学位論文要旨



No 119564
著者(漢字) 細井,延武
著者(英字)
著者(カナ) ホソイ,ノブタケ
標題(和) 初期視覚情報処理の神経機構 : 網膜におけるグルタミン酸作動性シナプス伝達の調節機構
標題(洋)
報告番号 119564
報告番号 甲19564
学位授与日 2004.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第436号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 高野,陽太郎
 東京大学 教授 横澤,一彦
 東京大学 教授 高橋,智幸
内容要旨 要旨を表示する

 すべての生物にとって、外界を認識してそれに反応するシステムは、適応して生きていくために必須の機構である。この機構は、神経系の情報処理によって実現されている。神経系は電気的シグナルを用いており、シナプスを形成して情報を伝達する。シナプスでは、情報の伝達に方向性があり、情報の送り手であるシナプス前細胞が興奮(脱分極)すると、細胞内にCa2+が流入してシナプス小胞が細胞膜に融合し、内容物である神経伝達物質が細胞外へ放出される(開口放出)。情報の受け手であるシナプス後細胞には、神経伝達物質の受容体が存在し、放出された伝達物質が受容体に結合すると応答が引き起こされ、情報が伝達される。シナプスでの情報伝達は、単なる情報の中継ではなく外的・内的な環境の変化に応じて伝達効率が変化する動的な性質を持っている。本研究では、視覚情報処理の初期過程を担っている網膜内でのシナプス伝達の調節機構について神経科学的手法をイモリ網膜に適用して実験的に検討した。

 第1章では、脊椎動物網膜におけるシナプス伝達の性質と情報伝達経路について概観し、本研究の目的を明らかにした。網膜は5種類の神経細胞(視細胞・水平細胞・双極細胞・アマクリン細胞・神経節細胞)が整然と並んで層構造を形成している。網膜では、外界の視覚情報(光)が生体内電気信号に変換され、コントラストの増強など外界を認識するための最初の情報処理が行われる重要な役割を果たしている。網膜での主要な情報伝達経路としては、視細胞-双極細胞-神経節細胞の経路があり、視細胞-双極細胞間と双極細胞-神経節細胞間の両方においてグルタミン酸作動性のシナプス伝達が行われている。グルタミン酸受容体には、大別して、イオンチャンネル型(非NMDA受容体とNMDA受容体)と代謝型(グループI、II、III)の2つがある。

 網膜には光が点いたというON情報を担う経路(ON経路)と光が消えたというOFF情報を担う経路(OFF経路)が存在し、視細胞-双極細胞間のシナプス伝達が行われる外網状層においてON経路とOFF経路が分離する。視細胞は伝達物質としてグルタミン酸を放出するが、ON型双極細胞には代謝型グルタミン酸受容体が存在し、OFF型双極細胞にはイオンチャンネル型受容体が存在するため、光に対する応答の極性が異なる。代謝型グルタミン酸受容体のサブタイプがクローニングされ、網膜におけるこれら受容体の分布が検討された結果、ON型双極細胞の樹状突起にはグループIII代謝型グルタミン酸受容体のサブタイプであるmGluR6が存在していることが明らかにされた。しかし、シナプスを形成している外網状層と内網状層にはmGluR6以外のグループIII代謝型グルタミン酸受容体も広く分布していることが明らかになった。これまで、視細胞とON型双極細胞間のシナプス伝達を選択的に阻害すると考えられていたL-AP4という薬物は、ON型双極細胞のmGluR6以外のグループIII代謝型グルタミン酸受容体にも作用する可能性が高い。そこで、本研究では、mGluR6以外のグループIII代謝型グルタミン酸受容体が、グルタミン酸作動性シナプス伝達に対して果たしている機能とそのメカニズムを解明することを目的とした。実験にはイモリの網膜スライス標本を用い、各種の神経細胞から電気的応答を記録して解析した。

 第2章では、双極細胞-神経節細胞層(Ganglion Cell Layer)に存在する細胞(以下、神経節細胞と異所性アマクリン細胞をまとめて「GCL細胞」と呼ぶ)間にグルタミン酸作動性シナプスが形成されている内網状層において、グループIII代謝型グルタミン酸受容体が果たす機能について検討した。GCL細胞を膜電位固定して光応答を記録した。網膜に存在するグループIII代謝型グルタミン酸受容体をL-AP4によって活性化させると、GCL細胞のON応答が消失するだけでなくOFF応答も減弱した。光情報の伝達において、グループIII代謝型グルタミン酸受容体はON経路に対してのみならず、OFF経路に対しても機能していることが明らかになった。しかし、グルタミン酸放出の引き金となる双極細胞のCa2+電流は、ON型双極細胞でもOFF型双極細胞でもL-AP4によって影響されなかった。また、ON型あるいはOFF型双極細胞とGCL細胞から同時記録を行い、双極細胞を電気刺激して生じたGCL細胞の興奮性シナプス後電流(EPSC)に関して解析を行ったが、L-AP4はこの誘発性EPSCに対して影響しなかった。したがって、内網状層におけるグループIII代謝型グルタミン酸受容体は双極細胞-GCL細胞間のグルタミン酸作動性シナプス伝達には直接影響を及ぼしてはいないことが明らかになった。L-AP4の投与によってGCL細胞のOFF応答が減弱したのは、L-AP4が内網状層ではなく外網状層におけるシナプス伝達に影響を及ぼしたためであると考えられる。

 第3章では、外網状層におけるグルタミン酸作動性シナプス伝達に対するグル-プIII代謝型グルタミン酸受容体の機能について検討した。網膜第2次ニューロンであるOFF型双極細胞や水平細胞を膜電位固定してそれぞれの光応答を記録し、L-AP4の効果を調べた。OFF型双極細胞においても水平細胞においても、暗時での定常的内向き電流や光刺激に対するOFF応答は、L-AP4によって抑制された。しかし、グルタミン酸を細胞外投与したときに生じるOFF型双極細胞や水平細胞のグルタミン酸応答はL-AP4によって影響を受けなかった。したがって、L-AP4は、シナプス後細胞である双極細胞や水平細胞に対してではなく、シナプス前細胞である視細胞に存在するグループIII代謝型グルタミン酸受容体を活性化させてグルタミン酸の放出に対して抑制的に働くことが明らかになった。

 第4章では、視細胞からのグルタミン酸放出がグループIII代謝型グルタミン酸受容体の活性化によって抑制される機構について検討した。視細胞には、明所視で働く錐体と暗所視で働く桿体がある。錐体では、細胞内へのcGMP依存性陽イオンチャンネルを介したCa2+流入とL型Ca2+チャンネルを介したCa2+流入によって、グルタミン酸放出が引き起こされると報告されている。そこで、錐体を膜電位固定してL-AP4を投与したところ、cGMP依存性陽イオンチャンネルを介した光応答は変化しなかったが、L型Ca2+電流は活性化のキネティクスが遅くなると共に振幅が抑制された。Ca2+電流-電圧関係はL-AP4によって脱分極側に移動した。また、Ca2+電流の抑制はGタンパク質の活性化を伴っていた。一方、桿体においては、グルタミン酸放出を引き起こすL型Ca2+電流に対してL-AP4は何ら影響を及ぼさないことが明らかになった。視細胞(錐体あるいは桿体)とシナプス後細胞(OFF型双極細胞あるいは水平細胞)からの同時期録を行い、視細胞を脱分極させて発生させた誘発性EPSCを記録し、L-AP4の効果を調べた。その結果、錐体からの誘発性EPSCは抑制をうけたが、桿体からの誘発性EPSCは変化しなかった。また、錐体と桿体のCa2+電流は、いずれも薬理学的にL型と同定されたが、錐体のCa2+電流は、桿体に比べて活性化のキネティクスが遅く、また、L-AP4によってさらに活性化が遅くなることがわかった。

 第5章では、錐体Ca2+電流の活性化キネティクスを調節する機構について検討した。錐体のCa2+電流の活性化を遅くしうる機構としては、1)錐体に存在するグループIII代謝型グルタミン酸受容体の定常的な活性化による抑制、2)Ca2+電流の活性化によって開口放出が生じ、その際伝達物質とともにシナプス小胞から放出されたH+によってCa2+電流が抑制されるという、自己H+フィードバック抑制機構、が挙げられる。1)の機構については、グループIII代謝型グルタミン酸受容体がGタンパク質を活性化した後、Gタンパク質が直接Ca2+チャンネルに結合してCa2+電流を抑制する場合(Gタンパク質の直接効果)と、Gタンパク質が何らかのカスケードを介して細胞内のセカンドメッセンジャーの濃度を調節してCa2+電流を抑制する場合(Gタンパク質による間接的効果)が考えられる。Gタンパク質の直接効果の場合には、強い脱分極のプレパルスを与えると、Ca2+電流の促通(プレパルス促通)が生じることが知られている。そこで、錐体を膜電位固定し、Ca2+電流に対するプレパルスの効果を調べたところ、Ca2+電流はプレパルスによって促通され、見かけ上活性化が速くなった。しかし、2)の自己H+フィードバック抑制機構が働いている場合でも、プレパルスの時点で開口放出が生じてシナプス小胞が枯渇し、テストパルス時に開口放出が生じなくなれば自己H+フィードバックは働かず、Ca2+電流のプレパルス促通が生じうる。この可能性を確かめるために細胞外液のpH(H+濃度)緩衝能力を高めたところ、Ca2+電流のプレパルス促通は消失したが、L-AP4によるCa2+電流の抑制は残存した。つまり、錐体Ca2+電流のプレパルス促通は、Gタンパク質による直接効果ではなく、自己H+フィードバック抑制の解除によって生じていた。したがって、錐体のCa2+電流の活性化キネティクスは、グループIII代謝型グルタミン酸受容体の活性化を介する経路と、自己H+フィードバックを介する経路によってそれぞれ別個に制御されることが明らかになった。

 第6章では、以上の一連の実験結果に基づいて総合的考察を行った。網膜にはグループIII代謝型グルタミン酸受容体のうちmGluR6がON型双極細胞の樹状突起に存在し、視細胞から放出されたグルタミン酸を受容してON情報を視覚中枢に伝達することが既に明らかにされている。本研究では、錐体に存在しているグループIII代謝型グルタミン酸受容体が活性化されると、Ca2+電流が抑制されて錐体からのグルタミン酸放出を抑制することを新たに見いだした。したがって、錐体のグループIII代謝型グルタミン酸受容体は、ON経路に対してもOFF経路に対しても情報伝達を調節する役割を持っていることがわかった。また、錐体と桿体のCa2+電流はいずれも薬理学的にL型に属しているにもかかわらず、錐体のCa2+電流のみがグループIII代謝型グルタミン酸受容体を介する制御と伝達物質(グルタミン酸)の開口放出に伴う自己H+フィードバックによる制御を受けていることが明らかになった。したがって、錐体と桿体のCa2+チャンネルは分子レベルで異なっていることが推測された。桿体に比べて錐体においては伝達物質放出を制御する機構が複雑になっているのは、おそらく、錐体が働く明順応状態で微妙に時空間分解能などを最適化する必要があるからであろうと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、網膜におけるグルタミン酸作動性シナプス伝達の調節機構を神経科学的に研究したものであり、全6章から構成されている。

 第1章では、網膜のシナプス層である外網状層と内網状層において、グルタミン酸が伝達物質として使われていることを概観した。グルタミン酸受容体には代謝型とイオンチャンネル型がある。グループIIIに属する代謝型グルタミン酸受容体(グループIIImGluR)はオン型双極細胞の樹状突起に存在し、光が点いた時の応答(オン応答)の生成に関与する。しかし、グループIIImGluRはオン型双極細胞の樹状突起以外にも網膜に広く分布しており、その機能は不明である。本研究では、イモリ網膜の各種神経細胞から電気的応答を記録し、グループIIImGluRの機能を明らかにすることを目的とした。

 第2章では、内網状層におけるグループIIImGluRの機能について検討した。網膜にグループIIImGluRのアゴニスト(L-AP4)を投与するとGCL細胞(神経節細胞層にある神経節細胞とアマクリン細胞の総称)のオン応答は消失し、オフ応答は減弱したが、双極細胞のCa2+電流およびGCL細胞の誘発性シナプス後電位は変化しなかった。したがって、グループIIImGluRは内網状層のグルタミン酸作動性シナプス伝達に関与していないことがわかった。

 第3章では、外網状層におけるグル−プIIImGluRの機能について検討した。網膜にL-AP4を投与すると、双極細胞と水平細胞では、暗時の定常的内向き電流や光応答が抑制されたが、グルタミン酸応答は変化しなかった。したがって、視細胞からのグルタミン酸放出がグル−プIIImGluRの活性化によって抑制されることが示唆された。

 第4章では、視細胞からのグルタミン酸放出がL-AP4によって抑制される機構について検討した。L-AP4は、錐体のCa2+電流に作用してグルタミン酸放出を抑制したが、桿体には影響しなかった。

 第5章では、錐体のCa2+電流が調節される機構について検討した。錐体のCa2+電流は、グループIIImGluRの活性化を介する細胞内経路と、シナプス間隙に放出されたH+によるフィードバックを介して調節されることが明らかになった。

 第6章では、本研究の結果を総合的に考察し、錐体のグループIIImGluRは明順応状態における錐体機能の最適化に関与していることが示唆された。

 本研究は、緻密な実験によって、網膜におけるグループIIImGluRの機能を明らかにした。視細胞レベルでの伝達物質放出の調節がどのような視覚現象に対応しているかに関しては更なる研究が必要であるとはいえ、錐体のCa2+電流が開口放出されたグルタミン酸とH+による調節を受けているという発見は、神経系一般におけるシナプス伝達の調節機構を考える上で極めて重要な知見である。本審査委員会は、本論文が博士(心理学)の学位に値するとの結論に達した。

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