学位論文要旨



No 119584
著者(漢字) 廉,雲玉
著者(英字)
著者(カナ) ヨム,ウンオク
標題(和) イギリス優生学運動と母性主義 : 1907年から1930年代までの「優生協会」の活動を中心に
標題(洋)
報告番号 119584
報告番号 甲19584
学位授与日 2004.06.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第513号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 丹治,愛
 東京大学 助教授 石田,勇治
 東京大学 助教授 市野川,容孝
 東京大学 助教授 アルヴィ,なほ子
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、母性主義に注目しながらイギリス優生学の歴史を再構成する試みである。人種を良くすることを意味する優生学とは、ダーウィンの従兄弟であるゴルトンが1883年に作り出した言葉で、その後イギリス帝国の衰退や国民の体力低下への不安を背景に1907年に優生協会が設立された。優生主義者が母性を重視した裏には、女性の生殖を国家の管理下に置くことで、人口の「質」を向上させようとする思惑がつねに作用した。フェミニストのほうは母性を持ちあげることで、女性の権利を拡大し男女平等を実現させようとした。本論文では、20世紀初頭から1930年代までの時期において、優生主義者がいう母性主義とフェミニストがいう母性主義とが、錯綜する様子を家族手当導入運動や産児制限運動、離婚法改正、性病防止運動などを例にあげて分析した。

 結婚と生殖において恋愛の自由と女性の賢い選択を強調する優生学は、女性たちにとって親しみやすいものだったゆえに、優生学運動への女性の参加は目立ったものであった。イギリスの優生協会は約半分が女性会員で構成され、設立当初から組織運営の責任を任せられた女性書記のシビル・ネビル=ロルフ、断種法制定キャンペーンにおいて主導的な役割を果たしたコーラ・ハドソンとヒルダ・ポーコックらが活躍した。イギリスの優生学運動は、優生協会の女性たちや優生協会と協力したエレノア・ラスボンやエヴァ・フーバックらのフェミニストたちの活躍のおかげで、家族手当や産児制限、離婚法改正、性病防止などの改革に介入することができたのである。母性主義フェミニズムと結びつくことで、優生学はその論理構造にすでにあった養育重視の要素をさらに拡大することができたのである。環境重視論の膨脹は、一方では優生学の原理をぼやかすこととなり、運動の推進力を弱めたが、もう一方では、環境論と入り交ざったぼんやりした概念として優生学を提示することで、一般の人びとが優生学を受け入れやすくする効果をもたらした。

 家族手当の構想は、女性の出産行為そのものの社会的意味を積極的に認めようとする母性手当に由来した。家族手当のラディカルな側面は、それが女性の不払い家事労働を評価することにより、労働市場内で女性労働者の同一労働・同一賃金の実現を進めようとしたところにある。しかし、1920年代半ばからこのようなフェミニスト的視点は失われ、賃金上げに代わる次善策として第二次世界大戦後に導入された。優生協会にとって家族手当の導入は、「適者」の生殖を促す「積極的優生学」の実践として捉えられた。家族手当をめぐる優生協会での議論には、ラスボンとフーバックが加わることで、家族手当が下層階級の出生率の増加をもたらすという優生協会側の懸念を和らげることができた。

 離婚法改正と断種法制定キャンペーンは、「消極的優生学」の実践である。1937年の離婚法改正の意味は、離婚事由の拡大を勧めた1910年の離婚・婚姻事件に関する王立委員会の勧告が約30年の歳月をかけて実現されたところにある。王立委員会が出した勧告の主な内容は、離婚裁判手続きの簡略化、男女に平等な離婚事由、姦通と虐待以外にも狂気と常習的飲酒までを離婚事由に取り入れることだった。1937年法は、馴合い離婚の打開策であり、個人の意思を尊重する協議離婚への動きとしての意味が大きいが、そこに「狂気の条項」がすべりこんだ。優生協会は、「種の毒」と呼ばれる遺伝性の狂気、アルコール中毒、性病などを離婚事由として法律の中に取り入れることで、優生学の論理を内面化させようとしたのである。

 イギリスでは優生断種法が制定されなかったが、1930年代に優生協会を中心に自発的断種法制定キャンペーンが組織的に行われた。断種法の制定には多くの女性団体から支持が集まり、労働党女性部や女性共同組合ギルド、平等市民権協会全国同盟などの主な女性団体が断種法制定を支持した。優生協会は、断種法制定の宣伝を行う際に、断種の問題を産児制限とともに提示することで、避妊知識の普及を望む女性たちから支持が集まるよう仕掛けたのである。しかし、女性団体が断種法を支持したことは、優生協会の宣伝戦略だけにその理由があったのではなく、当時のフェミニスト運動の限界が表れた出来事でもあった。今日の視点からみれば、生殖は望むならば誰でも享受できる、人間の「権利」の一つであるが、当時にはまだ「生殖は権利」という概念は確立しておらず、精神薄弱者の生殖の権利を否定した上で、女性が産児制限の手段を利用する権利、中絶する権利のみを主張したのである。

 断種法の制定は失敗したものの教育と啓蒙によって個人の自発性に訴える方法を重んじたイギリス優生学運動は、離婚法改正や性病の管理、結婚前診断計画などを通じて結婚制度そのものへ介入しようと試みた。性病の問題と結婚前健康診断計画は、「予防の優生学」とかかわる。1930年代に地方当局やヴォランタリー団体が運営する母子福祉センターや出生前クリニックは、先天性梅毒児の出生予防に相当な効果をあげていた。こういった事情を背景に、優生協会の傘下団体であるイギリス社会衛生評議会は、残り少ない性病を撲滅することに力を入れる。また、優生協会は、結婚前健康診断を法律で義務づけようと試み、1933年に「結婚前健康診断計画」をまとめる。失敗したとはいえども、結婚前健康診断計画は、教育と啓蒙を重んじたイギリス優生学の特徴が最もよく表れた出来事だといえる。

審査要旨 要旨を表示する

論文題目:

イギリス優生学運動と母性主義――1907年から1930年代までの「優生協会」の活動を中心に―

 近年、優生学について新たな関心が集まってきている。かつて優生学についての関心はナチス・ドイツにおけるその利用の問題に集中しがちであったが、最近では福祉国家との関連で優生学を捉える視点も打ち出されてきている。本論文は、そのような新たな研究動向の中に位置づけられる研究で、優生学という言葉自体が最初に作り出された国であるイギリスを対象として、母性、母性主義との関わりで優生学運動の歴史を再構成することを試みた論文である。

 本論文は、序論、第1章から第4章までの本論、結論、参考文献、優生学運動関連略年表、図版とから成り、序論から結論までは、注を含めて、400字詰め原稿用紙に換算して約440枚である。以下まず本論文の内容を紹介する。

 序論においては、優生学と母性主義の間に深い関係があることが、まず指摘される。次いで、イギリスの優生学をめぐる研究史が批判的に検討され、「母性」に注目した先行研究も存在するものの、優生学運動への女性の参加率が高かったこと、相当数の女性が優生学を信奉していたことは、いまだに論じられていないとして、母性主義に注目して優生学史を再検討する本論文の研究史上の位置が提示される。

 第一章「退化論――優生学の基礎」では、優生学の基礎となった「退化論」が力をもった歴史的背景(都市貧民問題の深刻化、社会主義・労働運動の展開、ボーア戦争)が検討された後、優生学という言葉を考案したフランシス・ゴルトンを中心として優生学の初期の様相が描かれる。ダーウィンの進化論の中心概念であった「自然選択」の裏にある「逆選択」という問題に注目したゴルトンが、「逆選択」による人類の「退化」を防ぐために優生学を考案したことの意味と背景が、アルフレッド・ウォレスの考え方との比較、ゴルトンの出自、彼の行った遺伝研究に着目して、論じられている。

 第二章「優生学とフェミニズム」では、ゴルトンとカール・ピアソン、ウィリアムズ・サーリービという三人の優生学者に即して、優生学とフェミニズムの問の関連が次のように紹介される。ゴルトン自身は女性の知的能力に対して懐疑的であったものの、種の改善のための科学として彼が打ち出した優生学はフェミニストたちの主張を助けるものとなった。ピアソンは母親になることこそ女性の社会的参加の形であると考え、種のレベルで求められる母性に引かれつつも、女性の役割を母性へと狭めていくことを批判したが、その姿勢は優生学とフェミニズムの間の親和性と緊張関係とを示すものであった。またサリービが遺伝的要素とともに環境的要素にも着目し、養育という要因を重視したことは、「適者」と「不適者」の間でなく「すでに生まれた者」と「まだ生まれていない者」の間での線引きを強調する見方につながり、優生学と福祉との間の親和性をもたらすものになった。

 以上の二章で、本論文の前提となる議論が終り、第三章以降では、積極的優生学(第三章)、消極的優生学(第四、五章)、予防的優生学(第六章)の順で、優生学運動の各側面が実際の政策にも即しながら論じられる。

 第三章「家族手当と積極的優生学」では、積極的優生学に関連した政策として家族手当の導入が取り上げられる。イギリスで家族手当が制度として実施されたのは1945年のことであるが、それに至る過程では家族手当協会による活発なキャンペーンが繰り広げられた。本章では、家族手当支給論登場の背景となった出生率低下をめぐる議論が検討された後、そのキャンペーンで中心的な役割を担ったエレノア・ラスボンの活動が紹介され、さらに家族手当をめぐる優生協会の見解が分析される。優性協会は中産階級に対する家族手当を積極的優生学の実現として支持したが、下層階級への手当て支給については意見が分かれていた。たとえば、自らも優性協会の一員であったラスボンは、家族手当が下層階級の出生率を上げることなく、中産階級の出生率の方はわずかながら上昇させると主張していた。このような論争のもとで、養育を重視する改良優生学に後押しされる形で家族手当導入への道が作られていったというのが筆者の見解である。

 第四章「消極的優生学1――離婚法改正」では、狂気を離婚事由に位置づけるか否かという問題を中心として、優生学と離婚法改正の関連が検討される。イギリスでは離婚についての規定は1857年の「婚姻事件法」以来、20世紀初頭まで変化していなかったが、1906年頃から改正に向けての議論が始まり、1910年から12年まで活動した王立委員会の多数意見は、狂気を離婚事由とするという方向を打ち出した。これは優生学の考え方に合致する方針であった。ただし、離婚法改正の議論が優生学に役立ろか否かについて、優生協会の中でも意見が分かれていた。ここで筆者は、本論文で後に詳しく取り上げられる優生協会の書記、ネヴィル=ロルフの見解(離婚制度の自由化は結婚制度の安定性を破壊せず、配偶者の狂気などで結婚生活が破壊された場合に離婚と再婚を認めることは社会のためになるとする見解)に着目し、優生学運動の外にいたフェミニストの立場との類似性を指摘している。離婚事由としての狂気は、結局1937年の離婚法に取り入れられたが、これは優生学の議論が離婚制度に影響を与えたことを意味したと、筆者は見ている。

 第五章「消極的優生学2――産児制限と断種法」では、産児制限運動に対する優生協会の態度が、当初の曖昧な姿勢から1926年頃に産児制限賛成の方向に固まっていったことが指摘された後、1930年代に優生協会が中心となって推進した断種法制定キャンペーンの失敗因の分析がなされる。断種法がイギリスにおいてなぜ制定されなかったかという点は、ドイツにおける優生学運動とイギリスのそれが比較される場合に最も注目される問題である。イギリスで断種法制定運動が失敗した直接的な原因は法律的壁を打ち破れなかったところにあったが、筆者は、科学者の共同体内部で断種についてのコンセンサスができていれば克服できたはずであると論じ、優生主義者たちが結局のところ精神病の遺伝性の確証を提示しえなかったことにその最大の原因を求めている。筆者が、断種法制定運動に対して女性団体の多くが賛意を表明していた側面に注意を促し、産児制限と断種を同じ文脈で語ることによって断種へのフェミニストたちの反感を減らそうとした優生協会の試みがかなりの程度奏功したことを強調しているのは、本論文の視角からみて重要であろう。

 第六章「予防的優生学――性病の管理と結婚前健康診断計画」では、サリービが「予防的優生学」と呼んだものの例として、優生協会が1930年代に行った結婚前の男女に対する健康診断計画導入をめざす活動が紹介される。この活動は性病の管理とも密接に関わっていた。性病自体は厳格な意味での遺伝病ではなかったものの、優生主義者が着目する遺伝性の病気と結びつきやすいものであったがゆえに、それへの対応は優生主義運動の大きな課題となったのである。結婚前健康診断の法制化は、断種法同様実現するに至らなかったが、その失敗後も優生協会は結婚相談や結婚指導という形で、結婚問題に取り組みつづけた。筆者がこの流れに関連して特記している人物に、優生教育協会の書記を長年にわたって勤めると同時に性病防止全国会議という組織でも中心的役割を担ったネヴィル=ロルフという女性がいる。彼女はまた、結婚指導に関わる組織「未婚の母親とその子どものための全国会議」(1918年発足)でも活動し、婚外子を結婚制度の中に連れ戻そうとする努力も行っていた。こうした一連の活動を検討することにより、筆者は優生学と結婚制度・家族制度の間の関連に光をあてている。

 最後の結論においては、イギリスの優生学運動の中で女性が大きな役割を演じたことが再確認され、母性主義フェミニズムと結びつくことによって、優生学がその論理構造にもともと含まれていた養育重視の要素を拡大しえたことの重要性が強調される。と同時に、断種法に対しても女性たちの支持が寄せられたことが改めて指摘され、当時のフェミニストには「生殖は権利」という考え方がまだ生まれていなかった点に注意が促される。さらに筆者は、結婚制度そのものに優生学が介入した点に、積極的優生学や消極的優生学の枠をこえた「予防の優生学」の姿があるとして、そこに今日の「自発的優生学」の先駆的な形を求めて本論文を結んでいる。

 このような内容をもつ本論文は、優生協会(当初は優生教育協会)の活動に焦点をあてて詳しく追求することにより、優生学発祥の地ともいえるイギリスにおける優生学運動の展開過程をよく明らかにした研究である。本論文は、優生教育協会の設立時から1930年代までを分析対象時期の中心に据えているが、第一章で優生教育協会の設立に至る時期における優生学登場の様相も詳しく検討することにより、発生期から1930年代までのイギリスの優生学史、優生学運動史研究に大きく貢献する研究となっている。

 筆者が、母性、母性主義と優生学運動の関わりに着目して、イギリスの優生学運動の中で女性が占めた位置と果たした役割を示すとともに、優生学とフェミニズムの間の親和性と緊張関係とを多面的に論じようとするところに本論文の基本的視角を置き、各章においてその視角を生かした分析を試みてそれに成功していることも、高く評価できる。母性は優生学の論理にとって欠かすことのできない要素であるが、母性主義が優生学運動とどのように具体的に関わったかは、従来必ずしも十分に検討されてきていない問題であり、筆者はそれと正面から取り組んでかなりの成功をおさめているのである。

 母性主義フェミニズムへの着目は、環境的要因、養育要因を重視するイギリスの優生学運動の特色を浮き彫りにすることに通じており、イギリス社会で優生学が一定の地歩を占めることができた背景を筆者は提示しえている。優生学運動を背景として断種法が制定されるに至ったドイツのような形で運動の結果が目立った形であらわれることはイギリスの場合なかったが、イギリスでも家族手当導入の問題(第三章)や、離婚事由としての狂気が認知された問題(第四章)などが、優生学運動の展開と切り離せなかったことを筆者は明らかにしている。そうした運動の中で優生学に関わったフェミニストたちの活動の意味が大きかったという点を説得的に論じたことは、本論文のすぐれた点である。

 このように、本論来は、この分野における従来の研究水準を引き上げる業績であるといってよい。ただし、本論文には不十分な点もいくつか存在する。

 本論文の分析と記述は、優生協会の活動が中心となっており、優生学運動をとりまく社会のさまざまな動き、世論の反応などは十分検討がなされていない。優生学とその運動についての一般国民の認識と対応はもっと突っ込んで分析されるべきであった。

 また宗教との関連や人種主義との関連など、イギリス社会の中での優生学の位置を考える上で重要でありながら、本論文においてはごく簡単に触れられるのみであったり(宗教の場合)、看過されていたり(人種主義の場合)する問題が存在する。とりわけ人種主義との関わりの有無は、ドイツの優生学運動との比較を筆者が常に念頭に置いているだけに、きちんと検討する必要があった。

 さらに、本論文が対象とする1907年から1930年代までという期間の内、第一次世界大戦が優生学運動やフェミニズムについてもった意味は、より詳しく論じられるべきであった。

 最後に史料上の問題がある。すなわち筆者は優生協会関連の史料については一次史料を丁寧に検討しているものの、その他では、当然一次史料に当たるべき問題であるにもかかわらず二次文献での記述に依拠してしまっている例がいくつも見られる。

 これらの問題は存在するものの、それは本論文の価値を損なうものではなく、論文審査の結果として、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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