学位論文要旨



No 119583
著者(漢字) 内藤,千珠子
著者(英字)
著者(カナ) ナイトウ,チズコ
標題(和) 物語と暗殺 : 閔妃事件から大逆事件を貫く近代の背理
標題(洋)
報告番号 119583
報告番号 甲19583
学位授与日 2004.06.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第512号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小森,陽一
 慶應義塾大学 教授 松村,友視
 東京大学 教授 石田,英敬
 東京大学 教授 臼井,隆一郎
 東京大学 助教授 エリス,俊子
内容要旨 要旨を表示する

 明治期の言説空間において醸成された物語や論理、比喩について、さまざまな言語領域にまたがる活字資料を対象として言語態分析を行い、活字と歴史的記憶との関連について考察する。主な対象となるのは、明治期全般の新聞・雑誌の言語、学問的言語、医学や衛生学に関する言語、法的言語、外交文書、文学的言語、思想の言語等々、さまざまな言語領域にある資料だが、なかでも、複数の言語態を溶融させながら物語や論理の流通を促している新聞メディアの言葉が、収集され、分析される中心資料となっている。

 具体的には、第一部で、病・女性身体・植民地や民族をめぐる表象について分析を行い、比喩や論理、物語が、近代日本の背理として現象している様相について確認している。論文全体の中心となる第二部では、明治期の言説構造に内在する物語や論理、比喩が、閔妃暗殺事件や伊藤博文暗殺、大逆事件や天皇の病死などの、暗殺や死に関する歴史的事象といかに関わるのかを検証している。

◆第1部 喩から物語へ

第1章 病と血

 病の比喩が、民族や人種・階級・ジェンダーをめぐる表象と交差しながら、差別化する論理の定型を生成する過程を分析する。

 分析の主な対象となるのは、医学者・北里柴三郎や福沢諭吉に中心化される、伝染病をめぐるテクストである。伝染病流行の不安は、身体の境界や国境を言説の上に可視化し、差別の論理を生成することになる。

 ここでは、病が記述されることで醸成された論理の定型を抽出するのと同時に、実はその定型が「血」や「病原菌」の表象によって侵犯され、論理として持続しえない性質をもっていることを指摘している。すなわち、病の比喩は、論理の定型を生成しながらも、それを崩壊させずにはいないといった両義性を含みもっているのだ。

第2章 女性身体

 「皇后」「娼妓」「女学生」といった記号によって具象化された女性表象を、「天皇」「軍人」「学生」と対にして位置づけようとする言説の論理と関連させながら考察する。近代の活字メディアにおいて、身体の表象構造が、いかにジェンダーの非対称性と密接に関連しているのかを、法的言語や雑誌メディアの言語を分析しながら、明らかにしてゆく。

 その上で、「女」という記号が、主として広告言説のなかで固定化され、身体の意味を附与されていることに注目し、売薬広告(「血の道」「子宮病」関連広告)や化粧品広告を対象として論じる。いずれの広告においても、女性身体は「血」の比喩によって可視化されている。すなわち、「女」とは「血」を病んだ存在であり、身体の内部を流れる「血」がつねに言説上で問題にされるのだ。

 広告言説は、女性身体を論理の定型構造のなかに固定させようとする。だが、「血」の意味とイマージュの複数性によって、「女」という記号を規定しようとする論理はつねに、破綻の危機にさらされてもいる。

第3章 極北のアイヌ

 第1・2章で議論した、病や血の比喩、あるいは女性表象の構造を念頭に、植民地としての「北海道」、そしてそこに先住する「アイヌ」の問題について、物語の定型という側面から論じている。

 明治初期においては、「北海道」も「アイヌ」も、活字を読む日本語読者にとって未知の存在であった。ゆえに、未知の存在を理解し、意味づけるために、「北海道」や「アイヌ」を記述する際には、既存の論理体系や物語が必要とされていた。病や血、女性をめぐる表象に内在される比喩や物語、論理が引用されるようにして、「北海道」「アイヌ」に関する物語の定型が編成されたのである。

 その定型としての物語は、民族や植民地を類型化し、固有性を奪う機能を備えている。だが、その一方で、「北海道」や「アイヌ」をめぐる物語定型は、反復されなければ不安定化してしまうといった脆弱さを孕んでもいるのだった。第一部を総括するこの章では、定型の持つ両義性について検討している。

◆第2部 大逆と暗殺

第4章 朝鮮王妃

 大日本帝国の力が強く働くかたちで暗殺された朝鮮国の王妃・閔妃の表象について、暗殺事件(明治28年)前後における新聞メディアの言語を対象として考察した。

 まず、活字メディアのなかで、閔妃が朝鮮を代表・表象させられ、「女」である点を強調され、さらに、病の比喩によって記述されていることを確認した上で、それらが朝鮮滅亡の物語として展開される過程を検証する。

 さらに、閔妃の暗殺が、前年に起きた金玉均暗殺事件の表象構造を反復するように描写されていることと、メディア言語の上で閔妃に対する殺意が構成されていることとが緊密に連動しているのを指摘し、メディアの殺意が現前化するように暗殺という出来事が生じてしまう、という、言説論理の在り方を詳述している。

 最終的に閔妃に「明成皇后」の名がおくられた際、それは日本語メディアにおいて、別の記号的事件と化してゆくが、それはこの大事件が、日本語の上から忘却されてゆく過程を準備するものでもあったのだった。

第5章 死者と帝国

 閔妃の死後の大日本帝国と大韓帝国との関係性を、死者の表象に焦点化しながら論じる。

 暗殺事件の後、閔妃をめぐる記憶は何度も召喚されるが、それは「朝鮮」を代表・表象する新たな固有名との置き換えが遂行される過程と連動している。その固有名とは、次なる朝鮮王妃(正妃)となることを期待された「厳妃」、その厳妃を母とする「韓太子」等である。大日本帝国に「留学」の名目で人質にとられた「韓太子」をめぐる描写には、大韓帝国初代総督・伊藤博文の表象が連鎖しており、伊藤博文暗殺時には、韓太子をめぐる記事が独特な機能を果たすことになる。また、安重根が挙げた暗殺の動機には「王妃殺害」の文字が含まれ、安重根は閔妃殺害の記憶を言説空間に呼び込む契機を作り出している。

 この章では、「閔妃」の暗殺から「厳妃」の病死する明治末期までを対象に、植民地化の欲望と物語が癒合する様式を問題化し、死者の表象と歴史的記憶の創造について考証している。

第6章 大逆と併合

 明治43年に生起した大韓帝国併合と大逆事件。第6章では、新聞メディアの上で両者がいかに記述されたのか、その類縁性に着目して検証した。

 併合も暗殺も、いずれ起こるべき事件として、メディアの言語が欲望する構図をなぞるように出来したのだった。「併合」が植民地主義的な論理の完結する地点として表象されたとするならば、「大逆」とは、性と境界をめぐる魅惑的なスキャンダルが天皇の暗殺という物語として結実する瞬間を編み上げたものだと言える。両事件は、新聞メディアの言語にあって、交錯しながら読者の期待の地平を構成していた。

 しかも、併合の論理にも大逆という物語にも、「天皇」が直接登場させられている。時代の終わりを予感させる時期にあって、大逆と併合は、明治期に醸成された論理や物語を濃密に演じつつ、その定型構造を終焉に導こうとするのであった。

第7章 天皇の病死

 終章では、大逆事件の直後における新聞の言語と、天皇の病死報道とを資料対象として、明治という時代が閉じる瞬間に生じた出来事性を記述している。天皇の死は、メディアにおいて生成された物語の枠組みを破綻させ、論理の危機を招いたのだった。

審査要旨 要旨を表示する

 内藤千珠子さんが提出した論文の題目は、『物語と暗殺―閔妃事件から大逆事件を貫く近代の背理』です。

 本論文で内藤さんは、明治期全般にわたって、複数の言説領域を分析の対象とし、明治期を支配していた物語と論理、さらには、それらを表現する際の比喩の機能を明らかにしました。内藤さんが対象としたのは、新聞や雑誌における時事的な記事、医学・衛生学・人類学などの学問的言説、法律の言説、外交文書、思想的言説、そして文学的表現などです。多くの資料を精緻に分析したうえで、内藤さんは、異質な言説領域であるにもかかわらず共有されている物語の類型、価値評価や分類における論理の類型、そして比喩の構造の類似などを抽出して、その時代に特有な、しかし潜在している思考様式を明らかにしていきました。まずこうした本論文の方法について、言語情報科学専攻が新しく提案した「言語態分析」という学問領域の、基本的ディシプリンを構築しえた成果であるという高い評価が与えられました。

 上記の方法に基づき、本論文では、第一部において、病をめぐる比喩表現が、民族・人種・階級・ジェンダーをめぐる表象の中で、明治期特有の差別の論理をどのように構成していったかが明らかにされています。伝染病をめぐる比喩が「支那人」に対する民族的差別とつなげられる際、身体の内と外が、国境の内と外に重ねられることなどが、北里柴三郎や福沢諭吉のテクストをとおして分析されています。また「皇后」「娼妓」「女学生」といった記号が、常に「天皇」「軍人」「学生」と対関係に置かれ、「女」と血を病んだ存在として表象しようとする欲望の中で男性の理想化が行われ、「国民」像がこうした性差の表現をとおして形成されていった過程が明らかにされています。またアイヌをめぐる表象が、こうした病と血の比喩で語られることによって、北海道に対する植民地化が正当化されていく論理の形成についても言及されています。

 第二部では、朝鮮王妃閔妃暗殺事件の報道を、その前年に起きた金玉均暗殺事件の報道との関係で分析され、マスメディアの報道自体が事件への欲望をかきたてていった過程が明らかにされています。さらに閔妃報道の記憶が繰り返し呼び戻される中で、日露戦争期の朝鮮半島に対する植民地化政策が正当化されていき、こうしたメディアの中における比喩と物語が、「日韓併合」への地ならしとなり、国内では「大逆事件」の思想的前提を権力に提供していったことがあとづけられています。そして、こうした一連の韓国の王室をめぐる報道の集積が、どのように明治天皇の死と病をめぐる報道を形成していったかが、植民地支配のイデオロギーの構成過程として分析されています。

 内藤千珠子さんの論文は、全体としてすべての審査委員に高く評価されました。第一に、従来の歴史研究とは異なった「言語態分析」に基づいた歴史認と叙述の新らしい可能性を切り拓いたこと。第二に個別日本の明治期を対象としながらも、近代の植民地主義の世界的同時性を明らかにする普遍性を持ちえていること。第三に植民地主義の形成が、マスメディアによる差別の境界の国民化と結びついていることを明確にした点などが評価されました。

 他方で、複数のメディアの質的な差異への目配りが十分でないこと、理論的な枠組全体を、これまでの先行研究との関係において明確にできていないこと、メディアにあらわれてこない「声」への言及が十分でなかったことが批判されました。

 こうした批判点に対し内藤千珠子さんは審査会席上で、今後の課題も含めた形で、明解な応答をしていました。したがって、本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定しました。

UTokyo Repositoryリンク