学位論文要旨



No 119567
著者(漢字) 千葉,敏之
著者(英字)
著者(カナ) チバ,トシユキ
標題(和) 複製された神聖王権 : 国家形成期ポーランドとオットー朝ドイツ
標題(洋)
報告番号 119567
報告番号 甲19567
学位授与日 2004.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第439号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高山,博
 東京大学 教授 桜井,万里子
 東京大学 教授 深沢,克己
 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 教授 蔀,勇造
内容要旨 要旨を表示する

本研究では、紀元千年の春に起きた「グニェズノ巡幸Akt von Gnesen」と呼ばれるローマ皇帝オットー3世と、ポーランド・ピアスト家の公ボレスワフ・フロブリとのグニェズノにおける会見と一連の関連儀礼の意義を考察することを課題とした。10世紀のラテン=キリスト教政治世界最大の権威であるローマ皇帝が、何故にポーランドのグニェズノという、当時の政治地理学から見ればまさに「僻遠の地」といえる場所――たとえそれがピアスト家の儀礼的中心であったにせよ――をわざわざ訪問したのか、ということにつきる。この問いに答えるためには、「紀元千年」という時空間と、グニェズノという場所と、オットー3世という人間(あるいは、これを取り巻く人々)、この三つの軸の交錯とその意味するところを正しく評価しなければならない。この事件の構造を解明することは、とりもなおさず、紀元千年におけるラテン=キリスト教世界のありようと、それが向かう行く末とを闡明することにつながるのである。本研究の課題は、まさにこの問いへの有効な解答を提示することにある。

この事件がその歴史的意義の大きさを正しく評価されるようになったのは、別言すれば、歴史学の研究対象として着目されるようになったのは、ヨハンネス・フリートの論争喚起的単著『オットー3世とボレスワフ・フロブリ』が出版された1989年以降であり、とくに二度目のミレニアムを迎える西暦2000年前後から、つまりごく最近のことである(M・ボルゴルテ編『千年前のポーランドとドイツ』2002年)。第4章で詳しく触れることになるが、それ以前の評価は、ちょうど中世東方植民運動の歴史的評価と同じように、ドイツ・ポーランド双方のナショナリズム史学のなかで不当に引き裂かれていたし、そして現在では、両者の政治的統合の現代史的潮流のなかで、逆に急速に接近しつつある。不当な分断と、安易な接合を回避するためには、歪みの研究史を跡付け、史料に沈潜することがもとめられる。

一方で本研究は、オットー朝の東方政策と、ポーランド国家の成立史をめぐる新たな歴史像の提示でもある。そしてその歴史はドイツ史とポーランド史の並走と交渉という枠組みではとらえきれない、固有の政治空間のありようとその生成展開のなかでのみ、理解可能なものである。その意味では、「空間と関係」の歴史と言い得るだろう。

紀元千年期(955-1002/1025)の世界は、「伝道的空間」という聖性構造を持った。それはオットー1世の皇帝戴冠(962年)によって復活した皇帝権と、これと結びつくことで再生をはたしたローマの教皇権と、そしてまた時代を貫き、そして紀元千年へ向けて高揚していくラディカルな霊性をもっともよく体現する伝道師=殉教者の三者が織り成す世界であった。それは国王によって発給される証書や写本の献呈図に描かれた図像というメディアを通じて喧伝され、またローマを訪れ、ローマを後にする人々の行来によって普及せられた。また隠修士のネットワークは、イタリアを中心として、ヨーロッパ中に広まった。そして序章において分析された多様な証言、年代記や編年誌といった歴史叙述、聖人伝、メモリア史料もまた、こうした空間の特性に生い立ちをもつことも忘れてはならない。

こうした聖性構造をもつ紀元千年期の空間の中で、君主と君主は、水平的な友誼盟約関係(アミキチア)や、伝道者と改宗者とのあいだで結ばれる代父子関係や、明確な優劣関係としての貢納関係を、公示性をもつ集会(復活祭や宮廷議会、教会会議など)の場を利用して築きあげた。

11世紀後半のグレゴリウス改革の時代に、枢機卿デウスデーディットによって編纂された『カノン法集成』は、唯一「ダゴメ・ユデクス文書」を伝承する史料である。その単純な内容が内包する、紀元千年期のポーランドにとってもっとも貴重な情報は、ありとあらゆる想定を許容する。第3章では、従来テクスト分析によって解釈が試みられてきた同文書について、それを伝えるデウスデーディットの著作の構成に関する綿密な考証を通じて、同文書の由来を明らかにしようと試みた。その結果、11世紀後半に、グレゴリウス7世による教皇首位権の主張のために作成された偽文書である可能性は排除され、同文書が、10世紀の末に、譲渡行為の主体である公ミェシュコを発給者として、羊皮紙文化圏に属する、したがって教皇庁以外の尚書局の協力のもとで作成された、という仮説を立てることができた。

紀元千年とローマとに向けられた時間と人の流れは、伝道と殉教という理念に突き動かされて、東方へと向かう。第4章では、序章の冒頭で掲げた「グニェズノ巡幸」の意義について、史料証言を網羅し、そこに含まれる内容を検討した上で、それがオットー朝(オットー3世)の側から見るときには、福音書の献呈図に見れるような、ローマから始まり、スクラヴォニア、ゲルマニア、ガリアを経て再びローマへと回帰する巡礼の道行きであり、また再生された帝国の姿を世界に示し、黄金のローマを完成させる政治表象の儀礼であることが、あきらかにされた。しかしそれはポーランドの側から見たときには、辺境伯になることを目指したミェシュコと、キリスト王になることを目指したボレスワフ・フロブリによる模倣の試みであった。グニェズノからマクデブルクを経て、アーヘン、そしておそらくローマまで同行したボレスワフは、聖アダルベルトに具現されたラディカルな霊性の世界に共感し、帰国後、プルス人への伝道を支援する。

グニェズノがこうした模倣された聖なる王国の中心となるべき場所であったのに対し、1030年代にこれに代わって首府となるクラクフは、ポーランドのナショナルな統合の求心点となっていく。グニェズノからクラクフへ、これは紀元千年の君主が夢想した聖なる国から、強固な組織に支えられた現実的なポーランド国家への転換を象徴しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文の対象となっている中世ヨーロッパ中東部の研究は、主としてドイツとポーランドにおいて、それぞれの国家形成過程を解明するという作業の中で、副次的に行われてきた。そのため、この地域は、これまで、ドイツの東部辺境もしくはポーランドの西部辺境という具合に位置づけられ、その枠組みの中で分析されてきた。本論文の著者は、このような近代国家成立史観に基づく見方を批判し、中世ヨーロッパ中東部の歴史を正しく認識するためには、この地域を固有の歴史空間として捉え直す必要があると主張している。本論文は、そのような問題意識に立ち、このヨーロッパ中東部が初めて一つの政治文化空間をなしたと考えられる紀元千年期(950〜1025年)に焦点を当て、その成立の局面と新たに生まれた政治文化空間の構造を明らかにしようとしたものである。

著者は、論文前半で、紀元千年期のヨーロッパ中東部に関する現存史料を網羅的に精査し、紀元千年期に作成された史料群の生成地と生成時期に大きな偏りがあることを明らかにしている。そして、「聖性」をキーワードに皇帝・教皇・隠修士の行動を分析し、ヨーロッパ中東部が一つの政治文化空間として成立したと考えられる根拠を探り、その空間に共通していると考えられる君主同士が取り結ぶ関係のあり方を検討する。このような手順を経て、著者は、紀元千年期のヨーロッパ中東部は、伝道を最大の使命として復活したローマ皇帝権と、これとの協働によって再生した教皇権、そして修道院・教会の改革運動が高まるなかで高貴な出自をもつ知識階層を取り込んでいった隠修士=伝道師という三者によって担われた、伝道的聖性構造を有する空間として構成されていた、と結論づける。論文後半では、この地域で生じた重要な政治的事件、すなわち、皇帝オットー三世がグニェズノに巡幸し、ボヘミア公ボレスラフに冠を被せた出来事に関する史料の再検討を行い、この事件が、周域に成立しつつあった超部族的政治体の首長が皇帝の統率する伝道空間へ参入し、そのなかで積極的な存在意義を主張していく転機としての意味をもった、と主張している。

このように、本論文は、現存する史料を精査して、これまで明らかにされていなかった紀元千年期の中世ヨーロッパ中東部の政治構造を分析し、伝道の理念と実践によって結ばれた政治文化空間の成立の局面を詳細に検討したものである。

 論文で用いるにはやや口語的と思われる表現が見られ、概念規定が十分でないため理解を困難にしている箇所はあるが、先行研究を踏まえた上で、年代記や証書など多くの一次史料に基づいてなされた議論は、博士論文として十分満足できる水準に達しており、歴史研究者として今後の実り多き研究生活を予期させるものである。

 よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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