学位論文要旨



No 119554
著者(漢字) 中島,崇文
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,タカフミ
標題(和) ルーマニアにおける国民統一国家の建設 : 1925年の行政統合法に至る過程
標題(洋)
報告番号 119554
報告番号 甲19554
学位授与日 2004.04.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第504号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柴,宜弘
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 助教授 石田,勇治
 東京大学 教授 木畑,洋一
 静岡県立大学 教授 六鹿,茂夫
内容要旨 要旨を表示する

 第一次世界大戦の結果、東欧においては国境線が大きく変更し、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、ギリシャは複数の国家に属していた地域から形成された国家となり、国内に複数の制度が同時に存在するという事態が生まれた。

 本稿で取り上げたルーマニアではロシア、オーストリア、ハンガリーからそれぞれベッサラビア、ブコヴィナ、トランシルヴァニアといった地域を1918年という一年のうちにまとめて併合することになったため、状況はより複雑であった。ルーマニア人の比較的多いこれらの地域がルーマニア王国と統一したということで、国民統一国家が宣言されたがその実態は統一国家とは程遠いものであった。本論の課題はこうした新国家建設を従来あまり検討されてこなかった地方行政制度の統合という観点から分析しようというものである。具体的には1918年の統一から1925年に行政統合法が採択され、施行されるまでの時期を扱った。

 国土を拡大したルーマニアの最初の包括的な地方行政に関する法律は1923年憲法の規定と対応していたが、1925年になってようやく採択された。実際にこの法律によって国内の各地方の異なる地方行政制度はようやく一本化され、国民統一国家としての体制が強化されたのである。但し、行政統合法以前にも1919年以降に様々な改革法案が作成され、その中には行政統合法に採用された規定も見られる。また、法律を制定した国民自由党内部でも1921年から既に法案作成の準備が進められていた。

 行政統合法の大半の条項は1926年に入ってからようやく適用され始めたが、法律に基づく新しい地方行政当局が成立するためには同年2月のコミューン議会選挙と6月の県議会選挙の実施を待たなければならなかった。こうしてこの法律が規定しているところの行政的統合の過程は概ね、法律が採択された約一年後の1926年の夏頃に終ることになる。法律の適用に関しては各地に派遣された行政視察官の報告書によっても確認されている。

 採択された行政的統合の方法はマルクも述べているように、1918年に「統一した諸地域に旧ルーマニアに存在していた組織を拡大する」ことによって特徴付けられる。但し、旧王国の制度の代りにその他の地域の制度や用語が採用された箇所も若干ながら見当たる。同時に多くの地名もルーマニア語化されており、実際にはこの法律の施行にあたっては「ルーマニア化」の要素も含まれていたことが伺える。これは少数民族の割合の大きい町からルーマニア人の割合の大きい町へ県庁所在地を移したり、オーストリア=ハンガリー時代に廃止されたルーマニア系住民が多数を占める県を復活させたりするというような細かい点でも見てとれる。また、チェコスロヴァキアと違って少数民族の自治区を認めなかったが、その他、少数民族の多い大都市でこれらの民族が市長になるのを妨げるような措置が取られたりしたという例も指摘できる。

 行政統合法は地方分権化の推進と国民統一国家の強化という一見相反する二つの原則に則っていた。しかしそもそも完全なる地方分権、あるいは完全なる中央集権というものはありえないのであり、この法律は一方では大都市以外の首長は住民の直接選挙で選ばれるといった民主的な要素を含みつつも、他方では大都市において市長は最終的には中央政府が選ぶものとしたり、ブカレストが任命する県知事によって各県を統制しようとしたり、独立した立場をとることを恐れて州は設置しなかったりといった措置がとられた。こうして「政治的中央集権かつ行政的地方分権」という文句に象徴されるように、双方の原則のバランスに配慮した法律となった。チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアと異なり、ルーマニアではその後今日に至るまで、国内の地方が自発的に分離していくということはなかったが、このような状況は第一次世界大戦後に実施されたこの地方行政改革にある程度負っているということもできるであろう。

 地域別で見ると、旧王国はそもそもトランシルヴァニアを獲得するために第一次世界大戦に参戦したにもかかわらず、皮肉なことにこの地域の統合が最も困難であった。1918年以降にそれぞれの地域の利益を代弁する必要性から結成されたベッサラビアやブコヴィナを代表する政党が1923年までに国民自由党などの旧王国の政党に吸収されて消滅したのに対し、トランシルヴァニアの国民党は他の地域の政党に従属する形で合併することを許さなかった。いくつかの旧王国の政党との合併は行われたが、いずれも国民党が対等以上の立場にあるものでしかなかった。そうしたことから、ベッサラビア農民党やブコヴィナ民主党がまとめて「統一諸党」と呼ばれたのに対し、国民党は「地域主義的」であるとの非難を浴びることが多かった。また、1923年に旧王国の国民自由党が採択した憲法よりも、1918年に自分たちが採択したアルバ・ユリアでの決議の方がより良いものと考えていた。大まかに言えば、大統一後のルーマニアの政治は国民自由党と国民党の対立が最も大きな側面であったが、換言すればこれは旧王国とトランシルヴァニアの対立であったのである。今日においても「トランシルヴァニアはその住民の真面目さのためにルーマニアをヨーロッパに引き込む「牽引車」になるべきである」との声は聞かれるが、こうしたトランシルヴァニア人の態度は1918年以降の時期から見られたものなのである。しかしながら、こうした国民党も1926年には同じくらいの勢力を誇っていた旧王国の農民党と合併し、遂に名実ともに全国政党となった。つまり、行政的統合が実現した1926年には最大の地方政党も消滅し、これを持って政治面でも国家は統合されていたのである。

 法令集の編纂者として知られていたコンスタンティン・ハマンジウは、統一国家を実現したイタリアでは、根拠があったかどうかはともかくとして、旧来のイタリアの国境線の中に再統合された諸地域の法制度はイタリア国家の諸制度より優れているという確信が存在していたが、フランスもそうであったという。彼によれば、ルーマニアでもこれらの国々の影響を受けて、ルーマニアの法制度は併合された諸地域の法制度より劣っており、これらの諸地域に拡大されえないという確信が生まれた。その他、「個人の伝統や誇りというものはそれ自体地域主義的な考えをもたらし、法律の統合に向けた改正に反対する」という、併合された地域のある大学教授の言葉を紹介している。祖国を完全な形にした諸地域のとりわけ指導者層は、旧王国の法制度を丸ごと受け入れたらそれらの伝統の放棄になると考えていた。彼らは統合を望んでいるが、この統合はこれらの地域の法律を基礎にしてなされるべきなのであるというが、行政統合法の審議の過程における諸地域の政治家たちの態度を見ても、このことは当てはまっているといえる。

 地方行政に関する法律はその後も度々改正されたが、行政統合法が実現した全国で単一の行政制度というものは今日に至るまで維持された。政治的、行政的側面からすると確かに1920年代半ばでルーマニアは国民統一国家として強化されたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文はルーマニアの歴史研究において、従来研究が抜け落ちていた国民統一国家建国時の旧ルーマニア王国(ワラキアとモルドヴァ)とトランシルヴァニア、ベッサラビア、ブコヴィナといった地域間の関係に注目し、4地域の地方行政の末端組織である村レベルにまでおよぶ統合がいかになされていったのかを、ルーマニア語の未刊行史料のみならず、官報や国会議事録、当時の新聞、法令集を駆使して論じたものである。

 本論文が扱う時期は1918年のルーマニア統一から1925年に行政統合法が採択され、施行されるまでであり、現在でもルーマニアがかかえる中央集権と地方分権の問題に政治的・法的・制度的な基礎がすえられた重要な時期である。この論文では、行政統合法が施行されるまでの時期を5章にわけて、丹念にその過程を検討している。

 第1章は本論文が扱う時期の前史にあたる章であり、1918年以前の旧ルーマニア王国、ロシア帝国支配下のベッサラビア、ハプスブルク帝国統治下のブコヴィナとトランシルヴァニアの政治状況および行政制度が概観されている。

 第2章では、1918年の国民統一国家に際して、ベッサラビア、ブコヴィナ、トランシルヴァニアのルーマニア人組織がどのようにして旧ルーマニア王国との統合に進んでいったのか、統一の条件に焦点をあてながらダイナミックに描き出している。

 第3章では、国民統一国家建国後の政治状況が各地域の諸政党の再編の過程を通じて詳細に分析されている。旧ルーマニア王国最大政党の国民自由党が統一国民国家の建国により地方政党となってしまう事例、これに対して1918年に結成された人民同盟(1920年に人民党と改称)が全土規模の正当に変容する事例、またトランシルヴァニアの地域政党である国民党が全国政党化する事例がとりあげられる。

 第4章では、国民統一国家建国直後に各地域において暫定的に成立していた地方政府の諸機関が急速に中央集権化されてゆく過程と、中央集権化に対する各地域の反応について詳述されている。この時期に作成された数種類の地方行政法案についても検討が加えられている。

 第5章では、1922年に成立した国民自由党政権のもとで、新憲法が制定され地方行政改革が進められてゆく過程が叙述され、1925年にようやく採択された行政統合法の国会審議の様子が詳細に分析されている。また、1926年に行政統合法が施行されてゆく過程についても言及されている。

 終章では、今日に至るまで単一の行政制度が維持されているルーマニア国家統合の基礎が行政統合法の成立にあったと結論づけている。行政統合法は中央集権と地方分権との双方のバランスを巧みにとった内容の法律であったとの評価が与えられ、ルーマニアの地方行政改革の成功が、チェコスロヴァキアのスロヴァキア問題やユーゴスラヴィアのクロアチア問題といった分離主義傾向の強い問題を生み出さなかった主たる要因であることを強調している。

 本論文の研究上の貢献として、次の2点を指摘できる。一つはルーマニア語の未刊行の史料を含む、現地のさまざまな史料や文献を駆使して、行政統合法の成立に至る過程を丹念に分析したことである。もう一つはルーマニアの地方行政改革の過程を、同じ問題をかかえていた東欧諸国との比較の視点を入れて考察しようと試みた点である。この結果、本論文は従来のわが国の東欧地域研究、とりわけルーマニア研究を大きく越える成果を生み出したのみならず、研究視角の斬新さという点から現地ルーマニアの研究にも一石を投じる貴重な研究だと評価することができる。

 審査では、(1)ルーマニアの国家統合に果たした国王の役割の有無についての説明が不足している、(2)今日的視点から考えて、統一国家建国直後の時期に連邦制を導入する動きはなかったのかという疑問、(3)行政統合法による法的な統合の姿は分析されているが、統合の実態が見えてこない、(4)諸地域の政党や政治家の統合に対する見解が明確に伝わってこない、(5)ルーマニア人、モルドヴァ人、トランシルヴァニア人という表現のアイデンティティーの問題、(6)政治的・法的な統合だけにとどまらず、文化や教育面での統合にも目配りした総合的な国民統合の分析がほしかった、などの本論文の問題点や今後の課題を含めた指摘がなされた。

 しかし、審査委員会は指摘された問題点は本論文の研究上の貢献を否定するものではなく、本論文が博士論文としての水準を十分に超えていると判断した。したがって、審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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