学位論文要旨



No 119462
著者(漢字) 廣瀬,靖
著者(英字)
著者(カナ) ヒロセ,ヤスシ
標題(和) 界面・ナノ空間領域における液体の超高速ダイナミクス計測法の開発
標題(洋)
報告番号 119462
報告番号 甲19462
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第10号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 物質系専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 瀧川,仁
 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 助教授 藤浪,真紀
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】

化学反応の多くは水をはじめとする溶液中で起こる。溶液中の化学反応は気体などの孤立系とは異なり、周囲の溶媒分子と相互作用しながら協同的に進行する。これらの相互作用のダイナミクスを実験的に明らかにすることは溶液反応に溶媒が及ぼす効果を理解する上で非常に重要となる。本研究では周囲の溶媒環境が反応に及ぼす効果が特に重要な系として界面やナノ空間といった空間的に不均一な環境に注目し、不均一環境における溶液の超高速ダイナミクス計測法の開発に取組んだ。

分子間相互作用が溶液反応に及ぼす影響を明らかにするためには、溶媒和や分子間エネルギー移動といった数十fs〜100ps程度の非常に高速な現象を観測する必要がある。そこで、溶媒分子のダイナミクスに伴う溶液の屈折率の変化に着目した。屈折率変化をfs〜psの時間領域で測定可能な超高速過渡レンズ(Ultrafast transient lens: UTL)法を用いた計測法を提案し(研究1)、ナノ空間中の溶液反応ダイナミクス測定に展開した(研究2)。さらに、全反射UTL法を開発し、固/液・液/液界面での溶液反応測定に適用した(研究3)。

また、溶液界面において、分子間相互作用を介した分子の集団的な運動を鋭敏に反映する低波数領域の振動スペクトル計測法の開発を試みた(研究4)。

【研究1. 屈折率変化を利用した分子ダイナミクス計測】

溶液中の分子が光励起されると、励起分子の反応や緩和に伴って溶液の屈折率が変化する。fs〜psの時間スケールでの屈折率変化は、溶質分子の電子準位や振動準位の変化に加えて、分子間エネルギー移動による溶媒分子の温度上昇や溶媒和構造の変化に起因する。そこで、UTL法を用いて超高速時間領域における溶液の屈折率変化を測定し、溶液反応に伴う溶媒環境の変化に関する情報を得ることを着想した。一方、溶質分子の状態変化が溶媒分子のダイナミクスと同程度の時間スケールで進行する系においては、屈折率変化に対する溶媒環境変化の寄与を実験的に明らかにした例はこれまでない。そこで、まず、溶液反応に伴う溶媒環境の変化をUTL法により測定可能であることを検証するために、代表的な光化学反応の一つであるアゾベンゼン誘導体(4-アミノアゾベンゼン:4-AAB)のアルコール溶液中における光異性化反応の測定を行った。

[UTL法の原理]ガウス型の強度分布をもつパルス光(励起光)を試料に照射すると、光との相互作用によって試料中に励起光の強度分布に応じた空間的な屈折率勾配が生じる。この屈折率勾配は光学的にはレンズと等価にはたらく(過渡レンズ効果)。ここに時間遅延させたプローブパルスを入射し、過渡レンズ効果によるビーム広がりの変化から試料の屈折率変化を測定する(図1)。

[実験]二種類の直鎖アルコール(エタノール、ヘプタノール)溶液についてS2←S0励起条件で4-AABのtrans→cis光異性化反応をUTL測定した。屈折率変化に対する4-AAB分子の寄与を検討するため、過渡吸収スペクトル測定も行った。

[結果と考察]過渡吸収スペクトルを解析したところ、4-AABの光異性化は図2の経路で進行することが明らかになった。エタノール溶液とヘプタノール溶液の過渡吸収スペクトルは強度・時間変化ともよく一致するため、屈折率変化に対する4-AAB分子の寄与は溶媒に依存しないと考えた。一方、UTL測定の結果、S2状態の生成・失活に伴う屈折率変化の大きさには明らかな溶媒依存性が観測された(図3)。溶媒分子のダイナミクスによる屈折率変化を検討し、この信号強度の差はS2状態への溶媒和に伴う溶媒和圏の分極率の変化を反映すると結論した。以上より、溶媒環境の変化に伴う屈折率変化をUTL法により測定可能であることを確認した。

【研究2. UTL法を用いたナノ空間中の分子ダイナミクス計測】

nm程度の微小空間に溶液を閉じ込めると、相互作用や長距離相互作用の空間的な制限によってその構造やダイナミクスが影響を受ける。このような特異的な環境が溶液中の分子のダイナミクスに与える影響に注目し、サイズ制御が可能なナノ空間である水/Aerosol-OT (AOT)/ヘプタン逆ミセル(図4)の中におけるオーラミンO(AuO)の光励起緩和過程をUTL法と過渡吸収法を用いて検討した。

[結果と考察]UTL測定の結果、逆ミセル溶液ではAuOのねじれ電荷分離中間体(TICT-like 状態)の生成に伴って溶液の屈折率がバルク水溶液よりも低くなることが示された。AuOの過渡吸収スペクトルには逆ミセルのサイズ依存性は観測されないのに対して、この屈折率の減少は逆ミセルのサイズが小さいほど増大することから(図5)、逆ミセルそのものの屈折率変化を反映すると考えた。屈折率変化の逆ミセルサイズ依存性は単純な溶媒分子のダイナミクスからは説明できず、またAuO分子と逆ミセルのサイズが同程度(〜1nm)になると顕著になるため、AuOの緩和に伴う逆ミセルの構造変化を反映すると考えた。

【研究3. UTL法を用いた固/液・液/液界面の分子ダイナミクス計測】

液体の界面は生体反応や触媒反応、電気化学反応などの重要な反応がおこるが、そのダイナミクスには分子間相互作用の空間的な不均一性が大きな影響を与える。UTL法を全反射分光法と組み合わせることで固/液・液/液界面における溶液反応ダイナミクスの測定を試みた。

[全反射UTL法の開発]全反射分光法では、石英プリズムを用いて励起光を全反射条件で界面に入射し、界面近傍数100nm程度の領域に発生するエバネッセント場を利用して試料を励起する。全反射分光法の一般的な光学配置では光学系の調整が困難であるため、より容易に装置のセットアップが可能な同軸全反射光学配置を提案した(図6)。はじめに、同軸配置により検出される信号強度を理論的に解析し、一般的な全反射配置と同等の検出感度を持つことを示した。次に、石英/水界面におけるAuO分子の光励起緩和ダイナミクス測定を試み、バルク水溶液中とは異なる界面特有の緩和ダイナミクスによる非常に長寿命の屈折率変化を観測することに成功した。

【研究4. 液体界面低波数振動スペクトル計測法の開発】

波数が0〜500cm-1程度の遠赤外領域の振動スペクトルは、溶液中の分子の並進・拡散・分子間振動などの分子間相互作用を介した運動に起因し、分子の集団的な構造を鋭敏に反映する。溶液の界面における低波数振動スペクトルは分子ダイナミクス研究のみならず、生体膜の構造解析や固⇔液相転移メカニズム研究においても有用であると期待されるが、有効な測定手法が存在しない。そこで、コヒーレント振動分光法と界面非線形分光法を組み合わせた新たな計測法を着想し、装置の開発に取組んだ。

[原理]時間幅が数十fs程度の極短パルス光は不確定性原理により数百cm-1のエネルギー幅を持ち、エネルギー幅以下の波数を持つラマン活性な振動モードを誘導ラマン過程によってコヒーレントに励起する(図7a)。コヒーレント振動は媒質の光学的性質をその固有振動数で周期的に変化させる。そこで、等方的媒質では反転対称性の破れた界面領域でのみ≠0となる非線形感受率χ(2)に注目した。時間分解SHG法を用いてコヒーレント振動によるχ(2)の周期的な変化(ビート信号)を測定し、フーリエ変換することで液体界面の低波数振動スペクトルを得る(図7b)。

[実験]界面活性な色素分子であるクマリン314の空気/水溶液について測定を行ったところ、χ(2)の変化は検出されなかった。これはコヒーレント振動によるχ(2)の変化がバックグラウンドのSH光の強度ゆらぎに比べて微弱であるためであると考え、過渡格子(TG)光学配置とよばれる光学系を用いることでバックグラウンドフリー検出による感度の向上を試みた(図8)。改良の結果、S/B比の大幅な改善がみられχ(2)の過渡変化が検出された(図9)。検出された信号を、励起光の光電場に対するクマリン分子の電子の応答成分に帰属した。

【総括】

本研究では、界面およびナノ空間という不均一な環境における溶液反応ダイナミクス研究における新たな計測手法を提案した。はじめに、反応に露わには関与しない反応分子周囲の溶媒分子のダイナミクスを溶液の屈折率変化として測定することを着想し、UTL法により4-AABの光異性化に伴う溶媒分子の溶媒和ダイナミクスを観測することに成功した。また、UTL法をAOT逆ミセル中のAuO分子の光励起緩和ダイナミクス測定に適用し、TICT-like 状態の生成に伴う逆ミセルの屈折率変化を観測した。さらに、同軸全反射UTL法を開発し、石英/水界面において界面に存在するAuO分子の緩和ダイナミクスの測定に成功した。溶液反応に伴う溶媒環境の変化をfs〜ps時間スケールで明らかにすることは、溶液反応のダイナミクスに対する溶媒の効果を解明する上で必要不可欠であり、定量的な評価を含めて屈折率変化のメカニズムをさらに検討することで、UTL法は界面・ナノ空間領域における溶液反応ダイナミクス研究の有力な手法になると考える。

また、液体界面の低波数振動スペクトルを測定するための手法として、極短パルスレーザーを用いた界面コヒーレント振動分光法を提案した。過渡格子光学配置を用いた測定により、空気/水界面でクマリン314分子の励起光に対する電子応答による非線形感受率の変化を検出した。今後はS/N比を改善していくことで界面における溶液分子の集団的な運動や、生体膜など分子集合体のメソスコピックな構造を実験的に明らかにできると期待する。

過渡レンズ法の原理

4-AABの光異性化ダイナミクス

UTL信号の溶媒依存性(実線:エタノール溶液、破線:ヘプタノール溶液。フィッティング結果から光異性化に伴う屈折率変化を再計算したもの。太線はS2状態の生成に伴う屈折率変化)

AOT逆ミセルの模式図

中間状態の生成による屈折率変化と逆ミセル半径の関係(○: LE状態、■: TICT-like状態)

(a)一般的な全反射光学配置および(b)同軸全反射光学配置を用いたUTL測定

界面低波数振動スペクトル測定法の原理

TG光学配置による信号検出

空気/クマリン314水溶液界面のTG配置による信号

審査要旨 要旨を表示する

本論文は液体中の分子のフェムト秒(10-15秒)〜ピコ秒(10-12秒)といった超高速時間領域におけるダイナミクスを取り扱ったものである。特に、界面やナノ空間といった空間的に不均一な領域で観測される溶媒分子の特異的なダイナミクスに注目し、いくつかの新しい計測手法を開発・提案している。また、これらの手法を用いることで従来の手法では観測することが困難であった現象を明らかにした。

本論文は全体で6章から構成される。第1章では研究背景として、界面・ナノ空間領域に存在する液体分子の超高速ダイナミクスとその計測手法の現状を概観し、本研究で開発を行った3つの計測手法(超高速過渡レンズ (ultrafast transient lens: UTL) 法、全反射UTL法、界面コヒーレント振動分光法)とそれぞれの手法が測定対象とする物理現象について簡単に説明を行っている。

第2章では液体中の化学反応に伴う溶媒分子のダイナミクスの測定に取組んでいる。溶液の屈折率変化を数百フェムト秒の時間分解能で測定するUTL法を溶質分子の状態変化を測定する過渡吸収法を組み合わせた新しい方法論を提案した。有効性を確認するために、これらの手法をアルコール溶液中におけるアゾベンゼン誘導体分子の光異性化反応のダイナミクス測定に適用した。その結果、アゾベンゼン分子の光励起状態の生成に伴うアルコール分子の数百フェムト秒時間スケールの溶媒和ダイナミクスを観測することに成功した。一方で、従来用いられてきた溶液反応ダイナミクスの測定法ではこのようなダイナミクスは検出されず、溶液反応ダイナミクス測定におけるUTL法の有用性が示された。

第3章では第2章において提案したUTL法と過渡吸収法を用いた計測手法をナノ空間領域に閉じ込められた溶液のダイナミクス測定に展開している。内部の水相の大きさをコントロールすることができるAOT逆ミセルを測定試料とし、ナノ空間の大きさの減少に伴う水分子のダイナミクス変化を明らかにすることを目的として色素分子の光励起緩和ダイナミクスの測定を行った。その結果、予想に反して、UTL信号に色素分子のダイナミクスからも水分子のダイナミクスからも説明することができない信号成分が含まれることを見出した。そこで、色素分子と逆ミセルを形成する界面活性剤 (AOT) 分子との相互作用を検討した。緩和過程に伴って逆ミセルの構造が変化するモデルを提案することで、UTL信号と逆ミセルの大きさの関係を定性的に説明することに成功した。以上から、ミセル・逆ミセルやベシクルといった分子集合体からなるナノ空間中の化学反応では、従来あまり考慮されることがなかった、ナノ空間を構成する分子のダイナミクスも考慮する必要があることが示された。

第4章では、液体の界面領域における化学反応ダイナミクスを測定することを目的として、全反射分光法とUTL法を組み合わせた全反射UTL法の開発に取組んでいる。従来の全反射分光法で用いられてきたプローブ光を界面に対して垂直に入射する光学系ではなく、プローブ光を励起光と同軸にして界面に入射する同軸全反射光学配置を提案し、石英/水界面における色素分子の光励起緩和反応の測定を行った。その結果、静電的相互作用によって界面に吸着した色素分子の緩和ダイナミクスを観測することに成功した。また、界面への吸着に伴って緩和過程が強く阻害されることを確認した。全反射UTL法は時間分解吸収法の適用が困難な固/液界面系における無輻射ダイナミクスの測定手法としても有用である。また、将来的には固/液界面だけでなく液/液界面系への適用も期待される。

第5章では、現在有効な測定手法がない液体界面における分子の並進・回転や分子間振動といった運動を観測するための新たな計測法の開発に取組んでいる。コヒーレント振動分光法と第二高調波発生法を組み合わせた界面コヒーレント振動分光法を着想し、測定装置を開発した。はじめに半導体表面の格子振動モードの測定を行い、界面領域の低波数振動スペクトル測定が可能であることを確認した。次に、空気/水界面における色素分子の回転運動の観測を試みた。過渡格子光学配置を用いることで装置の感度を大幅に向上させることに成功し、色素分子の電子系の応答を観測することに成功したが、ノイズの影響によって目的とする分子運動を観測することはできなかった。そこで装置のノイズ源を検討し、S/N比を改善するための改良の指針を示した。

第6章では全体の結果を総括し、今後期待される展望について述べている。

上記の様に、本論文では界面・ナノ空間領域における液体の超高速ダイナミクスの新たな計測手法を開発・提案し、従来の手法では観測が困難であった現象を明らかにした。従って,本論文は博士(科学)の学位を授与できると認める。

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