学位論文要旨



No 119581
著者(漢字) 吉田,寛
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,ヒロシ
標題(和) 多細胞生物の再帰的増殖と形態の多様性について
標題(洋) On recursive production and morphogenetic diversity of multicellular organisms
報告番号 119581
報告番号 甲19581
学位授与日 2004.06.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4575号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和達,三樹
 東京大学 教授 桑島,邦博
 東京大学 助教授 能瀬,聡直
 東京大学 助教授 池上,高志
 東京大学 助教授 清水,明
内容要旨 要旨を表示する

 本研究全体の目的は、多細胞生物における個体としての再帰的増殖と一個体内での形態の多様性、即ち、細胞タイプの多様性を理解することにある。そのために本研究では、形式言語と力学系という2つの枠組を使用した。本研究では、前者は、細胞タイプ、その間の遷移規則、機能分化を予め仮定し、後者は仮定しないという点でお互いに異なっている。しかし、前者はパラメータに依存しないという意味で普遍性があり、後者は、本研究では、シミュレーション実験であり、全パラメータ空間を探索できるものではないという意味で普遍性に欠けている。このように、両者は仮定、普遍性の有無において相補的である。

 第一章では、形式言語の枠組みを用い、単細胞から多細胞への進化過程を比較的簡単に追うことができる緑藻に注目し、その形態の多様性のクラス分けとそれによる進化途上における形態変化の必然性の理解を目的とした。ここでの、形態の多様性とは、細胞外マトリックスの構成要素の組合わせにおける複雑度を指しているのだが、細胞外マトリックスも多細胞の重要な部分要素であることを考慮すると、全体の形態の多様性と考えることもできることに注意する。

 方法としては、先ず、多細胞を構成する細胞群には、既に何種類か種類があり、その種類に応じて機能があると仮定した。ここでいう機能とは、ある分子(シグナル分子)を感知すれば、それに応じて、ある分子群(細胞外マトリックス、またはシグナル分子)を放出することを指している。このような感知する分子と放出分子の組み合わせを形式言語の枠組みで焼きなおし、その組み合わせ規則がどのような性質をもっていれば、細胞外マトリックスの(構成要素の)複雑度がどうなるかを解析した。

 第一章の結果は、次のようなクラス分けになった。外界に対して開いている多細胞、例えば、Gonium pectoraleの個体の集合に対する細胞外マトリックスの構成要素の集合は、有限にとどまっていること、一方、外界に対してある程度閉じた空間を持つEudorina elegansの場合は、細胞外マトリックスは、構成要素間に線型の関係を持つことができ、さらに、閉じた空間と細胞同士が密に連携できる、即ち、協同的に働くことのできるVolvox globatorの場合は、非線型の関係をもつことができるというものであった(図1)。この結果は、形式言語における複雑度と実際の生物の細胞外マトリックスの複雑度を関連させるという初めての試みから得られたものである。

図1:Gonium pectorale、Eudorina elegans、Volvox globatorにおける個体の集合に対する、細胞外マトリックスの構成要素の複雑度:有限、線型、非線型。細胞は描いていないことに留意。(b)は、細胞外マトリックスが3種類(赤、緑、シアン)あり、それらの比が3:1:7のとき。(c)は、球体とみなし、半径nのとき、細胞外マトリックスBZ,DZはn2,n3に比例し、非線型の関係がある。

 この結果から、緑藻の進化途上における形態変化の必然性について次のようなシナリオを描くことができる、あるいは理解できる。Eudorina elegansは閉じた空間という形態を獲得することによって、Gonium pectoraleには出来なかった、細胞外マトリックスに線型の関係を持たせることを可能とし、Gonium pectoraleの扁平で乱雑な群体からEudorina elegansの球形で、かつ、ある程度組織だった群体に移行することが出来た。さらに、Volvox globatorは閉じた空間と細胞同士を原形質連絡で密に連絡しあうという形態を獲得することによって、細胞外マトリックスに非線型な関係を持たせることを可能とし、それによって、Eudorina elegansよりもさらに組織立った群体、つまり、球形の表面上に整然と並ぶということを可能に出来た。これは、図1の(c)において、表層と球内部の細胞外マトリックスBZ,DZには、非線型な関係があることに留意すると分かりやすい。

 ひとつの仮説としては、(超音波あるいは塩化アルミニウム溶液処理などによって)Volvox globatorの原形質連絡を阻害すれば、Eudorina elegansのような群体に退化することが予測される。これは、形式言語の枠組みでは、言語族の階層においてより簡単な言語族へ降格することに対応している。

 第二章では、力学系の枠組みを用い、多細胞における再帰的増殖と形態の多様性が両立するのは、いかなる条件かを系統的に調べた。これら「個体としての再帰的増殖」と「個体内の細胞タイプの多様性」は、矛盾を内包した属性である。なぜなら、もし、再帰的増殖がなければ、それは生命とは呼ぶことができないし、一方、一タイプの細胞だけで構成される細胞群は、一タイプだけの細胞を増殖させさえすればよく、その意味で(結晶成長のように)再帰的であるけれども、そのような細胞群は、形態の多様性、即ち、細胞タイプの多様性を持たず、通常の多細胞とは考えられないからである。第二章の目的は、これら矛盾を内包した属性の両立条件の探求とした。

 第二章の基本的仮定は次の(a),(b)である。

(a)各細胞内では、栄養成分を他の成分に変換する経路も含めた相互触媒反応ネットが存在する。細胞自身を維持するため、自己触媒反応ネットを内包し、さらに、閉じた空間を作り出すために、膜成分を生成する反応経路が存在する。(Chemoton model)

(b)細胞タイプは、アトラクターである。(Stuart A.Kauffmanの提唱)

 (a),(b)の考え方を発展させ、細胞数が増加し、しかも、それらが相互作用すると、自発的に、細胞タイプ、タイプ間の遷移規則、機能分化が起ることを示したのがisologous diversification理論である。つまり、この理論を受け入れると、第一章での仮定-多細胞を構成する細胞群には、既に何種類か種類があり、その種類に応じて機能がある-が自動的に満たされることに注意する。

 第二章で用いたモデルは、栄養培地に浸された細胞が増加するとき、お互いに拡散によって連結し、一次元的な鎖状多細胞になるというものである。このようにして成長させた鎖状多細胞のどの部分集合を取り出して連結し、また同じ栄養培地に浸せば、上記の両立条件を満たすのかを初めて系統的に調べた。結果として、多細胞を個体として再帰させ、しかも形態の多様性を保つ両立条件の一つとして、親多細胞から、二つのお互いに異なった属性を持つ細胞を取りだし、それを新たな出発点(娘多細胞)とし、成長させれば良いことが初めて見い出された。この「二つ」は、力学系でいうと、カオス的なダイナミクスを持つものと、(準)周期あるいは固定点というダイナミクスを持つものに対応していた。

 実際の多細胞生物との関係は、まだ、現象論的レベルにとどまっているのだが、ウニの卵細胞における植物極をカオス的なもの、動物極を(準)周期あるいは固定点とみなすことできる。これにより、ウニの4細胞期における分離実験では、それぞれの細胞が正常な個体に成長するのに対して、8細胞期の分離実験では、動物極側の細胞は異常で、互いに似た細胞塊になる一方で、植物極側の細胞は、多様な形態をもつ細胞塊が出現し、ときどき、正常な個体が出来るという実験事実を矛盾なく説明できた。さらに、アフリカツメガエルの卵割球分離実験においても、動物極、植物極両方を残すような分離の場合(「二つ」が存在する場合)は、正常な個体が発生するけれども、そうでない場合は、異常な細胞塊になる。これらは、実験事実との驚くべき一致であり、このカオス的なものと(準)周期あるいは固定点を出発点とすればよいという仮説の強力な傍証となっている。さらに、この仮説から導かれる予言として、ES細胞をカオス的なものとみるとき、ES細胞から再帰する系列を産み出すには、カオス的なものではない細胞と接触すればよいことが予想される。事実、BMP4-producing細胞とES細胞との接触培養で生殖系列を見い出した実験が存在する。さらに、この仮説により、卵母細胞と濾胞細胞も上記の「二つ」とみなすことができ、バラバラな事象に統一的な見方を与えている。

 第一章と第二章は、最初に述べたような意味で相補的であり、それらを統合できれば、多細胞における再帰的増殖と形態の多様性について、さらに普遍的な見方を構築できる可能性がある。今後の課題は、第一章で触れなかった形式言語の枠組みにおける再帰的増殖を含めた、この二つの枠組みの統合である。

(a)Gonium pectorale

(b)Eudorina elegans

(c)Volvox globator

審査要旨 要旨を表示する

 多細胞生物における個体としての「再帰的増殖」と一個体内での形態の「多様性」、即ち、細胞タイプの多様性は、一見相反する概念のように思われる。したがって、その両立性を考察することは興味深い。そのために本論文では、形式言語と力学系という2つの理論的枠組を使用している。前者においては、単細胞から多細胞への進化過程を比較的簡単に追うことができる緑藻に注目し、その形態の多様性のクラス分けと、それによる進化途上における形態変化の必然性の理解を目指した。形式言語における複雑度と実際の生物の細胞外マトリックスにおける複雑度を関連させるという試みである。後者においては、多細胞における再帰的増殖と形態の多様性が両立するのは、どのような条件かを調べている。その両立条件の一つとして、親多細胞から、二つのお互いに異なった属性を持つ細胞を取りだし、それを新たな出発点(娘多細胞)とし、成長させれば良いこと、さらに、この「二つ」は、力学系の言葉でいうと、カオス的なダイナミクスを持つものと、(準)周期あるいは固定点なるダイナミクスを持つものに対応していることを示した。

 論文は、大別して、二章から成る。第一章は形式言語、第二章は力学系という枠組みを用いた研究が述べられている。前者は、細胞タイプ、その間の遷移規則、 機能分化を予め仮定し、後者はそれらを仮定しないという点でお互いに異なっている。一方、前者はパラメータに依存しないという意味で普遍性があり、後者は、シミュレーション実験であり、全パラメータ空間を到底探索できるものではないという意味で普遍性に欠けている。このように、両者は、仮定の有無、普遍性の有無において相補的であると言える。第三章には、論文のまとめと将来の課題が述べられている。

 第一章の結果として、次のようなクラス分けを得た。1)外界に対して開いている多細胞、例えば、Gonium pectoraleの個体の集合に対する細胞外マトリックスの構成要素の集合は、有限にとどまっていること、一方、2)外界に対してある程度閉じた空間を持つEudorina elegansの場合は、細胞外マトリックスは、構成要素間に線型の関係を持つことができ、さらに、3)閉じた空間と細胞同士が密に連携できる、即ち、協同的に働くことのできるVolvox globatorの場合は、非線形の関係をもつことができる。この結果から、緑藻の進化途上における形態変化の必然性について次のようなシナリオを描くことができる。Eudorina elegansは閉じた空間という形態を獲得することによって、Gonium pectoraleにはできなかった、細胞外マトリックスに線形の関係を持たせることを可能とし、Gonium pectoraleの扁平で乱雑な群体からEudorina elegans の球形で、かつ、ある程度組織だった群体に移行することができた。さらに、Volvox globatorは閉じた空間と細胞同士を原形質連絡で密に連絡しあうという形態を獲得することによって、細胞外マトリックスに非線形な関係を持たせることを可能とし、それによって、Eudorina elegansよりもさらに組織立った群体、つまり、球形の表面上に整然と並ぶということを可能した。このように、形式言語の枠組みを用いて、緑藻の進化における形態変化の必然性を理解できることが示された。

 第二章では、栄養培地に浸された細胞が増加するとき、お互いに拡散によって連結し、一次元的な鎖状多細胞になるというモデルを考察している。このようにして成長させた鎖状多細胞の部分集合を取り出して連結させ、また同じ栄養培地に浸せば、再帰的増殖と形態の多様性が両立するのかを系統的に調べることができる。モデルに対する数値解析を行い、親多細胞から、二つのお互いに異なった属性を持つ細胞を取りだし、それを新たな出発点(娘多細胞)とし、成長させればよいことを見い出した。この「二つ」は、力学系でいうと、カオス的なダイナミクスを持つものと、(準)周期あるいは固定点なるダイナミクスを持つものに対応している。

 実際の多細胞生物との関係は、まだ、現象論的レベルにとどまっている。しかし、ウニの卵細胞における植物極をカオス的なもの、動物極を(準)周期あるいは固定点とみなすことできるのは興味深い。これにより、ウニの4細胞期における分離実験では、それぞれの細胞が正常な個体に成長するのに対して、8細胞期の分離実験では、動物極側の細胞は異常で、互いに似た細胞塊になる一方で、植物極側の細胞は、多様な形態をもつ細胞塊が出現し、ときどき、正常な個体ができるという実験事実を矛盾なく説明できた。その他、アフリカツメガエルの卵割球分離実験、ES細胞からの再帰する系列、卵母細胞と濾胞細胞の関係も説明することが可能であり、バラバラな事象に統一的な見方を与えている。また、第一章の見方と第二章の見方が完全に融合されたわけではないが、今後の研究発展として興味ある組み合わせであると考えられる。

 尚、当該研究は共同研究であるが、第一章の形式言語によるクラス分けの結果は、論文提出者が独自に得たものであり、また、第二章の結果、解析、それによる様々な事象の説明は、本人が主導的に行ったものである。共に、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上、本論文提出者吉田寛は、形式言語と力学系という二つの枠組みを用い、多細胞生物における個体としての再帰的増殖と一個体内での形態の多様性の理解に新しい知見を与えた。従って、博士(理学)を授与できると認める。

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