学位論文要旨



No 119596
著者(漢字) 中田,喜万
著者(英字)
著者(カナ) ナカダ,ヨシカズ
標題(和) 近世武士と儒学「学校の政」の理念 : 秩序構想の中の学問所
標題(洋)
報告番号 119596
報告番号 甲19596
学位授与日 2004.07.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第184号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 苅部,直
 東京大学 教授 平石,直昭
 東京大学 教授 田端,博邦
 東京大学 教授 交告,尚史
 東京大学 助教授 新田,一郎
内容要旨 要旨を表示する

 儒学の経典では、秩序像の基本の一つとして学校の観念がある。学校には人材養成、民衆教化、地域統合等の機能が期待され、それを通じて統治すべきことになる。宋代の士大夫社会でうまれた程朱学にも、「学校の政」の理念の復興によって、既に確立していた現実の科挙向けの学問を批判する原理的関心が含まれた(「俗学」「記誦詞章」に対する「正学」)。しかし理念の実現は、一般競争試験と比べて経費や公正さの難点があり、中国や朝鮮でも困難であった。やがて程朱学説自体が却って科挙の体制にとりこまれてしまう。儒学の形骸化したその理念が、それでは何故、近世日本で受容され展開したか、が問題となる。(序説)

 近世武家政権は新たな秩序をうち立てた一方で、あえて中世の武士像を模倣した。もとより武士になるのに学問を必要としなかったし、学問する弊害も指摘された。それにもかかわらず武士の家訓類には学問のすすめが散見される。まさに武士らしく演技しようとするとき、i)治世にも武を忘れず、ii)家来そして領民の統治に注意し、iii)そのための学問(軍学)をするべきだという論理内在的連関を有していた。為政者個人の倫理という側面、社交の手段や権勢の修飾という側面もあった。学者の側も兵書や史論など、武家の必要に応える内容を提供し始める。それは必ずしも儒学でないが、知的資源となる輸入漢籍の状況から、儒学の概念が流用される。武士の職分論もその一つと考えられる。

 学校の観念は具体的な制度設計に関わるから武家の現実と簡単に妥協できないが、林家をはじめ様々な学者が提案する。それが実現すれば「道」が目に見える形で普及したことを表すはずであった。科挙なども無いため、現実離れした「学校の政」の定型的な主張がただ繰り返される中、山鹿素行など武家に適合させる試みも生じる。

 幸運にも学問所を実現させた熊沢蕃山の場合、理念を掲げる一方で、譲歩して武家らしい内容の学校案を提案し、儒者が武士と異なる特別職でしかないことを容認した。学問所の実現はひとえに大名個人の好学によるが、理論上も武士らしさと学問とを接合する課題が残った。(第一章)

 およそ元禄・享保期には社会文化的条件が変化した。顕著な変化は出板業(本屋仲間)の成立である。業界団体の自主規制によって書物供給が安定し、本屋(貸本屋)の営業で読書層が開拓された。この条件の下、都市生活者たる武士の規範に学問をとりこむ教説が書物を通じて受容される。遊芸を戒める裏で抽象化した文武二道の融合が進む。その際、貝原益軒のように一般論で「学校の政」にふれても、直ちに現実の施策に向くわけではない。とはいえ、その板本を読書する行為そのものが潜在的に学問する人口の拡大を意味する。これが学問所設立の前提の一つとなる。

 この時代、徳川綱吉等の好学を契機に、還俗した儒者の地位が公認され、また聖堂や学問所が企てられる。ただし主君次第の一過性の面があり、制度として定着しない。それどころか、室鳩巣など程朱学に忠実な立場からすれば、道徳を知り行う学問(「武運の稽古」になる)を重視し、試験のための学問を警戒する。しかし、それでは実際に武士を学生として集めることは難しい。結局、学校にも消極的になる。

 書物の流通や漢詩文趣味の社交を介して流行した徂徠学派の場合、その内容も需要に見合って漢詩文で遊ぶ能力に傾斜した。斬新な経典解釈で注目を集めるのも、適度に難解で好事家を誘惑するのも、書物の市場に関わる。その学問観もこれに対応していた。すなわち、「先王の道」の目的が「安民」「平天下」にあることを強調しながらも、その「道」を知るには古文辞を学ばなくてはならないとして、結局、詩文に習熟することを肯定する(→(1))。その習得は、多様な各人の個性に合った自発的な(「識らず知らず」)実践を重んじ、「義理」の講釈では有害無益だと考える(→(2))。そのような学問観にのっとる限り、(1)武士にそれらしからぬ詩文を教え、また(2)悠長に奔放に遊ばせて学問とするのだから、武家の学問所の具体案を練ることが難しい。たしかに徂徠学にも相応の道徳論があるし(仁と中庸)、なおかつ学校は重要なものとされる。しばしば批判されたような道徳論の欠如はあたらない。ただ、それが学問所の制度に不都合だったということである。実に、人材の多様性の承認は徂徠学の制度構想の根本的弱点であって、すべて為政者の「知人」能力にかかってくる。(第二章)

 一八世紀後半、全国に商品経済化が波及するのに伴って、諸大名家で学問所を設ける動きが現れる。その目的は、都市文化の普及を促すと同時に、懸念される武家行政機構(文書本位の行政となった)の弛緩を引き締めることにあった。倹約論もこれに関わる。学者の側でも呼応して、その地位の向上や学問所による人材養成を提唱した。これは徂徠学とは別の意味であって、細井平洲の場合、個性を伸ばすのでなく一定の期待される武士像にあてはめようと考える。徂徠学に忠実なままでは学問所の実務に支障があることは上記(1)、(2)のとおりで、武家学問所という学問の新たな場に対応できなかった。徂徠学自身が師説の単調な再生産を期待しなかったこともある(徂徠学を講釈するのは自己矛盾)。従って学問所の徂徠学派は自ずと折衷に傾かざるを得なかった。

 地方の動向は都市に反射し、中央の改革に連なる。柴野栗山は旗本の遊興対策として、暇をつぶさせるため学問させ、賞罰を加えようという。そこで想定される学問は家業道徳のようなものとなり、武士の文弱批判が回避される。実際のところ、寛政の改革で松平定信らは、標準的で無難な程朱学を採用した(異学の禁)。これが他より優る積極的理由は提示しなかった。第一、「正学」と自称するものの、本来程朱学の有する「俗学」批判の含意を問わない。むしろ賞罰を導入し、また学説を統一して学問所の運用を容易にすること自体を重視したから、「正学」の意味が<ねじれ>た。(利欲を誘ってでも)学問を普及させる課題と学問を正す(利欲を排す)課題とが混同していた。実に、試験による登用(学問吟味)を企てて直参の学習欲を刺戟した。また第二に、すみやかな実現のため妥協し、学問所の内外で<使い分け>る二面的な態度を認めた。学問所附儒者の中にも、陽明学を兼ねた佐藤一斎や、蘭学に関心を抱いた古賀〓庵などがいた。「正学」で統治体制を説明するのでもなかった。

 寛政異学の禁の影響は、短期的には弛緩した林家と直参に向けられた問題として把握すべきものだが、長期的に見ると昌平校の制度・施設が整備され、そこで育った学者が諸大名家で採用されることで、事実上、学風の画一化が進んだ側面も考えられる。講釈が盛んになり、平俗化する。(第三章)

 武家学問所の制度が確立したからといって、当初の目的どおり風俗が矯正されたわけでも、まして「学校の政」の理念が実現したわけでもない。概して教師も不遇だった。とはいえ、中級武士の規律化や昇進に貢献する意義はあったであろう。これが近代の学校への対応を容易にしたと察せられる。

 ひとたび定着した制度は、設立意図を超えた効果をもたらす。武士が学問することが常識となり、そのことが開国の実務を担う人材集団の準備となった。広瀬淡窓のように、学制の整備によって武士の虚飾や(武家内部の)身分序列の弊害が除かれると論ずる者も現れた。また学問所自身が板株の秩序の中で商業出板にのりだした。昌平校の場合、直参の通学および寄宿寮とならんで、それ以外の者が儒者の門下で遊学する書生寮が存した。この書生寮には諸大名家から抜擢された若者が集い、低い身分ながら各家中の垣根を越えて交流することになる。同様の交流は昌平校以外の学問所にも見られた。学問所で釈奠、養老礼などの儀礼を催したことも交流に関連し、儒学の存在感を増したと思われる。なお、天保の改革では、強権的に思想を<使い分け>ずに取り締まったが、混乱を招くばかりだった。ただ、統制されるはずの学者の側からも、「学校の政」の理念のままでは学問や表現の自由の主張が生まれがたい。

 洋学が「実学」として脚光を浴びるようになると、これに儒学者も注目し、誤解を伴いながら、西洋近代国家に「学校の政」の実現を投影する。学校に集会して政策を議論するという情報も伝わる。翻って日本の問題点が浮かび上がり、改革案が構想されることになる。対外的危機感の下、水戸学のように神道の導入を図ったり、佐久間象山のように学校での洋学に積極的だったりした。佐藤信淵のように政府機関「教化台」を統治の根幹に据えようという極端な例もあった。横井小楠の場合、儒学の原理的意味で「実学」を復興して学問所「正学」を批判する立場であり、政府も学校も「実学」によることでよく「学政一致」となると考えた。しかし「実学」は多義的で曖昧になってしまうし、「学政一致」についても、これを実際に試みた水戸学の場合、却って激しい党派対立を招いてしまった。幕末、学問所の存在を前提とした「実学」論は、日本もようやく元来の程朱学と同様の問題状況に到達したことを表したといえようが、それは同時に、儒学そして武士らしさをも脱皮する転換点でもあった。(第四章)

 明治新政府の下、学校の制度は改まり、学問の内容も入れ替わったものの、政治と学問とに期待される関係は旧来の観念が続いた。この点を福沢諭吉は批判して、学者の私立、学問の独立を主張した。しかし遂行された政策は「学政一致」のまま、洋学的「実学」と儒学的「実学」とを妥協させ、かつての学問所の<使い分け>る態度を復活させるものだった。(終章)(おわり)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、儒学の思想潮流において統治秩序の要とされる制度の一つ、「学校」に着目して、徳川時代の日本で、この「学校」の構想がいかに論じられてきたのか、その思想史的展開と、現実に武家の学問所が普及してゆく歴史過程とのかかわりを、綿密に実証し、総合的に叙述した作品である。もともとは儒学と適合しない点の多い、徳川日本の武家支配秩序において、統治者たる武士たちが、しだいに儒学(朱子学)を熱心に受容するようになり、やがては「学校」を中心とした政治秩序(「学校の政」)の樹立までをも提起するまでに至る。徳川時代の全体にわたるこの過程が、論文全体の本筋をなし、さらに末尾では明治維新後の思想動向へのつながりを展望している。

 「序説」と「終章」を含めれば全五章分で構成されている本論文の内容は、おおむね以下のとおりである。

 序説「『学校の政』の理念〜中国宋代の例から」において筆者は、論文全体の問題設定を示すとともに、もともと儒学の古典において、「学校」がいかに位置づけられていたかを述べ、徳川時代の知識人にとって前提となる、中国宋代(そして朝鮮王朝)における「学校の政」をめぐる論争を通観して、徳川時代の議論を分析する際の座標軸を示している。儒学の古典において、学校には人材養成だけでなく、民衆教化や地域統合も含めた幅広い機能が期待され、秩序形成の中心に位置づけられている。宋代の士大夫社会でうまれた朱子学(程朱学)もまた、当時に横行した科挙向けの学問(「俗学」)を批判し、「正学」の理念を復興して「学校の政」を現実化しようと目ざすものであった。当然その実現は困難であり、やがて朱子学そのものも科挙の体制にとりこまれてしまう。だがその「学校」観が、徳川時代の日本で、独自のありようで受容され、展開することになる。

 第一章「武士と学問」は、徳川時代前期(十七世紀)における、武士のあり方と、学問論・学校論の萌芽的な展開とを探る。前代の戦国時代とは対照的な、平和な徳川の治世のもとで支配階層をなした武士たちは、新たな時代における「武士らしさ」を追求し、演じようと努めた。一面ではもちろん、中世以来の戦闘者としての武士のあり方を模倣し、それを阻むものとして学問を嫌忌する風潮が強かった。だが家訓類には学問のすすめも散見される。為政者として家来や領民の統治に注意し、そのための学問(軍学・兵学)を身につけることもまた、武士どうしの社交の手段としての利用も含め、新たに「武士らしさ」の内容をなすようになったのである。これに応じ、兵書や史論など、武家の必要に応える学問が普及しはじめ、そのための漢籍輸入にともなって、儒学の概念も入りこむことになった。

 この過程で、為政者による「学校」設立の構想を、林家をはじめ様々な学者が提案することになる。中国・朝鮮とは異なって科挙がないため、その多くは現実離れした「学校の政」の主張を型どおりにくりかえすのみであったが、山鹿素行のように武士の「職分」との適合の試みも現れる。その中で幸運にも、大名家のもとで学問所を実現させることができたのが熊澤蕃山(1619〜1691)である。だがその主張もまた、大名家の実状に適した学校案へと譲歩をみせ、武士のたしなみの中で儒学がはたす役割を、狭く限っていた。学問所の実現はひとえに大名個人の好学に依存しており、理論面でも、「武士らしさ」と学問とをいかに接合するかが、課題として残されたのである。

 第二章「学問振興につれて」は、十八世紀への転換点、元禄・享保期における社会・文化の大きな変容にともなって、儒学の書物の普及が大きく進んだようすをまず展望する。この時期には、出板業(本屋仲間)が成立をみて書物の供給は安定し、本屋(貸本屋)の営業を通じて、読書する人々の範囲が広がった。この条件のもとで、都市生活者たる武士の教養として、学問をとりこもうとする教説が流布し、文武二道の融合が進んでゆく。

 しかし、このことが「学校」の実際の設立と普及とに、直接に結びついたわけではない。たとえば「学校の政」を一般論として論じた貝原益軒も、現実の施策としてそれを主張することはなかった。またこの時代、徳川綱吉などの好学ゆえに、儒者の地位が公認され、聖堂や学問所の設立も企てられたものの、制度として定着せずに終わる。そもそも、朱子学に忠実な立場をとる学者たち(室鳩巣など)は、試験のための学問をきびしく戒めたのであり、それでは武士を学生として集めることが難しい。

 この時期、荻生徂徠(1666〜1728)とその学派の著作が、書物の流通や漢詩文趣味の社交を介して、広い流行をみるに至った。しかしそれは、漢詩文を作る能力に傾斜した受容のされ方であり、その斬新な経書解釈も、適度な難解さも、出版市場での需要に応えるものであった。もともと徂徠の思想は、儒学における規範としての「先王の道」の目的が、現実の「安民」、統治活動にあることを強調しながらも、その「道」を知るにはまず古文辞(中国古代の言葉)を学ばなくてはならないとして、詩文の習熟への没頭を奨める。そして、各人の個性にあった自発的な実践を通じ、「識らず知らず」のうちに「道」を身につけるべきだと唱え、「義理」(正しい道理)の講釈などは有害無益だとして斥ける。むろん徂徠学にも、相応の道徳論はあり、学校を重要なものとしてはいるが、詩文に習熟させ、悠長かつ奔放に遊ばせておくという、その学問論・人材養成論からは、とうてい、武家の学問所に関する具体案を生み出せないのである。

 第三章「学問所設立と『正学』」で筆者は、十八世紀後半に至って、各地の大名家で学問所が設立されるようになる経緯を分析する。この時代には、全国に商品経済化が波及したこと、また行政の複雑化を背景として、一般武士の奢侈や、日常生活の弛緩をひきしめることが、深刻な課題として意識される。学問所はそのために武士に道徳や規律を教えこむ機関として、現実に設けられるようになった。この動向に学者の側でも呼応して、儒者の地位の向上や、学問所による人材養成を提唱する運動を始める。その中で注目すべきなのは、朱子学に基盤をおく細井平洲(1728〜1801)の議論である。平洲は、各人の個性を多様なままに伸ばすことを提唱した徂徠学とは対照的に、学ぶ者を一定の期待される武士像へと訓育するような学問所を提唱した。武家学問所は、総じてこのような構想に基づいて実現したがゆえに、たとえば徂徠学派の儒者が用いられることがあっても、その学問はおのずと、朱子学との折衷に傾くことになる。

 地方の動向は、さらに中央の改革をも呼び起こす。柴野栗山は、徳川政権に仕える旗本を遊惰に陥らせない方策として、賞罰を与え学問に励ませることを提唱した。そこで想定される学問は、実質上、武士が身分に応じて「家業」を遂行するための心がまえのようなものになる。さらに寛政の改革における、いわゆる「異学の禁」の運動もまた、標準的で無難な朱子学を、公儀の学問所に採用した試みにすぎなかった。そこでは、「正学」とされた朱子学がなぜすぐれているのか、積極的な理由づけは行なわれず、朱子学本来の「俗学」批判の含意からは大きく離れていた。そこで目ざされたのは、試験による登用(学問吟味)とその後の賞罰を導入して、武士たちの学習欲を誘い、教説の規格を統一して学問所の運用を容易にすることであり、同じ「正学」の呼称を用いながら、その意味内容が大きくねじれていた。また、制度のすみやかな実現のために、学問所の内外で流派を使い分ける二面的な態度を認め、学問所附儒者の中からも、陽明学を兼ねた佐藤一斎や、蘭学に関心を抱いた古賀〓庵などが出た。このようにして、昌平坂学問所の制度が整備されると、そこで育った学者が大名家に採用され、一面では学風の全国的画一化が進むことにもなる。

 第四章「学問所から『学校の政』の国家構想へ」は、ひとたび制度として定着した学問所が、その設立の意図を超えて、広く中級武士にとっての出世の階梯になってゆき、やがて徳川末期には、「学校の政」の観念に基づいた政治体制の構想が登場するに至る過程を描きだしている。

 まず、武士が学問することが常識となり、やがては開国の実務を担うことになるような人材集団を準備する。広瀬淡窓のように、学制の整備によって武士の虚飾や身分序列の弊害が除かれると論ずる者も現われた。昌平校の書生寮には、諸大名家から抜擢された若者が集い、同様に各地の学問所においても、武士たちが各家中の垣根を越えて交流することになる。また、学問所で釈奠、養老礼などの儀礼を催したことが、社会一般に対して儒学の存在感を増していった。

 やがて洋学が「実学」として脚光を浴び始めると、儒者たちも注目し、徳川末期には、西洋諸国の政治制度に「学校の政」の実現を見るようになる。彼らは世界地理書を通じて、誤解も含みながら、西洋では学校に集会して政策を議論していると読みとった。この認識に基づいて、大名家や徳川政権全体に関する改革案も論じられる。いわゆる後期水戸学の主張は、独自の「学校の政」を構想するものであったし、佐久間象山は、公儀に対し学校への洋学の導入を建言した。極端な例では、政府機関としての「教化台」を統治の根幹にすえる、佐藤信淵の構想も登場する。この動向の中、横井小楠(1809〜1869)は、朱子学の理念に基づいた「実学」の立場から、同時代の学問所の「正学」を批判し、政府も学校も「実学」に拠ることで「学政一致」を実現すべきだと唱えた。こうした「実学」論は、朱子学本来の「正学」「俗学」をめぐる問題状況が、徳川末期に至ってようやく日本で登場したことを示している。だがそれは同時に、武士らしさ、そして儒学そのものをも脱皮する転換点ともなった。

 終章「『実学』と『学問の自由』」は、徳川時代の「学校の政」、学問と政治との関係をめぐる議論が、明治維新ののちにたどった軌跡を展望する。明治新政府の下、学校の制度は改まり、学問の内容も入れかわったものの、学問と政治との関係については、それまでの「学政一致」観が支配していた。この点を批判して、学者の「私立」、学問の独立を主張したのが福澤諭吉である。しかし明治政府は、「国家の須要に応ずる学術技芸」を政府主導で育成する姿勢を保持し、かつての学問所における使い分けの態度を、西洋近代型の制度に転用する。近代日本の「大学」(この名称じたい、儒学の学校論に由来する)は、これに基づいて洋学の「実学」と儒学の「実学」とを妥協させた形で、発足することになったのである。

 以上が、本論文の要旨である。

 本論文の長所としては、次の諸点を挙げることができる。

 第一に、儒学における「学校の政」の観念を軸として、徳川時代における、秩序にかかわる構想の思想史的な展開を、明瞭かつ説得的に叙述している。論考の範囲は、時代の全体に及び、主要な儒学思想家の言説をほぼ網羅して検討する。「学校」論という一つの視角から徳川時代の「政治思想史」の全体像を描いた試みとして、画期的な達成であり、今後の研究動向に大きな影響を与えることであろう。

 第二に、従来の研究が提示してきた徳川思想史の全体像に対して、正面から批判をおこない、独自の展望を切り開いた。本来武士のあり方とは適合しないはずの儒学(朱子学)が、徳川時代後期になって武士社会に定着していったのはどうしてか、一世を風靡した徂徠学がなぜ急速に衰退したのか、後期に普及する「折衷学」とはいかなる営みか、といった、従来大きな疑問とされてきた諸点は、本論文によって、ひとそろいの一貫した解答を与えられたのである。徳川末期に提起されるさまざまな秩序構想について、単に西洋諸国からの外圧に対する反応ではなく、それ以前から継続してきた「学校の政」をめぐる議論との内在的な関連を明らかにした意義も大きい。

 第三に、徳川日本の儒学思想家の著作と先行研究とを、綿密に読解するだけでなく、法令・日記などさまざまな史料を広く用い、教育史・出版史など他分野の最新の研究動向にも言及して、高度な実証性と説得力に満ちた議論を展開している。また、中国思想史にいったん沈潜し、儒学の古典や宋明期における「学校」論を引照基準にした上で、徳川時代の議論を通観する叙述方法も、周到である。筆者の研究者としての力量の高さを、十分に示すものと言える。

 ただし、本論文にも短所がないわけではない。

 第一に、全体の問題設定を、徳川時代の武士社会と「学校」構想との関係に絞った結果、「中世」と「近世」との断絶を、読者に過度に印象づけてしまう傾きがある。中世の「武家」における「文士」の存在や、戦国大名の「家中」における規律化との関係にも論じ及んでいれば、徳川時代の思想の特性が、もっと明確になったであろう。

 第二に、徳川時代における蘭学・洋学から、明治初期の思想に至る系譜を、叙述に本格的にくみこんでいれば、特に末尾の福澤諭吉に関する議論などは、論文全体の中に、よりしっかりと据えられたと思われる。

 第三に、叙述が細部の実証に流れ、全体との関連を見通しにくくしている部分が、時として見られる。

 しかし、以上の短所も、本論文の意義と価値とを大きく損なうものではない。これは、厖大な史料の緻密な読解を通じて、徳川時代の政治思想史の全体を通観した、すぐれた学問成果であり、筆者が自立した研究者としての高度な能力をもっていることを証明している。また、政治思想研究としても、日本思想史研究としても、学界の発展への貢献がきわめて大きい。よって、本論文は、博士(法学)の学位を授与するにふわさしい、しかも特に優秀なものと認める。

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