学位論文要旨



No 119456
著者(漢字) 小野,円佳
著者(英字)
著者(カナ) オノ,マドカ
標題(和) 低次元モット絶縁体の光励起状態と非線形光学応答に関する研究
標題(洋)
報告番号 119456
報告番号 甲19456
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第4号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 教授 永長,直人
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 助教授 寺嶋,和夫
 東京大学 教授 末元,徹
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景と概要

一次元銅酸化物(Sr2CuO3, Ca2CuO3)や,ハロゲン架橋ニッケル錯体[Ni(chxn)2X]Y2;((X, Y)=(Br, Br), (Cl, Cl), (Cl, NO3), chxn=cyclohexanediamine)は,CuやNiのd電子間のクーロン反発に起因するギャップを持つ一次元モット絶縁体である.最近,これらの物質を対象に電場変調反射分光測定が行われ,非常に大きな非線形光学応答が観測された.また時期を同じくして,一次元銅酸化物においてポンププローブ分光測定が行われ,光励起状態が極めて高速に緩和することが報告された.巨大かつ高速の非線形光学応答を示す材料は,大容量・高速光通信や光信号処理に必要な超高速スイッチなどの全光型の光デバイスを作製するために不可欠である.このような非線形光学材料として,一次元モット絶縁体は有望であると考えられる.上記の二つの分光測定から,一次元モット絶縁体の光励起状態には,線形吸収で観測される一光子遷移許容の状態のほかに,この状態にほぼ縮退した一光子遷移禁制な状態(線形吸収では観測されない二光子励起状態)が存在し,これら二つの状態間の遷移双極子モーメントが大きいために,非線形感受率χ(3)が増大することが示唆された.しかし,これらの測定結果は,実励起を伴うインコヒーレントな遷移過程に影響される可能性がある.従って非共鳴なエネルギー領域で励起を行い,光学過程のみによって定義されるχ(3)が増強されることを確認する必要がある.また,χ(3)の増強機構を理解し,非線形光学材料としての物質設計指針を打ち立てるためには,一次元モット絶縁体における光励起状態の性質を詳細に解明することが重要である.

そこで,本研究では,反射,発光,ラマン散乱,光伝導などの定常分光測定を始め,第三高調波発生,電場変調分光や,時間分解発光,ポンププローブ分光などの測定を行って一次元モット絶縁体の光励起状態の性質を詳しく調べ,その全体像を明らかにした.更にこれらの知見を基に,非線形光学材料を設計するための指針を検討した.以下に,本論文の主な内容を具体的に示す.

実験結果と考察

第三高調波発生法を用いた一次元モット絶縁体の|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|スペクトルの測定

第三高調波発生(Third Harmonic Generation:THG)法とは,周波数ωの光に対する周波数3ωの光の発生効率から物質のχ(3)を求める方法である.対象とする物質の三倍波の発生効率を石英などの標準試料のそれと比較することにより,|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|の定量的な評価が可能である.THGは,励起光のエネルギーが光学ギャップより遥かに低いため,実励起過程に影響されない.一次元銅酸化物(薄膜試料)には透過型THG法を,ハロゲン架橋ニッケル錯体(以下ではNi-X-Yと略)(単結晶試料)には,反射型THG法を用いた.反射型THG法を用いた|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|スペクトルの測定例はこれまで皆無である.そこで,反射方向の三倍波強度を見積もる方法や標準試料と比較してχ(3)の絶対値を求める方法を検討し,測定を行った.図1に,Sr2CuO3及びNi-Br-Brの|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|スペクトルと誘電率の虚部ε2スペクトルを示した.ε2スペクトルのピークは,それぞれ酸素から銅,臭素からニッケルへの電荷移動(CT)励起によるものである.Sr2CuO3の|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|スペクトルには,ピークAとその高エネルギー側に肩状の構造Bが見られた.Aのエネルギーの三倍に一光子遷移許容な奇の状態|1>(E1=1.8eV)と,Bのエネルギーの二倍に一光子遷移禁制な偶の状態|2>(E2=1.7eV)を仮定して,基底状態|0>を含む三準位モデルを用いてフィッティングを行った.計算結果は実験結果の特徴を良く再現した.また,状態間の遷移双極子モーメントμ12=<1|x|2>は,μ01=<0|x|1>の10倍以上と非常に大きいことがわかった.これらの結果は電場変調分光から得られる結果と良く整合している.Ca2CuO3についても同様の結果が得られた.

一方,Ni-Br-Brの|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|スペクトルには,鋭いピーク (A) と肩状の構造(X),なだらかなピーク(B)が観測された.Ni-Br-Brでは,三準位モデルは実験結果を再現しないことが分かった.そこで構造AとXを,それぞれ奇のCT励起状態|1>(E1=1.27eV)と|3>(E3=1.5eV)への三光子共鳴と考え,構造Bを偶の状態|2>(E2=1.28eV)への二光子共鳴と考える四準位モデルを仮定したところ,実験結果は良く再現された.|1>と|2>の状態はぼぼ縮退しており,状態間の遷移双極子モーメントμ12はμ01の20倍近い非常に大きい値であった.Ni-Cl-ClやNi-Cl-NO3の|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|スペクトルも,同様な四準位モデルによって再現できることがわかった.これらについても,μ12/μ01は10以上の大きい値となった.

図2は得られた|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|の最大値を他の一次元物質のそれを比較したものである.一次元モット絶縁体の|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|の値は,共役系ポリマーを始めとするパイエルス絶縁体やバンド絶縁体のポリシランと比べても大きいことがわかった.

一次元モット絶縁体の線形光学スペクトル

一次元銅酸化物の非線形光学スペクトルを再現するには三準位モデル,ニッケル錯体では四準位モデルを仮定する必要があった.この違いは,一次元モット絶縁体における励起子効果の違いを反映していることを光伝導励起スペクトル(図3)の測定から明らかにした.Ni-Cl-NO3では,吸収ピーク付近を励起した時の光キャリアの生成効率は極めて小さい.逆に Ca2CuO3では,キャリアが解離する効率はCTピークで飽和する.これは次のように解釈できる.Ni-Cl-NO3では,励起子的な束縛状態が出来ており,その束縛状態に振動子強度が集中することによってCTピークが形成されている,一方,Ca2CuO3では,励起子的な効果は弱く,ε2スペクトルは連続的な状態に支配されている.ニッケル錯体のスペクトル幅が銅酸化物のそれより小さいのは,このような振動子強度の集中が主たる原因であると考えられる(電子格子相互作用もスペクトル幅を決定する重要な要因の一つである.詳しくは本論文を参照).ニッケル錯体の|1>と|2>の状態は,励起子的状態である可能性が高い.しかし|3>の状態は,光伝導スペクトル,緩和定数,極低温の電場変調スペクトルを加味した結果,連続状態であることがわかった.また,励起子効果が小さい一次元銅酸化物においては,|1>や|2>の状態は多数の励起準位の重心を表すと考えられる.

結論

一次元モット絶縁体では,縮退した奇と偶のCT励起状態が存在する.μ12の増強は,これらの波動関数の広がりがほぼ等しくなることから生ずると考えられる.χ(3)はμ01やμ12の増加関数であるため,μ12の増強に伴いχ(3)が増大する.このようなχ(3)の増強機構は,一次元モット絶縁体一般に成り立つ機構であると期待される.図2に示したパイエルス絶縁体やバンド絶縁体では,奇と偶の励起子準位が分裂しており(E2-E1>0.2eV), μ12/μ01は3程度であることが知られている.これらの一次元系では,最低励起子の波動関数が原点近傍に集中し,第二励起子のものと広がりが大きく異なるため,μ01は増大し,μ12は大きくならない.これに対して,一次元モット絶縁体では,奇の最低励起状態の波動関数は原点で節をとり,同じく原点が節となる偶の状態と縮退する.この節の影響により,一次元モット絶縁体ではμ12は増強されるものの,束縛エネルギーの大きい最低励起子状態は存在しにくく,μ01はそれほど大きくならない可能性が高い.実際に,一次元モット絶縁体の励起状態では,連続状態から成るCa2CuO3から,励起子が比較的安定に存在できるNi-Cl-NO3へとクロスオーバーが生じていた.そして,励起子が存在するニッケル錯体においても,非線形光学スペクトル形状はその高エネルギー側の連続状態に強く影響されていた.

応用的側面を考えると,χ(3)の増大だけでなく吸収を抑制することも重要である.実際に応用する場合には,ギャップ内のエネルギーにおいて非線形光学効果を使うため,吸収スペクトルを先鋭化し,ギャップ内の実励起をできるだけ抑制することが必要となる.それにはニッケル錯体のように励起子的状態が安定な物質を探索することが有効である.ここで,強相関極限の単一バンド拡張ハバードモデルにおける最低励起状態は,隣接する金属サイトの電子・正孔間のクーロン相互作用Vと,隣接サイトへの飛び移り積分tの比(V/t)をパラメータとして,V/2t>1では励起子的,V/2t<1では連続的になることが知られている.この計算結果を実験結果と組み合わせて考えると,ニッケル錯体ではV/t〓2,一次元銅酸化物ではV/t〓2が成り立っていると考えられる.μ01とμ12はtの増加関数であることを考慮すると,より良い非線形光学材料を設計するためには,V/t〓2を保ちつつtを増強することが重要であると考えられる.

Sr2CuO3(上図)及び[Ni(chxn)2Br]Br2(下図)の|χ3|スペクトル(●)とεスペクトル(点線).実線はそれぞれ三準位(上),四準位(下)を仮定したモデルによる計算結果.

各物質の|χ(3)(-3ω;ω,ω,ω)|の最大値.●:一次元モット絶縁体▲は本研究で求めた二次元銅酸化物の値.○:その他の一次元物質Pt-l, [Pt(en)2][Pt(en)2l2](ClO4)4:PA, polyacetylene: PDA, polydiacetylene PDHS, Polydihexylsilane:PDTDS, polydi-tetradeoylsilane:PDBS, polydibutylsilane

一次元モット絶縁体のε2スペクトル(実線)と光伝導励起スペクトル(○).▲,△はそれぞれのピークと立ち上がりのエネルギーを示す.

審査要旨 要旨を表示する

三次の光学非線形性を利用すると、光で光の経路を切り替える光スイッチ、光で光の透過率を切り替えるオンーオフスイッチ、光だけで論理演算を行う光コンピューターなどが実現できる可能性がある。一般に、低次元系では、電子が閉じ込められることによって三次の非線形感受率χ(3)が増大することが期待される。これまで、半導体の量子閉じ込め構造や、π共役ポリマー、ポリシランなどの一次元物質において、三次の非線形光学効果に関する研究が盛んに行われてきた。しかしながら、半導体材料は光励起状態の緩和の高速化が困難であるために、今のところ実用化にはいたっていない。一方、ポリマーでは、物質の制御が困難であることやχ(3)の大きさが十分でないなどの問題点がある。最近、電子間のクーロン反発によって開いたギャップを有するモット絶縁体と呼ばれる物質群において、電場変調分光測定が行われ、一次元的な電子構造を有するハロゲン架橋ニッケル錯体や銅酸化物が、非常に大きなχ(3)を示すことが報告され注目された。しかしながら、これらのモット絶縁体の光励起状態の性質については、これまでほとんど研究されていないのが現状であり、そのχ(3)の増強機構についても十分な理解が進んでいない。また、上記の研究ではχ(3)の評価に静電場を使っているため、光の周波数領域での非線形光学応答に関してもほとんど情報が得られていない。本研究は、一次元モット絶縁体であるハロゲン架橋ニッケル錯体と銅酸化物において、第三高調波発生法を使って光の周波数領域でのχ(3)スペクトルを定量的に評価し、線形光学応答に関する測定結果、および、電場変調スペクトルの結果を合わせて解析することによって、その非線形光学応答の機構の解明を目指したものである。

本論文は6章からなる。第1章には、序論として、研究目的と論文の概要、研究の背景、および、一次元系の光学応答の一般的な性質が概説されている。第2章には、本研究で対象とされた試料の作成方法と本研究で使われた各種分光測定の方法が述べられている。本研究では、単結晶に適用が可能な反射型第三高調波発生によるχ(3)の評価法が確立されたが、その実験手法と解析方法の詳細が記述されている。第3章には、線形光学応答に関する実験結果が示されている。光伝導励起スペクトル、線形吸収スペクトル、発光スペクトル等の結果から、光励起状態における励起子効果や励起状態における電子格子相互作用の効果、光励起状態の緩和機構に関する特徴が明らかにされている。第4章では、第三高調波発生法および電場変調分光法によって得られたχ(3)スペクトルが示され、そのスペクトルの解析結果をもとに一次元モット絶縁体の光励起状態の準位構造、状態間の遷移双極子モーメント、および、非線形光学応答の機構が述べられている。第5章では、一次元モット絶縁体と、他の一次元半導体(バンド絶縁体やパイエルス絶縁体)および二次元モット絶縁体の光励起状態の違いが考察され、より優れた非線形光学材料を得るための物質設計指針が提示されている。第6章には、本論文の結論が述べられている。

本論文の重要な成果を要約すると以下のようになる。線形の光学応答の結果から、最低の光励起状態(電荷移動励起状態)が、ニッケル錯体では励起子的な束縛状態となるのに対し、銅酸化物では連続状態となることが明らかにされた。第三高調波発生の結果から、一次元モット絶縁体のχ(3)が、光の周波数領域においても他の一次元半導体に比べて非常に大きいこと、および、一次元モット絶縁体では奇と偶の励起状態が縮退しており、それらの状態間の大きな遷移双極子モーメントによってχ(3)が増大することが明確に示された。χ(3)の絶対値およびスペクトル形状は、励起子効果の有無によって大きく変化する。非線形光学応答の機構を理解する上で、最低の励起状態が励起子的な束縛状態である場合にも、より高いエネルギーにある連続状態の寄与を正確に考慮することが重要であることが示された。さらに、本研究で明らかとなった一次元モット絶縁体の光励起状態や非線形光学応答の特徴と他の一次元半導体のそれの違いがハバードモデルに基づいて考察され、モット絶縁体における大きな電子相関の効果が両者の違いに本質的な役割を果たしていることが示された。これらの成果から、本論文は、一次元モット絶縁体の光励起状態の解明とその非線形光学材料としての新しい可能性の開拓に大きく貢献するものである。したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。

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