学位論文要旨



No 119597
著者(漢字) 井柳,美紀
著者(英字)
著者(カナ) イヤナギ,ミキ
標題(和) 多様性の創出 : ディドロにおける自然・美・政治
標題(洋)
報告番号 119597
報告番号 甲19597
学位授与日 2004.07.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第185号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 助教授 宇野,重規
 東京大学 教授 太田,勝造
 東京大学 教授 森田,修
 東京大学 助教授 苅部,直
内容要旨 要旨を表示する

 本稿の目的は、18世紀フランスの思想家ドゥニ・ディドロの思想を、多様性の観念の創出と、その多様性を前提とした政治のあり方という観点から読み解いてゆくことにある。これは、ヨーロッパ近代に圧倒的な影響力をもった普遍的かつ合理的な知のあり方に対する同時代からの批判の一つの足跡に光を当てようとするものであり、またヨーロッパ思想史における多様性の観念の成立史に何らかの寄与を試みようとするものでもある。

 ヨーロッパ思想史において、普遍主義を標榜する歴史はプラトン以来の根強い伝統であるが、18世紀は近代合理主義の影響下でその基盤をさらに堅固なものとした。啓蒙の時代の知識人に相応しくディドロは普遍主義を強く主張したが、他方で、普遍主義との関わりで多様性というものの価値を次第に見いだしてゆく。バーリンやラブジョイらが言うように、多様性という観念を一つの価値として発見したのは、19世紀のロマン主義者たちであるが、以下でみるように、ディドロの思想にはロマン主義には解消されえない彼固有の多様性への視座があったと考えられる。

 本稿では、ディドロが多様性の観念を創出する過程を、第1章「自然と多様性」、第2章「美と多様性」、第3章「政治と多様性」という3つの視角から論じてゆく。

 第1章では「自然と多様性」を論ずる。彼は最初の作品で、彼が生涯支持しつづける自然観を示す。すなわち、自然は、諸部分が相互に連結した一つの大きな全体とされる。また彼にとって自然と社会は連続的に把握されるため、これは社会観にも適用される。この議論は、当初、理神論の下で論じられ、個と全体の調和的世界観とも結びついていたが、ここでは全体の調和は神の意図によるものとされるため、個人は予め秩序の中に組み込まれた存在となる。次に、彼は、神に基礎づけられた形而上学的世界への反発から、人間中心主義を標榜する感覚論へと移行するが、次第にそれが真理の在処を危うくするものだとして唯物論へと向かう。しかし、唯物論においては、人間が外的環境の関数にすぎず、人間はただあるべき秩序へ向けて陶冶されるべき存在となり、ここに人間の自由や多様性の余地はない。

 彼は、理神論を信じた時代に、デカルトやニュートンらの機械論的自然観を支持していた。それは自然が幾何学的な法則に依拠するものであり、その結果、人間は自然を客観的かつ合理的に把握可能なものとするようになる。しかし、ディドロは、当時、新興の学問領域であった生物学・化学・医学・生理学などに関心を払い、物体に内在する生命を認め、自然が法則的ではなく、神の助力なしに絶えず変化するとの認識にいたる。つまり、彼にとって、世界とは絶えず変化を繰り返すものであるから、同一なものは何もなく、ここに自然と人間の多様性が看取される。彼の新しい自然観は19世紀の進化論の端緒となるが、種の優劣を想定する目的論的進化論とは異なり、個々の多様性を相対的に捉える視座をもっていた。なぜなら、彼にとって、自然は連続的であり、またその自然を分類化する思考自体が拒否されるからである。

 他方で、「有為転変」を繰り返す自然の中で、人間もまた一時たりとも同じではないが、人間は「記憶」により「自己の生活の歴史」をつくり「自我の意識」を形成しうるという。それにより、彼はかつての環境決定論から決別する。つまり、人間は自然の一部でありつつも、自然の中に新しい何かを「創造する」ことが出来るからである。これは、人間が自然の多様化原理に加わることでもある。さらに、それは「自然」(=「規範」)に捕われない、その人固有の作品を生む人という意味での人間の「個性」(=この語は18世紀の新語である)の発見へと繋がる。他方で、彼は、差異ある人々がいかに他者との関係性を構築しうるかを考え、想像力(=全体のイメージを喚起する能力)による他者への共感にも目を向けた。

 第2章では「美と多様性」を論ずる。<美とは自然を模倣することである>とのアリストテレスの見方は、ルネサンス以降、美の規範と見なされてきた。なぜなら、真善美は三位一体だからであり、それゆえ芸術家とは人々に「真理」や「道徳」を伝える使命をもつ人となる。ここで、芸術家は「真理」の「謙虚な弟子」である。ディドロ自身も、当初、「美」の一般理論の中でも、あるいは演劇論、小説論、絵画論の中でも、芸術が、<模倣(ミーメーシス)としての美>、<教訓としての美>のためにあり、そして「模倣」すべき対象がアプリオリな「真理」であることを一貫して述べている。また、彼がその「真理」を発見するのが「悟性」であると述べたことは「真理」が合理的な基礎をもつものだということを意味してもいる。

 しかし、彼は、その後、合理主義の限界を自覚し、人間の非合理的な能力に注目する。例えば、彼は、言語の限界性への自覚から、芸術の役割を認識し、「想像力」などの能力に注目する。また、彼の新しい自然観は、彼に「真理を発見する」ことの困難性を自覚させ、創造美の世界を切り開く。つまり、彼は、芸術活動を人間が「自然」の中に「美の理想的モデル」を探求することのうちに見いだしていく。しかし、これはプラトンのようにイデアの世界を目指すものではなく、人間が自然の多様化原理に創造活動を通して加わることを意味した。こうして芸術家は、自然の「弟子」ではなく「自らの太陽をもつ人」となる。他方で、彼は創造する能力が、単に芸術家の特権ではなく、絵をみる鑑賞者の悦楽でもあるという見地に「廃墟画」の批評を通して辿り着く。

 こうして、彼は人間が「美」を「創造する」と述べることで、ロマン主義の祖の一人となる。しかし、彼は晩年、再度、自らの「理性」と「情念」の関係を逆転させ、人間は自らのうちに「冷静なる観察者」の視座が必要だということ、つまり人間の理性の大切さを説く。これは、なお彼において芸術は自然を離れてはありえず一定の限度の中にあるのであり、芸術においても無制約に何ものかを創造しうるのではないということを意味しよう。彼は、芸術においても、あくまで全体の連関性という大きな目的を視野に入れていたのである。しかし、いまや、「理想的モデル」は、アプリオリな真理ではない、個々の人々が作り上げていく作為の結果としての真理となる。

 第3章は「政治と多様性」を論ずる。当初、ディドロは、時と場所とを越えて普遍的に妥当する「正義」の観念を前提として、そのような「正義」を実現するための政治としての、いわゆる啓蒙専制政治を支持していた。ここでは、「正義」や「真理」は唯一絶対的なものであるから、それを実現する権力が正しく善良であるならば、権力は絶対的であるべきとされ、中間権力や抵抗権も否定される。そのような彼の主張は、「合法的専制君主」を支持するフィジオクラットへの共感のうちに示される。

 けれども、彼は、以降、様々な政治的経験を経て、初期の啓蒙専制政治観から離別する。例えば、彼は、小麦論争や飢饉に直面して、抽象的原理の現実状況への適用に対する反省を迫られ、「真理」と「政治」の関連性を見直す。あるいは、ロシアを訪れ啓蒙専制君主エカテリーナ二世と対話したことは、彼を啓蒙専制君主批判へと導く。すなわち、彼はたとえ善良な君主でも、「真理」による統治は、人々の自発性や判断力を奪い、かつ人々の「多様性」を捨象するという考えに行き着いた。それゆえ、彼はかつて否定した中間権力を認め、さらにはアメリカ革命を肯定するなど抵抗権にも踏み込む。けれども、彼は最晩年、革命を賞賛しない。結局、彼は秩序の破壊によるアナーキーを好まなかった。けれども、このとき彼は秩序のために多様性を切り捨てたわけではない。彼は、人間の生来的多様性や人間の独創性への賞賛から、抽象的個人ではない、個別具体的人間こそ政治の主体と考えるようにもなる。そこから彼は政治が、人々が「原理」ではない「行為」のなかから、相互の「関係」のあり方を発見し、かつ作り上げていくことであると見なすようになってゆく。

 そして、彼の晩年の「文明化」の構想の中には、多様性を前提とした政治観が見て取れる。彼は、人々の多様性を前提として、例えば、「文明化」の課程において「強制」や「秩序を課すこと」を拒否し、「下からの文明化」を主張する。あるいは「自由」や「財産」を人々の「個性」を育むための条件として尊重する。しかも、彼は、多様な人々が、共に暮らすための「紐帯」が必要だとも考える。人々はバラバラなだけであってはいけないからである。例えば、彼はその「紐帯」の原理の一つを「商業」に見いだす。つまり、そこでは人々の「独立と交流」が前提とされるからである。そして、彼はそこから「多様性」を前提とした「普遍的社会」が成立することを切望した。

 こうして、ディドロは、彼の最初に示した自然観、つまり世界はバラバラではなく連結した一つの全体である、という自然観を、政治社会のうえにも適用した。しかし、それはかつてのようにアプリオリな真理と結びつくものではなく、多様性と結びつくものとなった。ところで、彼の思想の独創性とは単に人々の多様性を前提とした一つの共同体を目指したことのうちにあるだけではない。実のところ、彼にとって、多様性とは、そもそも他者との関係の中からしか生まれないと考えられているのである。彼は、自然観を論ずる中で、全体の中で連鎖する各々が相互に影響を与えあうことのうちに、多様性が生ずることの可能性をみていたのである。すなわち、多様化とは、他との関係があって、初めて他と異なるものが生まれるということなのである。つまり、彼にとっては多様性のためにも全体の関係性の構築が必要だということになる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、18世紀フランスの思想家ドゥニ・ディドロの、科学・芸術・政治をまたがって展開された膨大な著作を、多様性という観念に着目することで、一貫した視座の下、読み解こうとしたものである。特に、政治論における初期の啓蒙専制主義から後期の政治的自由と権力制限の擁護への転換において、この観念の果たした役割を探ることを課題とする。

 「はじめに」において筆者はまず、18世紀フランスの思想家たちを普遍主義的とし、それとの対抗上、19世紀になってロマン主義者や自由主義者たちによって多様性が価値として発見されたとする通説的な理解を、主にアイザイア・バーリン、アーサー・ラブジョイらの研究をたどることで整理する。このような通説的な理解において、ディドロは、あるいは普遍主義者の一員として、あるいはロマン主義の先駆者として、評価がわかれる。筆者によれば、これは、ディドロの思想の中に、明らかに多様性を一つの価値として評価する視点が存在するにもかかわらず、同時に彼が生涯あくまで普遍的な真理を支持し続けたことに由来する。そこで筆者は、ディドロの思想を全体として理解するために、彼が普遍性・合理性・客観性への支持を、同時代の思想家たちと共有し続けたにもかかわらず、その自然観においては大きな変化が見られることに着目する。すなわち、生物学をはじめとする新しい学問動向の刺激を受けつつ、ディドロは、自然を固定的なものとしてではなく、むしろ自ずと変化し多様化していくものとして、理解するようになる。この自然像の変化の結果、芸術の理解においては、単に普遍的なモデルの模倣ではなく、自己変化していく自然の営みに参加することで、新たに美を創造していく人間の能力や個性に注目するようになり、さらにその結果として生まれる、個々人の多様性を前提にした政治のあり方を問うことにもなった。このような視座の下、筆者は、自然・美・政治の観念をめぐって、それぞれについて時系列的にディドロの思想を振り返っていくことで、各領域における彼の思想の変化の中に、並行性と関連性を見出していく。

 このような筆者にとって、ディドロについての先行研究は、次のように評価される。ディドロの著作は多様な領域にまたがる上に、生前公刊されなかったものも多く、また著作間での矛盾も少なくないため、その思想的全体像を示すことは困難であった。特に政治思想の分野においては『百科全書』を編集し、その諸項目を執筆した時期と、それ以後エカテリーナ2世に招かれロシアを訪問して以後の時期との間で、大きな変化が見られるため、これを他の諸領域での議論と関連づけつつ、意味づけることには特有の困難がつきまとった。このような困難にもかかわらず、ディドロの政治思想の変遷をたどったJ・プルースト、さらにプルーストを引き継ぎつつ、初期の啓蒙専制政治観から、後期における政治的自由の再評価と革命論へと変遷を意味づけるA・ストラグネルらの研究を、筆者は高く評価する。彼らの研究を踏まえた上で、さらにそれらをL・クロッカーやG・スタンジェらの総合的なディドロ研究の成果と結びつけ、ディドロの政治思想の変化をより根底から再解釈することが、本論文の課題となる。

 第1章では、ディドロの自然観が検討される。筆者は、ディドロが自然を、諸部分が相互に連結した一つの大きな全体として構想した点においては生涯変わらなかったとした上で、にもかかわらず、その自然観は、初期の理神論から、感覚論や唯物論的決定論へ、そして同時代の学問の新しい動向から刺激を受ける中で新たな自然認識へと、大きく変化したとする。このような変化は、自然の一部であると同時に自然を認識していく人間の、自由と作為の可能性を模索する過程でもあった。

 初期の理神論の時期において、ディドロは、自然と社会とは連続したものであり、自然の一部としての個人は、理性の力によって情念を正しく用いることによって、全体との調和と徳を実現し、幸福になることができると考えた。しかしながら調和を保証する「知的な神」の存在に懐疑的になったディドロは、ロックやコンディヤックの影響の下、生得観念を否定する感覚論へと次第に移行する。ところがディドロは感覚論にとどまることもできなかった。というのも、感覚論は懐疑主義や相対主義へと転化しうるものであり、ディドロはあくまで普遍的な真理の存在を信じようとしたからである。また彼は、精神と物質の二元論にも満足できなかった。そこでディドロは、神の存在や、精神と物質の二元論を前提することなく、人間的世界における真理の存在を見出すべく、さらに唯物論へと向かう。しかしながら、その結果行き着いたのは決定論であり、個人の自由の可能性を見出すことができなくなってしまった。

 ここにおいてディドロは、自然を機械論的で法則的に捉えるニュートン的な自然観そのものに挑戦することになる。すなわち自然を、時間を越えて妥当する数学的・物理学的法則によって支配された世界と見るのではなく、同時代における生物学、化学、医学、生理学の発展を受け、自然をむしろ、常に変化し無限に多様化する、自己生成的なものとして理解するようになる。言い換えれば、ディドロは、自然の中に変化や時間の次元を見い出したのである。この際に重要なのは、ディドロがこの変化を目的論的に捉えず、また多様性を優劣の視点から理解しなかったことであった。

 それでは、このような新しい自然観において、いかにして人間の自由と創造の可能性を見出しうるのか。人間をあくまで自然と連続的に捉え、心身二元論を取らないディドロは、頭脳を含む人間の身体の自己差異化に注目する。自己生成的でたえず多様化していく自然の一部としての人間は、記憶の能力により自我を形成し、自らの歴史を作り出す。その結果、人間は自然の多様化原理に加わり、そこに新たなものを創造していく。そこに人間の個性の可能性も生まれる。しかしながら、ディドロにおける個性とは、他者を排除して孤立するものではない。むしろ自然の多様化原理の一部である人間の個性は、他者との理解と共感を求め、他の個性と結びつくことで発展していく。ディドロはその可能性を人間の想像力に見出し、この可能性は芸術論や政治論ともつながっていく。

 第2章では、ディドロの美についての議論が、とりあげられる。この領域においても、ディドロの認識は大きな変化を見せる。まず『百科全書』の時期において、ディドロは配列や釣り合い、対象といった、関係の中に美を見出していた。すなわち美とは自然の中に客観的に実在するものであり、人間はこの関係を悟性の力によって発見するとした。美とは虚構ではなく、むしろ自然を忠実に模倣することにある。したがって、想像力による美の創造は認められる余地がなく、美の多様性ははむしろ模倣からの逸脱として捉えられた。そのかぎりにおいて、ディドロの美学・芸術観は、きわめてアリストテレス的であり、芸術家の使命は、人々に外在する普遍な真善美を発見し、それを人々に効果的に示すことにあるとされた。このことは、彼の演劇論、小説論、絵画論において変わらない。

 しかしながら、ディドロは次第に、真理を発見することの困難を意識するようになる。例えば言語論において、ディドロは真理を明晰に表現する言語の力を疑うようになり、固定的・分節的な言語による表現を越えた、全体のイメージを想像力によって喚起する詩を評価することになる。そして、人間が理性だけでは到達できない領域があることを認識するようになり、理性の限界を越えてこの領域に触れるためには、想像力、感性といった能力が必要であると考えるようになった。このことはさらに、美についての単一概念への疑いにつながる。多様であり常に変化する人間にとって美の尺度は、それぞれの個人によって個別的に捉えられるべきであると考えるに至ったディドロは、美の「理想的モデル」論を構想した。すなわち、変化する自然を模倣することは困難であり、むしろ芸術は自然の中の一瞬の美を個別的に捉え、これを模倣するのではなく、美の真の「理想的モデル」へと高めていくことにある。芸術家は自然の中に美の「理想的モデル」を捉えることで、自然を越えた創造者になりうるのである。しかしながら、この美の「理想的モデル」とは、プラトンのイデア論とは異なり、人間が自然の多様化原理に創造活動を通じて参加していくことを意味した。

 またディドロは、廃墟画への着目により、このような創造能力が芸術家の特権ではなく、鑑賞者もまた創造を経験することができるとした。かつて偉大であった文明が荒廃した風景を描いた廃墟画を前に、人は時間と歴史の意識を覚醒させられ、有為転変を思う。人は「孤独と沈黙」へと導かれ、そこで自己を振り返る。しかしながら、ディドロにとって廃墟画とは、自然を前にした人間の無力を意味するのではない。むしろ、廃墟画を通じて喚起される様々なイメージは、何にも縛られない人間の精神世界の固有性の自覚、さらには、絶えず変化する自然と時の流れを超越した自我意識の形成にへとつながる。ここにおいてディドロは、完全に美の古典的理解を離れ、美の創造を論じるという意味でロマン主義の先駆となる。

 しかしながら、ディドロのロマン主義との異質性は、その晩年、理性の役割を再度強調するようになった点にもうかがえる。ディドロによれば、芸術家が自然の多様化原理に加わって創造を行うとしても、その多様性は無限ではない。芸術家による創造は基準を欠かせず、あくまで自然の全体の調和がなければならない。それゆえ、「理想的モデル」を常に意識するための冷静さ、そのための他者の視線を必要とする。もちろんディドロは、想像力による美の創造を否定したわけではなく、またかつての模倣としての美という理解に戻ったわけでもない。だが、彼が最終的に行き着いたのは、あくまで自然に学び、全体との調和を自覚し、自らの中に「冷静な観察者」を持つ芸術家の姿であった。

 第3章では、以上の検討を踏まえた上で、政治と多様性との関わりが論じられる。『百科全書』期において、ディドロは、人間の情念や欲求という個別的な利害と区別される、普遍的な正義の存在を前提に、このような正義を理性によって認識する統治者が、真理を認識しないものを統治するという、いわゆる啓蒙専制主義を支持していた。正義や真理が唯一絶対的なものとして存在する限り、これを実現する理性的権力を分割し、制限する中間権力の存在は認められない。また権力への抵抗も正当化されない。このようなディドロにとって、モンテスキューは評価の対象にならず、むしろ社会の自然的で本質的な秩序法則を認識しそれを実現すべく「合法的専制君主」を支持するフィジオクラット(重農主義者)への共感が顕著であった。

 しかしながら、ディドロは次第にこのような啓蒙専制主義に懐疑的になっていく。そのきっかけになったのは、小麦論争や飢饉に際しての、フィジオクットによる所有権についての抽象的原理的な議論に対しての批判であった。そして、さらに決定的だったのは、エカテリーナ2世に招かれてのロシア訪問の経験であった。ディドロは、この経験を通じて、仮に善良な君主によるものであれ、真理に基づく統治は、人々の自発性や判断力を奪い、自由の感情を害すると考えるようになる。さらに、君主が必ずしも真理を理解するとはかぎらないこと、さらにはそもそも政治においての真理を、数学や幾何学とのアナロジーにおいて理解することにも懐疑的になった。その結果、ディドロは中間権力による君主権力の制限を肯定し、善良な君主よりもむしろ、人民の多様な意見の対話に期待を持つに至った。そのような彼は、アメリカ革命を称賛する。ただし彼は革命論者になったわけではない。彼が価値とするのはあくまで秩序であり、アナーキーは彼の最も忌避するところであったからである。

 このようなディドロの政治論の変化は、彼の幸福論にも及ぶ。彼は、普遍的な真理と結びついた幸福観を放棄し、むしろ個々人によって、幸福の内容は異なりうると考えるようになった。したがって、幸福を普遍的な基準ではかることはできず、むしろ個々人にとっての内部の自然にどれだけ忠実であるかという「真正さ」こそが新たな価値となる。このことはさらに文明論に及ぶ。ディドロによれば、人間は自然の多様化原理に加わることによって、多様な文明を形成したのであり、文明ごとに異なる幸福の感じ方が存在する。したがって、多様な文明が結びつき普遍的な社会を形成することは望ましいが、そこに強制があってはならず、むしろ自発的な変化こそが、文明化の名に相応しい。自然の多様化過程こそが文明の基礎にあり、人々の多様性を助長しつつ、それを結びつけ一つの全体とするのが文明の働きなのである。このようなディドロの文明社会において重要なのは、相互の必要とコミュニケーションを通じての、関係性の構築であった。人々の多様性と自発性を前提に、人々や諸文明を結びつける紐帯の発展を目指したディドロは、商業を中心に人々の間の交流のネットワークの拡大に期待した。

 このように、ディドロにとっての多様性とは、普遍的、画一的、静態的な自然観から、自ずと変化し無限に多様化を繰り返す動的な自然観への変化によって見出されたものである。人間はこの自然の多様化過程に加わることで、そこに新たなるものを加えることで創造を行い個性を示す。またこの個性は孤立したものであってはならず、個性はむしろ他者との関係の中でのみ現われる。個性が他の個性と結びつくことで、さらに多様性が増大する。これこそ、ディドロの多様性論の最大の特徴であり、彼の後期の政治論における、人民の政治的自由と権力の制限、文明の多様性の擁護と強制の否定は、そのような彼の多様性観を踏まえてこそ、よりよく理解されるのである。

 以上が本論文の要旨である。

 本論文の長所としては、次の点を挙げることができる。

 第1は、広い諸領域にわたるディドロの膨大なテキストを渉猟し、多様性の観念に注目することで、かなりの程度一貫したディドロ像を描き切ったことである。各領域におけるディドロ研究の蓄積を踏まえつつ、自然・美・政治観における彼の議論の展開の中に、並行性と関連性を見出したのは、本論文の功績と言えるであろう。啓蒙専制主義から政治的自由と権力制限の擁護へというディドロの政治観における変化については、既に先行研究において指摘があったものの、本研究により、啓蒙専制主義とまったく異なる政治論を可能にした背景に、ディドロの多様性についての構想があったことが明らかになった。

 第2は、18世紀思想理解への寄与である。18世紀の普遍主義に対し、19世紀における個性と多様性の評価という、19世紀のドイツ・ロマン主義以来の固定観念に対し、18世紀において既に多様性を評価する視点が存在したことを、本論文はあらためて明らかにした。しかも、ディドロにおける多様性の理解は、ロマン主義的理解に収斂しえない独自な性格を持ち、同時代における新しい自然科学や美意識の発展と連動したものであった。したがって、一見したところ普遍主義的に見える18世紀思想の中に、それとは異質な諸要素が含まれていたのであり、18世紀思想そのものの複雑さについて、新たなる理解の必要があることが、示唆された。

 第3は、多様性についての、新たな理解である。第一に、多様性とは、自ずと変化し絶えず多様化する自然によって生み出されるものであり、その意味で、時間と深くかかわるものである。第二に、多様性のために重要なのは関係性であり、個性は他の個性と結びつくことで新たな個性を生み出す。多様性とは、内に閉じ、互いに関係を持たない諸個性によって形成されるのではなく、むしろ関係性こそが多様性を生み出す。このような多様性理解は秩序構想としても重要であり、現代の政治理論にとって示唆的である。

 但し、本論文にも短所がないわけではない。

 第1は、政治論の分析が必ずしも具体的に展開されていないという嫌いがあることである。ディドロの多様性の評価が、彼の政治論にどのような影響を及ぼしたのか、本論文の分析は抽象的なレベルにとどまっている。ディドロ自身が、詳細な制度論を展開しなかったことにも一因があるが、政治における多様性が具体的にどのような形で現われ、処理されていくのか、もう少し踏み込んだ議論が可能だったのではないか。

 第2は、ディドロの議論を位置づけるための比較の視点についてである。本論文は、あえて検討対象をディドロに限定し、わずかに行うのがルソーとの比較である。しかしながら、例えば、本論文が念頭に置いている19世紀ドイツのロマン主義者たちが自らの先駆者として評価したヘルダーとの比較を行えば、ディドロの多様性の意味について、新たなる視点が得られたかもしれない。

 第3は、「一般意志」や「ダーウィニズム」など、思想史的にきわめて繊細な取り扱いの求められる諸概念について、時として不用意な叙述が見られることである。

 しかし、以上の短所も、本論文の意義と価値を大きく損なうものではない。

 本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度の研究能力を有するものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する、特に優秀な論文であり、博士(法学)の学位を授与するに相応しいと認められる。

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