学位論文要旨



No 119575
著者(漢字) 沖本,幸子
著者(英字)
著者(カナ) オキモト,ユキコ
標題(和) 今様の時代 : 変容する宮廷芸能
標題(洋)
報告番号 119575
報告番号 甲19575
学位授与日 2004.05.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第509号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松岡,心平
 東京大学 教授 三角,洋一
 東京大学 教授 岩佐,鉄男
 東京大学 教授 石光,泰夫
 東京大学 教授 五味,文彦
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての宮廷芸能の変容について考えようとしたものである。特に、雅楽など大陸由来の芸能が主流の宮廷にあって、それまで卑俗なものとされていた巷間の流行歌「今様」が、次第に受容され流行していったという事実に注目していく。折しも和歌が民衆の表現の中に新たな道を見出そうとしていた時代でもあり、爛熟期を迎え、武士が勢力を伸張させていく中で、宮廷がどのような力を必要としていたのか、芸能の変容を通して考えていく意味もある。

 本稿の一つの特徴は、歌詞研究が大半であった今様研究に芸能史研究の軸を立て、宮廷歌謡としての今様がどのような土壌から産み落とされ、どのように継承されていったのか、具体的に考察した点にある。その際、五節の淵酔(えんずい)という、院政期の始まる頃に成立した酒宴の芸能の展開に目を向けて、朗詠から始まり、雅楽の万歳楽での乱舞によって締めくくられるという枠組みの中に、次々と新しい芸能が流入していく様を明らかにしてきた。まず、大道芸能と深く関わる散楽の中から今様が析出され、今様の流行が一段落した頃に、乱拍子、白拍子という新しいリズムに乗っての乱舞が流行し、乱舞熱の高まりの中で、貴族自身が「物云舞(ものいいてのまい)」などの独自の芸能を生み出すに到るというアウトラインを描いたのである。これは、酒宴の芸能の歴史を切り口にしたものだが、宮廷における芸能の流行の変遷をほぼ正確に辿っていると考えられる。

 そして、こうした大まかな宮廷芸能の流れを踏まえつつ、画期と思われる時代の芸能熱のありようについて、更に踏み込んで考察していった。まずは、宮廷に今様が本格的に流入してきた白河院時代の今様熱、そして、今様集『梁塵秘抄』の編者・後白河院の今様熱、最後に、今様の流行が去った後の宮廷の芸能熱について、それぞれの実態と意味とを探ろうとしたのである。

 以下、本稿の構成に沿って見ていくことにしたい。

 まず、第I部「今様、宮廷へ」では、今様が宮廷に流入してきた時代に目を向けた。

 第一章「今様への道」では、今様が「今様歌」すなわち、単なる「今風の歌」と呼ばれていた時代から、「今様」という一ジャンルの歌謡として認識されるに至るまでのプロセスを追い、「今様」が、どのような歌謡として貴族社会に受け入れられていったのか探ろうとした。

 (一)「「今様歌」から「今様」へ」では、「今様歌」と呼ばれていた時代の今様が貴族社会とは一線を画した、卑俗な歌謡と認識されていたことを確認した。そうした中で、今様のプロの担い手である傀儡子(くぐつ)(遊女の一種)と貴族の双方に後世名手として語られる人物が登場し、名手の神話化を伴いながら、「今様」が宮廷社会との距離を縮めていく様子を考察した。

 (二)「散楽と今様」では、貴族社会に迎え入れられた今様が、「淵酔」という、宮廷で毎年行われる酒宴で歌われるようになっていくことに注目した。その中で、宮廷に流入した頃の今様が「散楽」ともいわれていたことを指摘し、当時の散楽の滑稽無比な性質を、宮廷の陪従(べいじゅう)による散楽や大道の散楽と照らし合わせながら考察し、当時の今様の性質に迫った。巷間に散楽のエネルギーが満ちていた時代の話であり、そうした大道の熱狂をまさに背負うものとして今様が宮廷に流入していたことを具体的に明らかにしたのである。

 第二章「今様の場をつくった人々」では、白河院時代の宮廷の今様熱を生み出し支えた人として、特に、宮廷の中枢にいた人々に焦点を当て、当時の今様の多様な享受の様相を明らかにした。

 (一)「白河院皇女と今様」では、白河院最愛の娘・郁芳門院の田楽熱が内裏や院で上流貴族達までもが自ら雑芸能を行う道を拓き、その妹・令子内親王が雑芸能の場である淵酔を頻繁に主催するなど、貴族が散楽や今様に興じる場を生み出していったことを明らかにした。(二)「摂関家と今様」では、摂関家という貴族界最高の家柄にあり、宮廷古典音楽にも造詣の深い藤原忠実が内々の宴で今様を歌わせる一方で、白河院の御前などで自ら今様を歌っていたことを指摘した。そして、(三)「白河院と今様」では、時の帝王・白河院が、男色の土壌ともなった院北面というプライベートな空間で、しばしば今様などの雑芸能を行わせていたことを明らかにした。

 第II部「祈りの今様」は、今様狂いとして名高い後白河院にとって、今様とは果たして何であったのか考察しようとしたものである。まず、序章で、院にとって今様の道が熊野の道と重ねて捉えられるような求道的、信仰的なものであったことを確認した上で、以下、院が今様を信仰として捉えた理由について考察していった。

 第一章「今様のトポス」は、後白河院が正統と仰いだ美濃・青墓の傀儡子がその相承の根本とした相模国・足柄明神の神歌「足柄」に注目し、「足柄」という土地を多角的に考察する中で、「傀儡子」とは何か、「足柄」とは何かを問うたものである。その上で、「足柄」を根本とする「傀儡子」に後白河院が連なろうとした意味を考えていった。(一)「傀儡子考」では、足柄の地を、東国の霊場の中に位置づけ、特に伊豆走湯山、箱根山との対照の中で、足柄明神の渡来神としての性質を指摘し、傀儡子がその神を祀り、樹木信仰とも深く関わりながら「木々のもの」としての起源を持っていた可能性を指摘し、傀儡子の異形性に触れた。(二)「境界考」では、足柄という土地が、宮廷にとって東との境として古来重視され、東を祀り鎮めるべく宮廷で行われてきた「東遊歌」の生まれた地であったことを確認し、源頼朝による東国覇権確立の流れの中で、特に、東との堺を鎮めるものとしての足柄明神の役割が重視され、今様「足柄」が、まさに、新しい「東遊歌」の意味を持っていた可能性を指摘した。

 第二章「今様の身体」では、今様という歌謡の生態に即して、後白河院にとって今様が信仰と捉えられた契機について考えた。(一)「後白河院と今様の声」では、後白河院が声の力への信仰を持っていたことを確認し、どのような声がなぜ理想とされたのか、当時の楽器の音声観などとの比較の中から明らかにした。(二)「女声考」は(一)の補説として記したもので、後白河院が女性傀儡子の声に繋がろうとしていたことに注目し、当時の女性の声の持つ意味と役割について考察し、後白河院の声観を違う角度から考えようとしたものである。(三)「今様の身体」では、今様表現の一つの特質である主情性に目を向けて、「われ」の「心」を歌うということによって何がもたらされるのか、今様信仰との関わりから考察した。

 第III部「歌から舞へ」は、後白河院の異常なまでの今様熱を受けて、今様を含めた宮廷芸能がどのように変化していったのか、その変化の様相に目を向けたものである。

 第一章「今様の固定化と後白河院」では、後白河院の求道的な今様熱の一方で、宮廷全体の今様熱が収束に向かっていくことを確認した。(一)「宴席今様の固定化」では、淵酔の今様の曲目が固定化されていくプロセスを、(二)「「今様の家」の成立をめぐって」では、今様が宮廷古典歌謡の一つとなり、歌の家の管理下におかれていくプロセスを、それぞれ後白河院の影響を視野に入れつつ考察した。

 しかし、そうした今様熱の収束は一面で新しい芸能の時代への移行をも意味していた。言い方を変えれば、かつて今様が体現していた大道散楽的エネルギーが、今様を介して、より大きな波動となって受け継がれていったということである。その様相を具体的に明らかにしようとしたのが、第二章「宮廷芸能の展開」である。

 まず、(一)「乱舞の鼓動」では、今様表現の一部を受け継ぎながら、「乱拍子」「白拍子」という新しいリズムが流行し、それに乗っての乱舞が、五節の淵酔などの芸能として興じられ、貴族の興味が歌から舞へと次第に移っていくことを明らかにした。(二)「物云舞の成立をめぐって」では、乱舞流行の時代の中で、五節の淵酔に貴族たち自身が「物云舞」という独自の芸能を生み出していったことを指摘、物云舞成立のプロセスを、「五節の櫛」の「風流化」との関わりから考察した。(三)「滝口と芸能」では、(一)で見た乱拍子流行の一側面として、天皇の警護を職務とした滝口武士が、乱拍子を歌うプロとなり、猿楽能成立の母体となる寺院儀礼の場にも参加するなど、芸能者としての役割を強めていったことを明らかにした。

 最後の章で扱っている芸能は今様ではないが、今様表現の一部が新しいリズムに乗って再生していったこと、元今様が体現していた散楽的エネルギーが新しい宮廷芸能の形で展開していったこと、さらに、その一部が猿楽能の成立へと繋がっていく様子が窺えること等の重要性を鑑み、本稿に取り入れ、締めくくりとした。

審査要旨 要旨を表示する

 沖本幸子氏の博士論文「今様の時代――変容する宮廷芸能」は、12C後半、後白河院によって『梁塵秘抄』というテキストに結実した「今様」という歌謡をめぐる芸能史的考察である。

 この論文は、三部構成となっており、第一部「今様、宮廷へ」では、後白河院以前の、プレ今様の段階が捉えられ、第二部「祈りの今様」では、後白河院の今様狂いの様相が語られ、第三部「歌から舞へ」では、後白河院の時代以後の、今様を含めた芸能の諸相が問題となっている。

 第一部では、今様が宮廷に流入してきた様相が捉えられる。今様が「今様歌」つまり単に「今風の歌」と呼ばれた時代から、「今様」という歌謡の一ジャンルとして認識されるに至るプロセスが追われ、また、宮廷の儀式的酒宴である「淵酔」において、今様が、滑稽なパフォーマンスである「散楽」と重なり合いながら入り込み、重要な位置を占めるまでが追跡されている。今様歌から今様へという捉え方、散楽と重なり合う今様という指摘に独創性が認められる。

 さらに沖本氏は、プレ今様の場を形成した人に注目し、白河院の皇女郁芳門院やその妹令子内親王のサロン、摂関家では藤原忠実の今様活動、そして、白河院の北面の武士の男色的な場での今様芸の展開にも触れている。どれも先行研究を一歩ずつ進めるものだが、とくに藤原忠実の今様との関わりについては、今までにない研究と評価された。

 第二部では、後白河院の今様への傾倒を熊野信仰の面から捉えようとしており、その上に立って、今様の中の秘曲とされる「足柄」について、主として民俗学的なアプローチによって新しく考え直したのが第一章である。第二章の「今様の身体」では、後白河院が持っていた声の力への信仰ならびに、当時理想とされた声のあり方への追究がなされている。ここでは、今様を謡う後白河院の身体をどのように捉えるのか、という身体論的アプローチがなされており、第一部、第三部の歴史的アプローチと、第二部の民俗学的・身体論的アプローチとが、齟齬をきたしているという批判もあったが、逆に身体論的アプローチの独創性を高く評価する立場や方法論の豊かさを評価する立場の表明もなされた。

 第三部では、今様という芸能自体は衰退していくものの、今様が宮廷の中枢に入ったことにより、その散楽的なエネルギーが宮廷芸能にさまざまな影響を与え、むしろより大きな波動となって受け継がれていくことが、いくつかの局面で明らかにされた。

 「乱拍子」「白拍子」などの新しいリズムの流行、「淵酔」の場における歌から舞への力点の移行、その舞において「物云舞」という独自の芸能が生み出され、それが中世小歌の先駆けとなっていくこと、さらに「五節の櫛」の風流化(装飾化)の問題、そして最後に、天皇の警護を職務とした滝口の武士が、乱拍子を歌うプロとなり、猿楽能成立の母体となる寺院儀礼の場に参加するなど、芸能者としての側面を強めていったことなどが語られた。

 滝口の武士の芸能についての総合的記述はこの論文においてはじめてなされた独創的研究であり、能楽の形成史にとっても大変重要な成果であることは疑いのないところである。

 資料の取り扱い方の未熟な面への指摘、宮中の他の歌謡である「朗詠」や「催馬楽」などの音楽的側面を徹底的に解明することにより「今様」の独自の位相がよりはっきりするだろうといったアドヴァイスもなされたものの、本論文が全体として、先駆的、独創的な研究となっていることについては審査員全員の間で意見の一致を見た。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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