学位論文要旨



No 119592
著者(漢字) 北村,昌幸
著者(英字)
著者(カナ) キタムラ,マサユキ
標題(和) 南北朝期軍記物語の研究
標題(洋)
報告番号 119592
報告番号 甲19592
学位授与日 2004.07.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第445号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 鈴木,泰
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 安藤,宏
内容要旨 要旨を表示する

 南北朝の内乱を描いた文学作品のうち、『太平記』を中心に取り上げ、その叙述方法の特質を探るのが本論考の趣旨である。まず序章では、『太平記』の成立過程と叙述の基本的性格について論じた。続いて第一部「『太平記』の周辺」では、先例故事との類比という観点から考察を加え、第二部「物語としての『太平記』」では、本文に表れる多角的視点や多義性に着目して作品論を展開した。そして終章では、二つの叙述方法がどのような関係にあるのかを検討した。以下、各章の内容を個別に述べることとする。

 序章「足利政権と軍記物語」では、武家政権と関わりながら成立した作品群のうち、『梅松論』『保暦間記』『源威集』『明徳記』が足利氏寄りの作品であるのに対し、『太平記』だけが党派的性格を有していないことに注目した。具体例として取り上げたのは、今川了俊の『難太平記』に記される尊氏降参記事の問題である。現行の『太平記』には見られない記事であるため、従来は『難太平記』成立以後に書き改められたとする説と、現行と同じ形が降参記事と見なされたとする説が唱えられ、決着がつけられていなかった。しかし、原太平記の改訂作業のあり方や、作中の新田義貞転身記事との類似性、さらには「降参」という語の使われる条件などを勘案すれば、当該記事は現行の内容と変わらぬものであった可能性が高い。了俊がそれを拡大解釈したのは、もとより<足利方に十分な配慮が示されていない>という太平記観を抱いていたからであろう。実際、太平記作者は当初から足利方を相対化する姿勢を見せているのであり、それは絶対的なものを認めず、常に物事を相対的に捉えようとする基本姿勢の表れであると見ることができる。

 第一部第一章「故事としての『平家物語』」では、『太平記』が『平家物語』の記事を先例として要約引用している箇所に注目し、太平記作者が治承寿永年間の源平合戦をどのように捉えていたかについて考察した。とくに年号の誤記の問題を焦点として検討した結果、史実上寿永年間に起こった事件のうち、平氏に関係の深いものは「治承」の出来事とされ、逆に源氏と関係の深いものは「元暦」の出来事とされていることが判明した。二つの年号と源平両氏とをそれぞれ結び付け、『平家物語』の世界を二分するこの捉え方は、源平交替史観に繋がるものとして、『太平記』の歴史叙述を考える際に重要な示唆を与えると思われる。『太平記』が<源氏対平氏>という二項対立にこだわっていたことは、巻九・巻十・巻十三などの叙述から窺えるところである。

 第一部第二章「承久の乱と『梅松論』」では、『梅松論』で語られる承久合戦の記事について考察した。従来は前田家本『承久記』が典拠であるとされてきたが、記事内容や表現を詳細に検討し直した結果、前田家本『承久記』以外のものも参照された可能性が高いことを明らかにした。また、後鳥羽院政を批判する義時の言説に注目し、その記述は建武政権の乱脈ぶりを投影した作為的記述であろうと推測した。そのうえで、こうした記述があることによって承久の乱と建武の乱とがよりいっそう緊密に結びつき、悪王配流の論理や皇統を重んじる武臣像といった共通項が強く印象づけられると論じた。それは足利幕府の正当性を主張しようとする『梅松論』にとって、きわめて重要な課題であったと考えられる。

 第一部第三章「北野天神説話の機能」では、『太平記』巻十二に引かれる北野天神縁起を考察対象とした。内裏炎上の話題からの連想で語られる当該説話は、本来は由緒解説のためのものであるが、同時に、無実の罪を着せられた菅原道真と護良親王とを重ね合わせる機能をも有しており、二重の意味で本筋のストーリーとつながっている。ただし、讒言の内容が相違していることから、『太平記』は甲類本(承久本や荏柄本など)の天神縁起に依拠していた可能性が高い。その一方で、讒言を鵜呑みにした醍醐天皇への批判を、独自の表現によって強めていることが確認される。これは醍醐天皇と相似関係にある後醍醐天皇への批判にすりかわっていくと考えられる。

 第一部第四章「長恨歌説話の主題と表現」では、巻三十七に引かれる長恨歌説話について考察した。該話においては、本来の引用意図である姻戚権勢批判のみならず、君主批判、悲恋への同情、愛執否定といった別の主題までもが発現しており、また、独自の脚色によって物語としての興趣も高められている。原典「長恨歌」「長恨歌伝」や『今昔物語集』『唐物語』所収の同説話などとの比較を通して、そのことを論じた。これは該話の『太平記』本筋からの逸脱をよりいっそう際立たせるものである。作中における故事説話の比重の大きさは、『太平記』の特徴の一つと考えられる。

 第二部第一章「六波羅攻略記事の表現」では、『太平記』巻八の合戦譚について論じた。作中では、六波羅探題方が積悪ゆえに滅びていくという構想のもとで、軍陣の混乱ぶりが作為的に描かれていることが読み取れる。ところが、これと戦う後醍醐方の勢力についても、物欲や虚栄心に満ちていたことが暴かれ、冷淡な扱いがなされている。相争う二つの陣営のどちらにも過度に寄り添わないという姿勢は、歴史事象の相対化にこだわり続ける作者の意識の表れだろう。そうした意識は記事構成の次元のみならず、表現語句の次元にも表れている。過去推量「けむ」を重ねて使う文がその端的な例であると考えられる。

 第二部第二章「皇位継承記事の位置づけ」では、『太平記』の構造原理を探った。作中には持明院統(北朝)の皇位継承が四度にわたって記されているが、年時設定や記事配列の様相を確認すると、うち三つについては明らかな作為性が認められる。そこで、それらの記事を総合的に分析し、いずれも後醍醐天皇の退場を承ける形で配置されていることを明らかにした。また、その叙述自体にも目を向け、皇位継承が必ずしも絶対の寿祝として機能しておらず、曖昧な印象を与えるものであることも指摘した。歴史叙述が行われる際、皇位継承は時代の節目として認識され、記事構成の柱ともなり得るのであるが、そうした意味を担うはずの同記事が微妙な色調を帯びている点は、『太平記』について論じる際に見逃せない特徴であると考える。

 第二部第三章「足利直義像の改修」では、作中人物の形象を焦点として、『太平記』の本文が古写本から流布版本へと変化する様相を捉えた。取り上げたのは、『太平記』の成立過程にも関わっていると目される足利直義である。この直義像が成立当初から相反する二面性(敬虔および非道)を有していたことを指摘し、さらには、それぞれの傾向を帯びていた旧来の本文自体が、場面本意に賞賛もしくは批判の度合いを増していったことを確認した。本文改訂の一つのパターンとして、テキスト本来の文脈の補強という手法をクローズアップしたわけであるが、その一方で、志向性の異なる南都本系本文と天正本系本文とが同時に流布本に流れ込んでいるという現象をも捉え、流布本本文の混態性の一端をも明らかにした。

 第二部第四章「宝剣進奏譚の構成」では、『太平記』巻二十六の宝剣献上記事の持つ意味と、同巻の記事配列方法の意図を探ることを試みた。この記事は従来の研究では解釈が留保されていたものである。しかし、作中の表現をひとつひとつ慎重に読み解くと、本物の宝剣が黙殺される話であることが判明する。そして、その結末が観応の擾乱を引き起こしたという構想も浮かび上がってくる。ただし、それはあくまでも仄めかされているにすぎない。南都本が本来の構想を明確にしているのに対し、近世に流行した太平記評判書は逆に贋物説を唱えている。こうした相反する二つの解釈を誘発してしまうのが『太平記』の大きな特徴であると思われる。

 第二部第五章「観応擾乱記事の方法」では、巻二十九の桃井直常入京記事を取り上げた。まず基礎作業として本文異同の検証を行い、同巻に限っていえば、二種の古態本のうち神宮徴古館本系よりも西源院本系の本文の方が原形に近いことを指摘した。そしてその調査結果をふまえ、当該記事が新たな事件展開を直截的に予告する形から、当時の主義主張の錯綜状況を表象する褒貶並列形式に改められたことを明らかにした。もとより『太平記』の中には僉議論争形式の記事がしばしば見えており、多様な意見の存在が容認されていると考えられる。

 終章「動乱期の歴史叙述」では、『太平記』の最後を飾る巻四十の中殿御会記事について考察した。二代将軍義詮の主導で行われた御会は、作中では後光厳天皇の強い意志によって開催されたかのように描かれており、後光厳は後醍醐と同じく<王朝復古を目指す帝王>として形象されている。だが、建保年間ほかの先例になぞらえられていた盛儀は、最終的には不穏な事件を引き起こす元凶に転化してまう。その点は巻二十五の天龍寺供養記事と共通する。故事との類比によって保証されていた内容が相対化されるというのは、本論考の第一部および第二部でそれぞれ取り上げた二つの叙述方法の併用に他ならない。一方が他方を相対化するというこの併用は、『太平記』の歴史叙述の特徴の中でも、とくに注目すべきものである。

 以上の論点から、物語としての『太平記』の可能性を積極的に評価することができたと考える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本の南北朝時代の内乱を描いた『太平記』を中心に、南北朝時代の物語叙述の特質を探ったものである。序章「足利政権と軍記物語」において、この時代に足利政権と関わりながら成立した作品群の中で、『太平記』のみが党派的性格を持たないという特徴を有する点に注目し、今川了俊の『難太平記』が問題にした尊氏の降参記事における「降参」という語の使用条件の検討から、『太平記』は成立当初から足利方を相対的に捉える基本姿勢を持っていたとする。

 第一部「『太平記』の周辺」においては、『太平記』周辺の作品や引用の出典となった作品との関係から、『太平記』の叙述の特質として故事との類比という方法があることを探るものである。第一章「故事としての『平家物語』」は、『太平記』が治承寿永年間の源平の合戦を、実際の事件の発生年時と異なり、平氏関係の事件は「治承」、源氏関係の事件は「元暦」の出来事として記しており、源平交替史観に繋がる世界観の基に歴史叙述を行っていることを明らかにしている。第二章「承久の乱と『梅松論』」では、『梅松論』の中で北条義時が後鳥羽院政の乱脈ぶりを批判する言説は、後醍醐天皇の建武政権の乱脈を批判する足利幕府の正当性を主張しようとする立場の投影とし、『太平記』と同時代の作品の政治的傾向と『太平記』との違いを明らかにする。第三章「北野天神説話の機能」では、醍醐天皇の描き方から相似関係による後醍醐天皇への批判を読み取っている。第四章「長恨歌説話の主題と表現」においては、『太平記』において大きな比重を占める故事説話の意義を究明するものである。

 次の第二部「物語としての『太平記』」では、『太平記』の諸本の記事構成や異文の検討を中心にしながら、その歴史叙述の在り方を具体的に検討し、多様な立場の存在を肯定的に表現する基本的な姿勢があることを論じている。第一章「六波羅攻略記事の表現」では六波羅探題方と、後醍醐天皇方のいずれにも過度に肩入れせず、歴史事象を相対的に表現する態度を析出する。第二章「皇位継承記事の位置づけ」では、北朝の皇位継承の記事には明らかな作為性があり、いずれも後醍醐天皇の退場を承けるかたちで配置されているなど、歴史叙述の記事構成の柱になり得る事象の『太平記』における意味を指摘している。第三章「足利直義像の改修」では、『太平記』の成立過程にも深く関わっていると見られる足利直義の古写本から流布本への変化を捉える。第四章「宝剣進奏譚の構成」では、後出の異本が異なる意味づけを行う原因は、本来の記事がいずれの解釈へも進み得る仄めかしを含んでいることを明らかにする。第五章「観応擾乱記事の方法」は、褒貶並列形式というべき多様な意見の存在を示す記事構成をもつことを解明し、『太平記』にしばしば見られる論争形式の記事の意義を述べる。

 そして、終章「動乱期の歴史叙述」において、巻尾を飾る中殿御会記事の検討を通して、先例に準えられた盛儀が、最終的には不穏な事件の元凶に転化してしまうことを明らかにし、故事と類比によって保証されていた内容が相対化されるという記述の方法は、本論文の第一部と第二部で取り上げた二つの叙述方法の併用であり、『太平記』の歴史叙述を特徴づける方法であると結論する。

 以上の論述を通して、『太平記』には、故事と類比による歴史記述、意味の相対化・評価の輻輳といった記述方法が存在することを明らかにし、南北朝という時代を代表する歴史物語の表現の意義を解明したものであり、さらに、同時代の他の歴史叙述との関係の解明が期待されるが、それは今後の解明に待つべきであろう。本論文が、この複雑な記事と構成を持つ作品の意義を解明している点は高く評価できると考える。

 よって、本審査委員会は博士(文学)に相応しいものと結論した。

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