学位論文要旨



No 119590
著者(漢字) 村松,正隆
著者(英字)
著者(カナ) ムラマツ,マサタカ
標題(和) <現われ>とその秩序 : メーヌ・ド・ビラン研究
標題(洋)
報告番号 119590
報告番号 甲19590
学位授与日 2004.07.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第443号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
 東京大学 助教授 榊原,哲也
 大阪大学 助教授 望月,太郎
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、人間が経験する<現われ>とその秩序の構築という視点からビラニスム期におけるメーヌ・ド・ビラン哲学の総合的な研究を目指すものである。

 一般にフランス・スピリチュアリスムの祖とされるメーヌ・ド・ビランの哲学であるが、その根本にある探求の動機は、人間的主体が経験する事がらを様々に秩序立てて分類し、さらに各々の領域における<現われ>の秩序を探求しようというものであった。本稿ではこうした観点から、特に、ビランが「体系」という言葉を導入することで追跡しようとした人間の認識諸能力の様々なありようを、ビランに従いつつ分析しようとするものである。

 第1部は、ビラニスムに至るまでのメーヌ・ド・ビランの思想の発展を、彼の師であったカバニス、デステュット・ド・トラシなどとの対比によって明らかにしようとする。カバニス、トラシといったいわゆるイデオロジストに属する人々は、コンディヤックの感覚論を引き継ぎつつ、「観念の分析」といった形で諸学問を統一するという理念を立ち上げる。彼らの視点の興味深い点は、諸学問を人間の能力が産出するものとして捉え、そのゆえに、人間の諸能力の分析と規範的な様態の記述とが諸学問の統一のために役立つという発想を前提としていることである。その結果彼らは、最も基本的な能力として立てられた「感覚」を前面に据え、生理学的な能力としての「感覚すること」から始まって、人間の諸能力の発展、並びに観念の複雑化のプロセスを記述しようとする。若き日のメーヌ・ド・ビランもまた彼らの理念に深い影響を受け、独自の形でイデオロジーに貢献しようとするが、『習慣論』の執筆などを経て、彼は次第に、「感覚」という一元的な場面で人間諸能力についての学問を形成することの不可能性を自覚するに至る。この不可能性は、1804年の春にデステュット・ド・トラシとの間で交わされた往復書簡によって次第に明らかになっていく。この書簡では、人間の諸能力に関する学問を形成するために視点を正しくとることの重要性が強調されるに至る。人間の諸能力に関する記述は、まさにこの能力を記述する<私>の始まりの場面から開始されなければならない。その結果ビランは、抵抗を与える内的な身体と関係しつつこれを動かそうと意志する<私>という場面に、人間の諸能力の記述が開始されるべき真のはじまりを見出すことになる。

 第2部に於いては、第1部の分析を踏まえたうえで、ビラニスムにおける主要な概念の分析、並びにこれらの概念相互の関係が吟味される。

 第1章において分析されるのは、ビランが学の対象として導入した「事実」の概念である。ビランは事実の必要条件として意志する<私>を取り出し、かつこの<私>が経験する事がらを内的事実と外的事実という形で分割することで、人間の諸能力の分析を行う際に記述されるべきが、内的事実の独自性であることを発見するに至る。<私>がまさに見よう、聞こうとすることによってなされる諸器官(あるいは内的抵抗)の経験としての内的事実の記述こそが、諸能力の分析に際しての目的となる。そして強調されるべきは、実効的原因の捨象が要請される外的事実における秩序の探求と異なり、内的事実の秩序の探求に於いては、<私>が意志するという実効的原因と、その結果としての内的身体という<現われ>とが同時的に確認されなければならないことである。そしてビランは、この<私>の自己感知を表現する言葉として、意志する<私>と抵抗する身体という二項関係から構成される「根源的事実」の語を見出すだろう。

 第2部第2章においては、自我を構成する努力の様態、並びに根源的事実の対象項たる固有身体の構造が特に分析される。上で述べたようにビランは根源的事実において身体が不可避的に現存することを強調するが、ビランは努力の様態を二つにわけており、この努力の様態の区別に応じて身体の存在の様態も二つに分けられる。即ち一方では全体として一塊のものである身体を目覚めさせる「内在的努力」の概念並びにこの身体を動かす「共通の努力」が取り出され、他方ではこの全体としての身体を分節していく志向的な努力の概念が取り出される。内在的努力は<私>の同一性を形作る根本的な存在の様態であると同時に、諸々の諸器官を目覚めさせるものでもあり、諸々の<現われ>はこの内在的努力によって、自我に対して現われることが可能となる。他方で志向的努力は身体の様々な部位に働きかけることで身体の構造をより繊細なものとしていく。そしてこのとき見出されるのは、意志に従う諸部分が増えれば増えるほど、自我の自己性の感知も明晰なものとなるという、<私>と固有身体との関係性である。

 第2部第3章においては、<私>が様々な<現われ>を構造化し秩序付けていくために、<私>と固有身体との関係性から取り出される「反省的諸観念」の内実が吟味される。自我は自らを構成する力と同一化し、自らの構造を純粋に取り出すことによって、「因果性」「一」「実体」といった反省的諸観念を取り出すのであり、これらの諸観念を用いて自我が世界の構造を秩序付けていくこと。

 第3部においては、第2部の成果を踏まえつつ、ビラニスム期のメーヌ・ド・ビランが体系という言葉を用いて行った人間的諸能力の諸段階の分析を吟味する。第2部に於いては自我の存在の様態は専ら固有身体との関係性に於いて吟味された。しかし実際の<私>は、自らの固有身体を動かすことによって様々な<現われ>を受容するのであり、またこれらの<現われ>のうちに秩序を見出していく。第3部における目的は、<私>が自らを構成する努力の様態に応じて、様々の<現われ>を受容しかつその秩序を見出していくプロセスをビランに即しながら記述することである。

 第3部第1章では、「触発的体系」の特質が論じられる。ビランが恐らくはモンペリエ学派やカバニスの影響のもとで取り出した「触発的な諸力」は、独自の生命的活動性に乗っ取って活動するものであり、そのゆえに<私>を吸収してその成立を妨害する危険性も持つ。しかし<私>と「触発的な諸力」との関係は単なる対立関係にあるのではない。「触発的な諸力」はあくまで独自の活動に従って活動するのであり、そのゆえにこの諸力は、自我が自由にする運動を準備し、あるいはその価値を人間的生に告げ知らせるという働きも行うのである。第1章においては<私>とこの触発的諸力との錯綜した関係が記述される。

 第3部第2章においては、上述の「内在的努力」「共通の努力」によって構成される<私>の経験の様態が分析される。「内在的努力」によって目覚める<私>は、まず触発を自らの身体に局所付けることができるようになり、その意味で触発を経験することが可能となる。他方でこの<私>は、諸器官に現出する「直観」をも経験の対象とする。本章では、この「直観」を「もの」に帰属していると判断される以前の<質>として解釈し、目覚める<私>が、目覚めているだけでもこれらの直観の時間性並びに空間性、あるいは類似などを経験することが可能であることを論じる。また本章に於いては、全体としての身体の位置を変えつつ移動する<私>が特に取り出される。そして、自らの身体の位置を変える<私>が経験する事がらがまずもって「触覚的な直観」であること、並びに、身体の位置を変える<私>が、自らが動き回ることができる空間を「触覚的な直観」の空間性のうちに見出し、この空間のうちに他の諸々の直観をも位置づけていくことが論じられる。そして本章の末尾では、原因としての<私>が、信憑によって世界のうちに自我以外にも原因を見出していくプロセスが論じられるが、その記述に際しても「共通の努力」によって自らの身体の位置を変える<私>には、重要な意義が与えられる。

 第3部第3章においては、努力の度合いが高まり志向的な努力を用いるようになる<私>の様態、並びにこの<私>が経験する諸々の<現われ>とその秩序が論じられる。この<私>は志向的な努力としての「注意」を自由に用いることによって、「内在的努力」によって構成されているとき以上に、諸々の<現われ>並びにその秩序を見出していく。そしてこの<私>は特に、外的な物体の抵抗を経験し、かつこれと「触覚的直観」を結びつけ、かつこの核になる経験の対象に諸々の直観を結びつけることによって、諸々の<現われ>をより秩序立てて理解するようになる。この<私>は、外的抵抗という<私>が自由に動かしうる経験の対象を知ることによって、諸々の<現われ>を(ある限界はあるにせよ)自由にすることができるであろう。

 第3部第4章においては、メーヌ・ド・ビランの哲学の方法としての「反省」の能力が吟味される。これまでのビラニスムの解釈に於いては自我の原因性の自覚としての「統覚」と「反省」とが同一視される傾向にあったが、本稿に於いては、「統覚」と結びつく「反省」を、一つの能力についての反省として捉え、他方でビラニスムの記述を支配する反省を、複数の能力についての反省として取り出す。ビランの言う反省とは、<私>が自らの身体を動かすことによって自由にする諸能力を実際に使用しつつ確認することであり、また、複数の能力を用いることによって諸々の<現われ>に秩序を見出していくプロセスの確認である。そしてビランの反省の方法をこうした視点で捉えたときに、ビランが行う「体系」の記述は、優れてビランの言う反省の方法の実践的な模範として、新たにその地位を獲得するのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、フランス・スピリチュアリスムの祖と目される19世紀初頭の思想家・政治家メーヌ・ド・ビランの哲学を、むしろ17世紀前半にデカルトが開始し、ロックが新しい道に引き入れ、コンディヤックが洗練し、それが孕む諸問題の解決にデステュット・ド・トラシらイデオロジストが努力した百数十年に及ぶ哲学の動きに対する最終的解答となるであろうような姿において描きだしている。

 第1部は、ビランの初期思想の発展を、先立つ哲学者たちの諸学の統一の理念を継承しつつ、方法上、彼らに対立してゆくものとして活写する。諸学は、学が人間の諸能力によって産出されるものである限りで、人間の諸能力の分析と規範的な様態の記述をなす人間の科学において統一されるはずであるが、その科学を形成するためには、先人たちと違って諸能力を用いる<私>自身の内的視点を見失わないようにすべきなのである。

 第2部は、ビラン哲学の幾つかの中心概念を選び、それらの相互連関を探る。論者は、努力において顕わになる自我と身体との不可分の二項からなる根源的事実と、<私>がこの事実から取り出し、さまざまな現われを構造化し秩序づけてゆく原理として用いる反省的諸概念との詳細な内実を、あり得る様々な誤解から禦ぎつつ示すことに成功している。

 第3部は、<私>がどのように具体的現われを秩序づけてゆくかを、現われのさまざまな現出仕方と受容仕方、更に現われを変化させ、産出しもする様、これらを区分けして丁寧に記述する。出色なのは、自我の諸能力の体系とは異質で人間の動物的な生に由来する諸力の体系である触発的体系を、その記述がどのような事情でどの程度まで可能なのかに目配りしてなす周到さである。そして、全体としての記述が目標とするのは、一つには、最終的に私たちが生きる「通常の世界」の安定した構造が多様な要素を内包しつつどのようにして可能となっているのか、その現われの秩序の生成全体の見取り図であり、もう一つは、そのような記述そのことを可能にする私たちの反省という能力自体の適切な位置づけである。

 本論文は、<私>が自らの実存を見いだす「通常の世界」を織りなすさまざまな現われのありようを、<私>の諸能力とのかかわりの中で測定し、配分し、概念化しようとした哲学者としてメーヌ・ド・ビランを捉え、その限りでのビランの思索を探索し整合的に描出した。これは、ビランが、初期に属する『習慣論』を別にして書物を出版せず、未完成の夥しい草稿のみを残したという事情を考慮するとき、多大な労苦をもってのみ可能なことである。ただし、習慣の形成とさまざまな種類の諸記号の働きが絡むことによって出現する人間の生のダイナミズムが、紙数その他の関係で意図的に考察外におかれたこと、また、論者が扱ったとは全く別の趣をもつビランの最初期と特に晩年の思索への言及がないことも、主題からして致し方ないこととはいえ、些かの憾みが残る。しかしながら、メーヌ・ド・ビランについての邦語研究書が数少ないなかで、本論文は今後、ビランが成し遂げたことが何であったのかを確認するために欠くことのできない範例的論文となろう。本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値すると判断する。

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