学位論文要旨



No 119593
著者(漢字) 上田,純子
著者(英字)
著者(カナ) ウエダ,ジュンコ
標題(和) 近世後期萩毛利家の研究 : 天保改革期の軍制再建
標題(洋)
報告番号 119593
報告番号 甲19593
学位授与日 2004.07.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第446号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 藤田,覺
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 助教授 保谷,徹
 山口大学 助教授 森下,徹
内容要旨 要旨を表示する

 明治維新において、中心的役割を果たしたのは武士である。しかし近世における武士身分は、維新後急速に解体される。武士身分の解体とは、即ち国役を通して全人民を国家的諸身分に編成した近世国家の解体に他ならない。本稿は、寛政期以降、特に天保改革期の萩毛利家における軍制再建の取り組みを具体的に検討し、そこから武士身分の解体課程を展望するものである。

 この武士身分とは、武装を自弁として戦列に参加する軍役負担者としての武士身分であり、小身通りと称される扶持米取の者であっても、軍装・武器・従者等を自弁して戦列に臨むことを建前とするという意味においては、間違いなく武士身分である。しかし寛政期には、これら低禄層に限らず、家中の大部分において軍役遂行が極めて困難な状況であった。また、長期にわたる国内的平和実現によって、家中の軍事的機能は形骸化していた。

 対外的危機の発生は、武士身分に本来の軍事的役割の遂行を要請する。公儀は海防強化を諸大名以下に令し、それを受けた萩毛利家においても、幕藩領主権力の一端としての海防体制の構築が要請されることとなる。ここに、弛緩した軍役動員体制と、形骸化した家中の軍事的機能――軍団の再編が開始されるのである。しかし、対外的危機の強弱、公儀の海防策の進退に伴い、萩毛利家における軍制再建の動きにも緩急が出る。これがアヘン戦争情報に触発され、さらに公儀の大名諸家軍事力強化への政策転換を受けて本格的に企及されはじめたのは、萩毛利家においては天保改革期のことである。

 それはまず、軍役動員の可否を確認する作業から開始される。天保一四年(一八四三年)四月朔日に実施された羽賀台大繰練では、軍役・国役として総勢一四一〇〇余人が動員され、ここに萩毛利家は、その動員体制の確認と、萩毛利家同様徳川将軍家を頂点に編成された軍役体系の中で、共に海防役を担う他の大名諸家に対する名誉の獲得に成功する。この大繰練において採用された陣押し―備編成は、古記録類より近世初頭以降の軍役動員の先例を勘案したものであったが、羽賀台大繰練以後はこれも新たな先例として、さらに軍制再建の詮議が重ねられていくのである。

 その過程で日本海沿海に警衛区を設定し、そこへ惣奉行としての家老以下、寄組・大組・足軽組を派出して警衛に当たらしむという海防体制が構築されるとともに、藩政の成立過程で創設された軍事的組織に由来しない階層や小吏層までを軍団の中に位置づける作業が進行する。弘化二年(一八四五)五月に提出された海防報告書は、その成果をまとめたものであり、そしてこの海防報告書の作成事業は、その後の追加報告が完了した弘化三年(一八四六)一二月において一応の区切りを迎える。本稿で設定した天保改革期とはこの公儀への海防報告完了までの時期を指している。

 この間萩毛利家では、慢性的な財政逼迫に倦む家中に海防強化への出費を肯んぜしめるため、家中の累積債務を解消する公内借捌の実行に踏み切る。羽賀台大繰練において、武士身分は武装自弁を建前とすることが再確認された。したがって海防という軍事課題に対応するため懸案となっている軍事力の銃砲化を推進するためには、家中の財政状況を立て直し、銃砲購入を促進して稽古に出精せしめることが重大案件であった。そのためには、家中から海防強化策に対する同意を調達する必要があったのである。しかし当時は、未だ家中に対し対外危機が直接訴えられる状況には至っていない。萩毛利家の枢要にいる人物は、あらゆるルートで対外情報を収集し、それを政治判断に利用するが、その情報は未だ海防負担の当事者たる家中に対しては開示される段階ではない。この期の海防は、軍役負担者である武士身分および国役負担者である百姓身分に対し、国家的役負担の体系のなかで海防に貢献することが要請されたのである。

 嘉永初年には異国船目撃情報が急増し、対外的危機の存在が像を結び始める。萩毛利家においても北浦沿海警衛体制の強化が強く意識された時期であり、この期に、海防人数に組み込んだ百姓身分に対する銃砲訓練が開始されると共に、以降「永久之備」としての海防体制構築のため、家中の編成そのものを見直す動きが出て来る。一つは八手惣奉行制の導入であり、これは従来の家格を優先させた組編成から、給地あるいは在郷住宅地といった人馬徴発の基盤の有無を優先させた組編成への改組を伴って、永代の警衛場所・相組を定めたものである。ここでは、武装自弁のための給人知行権の再確認も行われる。八手惣奉行制の導入は、いわゆる藩政の成立過程で形を換えた領主制の上に、若しくは在郷住宅をそれに擬制することによって、海防という当時の軍事的課題に対応し得る新たな軍役動員体制の策定を企及したものと評価されよう。

 その一方で、新しい軍役賦課の最小単位として、武士の家内部に存在する戦闘能力の高い個人が見いだされ、組織化されはじめる。御前警衛・水陸先鋒隊といった「諸隊」は、従来の家を基準とした軍役負担を超えたところに見出された軍事力であり、嫡子・庶子を当主が勤めるべき家としての役とは別個に動員することから、武器の貸与や貸人において、特別な配慮を必要とした。元来の家を単位とする武装自弁原則をここに適用することは出来なかったのである。そこには役賦課の在り方を変更する要素を内在する。そして慶安四年(一六五一)以来萩毛利家の軍役を規定した「武具定」の改定によって、家中銃砲数の増加が企図される。「武具定」の対象とならない一六〇石未満の層についても、得武具を小銃とすることが通達され、それと共に軍団内において長柄あるいは武具持ち・道具持ちとその持ち道具が定められた中間以下の奉公人層にも、銃装化あるいは武装化が要請される。

 これらの施策は天保改革期以降の一連の海防強化策の一環として理解され、そこには通説的な村田・坪井両派の政権交代による政策の変更や後退などは見出せない。羽賀台大繰練以降も、萩毛利家では軍役動員体制の整備と形骸化した家中の軍事的機能――軍団再編事業がずっと継続されて嘉永期に至るのであり、この八手惣奉行制の導入等でもって一つの区切りを迎えたと考える。本稿では、この一連の事業を軍制再建と捉えている。

 萩毛利家は、これらの施策に加えて度重なる文武奨励策を発している。それは凡そにおいて、馳走米の軽減或は恵銀といった海防による財政負担を幾分なりとも軽減する措置を伴うものであった。萩毛利家中では、武士身分としての役負担義務を放棄して在郷住宅する家が少なくなかったのであり、在郷には至らなくとも、多くの家は武装自弁の戦闘者としての軍役負担義務の遂行が困難な状況であった。元来武装自弁の戦闘者であることを建前とする武士身分においては、軍役相応の人数・武器を調え、その戦闘者としての能力を維持することこそが、その成り立ちを意味するはずである。しかし近世後期の萩毛利家においては、実際にはその中核的家臣団であるところの大組(馬廻り)層においてさえも、軍役人馬の備えに怠り、本人もまた武術の習得に怠るという有様であった。対外的危機が高まりを見せるなか、武装自弁出来ない武士身分の建て直しは急務の課題であり、その中で軍役動員にともなう諸役賦課の体系も整備されていく。

 対外的危機の発生によって、そこには本来の武士身分たるべく武装自弁であろうとする志向と、それを許さない諸状況が存在していた。その葛藤のなかにこの期の軍制改革は進行するのであり、それは即ち武士身分とは何かを改めて問う問題でもあると考える。藩政の確立と長期間に亘る国内的平和の実現によって変容せしめられた武士身分に、再びその本来の軍事的役割、すなわち武装自弁の戦闘者であることが要請されたとき、武士身分の解体過程は既に緒に就いていたのである。

 それとともに嘉永末年の家中への海防に関わる訓諭では、天保・弘化期で強調されていた公儀に対する軍役奉仕義務の遂行が後退し、それに代わって「ペリー来航予告情報」に対する防禦の必要性が前面に出てくるようになる。萩毛利家では、その風説が人口に膾炙する状況を前提に、広範に亘る領海の警衛に及ぼす危機の可能性を指摘し、軍役規定の改定や八手惣奉行制の導入等に対する家中の同意を調達して、一層の武備充実を目指そうとした。「ペリー来航予告情報」の流布は、それまで具体的な対外的危機の存在を意識するに至らなかった家中諸士をして、それを認識せしめていたのであり、萩毛利家もそれを宣伝に利用することによって、海防強化策実施上の同意と協力を引き出そうとしている。ここに、萩毛利家中においても確実に幕末政治社会の到来が準備せしめられていることが確認される。さらに実際にペリー来航を迎えることによって、それまで家中から同意を得られなかったいくつかの案件についても、その実施が適うこととなる状況が生まれて来る。そして、このような動きの中から、自領の防衛を、徳川将軍家を頂点とする幕藩制国家の軍役動員体制に優先する論理が創出されていくのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、近世後期の萩毛利家を素材として、藩の軍制とその変容過程を検討し、併せて武士身分の解体に向けての動向をさぐる中で、幕末維新期の同藩における政治・軍事状況の歴史的前提を解明しようとするものである。

 序章で研究史批判の中から課題設定がなされた後、本論を六つの章と二つの付論を二部に分けて構成している。まずI部「近世後期の海防」では、はじめに1章で、寛政期から文化・文政期における対外的危機の発生に対して、萩毛利家がどのように対応したのかを検討する。そして、海防体制の構築という課題の中で、旧来の封建的軍事力のみでは対処しえず、郷土防衛的な沿海防禦体制の構築が模索され始める起点を見出す。次に2章では、文化7年以降の神器陣―鉄砲を中心にすえた新陣法―の導入による伝統的軍団編制の改編過程が検討され、これに対し家臣団から「持方」―家格や階級に応じた軍団内での位置―の論理に基づく反発が起きる状況に注目する。付論1では、文政以降、北浦筋や見島の海防政策を検証し、在郷住宅諸士や陪臣、百姓軍夫などの動員構想を明らかにする。

 II部「天保改革期の軍制再建」において、まず3章では、天保14年4月に実施される羽賀台大操練の準備過程を検討する。この大操練は、元和年間以来実質的に中絶していた藩の軍役動員体制を復活・再編させるための一大軍事演習であり、その前提として、桎梏となる家中の「持方」をどのように再編・解体しようとしたかを、軍団の備や動員規定の詳細な分析を通して明らかにする。続く4章は、羽賀台大操練自体の検討である。ここでは、天保末期の対外危機における海防を名義とし、14000人にも及ぶ動員を遂行しえた萩毛利家の軍役動員体制を、城下町や地下における動向を含めて細かく解明してゆく。付論2は、門閥浦家を事例として、在郷住宅の諸士が大操練にどのように対応したのかを検討する。5章は、弘化2年、萩毛利家が幕府に提出した海防報告書の作成過程と、そこから派生した軍役動員、人馬・兵糧徴発の強化策策定への過程を辿り、旧来の武器が小銃へと転換される動向と、武器貸与のシステムを見、これが武装自弁を本位とする武士身分の存立を脅かすにいたる様相を検証する。最後の6章では、嘉永期における新たな軍事力編制へと向かう萩毛利家の模索を辿り、家中軍事力の軸を鉄砲へと転換する諸施策の本格化と、水陸撰鋒隊など武士の家を超えた新たな軍制を幕末期「諸隊」の萌芽として注目する。

 本論文は、第一に、当該期萩毛利家の軍制について、軍団編制・軍役動員を中心に、18世紀末から嘉永期にかけて、その実態と変容過程を初めて詳細に解明した本格的実証研究として高く評価できる。また第二に、天保14年の羽賀台大操練の全過程を明らかにし、幕末期軍制や政治状況への転換点としてその政治史的位置づけの確定を試みた点も重要な貢献である。さらに第三に、萩藩家中の身分階層(階級=格と階層=禄)の実態分析を精緻に進める中で、武士身分の変容・解体の動向を明らかにし、諸隊形成の歴史的前提を論じた点も特筆されよう。

 本論文は全体の結論部分を欠いており、また幕末期の軍制問題については見通しを述べるにとどまるなど、まだいくつかの課題を残すが、上記のような顕著な成果に鑑みて、本審査委員会は本論文が博士(文学)に十分値するとの結論を得た。

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