学位論文要旨



No 119598
著者(漢字) 李,承機
著者(英字)
著者(カナ) リ,ショウキ
標題(和) 台湾近代メディア史研究序説 : 植民地とメディア
標題(洋)
報告番号 119598
報告番号 甲19598
学位授与日 2004.07.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第514号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 安冨,歩
 京都大学 教授 駒込,武
内容要旨 要旨を表示する

 1895年に日本の植民地となる前、清朝統治下の台湾では近代メディアは本格的に存在していなかったため、台湾における新聞などの近代メディアは日本植民地統治に伴って展開した。本論文は植民地支配下の台湾における近代メディアの展開の軌跡、およびそこに現れる植民地のモダニティの様態を論ずるものである。分析概念としては、(1)メディアという「場」、(2)メディアという「量」とジャーナリズムという「質」、(3)輿論の両面性、の三つを用いる。それに即して研究視角は、(1)メディアという「場」の政治的・社会的機能がいかに植民地台湾で発揮・利用されたか、(2)植民地台湾のメディアはいかにメディアという「量」とジャーナリズムという「質」のせめぎ合いに位置・対応したか、(3)「植民地輿論」はいかに「表出されるもの」と「作り出されるもの」との両面性において発生し、また操作されたか、である。以下は、データ分析に基づいた台湾近代メディア史の3つの時期区分に従った本論文の三部構成に寄り添って要旨を述べる。三つの時期区分とは、1920年代以前の胎動期、1920〜1931年の展開期、1932〜1938年の急速拡大期である。

 第I部では、1920年代以前のメディア胎動期における台湾植民地体制とメディアの関係、すなわち植民地統治の確立と近代メディアの展開との葛藤を論じた。台湾近代メディア史の胎動期にあたる1920年代以前は、漢字活字印刷メディアをもたなかった台湾に新聞や雑誌といったメディアが日本より導入・移植された時期である。植民地体制の確立とともに、総督府のメディア政策が「御用新聞」の扶植や1900年「台湾新聞紙条例」、および1917年「台湾新聞紙令」の制定によって確立された。この時期、ジャーナリズムという言葉にふさわしい台湾人のメディアは存在せず、総督府を代弁する性格をもつ「御用紙」と在台日本人による民営メディアが輿論の主体となっていた。後者の「民間紙」とは在台日本人の民間人が作った日刊新聞と週・月刊紙のことである。これらのメディアは、輿論をキーワードに総督府批判と「御用紙」批判を展開し、「台湾最大の御用新聞」である《台湾日日新報》とのあいだに総督府の政策評価をめぐって抗争が繰り広げられることもあった。こうしたなか、輿論の両面性から生じた矛盾や、「御用紙」と「民間紙」が生んだ台湾人社会との接点により、新聞という近代メディアが台湾人社会に対しても初歩的なマス・コミュニケーション効果をもつようになった。すなわち、植民者の日本人が作ったメディアが台湾人社会に対する「示威的」効果を有した。

 第II部では、1920年代以降のメディア展開期におけるナショナリズムとメディアの関係、すなわち台湾人ナショナリズムの展開とメディアの利用を論じた。日本植民地統治初期の武力抵抗に替わって、1920年代以後台湾人は政治運動という手段を用いて抗日運動を始めるようになった。1920年に政治的含意を有する月刊《台湾青年》が東京で台湾人留学生に創刊される一方、近代における台湾最初の政治運動である台湾議会設置請願運動も翌年に始まり(1934年まで帝国議会に15回もの請願が行われた)、植民地におけるナショナリズムの運動が起こった。《台湾青年》が月刊の《台湾》、半月刊の《台湾民報》、旬刊、週刊を経て、1932年4月以降日刊の《台湾新民報》へと発展していったのは、台湾人もメディアを使って政治権力と抗争するようになったことを意味している。従来輿論の主体であった「御用紙」と在台日本人の「民間紙」のほかに、1920年から台湾人も自身のジャーナリズムを立ち上げて植民地のメディアという「場」に参入した。以後《台湾民報》は、総督府側の輿論コントロール、「民間紙」、そして台湾人の政治運動との関係のなかで、ジャーナリズム的意義を発揮しながら輿論の主体を目指した。そのほかに、台湾人がナショナリズムに目覚めて自身によるモダニティを追求していく過程で、台湾人のメディア使用言語の問題もメディアという「場」において生じた。在台日本人記者を含む植民地台湾の記者も、ナショナリズムに影響され、運動論と専業意識の板ばさみになっていた。

 第III部では、1932年以降の急速拡大期における「大衆」とメディアの関係、すなわちメディアの量的拡大と植民地台湾の「大衆」の出現を論じた。1932年とは《台湾新民報》が日刊化した年でもあり、台湾島内の日刊新聞市場は純台湾人資本による日刊紙の参入で競争化を迎えた。この時期は、内地大手新聞の台湾移入拡大や台湾島内新聞の発行部数増大によって、植民地台湾における新聞の大衆化が進んだ。1938年まで新聞市場の拡大傾向が続くなか、日刊新聞1日1部にあたる台湾の人口数は、1931年の76人に1部から、1938年のおよそ34人に1部というピークまで上る。その一方、ラジオ放送と映画の流行にともなってメディア・ミックスの環境、つまり異なるメディア種類の競合と共生関係が生じ植民地台湾の「大衆」の出現を促した。すなわち、新聞市場の競争化につれて「読者大衆」が出現、ラジオ放送と映画の流行にともないメディアを消費する「大衆」(主にブルジョアと新中間層)が現れ、大衆消費社会の原型が植民地台湾に成立した。確かに、台湾の「大衆」がメディアに意識された以上、その「大衆の味覚」がメディアの文化戦略として展開していく可能性もあった。ただ、植民地台湾のメディアは必ずしも完全に「大衆」に迎合していたわけではない。なぜなら、植民地台湾のメディアは植民地支配という規定的要因に制御されていたことで、メディアという「量」とジャーナリズムという「質」のジレンマに立っており、常に分裂的な性格を有していたからである。

 結論としては、三つの分析概念に即して言えば、(1)メディアという「場」の社会的・政治的機能は、メディアのマス・コミュニケーション効果の成立によって一定程度において発揮された。(2)植民地台湾のメディアはメディアという「量」とジャーナリズムという「質」のジレンマを抱えていたために、厳密に言えば真の「大衆紙」は植民地台湾に現れなかった。(3)植民地台湾に存在したさまざまな対立軸が輿論の両面性から生じた矛盾を激化しやすく、「植民地輿論」のあり方もそれに深く関係していた。本論文はこれらの結論から見られる、近代メディアの軌跡から照射される植民地台湾の「近代」経験を通じて、植民地のモダニティの様態を示してみた。一つは、台湾近代メディアの発展という縦の時間軸における「欠落」であり、植民地のモダニティにおける跛行的欠落と称することができる。もう一つは、植民地台湾の「大衆」は世界で同時代的に発生する様々な「近代」を選択的に消費することであり、植民地のモダニティにおける同時代的選択の主体性と称することができる。この植民地のモダニティの、二つの深層を解き明かすことによって、経済発展や文明化に終始する単純な植民地近代化論に刺激を与えることもできよう。

植民地台湾主要「新聞紙」の沿革

審査要旨 要旨を表示する

 台湾近代史においては、清朝統治期末期の淡水、安平開港後に対外貿易の発展やキリスト教ミッションの布教活動の展開などがあったにもかかわらず、情報の大量複製、不特定多数への伝達を担う近代メディアが導入され発展していったのは、日本の植民地統治期においてであった。この日本の植民地統治期に始まる台湾近代メディア史の研究は、従来主として1920年代の民族運動、20年代後半以降の台湾近代文学の展開などとの関連において行われてきているが、メディアそのものの歴史的展開を対象としてその意義を捉えようとする本格的試みは少なかった。わずかに存在する先行研究も、極めて限られた視野のものかあるいは一次資料の精査を欠いた不十分なものであった。本論文は、この植民地台湾における近代メディアの展開の軌跡を、これらメディアが残した一次資料の博捜を通じて多面的に明らかにし、このような研究状況を打破して台湾近代メディア史研究の学術的基礎を築こうとした力作である。

 論文は、論文本論A4版329頁(400字詰原稿用紙換算約1300枚、脚注を含む)で、序章と結論を含め全10章で構成されている。注は文献注も含む形で脚注として付されている。また、本論の理解を助けるため図表25点が本論中に挿入され、巻末付録として「主要参考文献目録」および関連年表や著者によるインタビュー記録などが付されている(全53頁)。

 本論で扱われている期間は、日本の台湾領有直後から新聞・雑誌の発行量が戦前期のピークを示す1938年までで、著者はこの期間を、新聞・雑誌の発行量、メディアの運営者と読者との関係などの指標から、「台湾人が従属的に参入する草創・胎動期(1986-1919年)」、「台湾人の手によるメディアが出現する展開期(1920-1931年)」、および台湾人経営日刊紙の発足などでメディア市場が拡大して「読者大衆」が登場し、それらとラジオ放送の開始が相まって「メディア・ミックスが発生する拡大期(1932-1938年)」の三つに時期区分し、本論をこれに対応した三部構成としている。1938年から45年までの戦時期は、戦後への展望との関係で終章に触れられている。

 序章「植民地台湾の近代とメディア」では、先行研究の検討、上記のテーマや時期区分とそれに基づく本論構成の提示の他に、本論論述の視角の提示を行っている。ここで著者は、「メディア」、「ジャーナリズム」、および「輿論」の用語の検討を通じて、(1)メディアは単なる伝達の媒介であるばかりではなく政治的・社会的機能が付与され期待される「場」である、したがってその植民地台湾での具体的様態に着目する、(2)その「場」の機能の発揮に際しては、情報の大量複製・伝達を本質とするメディアと伝達に評論が付加されるジャーナリズムとの「量」と「質」のせめぎあいに着目する、および(3)輿論にはそのジャーナリズムにより「表出」される側面とジャーナリズムがそれを「喚起」していくないし創出していく側面が存在するが、このような「輿論の両面性」の植民地輿論における具体的様態に着目する、という、いわば政治史に社会史の視角を加えたアプローチを採るとしている。

 著者の時期区分の第一期に対応した第I部「植民地体制とメディア」は、第一章から第三章の3章からなっている。第一章では、台湾総督府による御用新聞培養政策と日本内地より一段と厳しい新聞・雑誌管理・統制制度の形成と展開の後を簡潔にたどり、第二章では、その御用新聞の典型であった《台湾日日新報》のあり方を、同紙の人事や経営状況の推移、同紙台湾人記者の動勢や台湾人向けに設けられた「漢文欄」の様態から探っている。第三章では、筆者の言う台湾近代メディアの草創・胎動期においては、在台日本人の経営になるいわゆる「民間紙」が、厳しい管理・統制政策の下でも一定の活力を持って存続し、そのジャーナリズムとしての活動が議会無き植民地における輿論表出の役割を果たした、と論じている。第一章の論述はほぼ既説にそっているが、第二章においては、中心的御用新聞の《台湾日日新報》を植民地社会、特に台湾人社会との連関においてとらえ、御用新聞としての同紙の上からの購読・普及がはかられる過程で同紙も台湾人上層部に対してマスコミュニケーション作用を果たし、この層に定期的な新聞閲読の習慣を植え付けていったことをあとづけている。また、第三章においては、上記「民間紙」と総督府、御用新聞との相互作用が1920年代以降の植民地における民営メディアの原型となっていることなどを、これら新聞の漢文欄や投書欄への読者の反応や台湾人記者の動きなどを通じて明らかにしている。これらは、従来ほとんど見逃されてきた点である。

 1920年7月台湾人東京留学生によって月刊誌『台湾青年』が発刊されたが、これ以後『台湾』、『台湾民報』、そして『台湾新民報』と台湾人主体のメディアが成長していく。これらのメディアはこれまでもっぱら抗日民族運動史との関連でその論調が問題とされたり、史実の根拠としてその記事の記述が利用されたりしてきたが、本論文第II部「植民地におけるナショナリズムの展開とメディア」で、著者は、これを台湾人主体のメディアそのものの発展の歴史として、三つの側面から当時の歴史的文脈の中で捉え返すことを試みている。第四章では、『台湾青年』発刊から『台湾新民報』日刊紙化までのプロセスを新発見の史料を含む一次資料から再構成し、この台湾人主体メディアの発展が、政治(総督府の妨害・牽制、抗日運動左派との対抗関係)と市場(台湾人市場の開拓と他紙との競争)との鬩ぎ合いの中に展開したものであることを示している。第五章は、植民地台湾メディアにおける言語メディアのあり方を論じたユニークな論考で、植民地台湾のメディア言語において、「和文」対「漢文」、「和文」における文章体と口語体といった二元性のみならず、植民地ナショナリズムの台頭とともに、「漢文」における文言文と白話文、白話文における中国白話文と台湾白話文、台湾白話文におけるローマ字表記と台湾白話字といった、植民地的・周縁文化的な重層性を帯びた二元性が存在することを明らかにしている。第六章では、1920年代以降のジャーナリスト像から植民地メディアのあり方を検討している。新聞社経営と新聞記者の関係が検討された後、日刊紙か週刊誌か、日本人記者か台湾人記者かで、ジャーナリストとしてのあり方が異なったことが示され、台湾人記者については、民族運動の運動論と記者としての職業意識との、日本人記者については、統治民族としての帝国意識と職業意識との葛藤があったことが指摘されている。第II部の論述では、メディア言語について本格的に論じたこと、および従来研究者にほとんど読まれることがなかった週刊誌を精査して、複数の対立軸の上に立つ植民地ジャーナリスト像を示したことにより、『台湾民報』系列のメディアの台頭により複雑化した台湾メディアのあり方を立体的に示すことに成功している。

 第III部「植民地の『大衆』とメディア」は、1930年代におけるメディアの急速な拡大と台湾社会における「大衆」の出現との連関を跡づけようとしている。第七章は、メディアが発展し機能するためのインフラストラクチャーとしてのメディア・ネットワークの台湾における発展を跡づけた上で、『台湾新民報』の日刊化、内地大手新聞の進出、漢文欄廃止の影響などの現象と日刊紙配布数、台湾人中等学校以上卒業生の給与水準と日本語リテラシーの拡大や新聞の閲読の様態の推定などから、1930年代中頃には台湾人人口の約5分の1、約百万人の「読者大衆」が成立していたとの論証を行っている。台湾人主体のメディアは、植民地当局の圧力と日本人経営紙との競争に耐えて、この「読者大衆」の中に確乎たる位置を占めたのであったが、その矢先に、戦時統制によってこの「読者大衆」との関係をさらに発展させていく自主性を奪われていったのである。第八章は、ラジオや映画(特にニュース映画)、さらには印刷メディア中の週刊誌の展開を、メディア主流の日刊紙との競合・共存関係の中にたどりながら、メディア資本が「大衆」の存在に頼って蓄積を遂げようとする状況が生まれ、その中で、植民地台湾の社会に大衆消費文化のひな形が登場してきていることを論証している。台湾史研究におけるこれまでの1930年代のとらえ方は、知的エリート層に着目して弾圧による政治・社会運動の壊滅から文化運動へ、そして上からの「皇民化運動」への屈従へとの流れを強調するものであったが、著者は、資本主義化の進むメディアの動向を丹念に追うことで、これと並行して30年代の台湾社会が、「大衆」が文化的な消費者として明確に登場する社会へと変貌しつつあったことを示すことに成功している。

 終章では、序章で示された3つの視角からこれまでの論述が要約されたあと、本論文の論述から得られるとする著者の植民地モダニティのあり方についての見解が示されている。著者によれば、メディアに依拠する大衆文化の発展というモダニティの展開のパターンが植民地台湾でも姿を現したにもかかわらず、それは植民帝国の中心の事情の変化(戦時統制によるメディアの自立性のほぼ完全な剥奪)によって、その発展過程には、メディアが「大衆」との自立的な相互関係において自己を発展させていくプロセスが始まるとまもなく断絶させられる、という意味での欠落が生じてしまった。一方、ことがらをモダニティのグローバルな同時的拡散の観点から見るならば、台湾語流行歌とラジオ放送、レコード産業の急速な発展との関係に見られるように、1930年代の文化シーンに登場してきた台湾人「大衆」は、植民地の強い制約に規定されたものではあったが、「台湾大衆の味覚」をメディアが顧慮せざるを得ないという形において、選択の主体性をも発揮していたのであった。さらに終章で著者は、戦時統制下のメディアのあり方を概観した後、戦後直後から二・二八事件にかけての台湾メディアの展開に触れつつ、植民地メディアのいわば「縦」の展開に示されたモダニティ発展の欠落と「横」の発展に示されたモダニティ選択における主体性の問題とが、台湾現代史研究における戦前戦後の連続と断絶の問題の中に存在することを展望して擱筆している。

 以上が本論文の概要であるが、本論文の最大の貢献は、何と言っても研究の密度過少状態であった台湾の近代メディア史について、新聞・雑誌記事などメディア資料の博捜に加えて台湾人の日記などの補助的史料を精査することを通じて、多面的で豊かな歴史記述を行ったことであろう。これはすでに上記の要約の中でも触れてきたことであるが、著者の新たな貢献と考えられる点を総括的に付加すれば次の3点が挙げられる。

 第一に、植民地期台湾のメディアの量的拡大の軌跡を単に跡づけるだけでなく、メディアとジャーナリズムの担い手、読者のあり方、新聞社などの運営・経営の様態、そして植民地権力や政治運動との関係などの政治的環境、さらには植民地の複雑なリテラシーの状況などとの関連というメディアの「内容」にかかわる側面を多面的に、しかも19世紀末から30年代後半までという長いスパンで明らかにしていることである。

 第二に、台湾近代社会における対立軸として、植民地社会であることによって当然に想定される「日本人vs.台湾人」の他に、在台日本人内部における「官vs.民」、台湾人内部の「新文化vs.旧文化」、「ブルジョワvs.プロレタリア」、さらには在台日本人ジャーナリスト内部の「リベラルvs.右翼」まで、多様な対立軸の存在を実証したことである。

 第三に、著者はこのようにメディアをめぐる多面的な複合的な現実を描き出すことによって、台湾近代社会におけるコロニアリズム、モダニティ、そしてナショナリズムの関連を、単なる言説分析に流されるのではなく、そのマテリアルな側面への目配りを十分に行った上で、具体的でニュアンスに富む論述を展開していることである。

 このような長所を持つ本論文は、一定の洗練を経て公刊されるならば、台湾近代史研究に新たなインパクトを与えていくのみならず、隣接分野にも刺激を与える著作となることが期待される。

 ただ、本論文にも問題点はある。第一は、記述が史料に引きずられ当時の状況の中に埋没した時事解説のようになってしまっている箇所が散見する。こうした記述は一面論文に歴史的臨場感をもたらすものではあるが、一面歴史叙述として必要な距離感を損なう印象が否めない。

 第二に、著者は、著者が1938年まで詳述した植民地メディアの発展の軌跡から、台湾におけるモダニティの移植の「縦」の軌跡の欠落性と「横」の伝播・移植における選択の主体性を、台湾社会側について結論的に指摘しているが、これは、著者がその多面的で豊かな実証によって具体相として示したメディアをめぐる植民地モダニティのあり方の総括としては、物足りないものである。

 さらに、著者は、上述のような植民地台湾に存在した様々な対立軸を、メディアとジャーナリズムの展開に即して実証しているのだが、各章のまとめの部分において、それらの意義を十分に読者に提示する形で総括されていないのが惜しまれる。

 しかしながら、これらの欠点は、本論文の成果を大きく損なうものではない。本論文は、台湾近代メディアの多面的な展開を豊かに実証したことによってこの分野の研究を大きく前進させるものであり、本審査委員会は、本論文の査読および口述試験の結果により本論文提出者が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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