学位論文要旨



No 119553
著者(漢字) 水野,達朗
著者(英字)
著者(カナ) ミズノ,タツロウ
標題(和) 明治文学のエマソン受容 : 透谷、独歩、泡鳴
標題(洋)
報告番号 119553
報告番号 甲19553
学位授与日 2004.04.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第503号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 教授 瀧田,佳子
 岐阜女子大学 教授 亀井,俊介
 大手前大学 教授 川本,皓嗣
内容要旨 要旨を表示する

 エマソンの著作が、明治期の文学者に広く受け入れられていたことは、よく知られている。従来の受容史研究では、例えば北村透谷に関しては、「宇宙の大調和」を説くエマソンに対する、「自然からの乖離・孤立の意識」に苛まれた透谷、「楽天主義」のエマソンに対し、「厭世」の透谷という形で、両者の落差が指摘されている。国木田独歩の場合は、エマソン受容が、「自己の人格的独立」との関連で、捉えられている。岩野泡鳴に関しても、エマソンの「唯心論」と訣別し「自然即心霊」説を唱えたこと、エマソンの「楽天主義」を批判し、「悲愁」の意義を説いたことが強調されている。これらはみな、唯心論、楽天主義、人格の独立等、思想的・人生観的な視点で、エマソン受容を捉えるものといえる。これに対し本稿では、明治文学のエマソン受容を考える際、伝記と思想の受容ではなく、文体と表現の受容に焦点を合わせ、受容の現場を、より具体的かつ詳細に記述することを目指す。

 エマソンのテクストでは、即物的な記述と理念的な記述とが交錯しているために、前後の接続が唐突になり、論理の整合性に欠けることにもなる。文学史の観点では、「矛盾した反対の意味の間の緊張」という「近代象徴主義の最も面白い特質」を、エマソンに認める意見がある。また哲学史的には、「相対性と非連続性の問題に取り組んだ」点で、「二十世紀に向け大胆に踏み出した」とされる。だがエマソンが、飛躍を交えながらも、強固な世界観を主張していることも確かであり、この点、「矛盾を最大限に活用」せず、「超越的な統合の内に慌てて退却」したとか、「『一』に対する確信をも維持」し、「片足は過去に置いたままにした」とか、指摘される通りである。従来の受容史研究が注目した、唯心論、楽天主義、人格の独立等は、「統合」と「確信」の果てに生れた思想・人生観であるが、ではそこに至る過程としての錯綜した文体は、明治期の文学者にどう受容されていたのだろう。

 本稿では、エマソンに対する関心を支えた、時代に固有の問題意識も重視する。現代の比較文学では、影響や系譜よりも寧ろ、何を「文学」と見るかという前提、即ちある表現が「文学」と認知されるために守らねばならない約束事や規範の総体が、文化や時代ごとにどう異なるかという問題が、重視されている。外国文学の受容研究を、この問題領域に接続することで、「近代的」な文学規範の形成期に、エマソンが有した多面的な意義が明らかにできる。端的に言えばエマソンは、「自己」や「世界」をありのままに描くことを求める規範意識に対し、描かれた対象にはいかにして意味が生じるのか、という問いを投げかけている。エマソン受容の諸相を検討することで、自己表現や現実描写に内在する問題が浮き彫りにできる。非連続的な諸要素が、連続的に統合されるテクストの特徴は、エマソンにおける「自己」と「世界」の問題に対し、いかなる視座を開いてくれるだろう。

 まず表現主体に関しては、「詩人は部分的な人間の中で完全な人間を代表し、自分の富ではなく万人共通の冨を私達に伝える」と「詩人」(『第二論文集』)に言う、「詩人」の問題がある。詩人と普通の人は、区別されてはいるが、詩人が特別なのは、普通の人と異なるからでなく、逆に「万人共通」の人間性を体現しているからである。そこでエマソンの「詩人」では、卓越した存在としての面と、万人の代弁者としての面との関係が、焦点となる。

 『自然』(一八三六年)では、最初は人全般に関し、自然からの隔絶が語られる。次に特別な「詩人」に関し、自然との精神的な交感が説かれ、この交感が最後に、人全般に拡張される。結果、精神的な普遍性の領域が形成されるのである。個別の詩人に担われた精神性に、万人共通の普遍性が付与される、非連続を孕んだ連続のメカニズムが、原文の急所といえるだろう。こうして、詩人の孤立という「ロマン派神話」に対し、詩人の能力を「誰でも手の届くもの」とした、「アメリカ的な変種」が提示される。だが『エマルソン』で『自然』を紹介した北村透谷は、詩人の個別性に拘泥し、普遍に至る道を見落としている。原文に隠された非連続に直面したのである。このあと、『第一論文集』(一八四一年)の「大霊」では、『自然』で獲得された、万人共通の精神性を前提に、今度は、平凡な個人の側からこの普遍性に飛躍するプロセスが追求される。「部分的な人間」としての凡人が、「万人共通の富」に目覚める過程が、眼目とされるのである。エマソンは「大霊」で、平凡な日常のある瞬間、個人の裡に「共通の心」が流れ込むと説いた。特別な「瞬間」を設定することで、個別と普遍とを連続させたのである。ここで国木田独歩は、俗人としての個別的な生を離れられず、普遍的な精神性との断絶を実感する。彼もまた、個人的な生活に普遍的な精神性が付与される、飛躍を孕んだ連続のメカニズムに直面し、躓いたと言える。

 なお『代表的人物』(一八五〇年)では、個別と普遍が「代表」の概念により「調停」される。植物では諸器官の形態を「葉」が代表し、動物では「背骨」が代表する。個別の事物の類似から、それらを集約する原型が抽出されるのだが、これは人間にも適用され、典型的な人物が集団を代表する。岩野泡鳴はここで、個別の類似には注目したが、普遍的な原型性、典型性に飛躍するのを控えた。やはり、個別と普遍の非連続に直面したのである。

 次に世界認識に関し、エマソンは『自然』で、「理性という高次の働きが介入してくる迄は、動物の目がみごとな正確さで、明確な輪郭と鮮やかな表面とを見ている」が、「『理性』が刺激され、更に強力な視力を得ると、輪郭と表面は透明になりもう見えなくなる」と説いている。また「詩人」(『第二論文集』)でも、「自然の事物はどれも精神的な力に対応しているので、いまだ知力の及ばない謎めいた現象があればそれは、観察者の内部でこれに対応する機能が、まだ活性化していないためである」と言う。「視力」を高めれば、誰にも世界の真相が見える、見えないのは修練が足りないからである。そこで、世界の「輪郭と表面」が見える状態と、世界が精神的な相貌を現わす状態との関係が、焦点となるだろう。

 エマソンのトランセンデンタリズムは、ユニテリアン派から派生した。人間の原罪を説く正統派に対し、ユニテリアン派は、人間の能力を信じ、修養による向上を説く。無条件の帰依を説く正統派に対し、ユニテリアン派は、自然の認識を通して、造物主の存在を証そうとする。合理的な認識を、聖書の啓示と適合させたのである。ここで、修養と自然は結び付いていない。そこでエマソンは『自然』で、唯心論を媒介に両者を結び付ける。聖書ではなく、自然自体に根源的な意義を見出し、自然がどう見えるかを、修養の度合いを測る尺度に据えたのである。透谷が自然の認識を軽視し、霊的な直感にのみ唯心論の本領を求めたのは、自然と唯心論の結び付きに躓いたものと言える。またエマソンの場合、「『理性』の直観と、経験される事実とをいかに調和させるか」が焦点となる。「詩人」でも、経験的な認識から、「神聖」なる直観に飛躍する道を説くが、独歩はここで透谷とは逆に、事実の認識に固執し、そこから精神的な領域に移る道を見出し損ねている。即ち独歩も、透谷とは別の形で、自然と精神との非連続に直面し、躓いたものといえるだろう。

 エマソンは「唯名論者と実在論者」(『第二論文集』)で、「宇宙の何処でも、この昔ながらの両極性、造物主と被造物、精神と物質、正と邪の対立があるばかりで、ここではどんな命題に関しても肯定、否定の両方が可能である」と言う。安定した到達点のない、相対主義的な感覚が窺える。泡鳴は『自然』からも、「修養」のプロセスには到達点がないことを読み取る。自然と精神の非連続を見据え、両者が交錯する境界に滞留し続けたのである。

 米国では、エマソンがポストモダンの文脈で再評価されている。「非連続」の問題も、ポストモダンの文脈で再発見された、複線的で多様なエマソン像に繋がる。この動きは従来エマソンを、精神性や人間性の唱道者としてのみ捉えてきたという反省から、テクストに胎まれる非連続にも眼を向けようとしたものといえる。逆に言うと米国では、意識的に不自然な面を強調する必要があるほど、精神性や人間性に対する関心が、テクストの読解を呪縛していたことにもなる。だが明治の文学者は、まずテクストの非連続性に直面し、苦労した。受容の現場でテクストは、自明化された精神的、人間的な意味を失い、不可解な謎の塊として立ち現われる。本国の文脈では死角に隠れる要素が、浮き彫りにされるのである。即ち私達は、非連続性に躓いた透谷や独歩、泡鳴の軌跡を通して、逆に、不自然なものが自明に連続していく、原文の不思議さを改めて認識せざるを得なくなるだろう。

 エマソンは、「新しい資本制的な秩序における、精神的・感情的なジレンマを言い表わす言葉」を提供した人物として位置付けられる。透谷、独歩、泡鳴という明治の文学者も、「新しい資本制的な秩序」の下で、確かな規範が見失われ、不確実な自己や世界の中に、精神的な意味を模索せざるを得ない「ジレンマ」に直面したと思われる。彼等の読解が、原文の非連続を浮き彫りにするのも、そのためといえる。とはいえ原文では、非連続は乗り越えられ、精神的な普遍性が確保される。エマソンは、「アメリカの知的、文化的な生活の核心に横たわる逆説に、明確な表現を与えた」存在でもある。非連続な要素を強引に統合しながら、普遍性に辿り着こうとする衝迫の強さは、明治の文学者が躓いた「アメリカ」的なものといえるだろう。同じ「資本制的な秩序」の下、外国としての「アメリカ」と向き合う私達も、右の連続と非連続の狭間で、新しくエマソンを発見することになるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 水野達朗氏の「明治文学のエマソン受容―透谷、独歩、泡鳴」は、19世紀中葉のアメリカの思想家R・W・エマソンの著作が、明治期日本の文学界にいかなる影響を及ぼしたのかを、北村透谷、国木田独歩、岩野泡鳴等の事例に焦点をあてて論究したものである。エマソンの難解なテクストをみずから読みときつつ、透谷、独歩、泡鳴ら明治期の文学者たちが、テクスト読解の場においてどのようにエマソンを理解し、これを自らの思想的営為にどう生かそうとしたのかを実証的に跡づけた労作である。

 水野氏の論文の特色は、思想の受容として語られる傾向にあった、明治期におけるエマソンの影響研究を、テクストじたいの読みに立ち戻って、エマソンのテクストそのものの受容として考え直した点にある。論証の過程では、現行の数種の翻訳の問題点にも言い及びながら、エマソンのテクストの行文に寄り添う形で、それが、どのような読みと解釈をまねき寄せうるものなのか、いくつかの可能性が慎重に考量されており、受容の場における偏差が鮮やかに浮き彫りにされている。これは、従来行われてきたエマソンの受容研究の水準を抜く、まことに手堅い学問的手続きであり、比較文学研究の一つの範例を示すものであると評価できる。さらには、透谷、独歩、泡鳴らによるエマソン解釈を通して浮かびあがる、エマソンのテクストに内在する特色も指摘されており、比較文学研究上の成果を、広くエマソン研究へと還元しうる視野を孕んでもいるとも言えよう。

 本論文は透谷、独歩、泡鳴それぞれを論じた三部から成り、これに序章と終章及び詳細な注と文献表が付されている。以下、論文の構成にしたがって内容を紹介する。

 序章において水野氏は、まずエマソンという思想家の特色と、明治期の文学者の関わりを整理する。『自然』『第一論文集』『第二論文集』『代表的人物』等の著作で知られるエマソンは、ユニテリアン派の牧師として出発し、個人の独立と精神の修養を重んじるトランセンデンタリズムの立場を明確にして、合理的な認識と宗教的啓示との接合を図った。こうしたエマソンの思想は、宗教家や社会改良家など広く明治期の知識人に注目されたが、ことに文学の分野に深い影響の跡を残したのは、文学とはいかにあるべきものか、広義の「詩人」とはいかなる存在であり、どのような精神を体現すべきであるかという、時代の根元的な関心に応えると考えられたからであった。その上で、文学者それぞれの志向に応じて、様々な思想的傾向がエマソンに付会された、というのである。

 第一部は、北村透谷の『エマルソン』におけるエマソン理解と、そこに至るまでの軌跡を、特に「人生相渉論争」のなかに跡づけようとしたものである。明治二十六年、透谷の「人生に相渉るとは何の謂ぞ」によって、山路愛山とのあいだに戦わされた議論は、巖本善治、徳富蘇峰、植村正久、森鴎外、坪内逍遙、平田禿木らを巻き込んだ論争へと発展する。そこでは、文学に社会性を求める功利主義的立場や、精神性・道徳性を重視する立場、さらには文学を宗教や道徳から独立させようとする立場が相対立していたが、エマソンは、いずれの立場からも自説を補強するテクストとして引用、参照されている。そうしたなかで透谷は、文学の思想的、社会的文脈を意識した立場を貫いており、これが彼のエマソン解釈にも、大きな影を落としている。水野氏は、『エマルソン』に見られるテクスト解釈の個々の事例に則しながら、とくに、透谷が文学表現における「理想」と「現実」との融合を図ろうとする論理のなかに、エマソン理解のある限界を見ることができることを鋭く指摘している。

 第二部は、国木田独歩の日記『欺かざるの記』と、「源おぢ」「武蔵野」「忘れえぬ人々」等の小説における、エマソン受容の跡を論じたものである。『欺かざるの記』に記される自己形成の過程において、独歩は「詩人」を志向する一方、平凡な自己のありようをも見つめざるをえず、感情の高揚した瞬間と、日常的な時間のあいだの断層を自覚する。自己を語り、自然を記述することにいかなる意味があるのか、これに「詩」としての価値を与えるものは何かに悩むのである。エマソンは、そのような内面の葛藤に表現を与えうる上で、独歩に深い影響を与えた。自己の真実が普遍性を持ちうるにいたる契機を、独歩はエマソンのテクストに発見したのである。そうした、卑俗な事物に「神聖さ」を見いだそうする態度は、「小民」を描く独歩の短編の語りにも通底する、と水野氏は論じている。

 第三部は、岩野泡鳴の『神秘的半獣主義』と、いわゆる『泡鳴五部作』を中心に扱い、泡鳴の「表象」説と「刹那主義」におけるエマソンの影響の跡を辿っている。泡鳴の「表象」説では、事物のあいだに照応関係を見いだしてゆく過程と、照応関係の変容そのものに焦点があてられており、「刹那主義」においても、外部世界と自己の精神とが対応する「刹那」が重視される。このような思想の成立には、エマソンのテクストと格闘した泡鳴が、精神世界と外界の事物との交錯をめぐって、相反する記述が唐突に接合されるエマソンの文体そのものの機微に触れえたところが大きいと、水野氏は主張する。そのような綿密な読みから、泡鳴は、従来エマソンの思想に関して言われてきた「唯心論」や「楽天主義」に収まらない、多面的な側面を見いだした。『泡鳴五部作』は、そのようなエマソン理解に立ち、ある「刹那」に世界が変容し、現実世界と想像の世界が二重化するさまを一つの主題として描き出した、とするのである。

 終章は、エマソンの文体に見られる特徴を「非連続」と表現することで、改めてエマソンのテクストの特質と、その思想を論じたものである。この章では、アメリカでのエマソン理解の新しい傾向を指摘しながら、それがエマソンの「非連続」な文体そのものへの注目にはじまることが強調されている。すなわち、エマソンのテクストと取り組んだ明治期の文学者、とくに泡鳴の読みと理解が、エマソン研究の現状をある意味で先取りしていることが確認されるのである。これは、地道な影響研究が、広くテクスト理解に貢献しうることを示すものとして、比較文学研究の可能性を再確認するものといえよう。

 以上のように要約される水野氏の論文に対し、審査委員からは、以下のような評価、批判が寄せられた。まず、水野氏がエマソンのテクストを自ら綿密に読み解き、日本におけるエマソン受容の研究において、従来不明とされ、また等閑にされてきた多くのテクストの出典を明らかにした点が、高く評価された。思想の受容としてではなく、テクストそのものの受容の場を、読解、翻訳のレベルで再現し、明治文学へのエマソンの影響に関する創見に満ちているという意味で、水野氏の労作は、今後、受容研究の基本文献たるを失わないであろう。一方で、水野氏の叙述にやや過度に禁欲的な面があるために、明治期におけるエマソンの全体像が、うまく浮かびあがってこないという指摘もなされた。それは「時代」や「人」への顧慮が足りないためでもあろうし、ソローやホイットマンといった、エマソン受容の文脈を考える上で、必須の文学者たちへの目配りに欠けているためでもあろう。時代と思想の関わりを、総合的な広い視野から考察することが課題であるし、エマソンを受容した透谷、独歩、泡鳴らの詩を論じることも、あるいは必要であったに違いない。また、エマソンを論じる際、アメリカ文学研究における共通理解に依拠することが少ないために、かえって読者のとまどいを招く結果に陥っていることにも留意すべきであろう。

 テクストの分析と叙述に繰り返しが多く、同じ引用が論文中に数度行われることがある点について、審査員全員から苦言が呈された。また、論文全体がほぼ同じ密度で書かれていることに関し、読者へのさらなる配慮が必要であろうとの意見も表明された。

 細部については、文献注の書き方、引用文の句読法、固有名詞のカタカナ表記、不適切な訳語、英文解釈の誤り等、いくつか指摘があった。ただし、これらは瑕疵というべきものであって、水野氏の挙げ得た功績を何ら損なうものではない。

 したがって、本審査委員会は、水野達朗氏に対し博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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