学位論文要旨



No 119577
著者(漢字) 金,成根
著者(英字)
著者(カナ) キム,ソンクン
標題(和) 19世紀東アジアにおける科学概念と自然観の変容
標題(洋)
報告番号 119577
報告番号 甲19577
学位授与日 2004.05.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第511号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 講師 岡本,拓司
 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京理科大学 講師 愼,蒼健
内容要旨 要旨を表示する

 東アジアの19世紀は、古代中国にその原形として生れ、隣国の朝鮮・日本に伝わった「朱子学」を中心に成立した学問の枠組みが西洋近代の学問によって大幅な転換を強いられた時代である。この東アジアの「近代」と呼ばれる時代が、事実上、西洋近代をモデルとした文明の変革過程というならば、これは自然科学とそれをベースとして成長したテクノロジーを無視して語ることはできない。このような事情は、従来、東アジア科学技術史の研究にも「西欧中心主義」という一つの根強い視角をもたらした。ところが、ジョセフ・ニーダムは一連の巨大な研究プロジェクトを通して東アジアの科学技術は、少なくとも紀元後15世紀までには西欧のそれよりも優れていたという事実を指摘した。彼の研究は、かつての科学技術史において忘れられていた東アジア文明圏の貢献に新しい光をあてたことで重要な意義をもっていながらも、15世紀以降の東アジア科学技術を、西欧科学技術史の文脈の中で捉えていることから、いくつかの問題点を残しているのも確かである。このようなニーダムの視角は、もちろん人類における「科学の単一性」という観念から生まれるものであるが、ゆえに彼においては、それぞれの文明的基盤に根ざした科学なるものも、将来には「単一性」の体系に統合される、という楽観的展望に帰結している。ところが、クーンの新しい科学観は、二つの科学的「パラダイム」を同一の基準にかけて優劣を決定することができないことを、「通約不可能」という概念を用いて説明しているが、このような科学観は、従来の科学の「累積的」進歩というイメージに革命的な転換をもたらした。クーン以降、東アジア科学技術史は、西欧近代科学という固い制約から逃れ、より幅広い視角によって記述されうる可能性を獲得したと言える。ところが、われわれは西洋類の科学の概念群に還元されることなく、しかも人類の未来に通じうる東アジア科学技術の発展的展望をまだ描いていない。もしわれわれが、西洋類の科学のイメージとはきわめて異なる前提の上に成り立つ科学観、すなわち近代にいたるまで東アジア科学技術の独立した考察が可能であるなれば、それが従来とは根本的に違う方向から科学もしくは科学観の発展的地図を描くことも可能になるはずである。ゆえに本論文は、ニーダムによって西欧近代科学の中に溶け込んでいったとされる東アジアの科学技術を再び捉えなおし、その発展的展望を描くことを目的としている。

 本論は、大きく二つの部分になっており、第I部は19世紀朝鮮の学問、第II部は19世紀日本の学問に焦点を合わせている。筆者は、このときそれぞれの学問の基底を成している代表的な自然観のことを「気学的自然観」と「機械論的自然観」という名称として規定した。これには二つの狙いが反映されている。一つは、自然観の変容という劇的な歴史的事件をより明確に捉えるためには先行の時代と後行の時代から一つの代表的な自然観を取り上げる必要があったことである。もう一つは、東アジア近代において19世紀の科学技術というのは一体何者か、という本質的な質問に迫るためには、当時、東アジアの中でもっとも対極の位置に存在していたに違いない両国を同一の地平において検討するのはきわめて枢要な作業になることである。

 第I部の第一章では、朝鮮後期の儒学思想と「天地」の観念を論じている。われわれは、古代中国伝来の自然観がいかなる連続性を保って朝鮮後期の学問傾向に受け継がれているのかを検討できる。そして、そのような自然観の究極の表現様式として現われた金正浩の『大東與地図』を第二章で論じている。金正浩の地図から、われわれは「宗教的世界観」と「気学的世界観」という二つの世界観の共存を読み取ることができる。これは、東アジア文明圏において迷信性からの脱却が、たんに西洋近代の科学的「知」への進入を意味していなかったことを明らかにしている。第三章では、崔漢綺によって体系化された「気学」という学問を取り上げ、「感応」という迷信性が「通」的認識論へ転換してくる様相を論じている。崔漢綺は、17〜8世紀東アジアの思想空間において、新たなルネサンスを迎えていた「気」の思想の中に「物理」(自然科学)を還元しながら、さらに朝鮮後期の「北学派」に見られる平等的民衆観を取り込んで一応最終的な「気学」の完結を成し遂げていたのである。それは「知」の「普遍性」を外在的に導入してくるのではなく、内在的な「通」の実現から構成されるものとして描いたことに大きな特徴をもっている。このような自然観を、人体という「気」的感応体に適用させ、新しい医学的「パラダイム」を構想したのが、第六章で論じる李濟馬の四象医学である。彼を通して、朝鮮末期の一儒学者が自らの思惟体系をいかに医学という現場に適用しようとしたのかを見ることができる。ところが、本論文では19世紀東アジアにおける自然観の移行もしくは変容に関わる歴史的動因を探るため、社会史的内容をも取り入れた。それが、西洋諸国の東アジアの軍事的衝撃が朝鮮社会にいかなる影響を及ぼしたのかを論じた第四章と第五章である。この二つの章は、日本近代とは異なる朝鮮の「近代化」の歩みをより鮮明にもの語ってくれると言えよう。

 第II部の第七章では、日本の江戸時代における朱子学や古学の「自然」概念を論じ、また、江戸後期の蘭学における「物」(matter)概念の形成史を論じている。これによって「気」の概念と対比される西洋類の「物」概念の導入をみることになる。第八章と第九章は、幕末日本の技術史的激変とりわけ軍事的テクノロジーの移植に主な焦点を合わせている。特に、この二つの章は19世紀日本における自然観のドラスティックな変容を説くために、きわめて重要な社会的背景を提示してくれる。すなわち、幕・藩体制の特殊性による内戦的状況の勃発、そしてその中で多量に流入される西欧の近代的武器や軍事技術、これ以上東アジアの「近代化」における日本の特殊な歩みを解明してくれる要因はいないと言っても過言ではなかろう。第十章では、西周と「物理」の発見について論じている。この章は、主として第三章の崔漢綺の学問との比較を念頭において書かれた。二人の共通の課題として抱かれた朱子学的「理」の捉え直しによる「物理」と「心理」の分化もしくは統合がいかなる意味をもっているのかを確認できる。西は、「物理」を「心理」から断絶された領域に切り離し、一応従来とは異なる自然界の法則性の探求を用意したのである。また、そのような作業は、漢字文化圏の中に新しい言語を持ちいれることによって進んでいくことになる。第十一章では、「自然」という言葉がnatureという西欧近代科学の量化された概念へ変わっていく様相を論じている。これによって、伝来の漢字文化圏における「自然」という言葉の概念転換と同時に、その認識の転換までもが東アジアの学問現場にあらわれる過程を理解できよう。そして第十二章では、近代西欧の科学技術が明治日本の学問空間の中に制度化される様相を論じている。このとき、西欧近代の「機械論的自然観」が東アジアの学問現場に定着したことが理解されるのである。

 19世紀東アジアには「自然」(nature)を見る方式に大きな転換が起きた。東アジアに流入された西洋科学は、そのような「自然」をみる新しい方式を前提として成り立つ「知」的体系であった。このとき、もしわれわれが二つの自然観いわゆる「気学的自然観」と「機械論的自然観」の「通約不可能性」をさらに追究していくならば、それは結局、「気学的自然観」と「機械論的自然観」の根幹を成していた「気」(ch`i)と「物」(matter)という概念的述語に還元されるであろう。「気」の概念は、人間と自然界を共通に貫く一種のエネルギーであり、人間の精神と身体をも根底から結びつけているものであった。このような「気」の概念に土台をおく東アジアの人々の「自然」理解は、世界や宇宙の始原さらには人間の生死観などのような古代の宗教的観念とも決して無縁ではない一つの文明のもっとも基本的な認識の根底を反映している。このような過程を理解するならば、われわれは従来の東アジア科学史の記述とはかなり異なる「科学」のイメージと接することができる。本論文では、東アジア圏の中でも「近代化」に一番乗り遅れた朝鮮の例を取り上げ、それを描くことを試みたが、もしこのような新しい科学史の地図がより広範囲にかけて描かれるならば、それは決して朝鮮後期のある知的潮流に限られるものではないと言えよう。17〜8世紀東アジア学問の中には西洋科学の影響をうけつつも、あくまでも「気」の概念を中心として一つの壮大な自然哲学を設計しようとした傾向が存在しており、金正浩、崔漢綺に流れる「知」的潮流は、確かにそのような伝統を受け継いでいるということができる。このことは、東アジア文明の「解釈学的基底」に基づくもう一つの「科学」の成立可能性を示唆していると考えられる。つまり、東洋医学を中心としながら、その周辺部に様々な「知」の構造を併せ持つ一つの巨大な「科学」の体系がそこには芽生えていたと言えよう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、19世紀東アジア、とりわけ朝鮮と日本の自然観の変容とそれに伴う科学概念の転換を比較史的に論じた野心的な極めてすぐれた研究である。

 19世紀は、欧米列強が近代科学技術力を利用して、中国、朝鮮、日本への進出をはかった時代であった。18世紀までの東アジア三国は中国の衛生文明として統一した自然観・学問観を有していたと言ってよかった。ところが19世紀になると中国は阿片戦争によって英国の軍事的侵略の対象となった。そのような衝撃を受けても、朝鮮は中国以上に、朱子学的学問伝統を、その内部での改革を試みながらも保持し続けた。他方、日本は幕末・明治維新期に朱子学的学問体系を遺棄し、西欧近代的科学技術の体系的導入をはかった。本論文は、近代日本の機械論的自然像、西欧軍事技術の導入が伝統的自然観を守った朝鮮よりも必ずしも勝っていたわけではなかったことを、日本と朝鮮の自然観・科学観を多面的に比較しながら緻密な文献考証に基づいて、主張している。

 本論文は朝鮮学問の第I部と日本学問に関する第II部とからなる。第I部では朱子学の気学的自然観を概説したあと、朝鮮儒学者金正浩(キムジョンホ)の風水思想を利用しての地理学について論じ、さらに崔漢綺(チェハンギ)の体系的気学思想を紹介している。その後、欧米列強の軍事的脅威が朝鮮に及ぼした影響を包括的に論じたあと、儒学者による気学思想の医学への応用を紹介している。総じて、近代朝鮮が伝統的儒学の枠組みの内部で漸進的近代化を試みていたことを確認している。

 近代朝鮮と対照的な学問的転換を図ったのが幕末明治初期日本であった。それが第II部が取り組む問題であり、まず、徳川体制における朱子学と連携した自然概念を概説したあと、幕末・明治維新期の社会変動に言及する。さらに、明治初期の日本で西洋学術用語の多くを確定するために尽力した西周による「心理」から独立した「物理」概念の形成、西洋の'nature'に対応する「自然」概念の成立があとづけられる。最後に、「物理」や「自然」が伝統的漢語=日本語を換骨脱胎するする形で、西欧近代の機械論的自然観に適合的な語彙として定着する有り様を叙述している。

 しかし、近代日本に定着したような近代西欧的自然概念はけっして自然科学思想にとって普遍的なものとは言えず、朝鮮のように、風水的地理観を保持し、漢医学を発展させた近代自然科学も有りえたことを金氏は結論として主張している。

 本論文の独創的貢献をもっと個別的に述べれば、以下のとおりである。

(1)19世紀朝鮮の朱子学的自然哲学の世界の科学史における歴史的意義を幾人かの儒学知識人に沿って闡明したこと。

(2)幕末・明治初期の西周を中心とする学者による西欧近代科学の諸概念に対応する漢語の確定を緻密に成し遂げたこと。

(3)19世紀朝鮮と日本の西欧近代自然科学の受容の仕方の相違を、必ずしも近代日本を理想化することなく、比較史的に論じたこと。

 本論文は、近代朝鮮と日本の自然科学的基礎概念を予断なく、文献史的に比較しえた斬新さにおいて際立っている。日本の伝統的自然観として国学の影響に言及すべきだという意見もあったが、それは改訂版に取り入れることによって補訂できる。審査委員全員は、本論文をもって学位取得のために十分であると判断した。本論文は、金氏が日本と韓国を繋ぐ包括的科学思想史家であることを示した。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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