学位論文要旨



No 119594
著者(漢字) 金,英淑
著者(英字)
著者(カナ) キム,ヨンスク
標題(和) 日本外交における新国際秩序の模索 : 満州事変から日ソ中立条約まで
標題(洋)
報告番号 119594
報告番号 甲19594
学位授与日 2004.07.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第447号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 野島(加藤),陽子
 東京大学 教授 藤田,覺
 東京大学 助教授 鈴木,淳
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 昭和女子大学 講師 千葉,功
内容要旨 要旨を表示する

 本稿では、満州事変直後の日ソ不可侵条約締結問題がどのように変容して、一九四一年四月に日ソ中立条約として締結されるのかを検討してきた。しかし、日ソ間の不可侵条約締結交渉を一〇年間まんべんなく追ってきたわけではない。むしろ不可侵条約締結に対する日ソ交渉に問題を絞っていくと、一九三一年末から三二年末、そして、一九四〇年から四一年初めの二年に満たない期間にすぎない。三二年一二月の中ソ国交回復宣言を境目に、不可侵条約締結問題は打ち切りになり、三三年以後の日ソ関係は、東支鉄道売買問題をめぐる日ソ間懸案問題解決段階に入った。そして、三五年にソ連の満州国に対する東支鉄道売却の正式調印が行なわれ、懸案問題解決になると、日ソ不可侵条約締結問題は長い間棚上げにされたのである。

 そのソ連が日本外交の舞台に再び飛び込んで来る事件が起った。それが独ソ不可侵条約の締結であった。その直前までソ連は日本外交から除外されていただけではなく、日本がドイツ、イタリアと締結した防共協定の対象になっていた。ドイツが日本との防共協定を維持したまま独ソ不可侵条約を成立させたことに対しては、外交担当者だけではなく、外交の理論をバック・アップしてきた知識人たちも戸惑いの色を隠せなかった。そのため、当時日本の反応は、ドイツの行為が防共協定違反であるという点に批判を集中した。

 しかし、防共ではなく、ドイツとの協力に重点を置く日本外交は、ドイツが抱え込んできたソ連との協力をも模索する方向に急旋回した。この段階で日本の国際秩序構想は、イデオロギー的秩序から地域主義的秩序に転換し、日本は東アジアでのソ連との協力を求めたのである。

 日独伊三国軍事同盟が締結される段階ですでに、ソ連を参加させる四国同盟が想定され、日ソ中立条約の締結に至り、新秩序のための構想は見事に完成された。すなわち、国際連盟に代わる地域主義的国際秩序の成立を見たのである。ここで注目されるのは、東郷、重光などの現地の外交官たちが、三国同盟の段階からこの同盟の締結が英米を対象にする戦争への参加を意味すると警告していたことである。のみならず、日本の構想の外で独ソ関係がすでに壊れていたことも重要である。松岡は日ソ中立条約前に、ドイツから独ソ関係亀裂のことを聞かされていたにもかかわらず、条約締結を踏み切ったのである。日独伊防共協定は、独ソ不可侵条約締結を経て、理想的な四国同盟の地域的国際秩序を構築するが、独ソ開戦という外部的な要因によって壊滅していくのである。

 満州事変以前の国際秩序は、国際連盟、九ヶ国条約、不戦条約などによって規定されていた。日本は国際連盟に加盟し、不戦条約にも参加していた。そして、九ヶ国条約に代表されるワシントン体制の重要な一員でもあった。しかし、満州事変と満州国の建国により、日本は国際連盟と列国の非難の矢面に立たされることとなる。この時、既存の国際秩序を認めたうえで列国との関係改善に努めるか、既存の国際秩序を否定し、日本を中心とした国際関係を作り出すかの選択が問われたのである。

 このような国際秩序の模索の中で注目されたのが、既存の国際秩序に属していないソ連の存在であった。ソ連の提案した日ソ不可侵条約締結は、一方では不戦条約を二国間の具体的な関係で補う補完的な国際秩序として位置づけられ、他方では国際連盟の地域的機構の一つの見本として提示された。ところが、日本の国際連盟脱退は、国際連盟に代わる国際秩序を樹立する課題を日本に与えた。蝋山政道の場合は、他国も加入し承認できる独自の国際平和政策を樹立することを主張した。その一例として、ソ連が政体を異にする国家との間にも不可侵条約は締結してきたことが評価された。

 しかし、国際連盟脱退後に広田外交が構想したのは、共同防共を通じて中国との関係改善を図り、イギリスをも防共協定に参加させることであった。この構想が関東軍の華北進出により挫折されると、ドイツとの防共協定締結に移っていった。この日独防共協定に対しては、防共協定がブロック化され、既存の国際秩序と対立することを警戒した締結反対論からはもちろん、締結賛成論からも世界秩序が二分化する危険性が指摘された。日独防共協定締結賛成論は、日独の協力のうえで日英・日仏・日露協定までの拡大の可能性を期待したが、対英米牽制の意味を含んでおりイギリスなどから警戒された。この防共協定にイタリアが加えることにより、日本外交のブロック化は明らかになったと思われる。

 日独伊防共協定を中心にする日本の国際秩序構想は、ドイツがソ連と不可侵条約を締結したことで再び転換を余儀なくされた。防共協定の理念に反するものとして、日本側は独ソ不可侵条約を非難するが、結局日本はドイツとの協力関係の前提のうえで、外交方針を変えることとなった。つまり、日本外交は独ソ不可侵条約をきっかけに、ソ連を日本の国際秩序構想の一部として受け入れることにしたのである。

 以上のように、日本外交はいくつかの方向転換を経てきた。まず、満州事変と満州国建国により国際連盟と列国に非難される中で、日本は国際連盟とワシントン体制の外部の存在であるソ連との不可侵条約締結を試みた。それは、ソ連との不可侵条約締結と共にソ連の満州国承認を得て日本の国際的地位を強化しようとする構想であった。しかし、日本は共同防共を通じて中国および列国と関係を改善することを選択した。ところが、関東軍の勢力拡大によりこの構想は日独伊防共協定締結へと大きく旋回した。その次は、独ソ不可侵条約締結による四国同盟構想への転換であった。このような外交方針の転換が問題とされるのは、その転換の要因が外交構想の中で行なわれたのではなく、外部的な要因により転換が余儀なくされ、その後の政策がそれを正当化する形で行なわれたことである。

 もう一つ、この時期の日本外交の問題点として指摘できるのは、国際情勢に適切に対応することが出来なかった点である。

日中戦争に対して国際連盟は連盟総会と九ヶ国会議を通じて、満州事変当時より強硬に対応してきた。そして、アメリカは中立法の発動問題と日米通商航海条約の廃棄通告をもって、日中戦争およびヨーロッパ戦争に対する発言を強めていた。また、三国同盟前後から提議された、日本が対英米戦争に捲き込まれる可能性に対する警告も指摘できる。この時期の日本の新国際秩序構想は、ヨーロッパ戦争でのドイツの優勢を前提にしており、この同盟論がもたらす日本の対英米戦争への参加可能性に対してはあまり議論されなかったのである。日本外交の新国際秩序模索が、国際秩序構想の現状に対応することができなかった時、地域的国際秩序構想として法学者やジャーナリストに幅広く支持された四国同盟論は、独ソ戦の開始と共に、存在基盤を失ってしまったのである。

 本稿では、日記、回顧録、雑誌論文などを用いて、一九三一年から一九四一年までの日本外交に対する知識人の外交論を分析してきた。まず、この時期の日本に現実の政治と外交を分析する多くの知識人が存在したことに圧倒される。政治家、外交官、軍人などの政治主体と国際政治および国際法の分析することを専門にする学者以外にも、日本の各新聞社に所属された国際関係および外交担当の専門家が彼らである。彼らは日本の外交政策を分析し位置づける一方、政策を提示することなどで、日本外交の方針を導く役割をした。

 特に、学者の場合は、普遍的国際秩序の擁護と日本の特殊的立場を代弁する中で自己矛盾に陥る可能性は常に存在した。ジャーナリストの場合、迅速な報道と論評を生命にしていたため、この危険性はより大きかったはずである。

 急変する国際情勢の中で、横田喜三郎が一貫して国際連盟と九ヶ国条約を支持してきたことは注目に値する。彼は、国際連盟の直接的な制裁より、日中戦争において、国際連盟が日本を侵略国と規定したことに危機感を覚えた。横田はあくまで既存の国際秩序の中で、日本外交が対応していくことを主張したのである。そして、もう一人、宇垣一成に注目したい。宇垣は国際情勢を鋭く分析し、連衡論に基づいた外交論を提示していたが、三国同盟問題に当たって、むしろ英米協調論を主張したところが意外であった。ドイツの勝利を前提に構想された三国同盟論に、彼の慎重な国際情勢判断がうかがえるところである。

 しかし、既存の国際秩序を擁護したうえで新しい方向を模索するのではなく、既存の国際秩序を否定し、それに対抗する国際秩序を模索する場合、一貫的な論理を展開することは難しいと思われる。当面の国際情勢の変化に対応しながら、新しい国際秩序を作り上げなければならないからである。そこに時代の先端を走る知識人の責任が問われることであろう。三国同盟と日ソ中立条約に至る国際秩序構想は、構想としてはある程度の完成に至っていたと思われるが、それには防共協定論から日ソ中立条約締結への急激な転換の正当性が説明されていない。そして、なにより、日ソ中立条約の締結が、一九三二年の日ソ交渉の結果ではなく、一九三九年独ソ不可侵条約の産物であることに、新国際秩序の模索としての四国同盟論の矛盾が指摘できる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、満洲事変勃発の年である1931年から日ソ中立条約締結の年である1941年までの10年間を対象としている。現実に満洲事変が起こり満洲国も建国されていく過程で、欧州を中心とした多国間協調を維持する機構であった国際連盟の動きとは別に中国、ソ連、日本の間においては、満洲をめぐって極めて現実的なスタンスによる二国間交渉がさかんに展開され、それは一定度の具体的な成果や影響を東アジア情勢にもたらしていた。本論文は、以上のような問題意識から、日中関係、中ソ関係を背景としておさえながら日ソ関係に焦点をあてた。満洲事変勃発直後にソ連から日本になされた不可侵条約提案が、10年の年月を経て、41年、日ソ中立条約締結となって結実するのは何故なのか。その経緯と背景について、日本、中国、ソ連の一次史料を広く渉猟して明らかにした。上記のような分析視角をもつ本論文は、以下の点を明らかにし、研究史上に新たな意義を加えたといえる。

1.満洲事変の衝撃によって、日本、中国、ソ連がいかなる影響関係、外交の力学下に置かれたかを冷静に捉え、31年から32年までに日ソ間に展開された不可侵条約締結交渉について、時期区分をした上でそれぞれの期間の交渉内容を確定し、その上で、交渉に関与し影響力を与えた日ソ両国の政治主体の実態や外交論調を分析し、交渉の歴史的意義を明らかにした。さらに、33年から35年にかけてなされた東支鉄道売買交渉についても、従前の不可侵条約締結交渉が形を変えて継続されたものと捉え、この期間における日ソ交渉の歴史的意義も加えて明らかにした。

2.ソ連はおしなべて日ソ交渉に積極的であったが、日本にとっても日ソ接近は検討に値する外交上の選択肢であり続けた。日本側がソ連接近を真剣に考慮した理由は、何も満洲国承認を確保したかったためだけだったのではない。『改造』『中央公論』『国際知識』『外交時報』など、当時の政策決定に関与した外務官僚、国際法学者、民間のソ連通がさかんに外交論を展開していた、これら雑誌の論調を悉皆調査することにより、日本側における対ソ接近論のもつ幅について、豊かな実証的成果を上げた。少なくとも、(1)ソ連をワシントン体制の中に組み込むことで極東の安定を確保しようとする構想、(2)不戦条約体制の不備を日ソ接近によって補完しようとする構想、(3)ソ連を利用することで英米を牽制しようとする構想などがあり、国体の相違やイデオロギーは思いのほか交渉の阻害要因とならなかったことが、外交評論の分析によって明らかにされた。

 一方、幅広く社会に浸透していたとされる外交評論と、現実の政策との因果関係の確定などについては未だ克服すべき課題も少ながらずある。しかしながら、上記のような成果を挙げていることを考慮すれば、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当する論文であると判断する。

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