で、誘導体の合成が容易なためである。また、将来的に回虫複合体Iのキノン還元部位の詳細な知見を得る方法の一つとして、蛍光物質であるキナゾリン系阻害剤をキノン還元部位の標識物質として用い、阻害剤結合ペプチドを同定することを考えている。そこで、本研究では以下に挙げるキナゾリン誘導体を合成し、その阻害を検討した。まず、ペプチドとの共有結合が形成可能なキナゾリン系阻害剤の誘導体として、置換基に光親和性修飾基(アジド基;化合物 3、6)とアクリルアミド基(化合物 4)を導入した(図 1-3)。蛍光をもつ阻害剤は酵素へ結合すると、その蛍光が減少することから、この性質を利用した他の阻害剤との競合試験により、回虫複合体Iの阻害剤作用部位の解析が可能である。しかし、無置換体のキナゾリンの蛍光は競合試験に用いるには強度が不十分であったため、メトキシ基やアミノ基をキナゾリン系阻害剤に導入することで蛍光強度を改善した(化合物8 および化合物 2、5)。さらに、キナゾリン系阻害剤の、これらの置換基を導入した付近の複合体Iへの構造活性相関を詳しく調べるため、8 位に、ヒドロキシ基、エトキシ基、プロポキシ基を導入した(化合物 7、9、10)。阻害剤の合成は京都大学大学院農学系研究科、三芳 秀人博士によって行われた。

このような目的で合成された10 種類のキナゾリン系阻害剤の複合体Iに対する阻害活性の評価は、それぞれ、UQ2 と RQ2 を人工電子受容体として用い、酵素活性を 50% 阻害する阻害剤の濃度(IC50)を比較することにより行った(表1)。無置換体キナゾリン(化合物1)は、これまで回虫複合体Iを最も低濃度で阻害することが知られていたナフレジンよりも、それぞれの NADH-キノン酸化還元活性を1桁程度低濃度(NADH-UQ2および NADH-RQ2酸化還元活性に対し、IC50はそれぞれ1.3 nMと3.8 nM)で阻害することが示された(表1)。さらに、回虫ミトコンドリアにおいて、他の9種類の阻害剤についての阻害効果を調べたところ、NADH-UQ2およびRQ2酸化還元活性と阻害剤の構造活性相関の比較から、阻害における両者の傾向は類似していることが示された。また、6-amino 基(化合物 2)および 8-methoxy 基(化合物 8)は無置換体キナゾリンと同程度の強い阻害効果を示したが、残りの7種類の誘導体は著しく阻害効果が低くなることが明らかとなった。これらの結果は、酵素が阻害剤の構造を厳密に認識していることを意味しており、キナゾリン系阻害剤が、キノン類と酵素間の特異的相互作用を調べるための、すぐれたプローブになることを示している。さらに化合物 6、8,10 では RQ2 を基質にした時のIC50の方が小さくなっており、UQ2と RQ2を基質とした場合で阻害の傾向は完全には一致していないことから、やはり酵素のそれぞれの電子受容体に対する構造認識は同一ではないと考えられる。

回虫複合体Iのキノン還元部位の解析

酵素のUQ2とRQ2に対する構造認識の相違を明らかにする目的で、NADH-UQ2とNADH-RQ2還元活性のキナゾリン系阻害剤による阻害様式を比較した。その結果、キナゾリン系阻害剤はUQ2に対して混合阻害するが、RQ2に対しては完全に拮抗阻害することが示された(図3)。この結果は、酵素とUQ2およびRQ2の結合様式が一部異なっていることを示唆している。そこで、複合体Iのキノン還元部位の特徴を、さらに詳しく調べるために、NADH-UQ2とNADH-RQ2還元活性の至適pHを測定した(図4)。NADH-RQ2還元活性の至適pH (7.6)は、複合体IとIIから構成されるNADH-フマル酸還元活性と同じであったが、NADH-UQ2還元活性はpH 6.4と7.2という2つの異なる至適pHを示した。これらの結果は、酵素とUQ2およびRQ2の結合様式が異なっているだけでなく、酵素とUQ2との電子の授受を含んだ反応機構がpHに依存して変化することを示唆している。実際、NADH-UQ2還元活性のキナゾリン系阻害剤による阻害様式のpH依存性を調べたところ、pHにより混合阻害としてのパターンは変化しないが、pH上昇により非拮抗阻害に近づくことが示された(図5)。一方、NADH-RQ2還元活性のキナゾリン系阻害剤による阻害様式はpH変化による影響は受けなかった。これらの結果から、回虫複合体IのRQ還元部位に関して、至適pH 7.4で、阻害剤に対して拮抗的に阻害される還元部位が1つあり、UQ還元部位に関しては、至適 pH 7.2で、阻害剤に対してより非拮抗的に阻害される還元部位と、至適pH 6.4で、阻害剤に対してより拮抗的に阻害される還元部位があると推測される。

まとめと展望

本研究では、回虫複合体Iのキノン還元部位の構造特性について阻害剤を用いて詳細に検討した。キナゾリン系阻害剤による複合体IのUQとRQ還元活性に対する阻害様式が異なることから、本酵素のUQとRQに対する認識は同一ではないことが示された。さらに、至適pHおよび阻害様式のpH依存性を調べることで、本酵素のキノン還元部位には、1つのRQ還元部位と、2つの異なる至適pHを示すUQ還元部位があるとこいうことが示唆された。この複合体Iのキノン還元部位のモデルを図6に示す。今後、このような寄生虫類に特有なエネルギー代謝系の構成酵素の阻害剤との構造活性相関を解析することにより、新規選択的阻害剤の設計が可能になるものと期待される。さらに、バクテリアや哺乳動物を含め複合体Iの反応機構(分子内電子移動や、酸化還元共役プロトンポンプ機構)は未だ解明されていないことから、今回得られた回虫複合体Iのキノン還元部位に関する知見は、複合体Iのキノン還元部位の数、またその分子認識の特異性について、有用な知見をもたらすことができるものと期待される。

哺乳類ならびに回虫成虫の電子伝達系

キナゾリン系阻害剤の構造

回虫複合体Iに対するキナゾリン系阻害剤の作用

無置換体キナゾリンによる回虫複合体Iの阻害 (Ph 7.2)

回虫複合体Iの至適pH

pH変化による無置換体キナゾリンによるNADH-UQ2還元活性よ対する阻害様式の変化

回虫成虫複合体Iのキノン還元部位のモデル

Yamashita, T. et al. Biochim. Biophys. Acta (in press)Omura, S. et al. (2001) Proc. Natl. Acad. Sci. USA 98, 60-62Ino, T. et al. (2003) Biochim. Biophys. Acta 1605, 15-20
審査要旨 要旨を表示する

多くの寄生性蠕虫は、宿主体内という嫌気的な環境に適応するため、宿主哺乳類の好気的呼吸鎖電子伝達系とは、電子伝達の方向性、基質特異性が異なる嫌気的エネルギー代謝系を保有している。この嫌気的呼吸鎖電子伝達系の酵素複合体I、複合体IIにおいて、宿主における電子伝達体、ユビキノン(UQ)、と構造の異なる、ロドキノン(RQ) の認識に関わる部位(RQ還元部位)は宿主との差異を利用した薬剤標的部位として有効である。本論文では、このような寄生虫類に特有なRQを基質にする呼吸鎖複合体Iのキノン還元部位に焦点を当て、坑寄生虫薬の開発という観点から、さらに、未だ解明されていない複合体Iの反応機構ついての知見を得ることを目的として、複合体 Iに特異的な阻害剤を用いて回虫複合体Iのキノン還元部位を生化学的に詳細に解析している。

複合体Iの酵素活性測定

複合体IのNADH-キノン還元活性の測定は、一般的に好気条件で行うが、回虫成虫ミトコンドリアを試料として用いた場合、同じ条件下ではミトコンドリアとNADHを反応溶液中に添加しただけで、外来性キノン非依存的なNADHの強い酸化が観察される。これは、還元型RQと酸素との反応性が高いために、内在性RQ9が、酵素と酸素の間で電子の授受を行っているためである。そこで、本論文では、グルコースオキシダーゼとカタラーゼを用いる嫌気アッセイ法を導入し、正確なNADH-キノン還元活性を測定する方法を確立している。この測定法では、人工キノン添加前のNADHの酸化は全く観察されなくなり、正確なNADH-キノン還元活性を測定することが可能となったことから、本論文で行うキノン還元部位の阻害剤による詳細な解析に適した測定系であるといえる。

キナゾリン系阻害剤の回虫複合体Iに対する構造活性相関

本論文では、キナゾリン系阻害剤を回虫複合体Iのキノン還元部位の解析に用いている。キナゾリン系阻害剤は化学的に安定で、誘導体の合成が容易であり、さらに蛍光物質であることから将来的に回虫複合体Iのキノン還元部位の標識物質として用い、阻害剤結合ペプチドを同定することも可能であることから、キノン還元部位の解析に適した化合物であるといえる。キナゾリン系阻害剤の複合体Iに対する阻害活性の評価は、それぞれ、UQ2と RQ2を人工電子受容体として用い、酵素活性を 50% 阻害する阻害剤の濃度(IC50)を比較することにより行っている。まず、無置換体キナゾリンが、これまで回虫複合体Iを最も低濃度で阻害することが知られていたナフレジンよりも、それぞれの NADH-キノン酸化還元活性を1桁程度低濃度で阻害することを見出している。さらに、他の9 種類の誘導体についての阻害効果を調べ、NADH-UQ2およびRQ2酸化還元活性と阻害剤の構造活性相関の比較を行っている。その結果、阻害における両者の傾向は類似しているが、UQ2と RQ2を基質とした場合で阻害の傾向は完全には一致していないことから、酵素のそれぞれの電子受容体に対する構造認識は同一ではないということを示している。

回虫複合体Iのキノン還元部位の解析

前述の酵素のUQ2とRQ2に対する構造認識の相違を明らかにする目的で、NADH-UQ2とNADH-RQ2還元活性のキナゾリン系阻害剤による阻害様式を比較している。その結果、キナゾリン系阻害剤はUQ2に対して混合阻害するが、RQ2に対しては完全に拮抗阻害することを見出している。この結果は、酵素とUQ2およびRQ2の結合様式が一部異なっていることを示唆しており、複合体Iのキノン還元部位の特徴を、さらに詳しく調べるために、NADH-UQ2とNADH-RQ2還元活性の至適pHを測定している。NADH-RQ2還元活性の至適pH (7.6)は、複合体IとIIから構成されるNADH-フマル酸還元活性と同じであったが、NADH-UQ2還元活性はpH 6.4と7.2という2つの異なる至適pHを示すことを見出している。これらの結果は、酵素とUQ2およびRQ2の結合様式が異なっているだけでなく、酵素とUQ2との電子の授受を含んだ反応機構がpHに依存して変化することを示唆している。これに対し、NADH-UQ2還元活性のキナゾリン系阻害剤による阻害様式のpH依存性を調べ、pHにより混合阻害としてのパターンは変化しないが、pH上昇により非拮抗阻害に近づくこと確認している。

以上、本論文においては、回虫複合体Iのキノン還元部位の構造特性について、正確な酵素活性測定法を確立し、阻害剤を用いて詳細に検討している。その結果、本酵素の UQ と RQ に対する認識は同一ではないこと、さらに、至適 pH および阻害様式の pH 依存性を調べることで、本酵素のキノン還元部位には、1つの RQ 還元部位と、2つの異なる至適 pH を示す UQ 還元部位があるとこいうことを見出している。これらの知見は哺乳類複合体Iにおいて報告されておらず、本研究において初めて示された回虫複合体Iに特有なキノン還元部位の特徴であると考えられる。

これらの知見は、宿主とは異なる部位を標的とした坑寄生虫薬開発に大きく貢献するだけでなく、バクテリアや哺乳動物を含め複合体Iの反応機構(分子内電子移動や、酸化還元共役プロトンポンプ機構)は未だ解明されていないことから、今回得られた回虫複合体Iのキノン還元部位に関する知見は、複合体Iのキノン還元部位の数、またその分子認識の特異性についての解明に大きく貢献するものであり、博士(薬学)の学位論文として十分な価値があるものと認められる。

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