学位論文要旨



No 119561
著者(漢字) 関,由起子
著者(英字)
著者(カナ) セキ,ユキコ
標題(和) 注射事故発生の潜在的条件に関する実証研究
標題(洋)
報告番号 119561
報告番号 甲19561
学位授与日 2004.04.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2365号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅田,勝也
 東京大学 教授 花岡,一雄
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 助教授 錦戸,典子
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 近年、医療事故の発生に伴い、医療におけるリスクマネジメントの重要性が指摘されている。医療事故は、経営管理的な問題等の組織要因が相互作用しながら長期間潜伏し、顕現化した結果発生する組織事故であるため、事故発生を防止するには医療従事者が惹き起こした個々のエラーを、事故の原因ではなく結果として捉える「組織モデル」の考え方が重要となる。Reasonの組織事故モデルによれば、人間は常にエラーを起こすが、その全てが事故に至らないのは多重の防護が段階的に機能するためである。しかし、現場で業務を担当する人々によるエラー(直接的失敗)や、人にエラーを誘発させる条件やシステムに存在する防護の弱点(潜在的条件)、組織による間違った意思決定や保守体制不全などの要因(組織要因)が重なると事故の発生に至る。直接的失敗は潜在的条件の影響を強く受けるため、人々のエラーを誘発させない組織・体制・環境を作り上げ、防護の欠陥を改善するなどの潜在的条件の整備を行い、さらにはその潜在的条件を作り出す組織要因を改善することが事故防止対策の主眼となる。しかし、日本の医療現場における事故発生の潜在的条件や組織要因に関する研究は少なく、また潜在的条件を検討したものでも業務改善及び防護の強化を目的とした業務分析に関する研究は少ない。そこで本研究では、潜在的条件に着目し、日本の医療施設において注射に関するエラーを対象事象とし、第一に、対象病院・病棟の業務分析から業務過程に組み込まれている防護内容を明らかにする、第二に、事故事例の質的分析から防護の機能不全に影響を与えた潜在的条件を検討する、第三に、エラー誘発条件の中でも最も重要といわれる作業現場要因とエラー発生との関連性について量的分析により検討することを目的とした。

方法

 調査対象は4病院14病棟、その病棟に所属する看護師とし、3種類の調査分析を行った。

1. 業務分析:業務過程と防護内容を解明するために、業務に関する資料閲覧、業務観察、業務に関する対象者への聞き取り等を行い、業務段階毎に分類した注射業務過程を明らかにし、その段階における防護内容の抽出を行った。その後、注射業務過程と防護内容のマトリックスを作成し、インシデント事例分析のツールとした。

2. インシデント事例の分析:潜在的条件を明らかにするために、注射に関するインシデント事例のレポートを提出した看護師に面接を行った。面接後、文書化した面接内容を元にインシデント事例で生じたエラーを抽出し、注射業務過程と防護内容のマトリックス上に分類した。その後、マトリックス毎にエラー発生の潜在的条件を、既存の研究結果を参考に、作業環境(work environment)、チーム要因(team factors)、個人要因(individual factors)、業務要因(task factors)、患者要因(patient characteristics)の側面から検討した。

3. エラー発生に影響する作業現場要因に関する量的分析:記名自記式調査票を1病院の対象病棟に所属する看護師全員に配布した。作業現場要因に関する調査項目は、勤務帯(日勤、準夜勤、深夜勤)、業務量(注射実施患者数、看護必要度)、多忙(多忙感の有無、多忙による看護業務の遅れの有無)、疲労(勤務前疲労感〔100mmのVASで測定〕)、勤務前の睡眠時間、経験(看護師経験年数、当該病棟経験年数)である。エラー発生は、勤務中に発生したヒヤリ・ハット(ある医療行為が患者には実施されなかったが、仮に実施されたとすれば何らかの被害が予測される事象、あるいは患者には実施されたが結果的に被害がなく、またその後の観察も不要であった事象)の有無によって把握した。調査期間は連続する10日間とし、各看護師が勤務した日の状況の記載を求めた。看護師88名(有効回答者率97.8%)から回答を得、調査期間中の総勤務日数534人日のうち525人日分のデータ(有効回答率98.3%)を分析対象とした。エラー発生に関連する作業現場要因の検討には、従属変数をヒヤリ・ハット発生の有無(なし=0、あり=1)とし、独立変数である各作業現場要因を段階的に投入する多重ロジスティック回帰分析を用いた。また、一人の看護師が複数回回答する繰り返し測定のデータであるため、一般化推定方程式を用いてロジスティック回帰分析のパラメータ推定を行い、看護師の個人内相関を考慮した。

結果

1. 業務分析の結果:基本の注射業務過程には、8つの業務段階((1)指示出し、(2)指示受け、(3)薬剤払い出し、(4)薬剤の照合確認・準備、(5)情報収集・実施計画立案、(6)薬剤投与前確認、(7)薬剤投与、(8)薬剤投与後観察・管理)があり、この段階順で注射業務が行われていた。しかし、この基本の業務過程は臨時、緊急、時間外、変更、中止の指示には適用できず、その場合には他の多数のルールを用いなければならなかった。指示内容及びその記載方法は病院、診療科、病棟、医師毎に異なるため、さらに暗黙のルールが多数存在した。「薬剤投与」以降の段階は、生じたエラーがインシデントに直結するにもかかわらず、2名の看護師によるダブルチェックなどはなく、エラーが生じたまま簡単に薬剤を投与することが可能であった。「薬剤投与前照合確認」及び「薬剤投与後観察・管理」では、その業務の実施の有無及び実施した業務内容を事後に証明する手段が設けられていなかった。

 注射業務過程における防護内容では、「指示内容と各段階での作業内容との照合確認」、「次の段階における担当者への業務終了合図と情報伝達」、「適切な作業行為の保障」、「指示内容の妥当性の検討」が抽出された。これらは複数手段による階層的な多重防護ではなく、1手段1回の防護や1手段による防護を複数回行うというものであった。

2. インシデント事例分析の結果:3病院で計44事例のインシデントが報告された。注射業務段階と防護内容のマトリックスにエラーを分類し、マトリックス毎にエラー発生の潜在的条件を検討した結果、作業環境には業務過多、業務中断、チーム要因には文字情報によるコミュニケーションの不備、職種間のコミュニケーションの不備、個人要因には知識・経験不足、業務要因には実施困難な業務内容、責任の所在が不明確な業務段階、患者要因には患者の非協力・協力不能が抽出された。

3. 作業現場要因とエラー発生の関連に関する量的分析結果:88名の看護師の平均看護師経験年数は10.6±8.0年、平均当該病棟経験年数は2.4±1.4年であった。ヒヤリ・ハットの発生は、525人日のうち94人日(17.9%)にみられた。病棟間、勤務帯間で多数の作業現場要因の結果に有意な差が見られたため、作業現場要因とヒヤリ・ハット発生の関連に関する分析は、各病棟をダミー変数として投入し病棟の違いを調整し、勤務帯別に行った。その結果、すべての作業現場要因を投入したモデルにおいて、日勤では多忙による看護業務の遅れがあった日ほど、勤務前の疲労感が低い人ほど、ヒヤリ・ハットの発生に有意に関連していた。準夜勤では、多忙による看護業務の遅れがあった日ほど、看護師経験年数が長い人ほど、当該病棟経験年数が短い人ほど、睡眠時間が長い日ほど、ヒヤリ・ハットが発生していた。深夜勤では5%水準で関連のある要因は見られなかった。

考察

 エラーの発生を最小にする業務過程のデザインの条件には、多数の方法を減らし単純化する、複雑性を減らし手順を標準化する、エラーは簡単に修復できる(可逆性)、業務はその行為の結果が目に見え(可視性)、行為内容の適切さについてのフィードバックを常に受け取ることができるなどが挙げられるが、対象病院の注射業務過程はこれらの条件に乏しい状況があった。また、注射業務過程で用いられている防護は多重に配置されておらず、一つのエラーが即事故に結びつきやすい状況にあった。インシデント事例分析の結果では、防護内容の適切な実施を妨げエラー発生に至らせた要因が多数存在したが、その要因単独ではエラーやインシデントの発生には至らず、その背景には注射業務過程や防護内容の欠陥が存在することが明らかになった。

 ヒヤリ・ハットの発生に関連した作業現場要因は、日勤では多忙による看護業務の遅れがある場合に、ヒヤリ・ハットが発生していた。日勤では手術、検査、注射、治療などの多くの処置を行うため、同時間帯に複数の業務が重なることが多い。このことは、いずれかの業務が定時に行うことが出来ず、その業務に遅れが生じ、エラーの誘発要因である多重課題や、時間切迫が生じることとなる。看護師の多重課題や時間切迫を改善し、エラー発生を防止するためには、一人の看護師が安全に達成できる業務量やその内容を、業務分担や人員配置、看護師個人の能力の点からも検討することが重要である。準夜勤では、さらに、当該病棟経験年数が短い看護師である場合にヒヤリ・ハットが発生していた。準夜勤は、日勤より看護師の人数が少なくなり、一人の看護師が担当する患者数は増え、業務量は多くなる。しかも日勤同様に、医師から緊急、臨時、変更指示が頻繁に出され、この指示に対応するため、基本の業務過程以外の多数のルールや、病棟毎に異なる多数の暗黙のルールを適用させる必要がある。これらのルールに不慣れな当該病棟経験年数が短い看護師が、ヒヤリ・ハット発生に関与したと考えられる。準夜勤でのエラーを防止するためには、ヒヤリ・ハットの発生に関連した明文化されていないルールを見直したり、看護師の訓練の期間やあり方についても検討する必要がある。

 また、日勤では勤務前の平均疲労感が低い人ほど、準夜勤では睡眠時間が長い日ほど、看護師経験年数が長い人ほどヒヤリ・ハットが発生していた。これは、報告されたヒヤリ・ハットの大多数が、看護師自身が未然に気づき訂正した事象であったため、十分睡眠時間が確保でき、勤務開始前から疲労していない状態であるほど、また、看護師経験年数が長い人ほどエラーを未然に発見できた可能性がある。エラーの発生を前提とした事故防止対策には、エラーの発見を阻害する要因を改善することも重要であろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、注射業務のエラーを発生させる業務過程、防護内容の欠陥、及び潜在的条件を明らかにするため、業務分析、事故事例の定性分析、及びエラー発生に関する量的分析を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1. 業務分析の結果、基本の注射業務過程には、8つの業務段階(指示出し、指示受け、薬剤払い出し、薬剤の照合確認・準備、情報収集・実施計画立案、薬剤投与前確認、薬剤投与、薬剤投与後観察・管理)が存在し、この段階順で注射業務が行われていた。しかし、この業務過程は臨時、緊急、時間外、変更、中止の指示には適用出来ず、さらに指示内容及びその記載方法は病院、診療科、病棟、医師毎に異なるため、基本の業務過程以外のルールや暗黙のルールを運用させなければならなかった。各業務段階における問題点として、「薬剤投与」以降の段階では、生じたエラーがインシデントに直結するにもかかわらず、エラーが生じたまま簡単に薬剤を投与できる作業方法で行われていた。また、「薬剤投与前照合確認」及び「薬剤投与後観察・管理」では、その業務の実施の有無及び実施した業務内容を事後に証明する手段が設けられていなかった。以上のことより注射業務過程は、エラー発生を最小にするデザインである単純化、標準化、可視性、可逆性に乏しいことが示された。さらに、注射業務過程における防護内容として、「指示内容と各段階での作業内容との照合確認」、「次の段階における担当者への業務終了合図と情報伝達」、「適切な作業行為の保障」、「指示内容の妥当性の検討」が抽出された。しかし、これらは1手段1回の防護や1手段による防護を複数回行うものであり、他産業に見られるようなエラーを確実に防止するための複数手段による階層的な多重防護ではないことが示された。

2. エラー事例の面接結果からエラー発生の潜在的条件を検討した結果、作業環境として業務過多、業務中断、チーム要因として文字情報によるコミュニケーションの不備、職種間のコミュニケーションの不備、個人要因として知識・経験不足、業務要因として実施困難な業務内容、責任の所在が不明確な業務段階、患者要因として患者の非協力・協力不能が抽出された。しかし、事故はこれらの潜在的条件の存在のみでは発生せず、その背後には注射業務過程や防護内容の欠陥が存在することが示された。

3. エラー発生と作業現場の状況との関連を看護師の勤務帯別に検討した結果、日勤では多忙による看護業務の遅れがあった日ほど、準夜勤では多忙による看護業務の遅れがあった日ほど、当該病棟経験年数が短い人であるほどエラーが発生していた。エラー発生防止のために業務の遅れを改善するには、一人の看護師が安全に達成できる業務量やその内容を、業務分担や人員配置も含め検討することが重要であると示された。さらに、当該病棟経験年数が短い看護師がエラー発生に関与した理由として、経験不足のほか、明文化されていない多数のルールや暗黙のルールを知り得なかったことが原因として考えられるため、明文化されていないルールを見直し、看護師の訓練の期間やあり方について検討する必要があることが示された。また、日勤では勤務前の平均疲労感が低い人ほど、準夜勤では睡眠時間が長い日ほど、看護師経験年数が長い人ほどエラーが発生していた。これは、報告されたエラーの大多数が看護師自身が未然に気づき訂正した事象であったため、十分に睡眠時間が確保でき疲労状態にないほど、そして、看護師経験年数が長い人ほどエラーを未然に発見できた可能性がある。エラーの発生を前提とした事故防止対策には、エラーの発見を阻害する要因の改善も重要であることが示された。

 以上、本論文では、注射業務の業務分析、事故事例の定性分析、エラー発生に関する量的分析の結果から、エラーを発生させる業務過程、防護内容の欠陥、潜在的条件を明らかにした。これまで多くの医療事故防止対策が医療従事者の注意や努力に依拠するものであったのに対し、本論文では、事故防止対策の重要な点として業務過程や労働環境の改善を実証データに基づき具体的に提言している。これらのことは、医療事故発生の解明と効果的な事故防止対策への重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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