学位論文要旨



No 119459
著者(漢字) 芝本,幸平
著者(英字)
著者(カナ) シバモト,コウヘイ
標題(和) 過渡反射格子スペクトル法を用いた表面増強ラマン散乱効果の素過程の解明
標題(洋)
報告番号 119459
報告番号 甲19459
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第7号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 助教授 三尾,典克
 東京大学 助教授 森,初果
 東京大学 助教授 藤浪,真紀
内容要旨 要旨を表示する

【1. 緒言】ラマン分光法は最も基本的な振動分光法であるが、ラマン散乱断面積が非常に小さいことが欠点であった。1974年Fleischmannらが表面を荒らしたAg電極表面に吸着したピリジンのラマンスペクトルの測定に成功し、数年後106倍に達する強いラマン散乱強度だと確認され、表面増強ラマン散乱(SERS)として認知された。SERS効果は世界の研究者の注目を集めることになり、表面・界面測定や微量・局所分析などに利用され、数多くの研究例が報告された。

SERS効果の増強機構は完全には解明されていないが、2つの機構の複合効果で定性的に説明されている。一つは電磁効果と呼ばれ、金属表面の粗さにより表面プラズモン励起が可能となり、表面電磁場強度が局所的に増大されるものであるが、電磁効果のみではすべての実験事実を説明できない。そこで、新たに提案されたのが電荷移動(CT)効果と呼ばれるもう一つの機構である。このCT効果とは、金属表面から表面に化学吸着した分子へCTすることによりラマン散乱断面積が増加するという一種の共鳴効果である。

電磁機構は理論的および実験的解釈の両面から数多くの議論がなされているが、CT機構は測定手法の欠如から実験面からのアプローチが極めて少ない。その観測には、高表面選択性、高感度、高時間分解能、スペクトル情報を持つ電子ダイナミクス測定法が必要である。一方、当研究室ではそれらの特徴を満たした測定法である過渡反射格子スペクトル法(TRGS)を開発し、その有用性を示してきた。本研究では、TRGS法を適用し、励起電子のダイナミクスの観点からSERS効果におけるその役割を明らかにすることを目的とした。本論文では、数ps以内の超高速CT過程、基板表面状態、吸着準位の観点からのSERS増強との相関を議論する。

【2. TRGS法の原理】 TRG法はin-situ観察、非破壊・非接触、高感度局所領域の測定が可能であり、光のしみ込み深さ領域の情報しか含まない。任意の励起光のパルス幅を用いることにより、様々な時間領域に発生する化学反応や電荷移動などといった現象の追跡が可能である。表面・界面における物理化学現象を観測する上で、TRG法は非常に優れた手法である。

TRG法は無輻射過程により発生した熱などにより誘起された屈折率変化(Δn)を通してダイナミクスを観測する手法である。2本の励起光を同時に幾何学的対称に試料表面に入射することにより、光は干渉し、試料表面を一定の周期の縞状に励起することが可能である(図1)。この時、励起光の強度分布に従ったΔnが誘起される。一定周期の屈折率分布は回折格子となるため、Δnが緩和するまでの間に存在する過渡的な回折格子が試料表面に生成する。そこにもう一本別のプローブ光を入射し、反射回折光を検出すれば、プローブ光入射時の表面に誘起されたΔnを捕らえることができる。数100 fsのパルス光の励起では、励起電子数密度がΔnに寄与することを利用し、私はTRG法に、励起光にfs-パルス、プローブ光にfs-白色パルス光を用いた。TRGS信号には各エネルギー準位における電子ダイナミクス情報が含まれる。その中で、私は光学配置の最適化により一度にすべてのスペクトルを計測可能にした。また、白色光の安定性の向上、焦点位置の最適化、スペクトル信号の補正などによりスペクトル感度を向上させ、再現性を高めた。

【3. SERS活性とTRGS測定】 SERS活性基板は表面粗さという凹凸形状に大きく依存するため、異なる真空度(条件A,B)で蒸着した金薄膜を金属基板として用いた。蒸着速度は0.3nm/s、膜厚は40nmとした。AFM測定により表面粗さが異なる試料の作製を確認した。吸着分子としてクリスタルバイオレット(CV)を飽和吸着させた。吸着分子数は両条件ともほぼ同数程度と考えられるが、両試料をラマン測定したところ、図2に示すようにラマン散乱強度には吸着分子数では説明できない大きな差異が見られ、条件(A)の試料にSERS効果が確認された。

すべての試料をTRGS測定した。金薄膜におけるTRGS信号(図3)には以下のように解釈される。TRGS信号において各波長の信号強度はそのプローブ波長と共鳴する励起エネルギー準位での電子数密度の2乗に比例する。図3の520nm付近のピークは金のバンド間遷移に対応し、時間応答は電子-格子散乱過程に対応し、約10psで緩和することを示している。

図4に(A)金薄膜とSERS活性試料の励起直後でのTRGS信号の比較を示す。その結果、TRGS信号には大きな差異が観測された。励起電子数は同一であるが、励起直後のスペクトルには540nmを中心とした波長領域において信号強度が減少していた。これは、金薄膜から、対応する波長領域に相当するエネルギーを持った電子がCV分子へ移動したことを示唆する結果と考えられる。また、装置の時間分解能から200 fs以内のCT過程と考えられる。一方で、条件(B)で作成した試料には、吸着分子の有無によるTRGS信号の差異は見られなかった。従って、図4で観測されたCT過程はSERS活性特有の現象であり、CV分子による直接的な光吸収による影響もないと考えられる。従来までの化学効果に対する研究では、理論的な解釈に対し静的な情報でしか測定できなかったが、本研究結果は、SERS活性試料と相関付けた高速時間領域(<200 fs)におけるCT過程を世界で初めて実時間ダイナミクス計測した実験結果となった。

【4. CT過程とSERS増強度】

条件(A)に設定し、異なる蒸着速度でSERS活性試料を作製した結果、SERS増強度が異なった。作製した試料のAFM像から各試料の表面凹凸の大きさおよび形状を確認したが、数10 nm程度のオーダーでは有意な差異はなかった。これはSERS増強機構における電磁効果の寄与がほぼ等しいことを意味している。また、ラマンスペクトルのバンドシフトから見積もったCV分子の吸着状態にも有意な差異はなく、吸着状態による増強度への寄与も等しいと考えられる。従って、SERS増強度の差異は、CT効果に起因するもの(CT-SERS強度)と考えた。

すべてのSERS活性試料をTRGS測定した。前章で観測された540 nmを中心としたスペクトル信号強度の減少度から見積もったCT電子の相対数とCT-SERS強度を図5に示す。CT-SERS強度が増大するほどCT電子数が増大した。CT効果では、原子レベルの凹凸が寄与するため、設定した蒸着速度では、数10 nm程度の凹凸は変化しないが、原子レベルの凹凸が変化したと考えられる。本結果は、数10 nm程度の表面突起が引き起こす電磁効果と、原子レベルの凹凸が誘起するCT効果の存在を実験的に示した。以上から、私はCT電子数がCT-SERS強度を決定するという新しい機構を提案する。

【5. 吸着準位と金のバンド間遷移準位との相関】 吸着種を数種用いて様々なSERS活性試料を作製した。吸着種にはCV分子の他にローダミンB (RB)、エオシンY (EY)、マラカイトグリーン(MG)、ブロモフェノールブルー(BPB)を選択し、1180 cm-1付近(ベンゼン環のC-H bend mode)に現れるピークで規格化した値を相対SERS増強度とした。

作製したSERS活性試料をすべてTRGS測定した。TRGS測定精度の向上により、差分スペクトルによる議論が可能となった。差分スペクトルの信号強度は両試料間の励起電子数密度差であるため、CT電子数を反映し、ピーク波長は生成した過渡的な吸着準位を反映すると考えられる。

図6に示した金薄膜と金薄膜-CV分子とのTRG差分スペクトルには2種の緩和成分が存在した。一つは450〜630 nm付近に見られる緩和時間がおよそ10 psの成分であり、金のバンド間遷移ピークのシフトにより現れた電子-格子散乱過程に従う信号成分と考えられる。もう一方は、540 nmを中心とした510〜600 nm付近に観測される成分である。この信号成分は3 ps程度で緩和したため、電子-格子散乱過程ではなく、金薄膜表面と金薄膜表面に化学吸着したCV分子とのCT過程により生じたものだと考えられる。以上の結果から、SERS活性試料には、200 fsのCT成分の他に数ps程度の成分が存在していることを明らかにした(8)。

同様に、他の吸着分子についても同様の解析を行った。図7に相対SERS増強度、吸着準位、相対CT電子数をプロットした。CT過程に起因する成分の消滅時間には吸着種依存性はなく、約3 psだった。一方、SERS増強度の増大に従い相対CT電子数は増大し、吸着準位を反映する波長が520 nmに近接して現れた。この結果は吸着準位と金薄膜のバンド間遷移準位との近接が大きなCT電子数を誘起し、SERS増強度が増大することを示唆している。本結果は、金属と吸着分子間に新たに生成された吸着準位がSERS効果におけるCT効果の増強因子であることを示し、機構解明へ重要な知見と言える。

【6. 固液界面計測へ】 SERS効果は電極表面における微量吸着分子による電極表面反応の観測から発見された。そのため、電位制御下におけるSERS研究も盛んである。TRGS測定の固液界面計測への展開はSERS効果の機構解明に重要である。

TRGS法の固液界面測定用セルを作製し、TRGS信号の取得に成功した。また、電位制御を同時に行い、SERS活性基板(金電極-ピリジン系)からCT過程の観測も認められた。現段階では、信号の精度が低く、詳細な議論を展開するには更なる改良が必要である。

【7. 総括】 SERS増強機構の解明は,その適用可能な系の開拓や信号強度の定量的解析に必須である。従来の理論的解釈や静的な測定によるSERS増強機構に対して,本研究はTRGSを適用し超高速時間領域での電子ダイナミクス測定の観点から考察を与えた。その結果、金属-吸着種間に200 fs以内のCT効果に起因するCT過程の発見、CT電子数がSERS増強度への寄与、吸着準位と金のバンド間遷移準位との相対関係のSERS増強度への依存性を明らかにした。実験として困難であった超高速CT現象の解明にTRGSが非常に有効であり, 実験的に証明することができた。このCT過程がSERS効果のCT効果だと結論できる。本研究のよる知見は、多くの研究に有効な知見を提供する。

TRG法の原理

条件(A),(B)で作制した金薄膜-CV分子のラマンスペクトル

金薄膜におけるTRGスペクトル信号

SERS活性試料におけるの励起直後のTRGS信号の比較

試料a, b, c, d, eのSERS増強度における各効果の寄与の大きさの比較

(金薄膜)-(SERS活性-CV)の差分TRGS信号の経時変化

差分TRGSパラメータとSERS増強度との相関

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ラマン散乱断面積が104から106倍にも増強される効果である表面増強ラマン散乱 (surface-enhanced Raman scattering : SERS) 効果の素過程の解明について報告している。SERS効果の増強機構に関与していると考えられている電荷移動 (charge transfer : CT) 過程に着目し、CT過程の直接観測という観点から、過渡反射格子スペクトル (transient reflecting grating spectroscopy : TRGS) 法を適用し、その増強機構を明らかにしたものである。

本論文は全体で7章から構成される。第1章では研究背景として、現在までにSERS効果の増強機構として提案されている電磁効果と化学効果の概略を説明している。その背景の中で、提案機構の課題を抽出し、特に化学効果におけるCT過程の直接観測の重要性と、そのために有効な測定手法の条件を述べている。その課題に対するTRGSによる取り組みという本論文の目的を述べている。

第2章ではSERS効果に重要であるCT過程を実時間レベルで観測するための手法としてフェムト秒時間分解能をもつTRGS法の提案と、その装置改良について述べられている。また、TRGS法により得られる物理情報を整理し、SERS効果のCT過程が直接観測可能と判断できる根拠について述べている。

第3章では、第2章において提案したTRGS法をSERS活性試料に適用し、CT過程の直接観測を試みている。試料には、表面の粗さを制御した真空蒸着法により作製した金薄膜にクリスタルバイオレット (crystal violet : CV) 分子を飽和吸着させた試料を選択し、金薄膜の表面粗さを変えることによりSERS活性試料とSERS不活性試料を作製した。作製したSERS活性/不活性試料をTRGS法で測定した結果、SERS活性試料においてのみ装置の時間分解能である200fs以下の金薄膜表面からCV吸着分子へのCT過程を吸着準位と相関付けて観測することに成功した。本結果は実験的にCT過程を見出した初めての例である。また、同時に表面第一層に吸着した分子と金属基板との相互作用を高感度に観測することによりTRGS法の有用性を示されている。

第4章では、第3章で見出した200fs以内のCT過程に関与した電子数と化学効果に起因するSERS増強度との相関を明らかにすることを目的としている。CV分子を吸着させた金薄膜を数種用意し、その増強度の差異が化学効果に依存する試料を作製し、TRGS法により測定した。その結果、化学効果に起因する増強度が増大するほど、200fs以内のCT過程に関与している電子数が増大した。以上の結果は、SERS効果における化学効果の素過程を解明する上で、非常に有用であると考えられる。

第5章では、化学効果をより詳細に議論するため、吸着種依存性について調べた。TRGS法により測定した結果、分子吸着により新しく生成された吸着準位(3ps程度の超高速時間領域にのみ存在)と金のバンド間遷移準位との相対関係が、化学効果に起因するSERS増強度に寄与していることを見出した。SERS効果は金属の表面の性質を利用した応用研究が盛んであったが、金属表面と吸着分子種との数ps以内という超高速時間領域にのみ存在する化学的な相互作用を観測したという本結果は、分子の立場からSERS効果を応用した研究への展開を強く推進することが期待される。

第6章では、固液界面計測へのTRGS法の展開が述べられている。SERS効果において、電極表面の反応の追跡や生体試料の観測などの応用が期待されているため、固液界面での観測は重要である。金上に電気化学的にピリジン吸着量を変化させたSERS活性試料にTRGS法を適用した結果、SERS増強度とCT過程に関与した電子数との相関が観測され、前章までの結果を強く支持するものとなった。本結果は、本論文で得られた知見がSERS活性試料に対して広く適用可能であることを示すこととなった。

第7章では、全体の結果を総括し、今後期待される展望について述べられている。

上記のように、本論文ではSERS効果の素過程の解明を目指し、これまでアプローチされることのなかったCT過程の直接観測という観点から化学効果の増強機構に対し、新しい知見を得ている。従って,本論文は博士(科学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク