学位論文要旨



No 119568
著者(漢字) 冨江,直子
著者(英字)
著者(カナ) トミエ,ナオコ
標題(和) 生存の義務 : <救貧制度と日本近代>の社会学的研究
標題(洋)
報告番号 119568
報告番号 甲19568
学位授与日 2004.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第440号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 武川,正吾
 東京大学 助教授 吉野,耕作
 東京大学 助教授 佐藤,健二
 社会科学研究所 教授 大沢,真理
 清泉女子大学 教授 庄司,興吉
内容要旨 要旨を表示する

 ――救済とは、人格の完成によって、一体としての〈全体〉への貢献を果たすことを可能ならしめることに他ならない――。日本の救貧制度をめぐる議論には、このような言葉が執拗に繰り返し現れてくる。戦前日本の救貧制度は、救済に対する個人の権利を認めなかった。しかし、公的救済は困窮者に対して「上から」一方的に施与されるものでもなかった。それは、救護の受け手が受身の客体であることを許さない制度であった。救済の受け手に対して求められたのは、独立自営の人材として自己を完成させ、国家・社会の発展に寄与することであり、禁じられたのは、国家・社会に内在しない異物としての位置から、国家・社会に対して救済を要求することであった。戦前日本の救貧制度は、こうした意味での'シティズンシップ'への過程として意味づけられた。この救貧理念は、「大正デモクラシー」や「戦時体制」という時代の変化をくぐって再生産されていった。個人の権利でも一方的な施与でもない、〈全体〉への参加の義務が、戦前日本の社会事業に響き続けた強い理念であった。

 しかし一方で、社会事業をめぐる政策議論は、時代の変化に対して超然としていたとは言い難く、むしろ時代の波に翻弄されたかの観がある。特に、日本が本格的な総力戦体制に入りつつあった1930年代の後半から1940年頃にかけては、1920年代に形成された社会事業の指導精神や政策理念を戦時体制に向けて「転換」すべきことが盛んに議論された。その主たる主張は、「自由主義・個人主義から全体主義・国民主義へ」、「慈善的救済から人的資源の培養へ」の変革であった。1930年代後半から1940年頃の社会事業雑誌には、このような発展段階論の筋書きを持った「転換」の言説があふれていた。

 それでは、こうした「転換」の言葉通りに、社会事業は「大正デモクラシー」的なものから「戦時体制」的なものへと転向したのだろうか。実はそうとは言い切れない。総力戦体制への移行期に成立した社会事業法制は、「転換」論がそこから脱却すべき「過去」として語った1930年代初期以前に構想されたアイデアが、数年を経てようやく実現されたものであった。1930年代後半に成立した母子保護法や社会事業法は、一見戦時体制の産物であるかのようにも見えるが、これらは1930年代初期以前から構想されていた政策である。それでは、過去からの「転換」論の流行と、実際に作られた政策の過去からの継続性との間のこのミスマッチを、どのように解釈すればよいのだろうか。時代を超えて執拗に繰り返される救貧理念、時代に伴う「転換」を主張する発展段階論、そしてこれらの言説によって正当化されながら形成された政策アイデアの連続性。これは社会事業の擬装転向なのだろうか。

 救貧制度をめぐる政治過程における言説実践を追っていくと、1930年代後半の社会事業の発展段階論は、現時点から過去を作り変えることによって創作された物語(フィクション)であったことがわかる。「転換」論の主張とは異なり、実際には1920年代の救貧理念と総力戦期の救貧理念とは、同型的なものであった。

 確かに、大正期には「社会」という新しい言葉が盛んに用いられ、総力戦期にはこれに「国家」という言葉が取って代わった。しかし、大正期の「社会」という言葉も、総力戦期の「国家」という言葉も、救貧制度を意味づける政策議論においては、共に'唯一の倫理によって個人を内面から一体化させる〈全体〉'を意味するものとして用いられ、個と〈全体〉の関係の捉え方において、「大正デモクラシー」期と「戦時体制」期の救貧理念は同型的であった。

 「社会」と「国家」の交替と共に、1930年代後半の言説の変化として、人的資源という「発見」があった。人間を生産要素であるモノとして捉えた「生産力理論」は、それまで救済対象を人格として捉えてきた社会事業に新しい視点をもたらす可能性を、論理の次元では持っていた。「生産力理論」は、救貧を人格の完成と同義のものと考える精神主義的救貧理念を批判して、物質的救済、「胃の腑」の保障の合理性と正当性を主張した。しかし、社会事業の政策形成過程の場においては、「生産力理論」のボキャブラリーと精神主義的救貧理念が折衷され、批判の論理は換骨奪胎されてしまった。政治過程において社会事業政策を意味づけた議論は、精神的教化を生産力と結びつけてきた従来の救貧理念に、「生産力理論」のボキャブラリーを同化させて組み込んだものとなった。

 大正期の「社会」という新しい言葉の登場や、総力戦期の「生産力理論」という新しい理論の登場は、社会事業をめぐる政策議論に根本的な転換をもたらす論理的な可能性を持っていたが、現実の政策形成過程においては、新しさの意味を無効にするように論理が組み替えられ、新しい言葉を用いながら旧い理念が繰り返されたのであった。本稿で取り上げた法制はすべて、旧い政策議論と新しい政策議論との折衷によって意味づけられて成立したものであった。

 言葉の交替が政策理念の転換を意味しなかったこととは別に、1920年代前後から、「社会」の名の下に、あるいは「国家」の名の下に、社会事業の法制化は確かに進んだ。この意味での'国家化'は、救貧制度のあり方にどのような意味を持ったのだろうか。社会事業の法制化による「国家」の領域の拡大は、民から官への移行を必ずしも意味しなかった。「国家」の法は「社会」=民によって運用され、民から自律した官の機能は弱かった。また、民は「国家」の一部として機能し、「国家」の名の下に民としての存続の保証を得ていた。「国家」は「社会」の方からも浸透されながら、「社会」の上に広がっていったのであった。方面委員制度や社会事業法をめぐる議論において強調された官民の意味づけの棲み分け――民による精神的救済と官による物資的救済――も、官民による救貧制度の複線化を意味するものではなかった。民による精神の救済は「国家」の外で行われるものではなく、また民による精神の救済から自律した官の物質的救済が存在したわけでもなく、両者は相互に浸透して一体の制度となっていた。

 官民両者を含むこの〈全体〉は、ある時期には「社会」と呼ばれ、別の時期には「国家」と呼ばれた。言葉には言葉自体の力があり、それが「社会」と呼ばれるか「国家」と呼ばれるかは重要である。大正期の「社会」という言葉は、「国家」と個人という二者関係を前提としつつ、しかも〈全体〉に外在する個人の存在は消すということによって、個人の権利なき公的救済義務を意味づけるためのレトリックとして重要な役割を演じた。しかし、それと共に問うべきなのは、何と呼ばれようと、その〈全体〉が何なのかである。それは唯一の〈全体〉なのか、あるいはその〈全体〉に外部はないのか、という問題である。戦前日本の救貧制度は、ほとんど常に'シティズンシップへの過程'としての救済、すなわち〈全体〉のなかに「所を得させる」ための救済として意味づけられていた。この〈全体〉は、「国家」と呼ばれても「社会」と呼ばれても、あるいは経済システムとして捉えられても、唯一の倫理によって個人を結合させる一つの〈全体〉であった。「国家の分」として臣民の義務を尽くす限りは皆平等であるという一君万民主義も、経済社会の中で各々の職能を果たす限りは皆平等であるという協同主義の経済倫理も、「第二の国民」の母である限りは皆平等であるという母性主義も、すべて国家・社会に「所を得」て主体化するもの=subjectとして「平等」の存在であることを承認するイデオロギーである。戦前日本の救貧制度は、国家・社会に「所を得」て従属すること――生産要素になること、民族の母になること――を条件とすることなしに、個人の生存を保障する場も言葉も、持たなかった。〈全体〉の中に「所を得ない」異物objectに対して、生存を保障する別の原理が存在しない場合には、'生存の義務'は生存の権利から限りなく遠いものである。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は,1910年代から1940年前後を中心に,日本の救貧制度をめぐる言説実践としての政治過程を分析しながら,この時期を通じて一つの救貧理念が再生産されていく過程を明らかにし,このことによって日本の近代におけるその意味を考察しようとしたものである.

 本論文は,明治・大正期から総力戦期に至る日本の救貧制度の中で繰り返し強調されたのが,"救済とは,人格の完成によって,一体としての〈全体〉への貢献を果たすことを可能ならしめることに他ならない"という救貧理念であったことを,多数の資料を用いながら明らかにする.この理念は個人の法的権利ではなく,また「国家」による一方的な恩恵でもない,"〈全体〉への主体的な参加の義務"である.このため救済を受ける者は,受身の客体objectであることを許されず,「国家」と「社会」の営みに参加する主体=臣民subjectに変換され,〈全体〉の中に「所を得させる」ことが求められる.本論文はこれを"生存の義務"と呼び,日本の近代化における「シティズンシップ」の現れと見なす."生存の義務"の下では,救済することも救済されることも〈全体〉への義務となるため,個人に対して救済の権利が認められることはない.また救貧はこの〈全体〉に内在する者に対してのみ認められることから,この理念の下では,〈全体〉の異物=objectの生存を保障するものとして救貧制度を構想することはできない.本論文は,こうした"生存の義務"といった理念が,「国家」-「社会」関係と密接に関わりながら,「大正デモクラシー」から「戦時体制」へと至る時代の中でたえず再生産されてきたことを明らかにする.そのうえで戦前日本の救貧制度の形成が「国民」の形成というプロジェクトの一環であり,この制度の特性が近代化の未熟や封建遺制によってではなく,日本の近代化そのものによって生み出されたものであると主張する.

 本論文の審査の過程では,社会学の論文としては資料の引用が多すぎるのではないか,筆者のシティズンシップの理解に問題はないか,などの意見も出された.しかし,本論文には以下のオリジナリティが認められる.(1)引用の多用によって,逆に,政策の形成に関わったアクターによる制度の意味づけの過程を明らかにすることができた.(2)思想と制度を媒介する「言説実践」という,従来は見落とされがちであった領域を設定して,この分析を詳細に行った.(3)意味の領域としての「国家」・「社会」とアクターとしての「国家」・「社会」を区別して,既存の「国家」と「社会」の関係を再考した.(4)救貧制度を国民の形成という文脈のなかに置くことにより,従来は日本の近代化の遅れとして理解されがちであった戦前日本の救貧制度の性格を,近代化そのものによってもたらされたものであるとの結論を引き出した.(5)"生存の義務"としての「シティズンシップ」を日本の近代化の過程における,国民形成のイデオロギーの一つとして対象化した.また,本論文は,資料の綿密な分析をつうじて自説を展開していくという点で,社会学としての研究手続きも適切に踏んでいる.

 よって当審査委員会は,本論文が博士(社会学)の学位を授与するに値するものであるとの結論に到達した.

UTokyo Repositoryリンク