学位論文要旨



No 119565
著者(漢字) 趙,昶佑
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,チャンウ
標題(和) 巴金文学における異邦人
標題(洋)
報告番号 119565
報告番号 甲19565
学位授与日 2004.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第437号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,省三
 東京大学 教授 吉田,光男
 東京大学 教授 尾崎,文昭
 日本大学 教授 山口,守
 千葉商科大学 専任講師 河村,昌子
内容要旨 要旨を表示する

 本稿では中国の作家である巴金(パーチン、1904〜)の異邦滞在経験および中国国内での異邦人との交流に基づいて書かれた異邦人をモデルとする作品にスポットを当てることによって、巴金と異邦人アナーキストとの文通、巴金自身の異邦滞在経験、中国国内での異邦人との交流、アナーキズム思想との関係を並行して論じた。

 本稿は以下のように構成されている。

第一章 巴金とエマ・ゴールドマン

一 エマ・ゴールドマンと中国

二 『新青年』と『実社自由録』に紹介されたエマの論文

三 「愛国主義与到中国人幸福的路」と「Patriotism」

四 エマの訪中記事と文通

第二章 フランス滞在と『復讐』の誕生

一 イズムに殉ずる渡仏

二 サッコ・ヴァンゼッティ事件―"殉道者"の発見

三 シュワルツバーのペトリウラ暗殺事件とその公判

四 巴金と施蟄存との論争

五 一九二〇年代のパリ

六 「復讐」-ポグロムの問題

七 「亡命」「亜麗安娜」-亡命の問題

第三章 巴金と朝鮮

一 朝鮮人との出会い 成都→北京→上海

二 1920年代の上海

三 上海を舞台とした朝鮮人亡命者の物語-「髪的故事」

四 「火」1部

第四章 巴金と日本

一 巴金と大正のアナーキスト

二 巴金の目に映じた30年代の日本

三 横浜でのホームステイ

四 東京体験

 第一章では、巴金とエマ・ゴールドマンについて論じる。第一章の目的は、従来の研究ではあまり取りあげることのなかった巴金とエマ・ゴールドマンとの関係を探った。エマ・ゴールドマンは巴金と文通のあった最初の異邦人で、彼女の著作は巴金に多くの影響を与えた。特に、巴金の「愛国主義与到中国人幸福的路」はエマの「Patriotism」から啓発を受けて執筆されたと思われる。第一章では、エマが中国に紹介された経緯と彼女の論文が主として掲載された北京の『新青年』と『実社自由録』、巴金の「愛国主義与到中国人幸福的路」とエマの「Patriotism」との関係、そして巴金との文通の状況を論じてきた。

 エマが中国に初めて紹介されたのは、『母なる大地』が創刊された翌年の1907年のことである。『民声』第二十一号(1914年8月)に、「高曼 Emma Goldman 女士」が載っている。文章にはアメリカでのエマの活動と『母なる大地』について触れており、エマの著作『The Social Significance of the Modern Drama』が民声社に郵送されたことが述べられている。第三十三号(1921年7月)に掲載された「高路曼(Emma Goldman)」(『近世女無政府党伝略 続』)では、エマの経歴やアムステルダム会議での演説の模様、そしてエマの著作『The Social Significance of the Modern Drama』、『Patriotism』の内容が紹介されている。このうち、『Patriotism』は巴金の「愛国主義と中国人を幸福に導く道」に少なからぬ影響を与えた文章である。

 エマと書簡のやりとりをするまでは、エマは巴金にとって書物を通じて想像される遠い存在であった。だが書簡のやりとりを通じて二人を隔てている空間的な距離は一気に縮まった。巴金はフランス留学中にもエマと数回書簡のやりとりをする。エマとの往復書簡は、手紙による異邦人アナーキストとの連帯の口火を切る役割を果たしたといえよう。

 第二章では、主に巴金のフランス滞在とフランス滞在がきっかけとなって執筆された『復讐』所収の亡命とポグロムの問題を題材とした作品を論じた。その際、巴金がフランスに渡るまでのいきさつとフランス滞在中のヴァンゼッティとの文通、そして20年代のパリの状況をもあわせて考察した。第二章の目的は巴金の最初の国外移動であるフランス留学に注目し、そのフランス体験が契機となって書かれたポグロムと亡命を題材とする作品の背景を明らかにすることによって、巴金文学におけるポグロムと亡命の問題の位置付けを試みることであった。

 20年代(特に27年以降)のパリは、ロシアやヨーロッパからの移民や亡命者が急増していた。当時多くの外国人がフランスに渡った背景には、上述したような他国に先駆けたフランス経済の回復とともに亡命者に避難所を与えるフランスの伝統がある。巴金が部屋を借りて住んでいたカルティエ・ラタン区は、国際都市パリの中でも外国人が多く集まる地区であった。ここで巴金は彼の小説のモデルとなる外国人亡命者に出会ったのだ。

 フランス滞在は巴金にとって初めての外国滞在であり、フランスで書いた「滅亡」は彼のデビュー作となった。またフランスでの体験は彼の最初の短編小説集『復讐』の題材の元となり、巴金にとって異邦人を描くひとつのきっかけを与えた。パリで知り合った亡命者の境遇を通じて彼は中国国内にいる朝鮮人亡命者の状況を理解することができ、朝鮮人亡命者をさらに客観的に見る視野を持つようになる。小説「復讐」のモデルであるユダヤ人、シュワルツバーを通じては抑圧される民族の悲哀を覚え、彼は被圧迫民族同士の連帯感を感じたようである。サッコ・ヴァンゼッティ事件はフランスにいた頃の巴金にとっては一番の出来事であった。事件の犠牲者は巴金と同様、祖国を離れて異邦の地にいたアナーキストであった。事件を通じて巴金は世界に散在するアナーキスト同士との連帯感を深めることができ、一層アナーキズムに充実することを自ら誓う。

 第三章では、建国以前に巴金と知り合った朝鮮人について述べてきた。フランスに行く前に巴金は北京と上海で朝鮮人アナーキストと知り合う。とりわけ、20年代の上海には多くの朝鮮からの亡命者が集まっていた。三章では上海(特にフランス租界)に多くの朝鮮人が集まった理由も合わせて論じたのだ。また、朝鮮人革命者をモデルとする巴金の作品「髪的故事」と「火」1部を取りあげて建国前の巴金と朝鮮人との関わり方を探ってみた。

 巴金と朝鮮人との交流は、フランスで知り合った異邦人及び日本滞在中に知り合った日本人との交流とは異なって中国国内で行われた。すなわちフランスや日本での巴金は訪問者の立場として現地在住の人と接したが、朝鮮人との交流は巴金が自らの母国で彼らを受け入れる立揚に変わったといえよう。フランスや日本での巴金は異邦人の立場として、その国の状況や現地の人を冷静なおかつ客観的に見ることができた。しかし彼が一旦中国に帰国すると、異邦人ではなく一人の作家巴金に変わるのだ。ホストの立場から自分の国に亡命している異邦人の境遇を、巴金は中国人の読者にできるだけ客観的に伝えようとしたと思われる。その根底にあるのは、彼自身の異邦体験にほかならないだろう。

 第四章では、主に日本滞在中の巴金について論じた。まず、共同体の中で排除されて死に到った大正のアナーキスト大杉栄と古田大次郎から巴金が受けた影響をまとめ、34年11月から翌年夏までの巴金の横浜と東京滞在を取りあげて巴金の目に映じた30年代の日本社会を再現してみた。そして、来日中に書かいた短編小説集『神・鬼・人』を取りあげてホームステイ先の主人、武田武雄が巴金文学に描かれた異邦人像の中で如何なる位置を占めているのかを論じた。

 巴金と日本人との関わり方は、アナーキズムと戦争という二つの相容れない概念によって説明されることができる。来日以前の巴金と日本人との関わりの根源には、大杉栄や古田大次郎を追悼する文章を見て分かるようにアナーキズムという共通の理想を追求する連帯意識があった。巴金にとって大杉や古田は、彼が尊敬してやまなかったエマ・ゴールドマンヴァンゼッティのようなアナーキストと同様に理想を友にする人物であった。しかし、戦争の暗雲が漂う中での来日と家の中で閉じこもって宗教活動をする武田との出会いによってそれまで思っていた日本人観が少しずつ揺れはじめる。

 ジンメルが遠く離れている(遠隔)者が近くて積極的な関係(近接)にあると説くように、巴金もフランス留学中に上海を舞台とする作品を書き、帰国後にフランスを舞台としたのである。また小松の異邦人分類を採用したから巴金の作品に登場する異邦人、また彼と文通などで関わった異邦人をいくつかの類型に分類することができた。但し日本滞在中の武田武雄は小松の分類には当てはまらない人物であり、巴金と関わった異邦人の中では異彩を放つ人物であるといえよう。またマイケル・ウォルツァーの「排除」と「歓待」の概念は、中国に亡命中の朝鮮人とフランスに亡命中のヨーロッパアナーキストが亡命先の政府の政策や戦争のような非常事態によって排除された人が歓待され、歓待された人が排除されることを論じる一つの手がかりとなっただろう。

審査要旨 要旨を表示する

 中国20世紀文学の課題とは国民国家の建設であった。それは王朝体制や軍閥独裁を打倒する政治革命であると同時に、大家族体制を解体する自由恋愛運動であり、革命と恋愛との二重奏こそが、現代中国文学における最大のテーマであったのだ。そのような中国文化界にあって魯迅(ルーシュン、ろじん、1881〜1936)から巴金(パーチン、はきん、1904〜)へと、中華民国期から人民共和国〓小平時代へと、行動的リベラリストの系譜は絶えることなく続いてきた。魯迅は20世紀初頭にはヨーロッパ・ロマン派の影響下で、晩年の30年代にはマルクス主義やトロツキー文芸理論の影響下で清朝専制体制や軍閥支配に抵抗し、巴金は青年期にはアナーキズムの影響下で家と決別して自由恋愛と革命運動に挺身する青年たちを描き国民党独裁体制を批判し、文化大革命終息後の70年代末から80年代にかけては人類主義の視点から共産党の独裁体制に異議申し立てをしたのである。

 人民共和国建国後の巴金は、一時、共産党への協力を余儀なくされたが、文革で悲惨な体験をしたのちは、「私は加害者」と告白し建国以来の粛清に協力しついには文革の発動を許してしまった知識人の責任問題を提起してもいる。

 「中国の良心」と称される巴金をめぐっては、中国はじめ日本・韓国・欧米において多数の研究者がさまざまな角度から研究を重ねており、東大所蔵の巴金関係書だけでも346点、そのうち中文および英文の巴金研究書は合計33点にものぼっている。このような重厚な巴金研究に今回、趙昶佑君による「異邦体験・異邦人交流」という新しい視点による巴金論が仲間入りした。

 本論文は巴金のフランス・日本における異邦滞在経験と、中国国内における異邦人交流体験に基づく作品群に注目しつつ、巴金のアナーキズム・インターナショナリズムの形成を論じている。第1章では1925年に開始される巴金とアメリカ人アナーキスト、エマ・ゴールドマンとの文通による交流を考察し、第2章では巴金のフランス留学(1927〜28)体験を分析論証し、第3章では主に1920〜30年代上海における朝鮮人亡命者との交流を論じ、第4章では巴金の大杉栄・古田大次郎・石川三四郎ら日本人アナーキストへの関心と、1934年の横浜・東京遊学体験を考察している。

 本論文の主な成果は次の通りである。

(1)外国アナーキストとの交流に関しては山口守・樋口進・Olga Lang、フランス体験に関しては坂井洋史・山口・陳思和、朝鮮人との交流に関しては嶋田恭子・沈容〓・陳丹晨、日本遊学に関しては藤井省三・新谷秀明らによる先行業績等によく学びつつ、巴金の中華民国期における「異邦体験・異邦人交流」のほぼ全容を解明した。

(2)フランス体験を契機として巴金が執筆するポグロム(ロシアにおけるユダヤ人迫害問題)と亡命を題材とする作品の背景を、実在のユダヤ人テロリスト、シュワルツバーに関する具体的な資料により明らかにした。フランス体験により巴金が中国国内の朝鮮人亡命者への連帯感を深めていったという指摘も新鮮である。

(3)フランス体験と主に上海フランス租界に多く集まった朝鮮人亡命者との交流に関する考察に基づき、朝鮮人革命者をモデルとする短篇小説「髪的故事」と長篇小説『火』を分析し、巴金が自分の国に亡命している異邦人の境遇を中国人読者に客観的に伝えようと努めていた点を析出した。また韓国人アナーキスト鄭華岩の回想に注目した点は、特に評価に値する。

 本論文の議論は中華民国期(1912〜49)に限られており、中華人民共和国期(1949〜)における巴金の朝鮮戦争(1950開戦、1953休戦)従軍体験、文革終息後の日本・フランス訪問などの「異邦」体験にまでは考察が及んでいない。また論文としての形式・構成において未熟な点も散見される。

 だが上記(1)〜(3)を中心に顕著な成果をあげており、本審査委員会はその内容が博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。

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