学位論文要旨



No 119618
著者(漢字) 柳澤,将
著者(英字)
著者(カナ) ヤナギサワ,ススム
標題(和) 密度汎関数法による遷移金属化合物の電子状態に関する理論的研究
標題(洋)
報告番号 119618
報告番号 甲19618
学位授与日 2004.09.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5862号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 水野,哲孝
 東京大学 助教授 藤浪,眞紀
 東京大学 助教授 野原,実
内容要旨 要旨を表示する

 密度汎関数法(Density Functional Theory;DFT)は、電子密度の汎関数により電子の交換・相関効果を取り込む方法論であり、ab initio分子軌道(MO)法よりも少ない計算機負荷で精度良く電子相関を取り込むことが可能だが、DFTの遷移金属系への適用性について詳細に検討されることはなかった。

 電子相関の影響が大きいため、高精度な理論計算が必要な遷移金属二量体の分光学定数計算をDFTにより行ない、DFTの遷移金属系への適用性を検討した。その結果、代表的な交換・相関汎関数を用いたDFT計算では二量体の構造及び解離エネルギーを高精度なab initio MO法に劣らない精度で再現するが、開殻d軌道を有する二量体に対して解離エネルギー値を過大評価する傾向にあることが分かった。さらに、この原因が交換汎関数の長距離間相互作用の欠如にあることが示唆された。

 遷移金属表面の中でも、鉄表面は高い活性を持つ触媒表面として期待されているが、典型的有機化合物の吸着性に関して詳細に研究されることはこれまでなかった。本研究では6種類の典型的有機官能基について、周期的境界条件を課したDFT計算により鉄(110)表面への吸着性を比較検討した。その結果、アミノ基が鉄表面に電子を与えて数kcal/mol程度の最も強い吸着を与えることが分かった。一方、カルボキシル基や水酸基は、鉄表面上で容易にプロトンを解離させ、吸着分子から表面への大きな電荷移動によるイオン結合によって数10kcal/mol程度の強い吸着を示すことも分かった。

 このような遷移金属表面に分子が吸着した系において、吸着分子の励起状態を取り扱うには、低い計算負荷で電子相関を精度良く取り込んだ励起エネルギー計算が可能な時間依存密度汎関数法(TDDFT)が最も現実的である。しかし遷移金属表面吸着系では、吸着分子の励起状態に対応する状態に多数のエネルギー的に近接した状態が混在し計算結果の解析が難しく、必要以上の計算コストを要する。本研究では、吸着分子の関与する励起状態のみを選択的に算出する状態選択時間依存密度汎関数法を開発する。

 以上、本論文は次の3つのテーマで構成される。

 (1) 密度汎関数法の遷移金属二量体計算への適用

 (2) 密度汎関数法による有機分子の鉄(110)表面への吸着性の研究

 (3) 金属表面吸着系の励起状態を選択的に取り扱う時間依存密度汎関数法の開発

(1) 密度汎関数法の遷移金属二量体計算への適用

 遷移金属二量体は、理論的には最外殻s-d軌道間の擬縮退効果のために狭いエネルギー領域に複数の電子状態が近接して存在し、従来のab initio MO法で取り扱うには非常に計算コスト(計算時間・使用メモリ)の高い多配置理論による取り扱いを要するため、その理論的取り扱いは困難であった。DFTは、電子密度の汎関数により電子相関を取り込むため、多配置ab initio MO法よりもはるかに低い計算コストでの電子相関の取り込みが可能である。本研究では理論的取り扱いが難しい遷移金属二量体の分光学定数計算にDFTを適用した(TableI)。DFT-BOP及びB3LYP法では、高精度のab initio MO法と同等の精度で二量体の解離エネルギーを再現するが、BOPでは開殻d軌道を含む二量体(e.g. Sc2,Ti2,Fe2,Co2)の解離エネルギーを過大評価する。B3LYPではV2とCr2では解離エネルギーを著しく過小評価する。これらの二量体では解離原子との不対αスピン電子数が大きく異なり、B3LYPのようなHartree-Fock交換エネルギーを常に一定の割合混成した汎関数では、交換効果をフレキシブルに取り込めないためと考えられる。これらの問題点をさらに解析するため、第一列遷移金属原子の4s-3d配置間エネルギーを計算した(Fig.1)。交換汎関数による影響を考慮するため、交換汎関数のみの計算も行なった(B-null)。その結果、DFTはこのエネルギーを過小評価することが分かった。過小評価の傾向は、二量体の解離エネルギー過大評価の傾向と一致する。この過小評価は主に交換汎関数に由来するので、4s-3d配置間エネルギー過小評価の原因は長距離交換相互作用の欠如による4s-3d軌道間相互作用の不十分な取り込みにあると考えられ、二量体解離エネルギーの過大評価も同じ原因と推測される。第二列以降では列が増すにつれ最外殻s-d軌道の空間分布が近づき、それとともに上記の誤差の減少が見られる(Fig.2)ことがこの議論を裏付ける。

(2) 密度汎関数法による有機分子の鉄(110)表面への吸着性の研究

 鉄(110)表面は、高い触媒活性を持つ有用な表面として期待されているが、典型的有機化合物の吸着性に関してこれまで詳細に研究されることはなかった。本研究では、6種類の典型的有機分子(CH3COOH、CH3OCH3、CH3COOCH3、CH3OH、CH3NH2、CH3CONHCH3)の鉄(110)表面への吸着エネルギーを、周期的境界条件(PBC)を考慮したDFT-BOP法により計算した。PBCを課す鉄スラブモデルには、二層からなるFe18スラブを用いた。スラブ中の最短原子間距離は鉄バルク中の距離(2.48A)で固定した(Fig.3)。このスラブモデルの妥当性の確認のために、実験値の存在する原子の吸着エネルギーを計算した(TableII)。計算値は実験値とよく一致し、このスラブモデルは表面の電子状態をよく再現することが示唆される。TableIIIに、各有機分子の最安定な吸着構造に対応する計算結果を示す。CH3COOH及びCH3OHは、O原子に吸着したH原子がプロトンとして容易に解離するという実験事実から、そのような解離吸着も仮定して吸着構造を計算した。その結果、CH3COOH及びCH3OHでは解離吸着による吸着構造が極めて安定で、それに対してCH3NH2,CH3CONHCH3では解離せずに分子状吸着すにあることが分かった。解離吸着では表面からの大きな電荷移動による静電力により表面―吸着分子間の強いイオン結合で吸着エネルギーが大きくなると考えられるが、CH3NH2やCH3CONHCH3の比較的強い分子状吸着では局所的な分極により生じる静電力に加え、吸着分子から表面にわずかに電荷移動が起こることで吸着エネルギーがやや高くなる。それ以外の分子状吸着では、表面―吸着分子間の電荷移動はほとんど見られない。

CH3COOCH3の吸着で吸着エネルギーがやや高くなるのは、隣接吸着分子間の相互作用により吸着原子の電荷が誘起されるためと考えられる。CH3OHでは低い吸着エネルギー(0.10kcal/mol)が得られるが、これは実験値(0.28kcal/mol)に対応していると考えられ、本研究の計算が有機分子の鉄(110)表面への吸着をよく再現していることが示唆される。

(3) 金属表面吸着系の励起状態を選択的に取り扱う時間依存密度汎関数法の開発

 金属表面吸着系において吸着分子の励起状態の選択的予測は、表面に吸着した分子の化学反応のレーザー制御などの実験と対応づける上で非常に有用である。金属表面吸着系の励起状態の理論的取り扱いは、計算コスト・精度を考慮すると時間依存密度汎関数法(TDDFT)の適用が最も現実的である。

TDDFTの基礎方程式は、

(I)

と表される。ここで、Ωqは励起エネルギーの平方の固有値であり、

(II)

(III)

(IV)

i,aはそれぞれ占有・仮想Kohn-Sham(KS)軌道に対応する添字、εi,εaはKS軌道エネルギー、φi(r),φa(r)はKS軌道である。〓はHartree-交換・相関積分核であり、この項によって交換・相関汎関数の効果が取り込まれる。励起エネルギー計算に必要な行列〓は、初期のDFT計算で得られたKS軌道のすべての占有―仮想軌道の組だけ要素が存在する。金属表面吸着系のTDDFT計算では、解として得られる励起のうち興味があるのは金属-吸着分子間及び吸着分子内の励起のみなので、TDDFT計算の過程で吸着分子の励起に関与する占有軌道―仮想軌道対の遷移のみの選択によって、不必要な励起を陽に求めることなく吸着分子の励起を選択的に求めることが理想である。最近、Appelらにより、TDDFTにより求められた電子遷移にエネルギー的に寄与する遷移は、TDDFT行列の対角項によって決まることが提案された。

TDDFT行列の対角項は、

(V)

で表され、〓のKS軌道エネルギーの差〓からのシフトを以下のように定義する。

(VI)

このとき、励起エネルギーを対角項のみで近似できるのは、以下の条件が成り立つ場合である。

(VII)

式(VII)によって、ある注目する遷移qに対する、別の遷移のエネルギー寄与の有無が分かる。これを利用してエネルギー寄与の大きい電子遷移の組み合わせで通常のTDDFT行列よりも次元の低い新たな行列を組めば、それらの遷移のみが支配的に関与する励起エネルギー値をよい近似で選択的に求めることが可能である。この方法によれば、励起エネルギー計算には不必要な行列要素の計算を省略することができ、行列の次元を下げることもできるため、系によって大幅な計算時間の短縮も可能である。

 本研究では、この電子遷移のスクリーニング法をPt(111)/COにおける吸着分子内及び金属―吸着分子間の励起エネルギー計算に適用した。注目する電子遷移qにたいして、それ以外の電子遷移q'のエネルギー寄与の有無を調べるのに、次式を適用した。

(VIII)

ここで、θは1よりも十分小さい閾値である。比較として、スクリーニングを適用しない通常の計算(Full matrix)も行なった。TableIVに、式(VIII)によるスクリーニングを適用した計算結果を示す。

スクリーニングを適用しても電子励起の種類によらずFull matrixの計算値とほとんど計算値が変わらないことが分かる。TableVに、電子遷移のスクリーニングによるTDDFT行列の次元の変化を、電子遷移の属する既約表現(A1,E)ごとに示す。スクリーニングの適用により、行列の次元数で10分の1程度の小行列の計算で、Full matrixと同程度の精度の励起エネルギー値が得られることが分かる。これらの事実は、本研究における電子遷移のスクリーニングによって、金属表面吸着における興味ある電子励起の励起エネルギーを選択的かつより低い計算コストで取り扱いうる可能性を示唆するものである。

 本論文では、1.遷移金属二量体へDFTを適用し、DFTの遷移金属系計算における交換汎関数の問題点を指摘することができた。また、2.鉄(110)表面への吸着性についてDFT計算により代表的有機官能基に関して議論することができた。さらに、3.金属表面吸着系の励起状態を選択的に取り扱う状態選択時間依存密度汎関数法を開発した。この方法は、励起エネルギー計算に不必要な行列要素の計算を省略することができ、計算を飛躍的に高速化する。

TableI 第一列遷移金属二量体の解離エネルギー値[eV]

Fig.1 第一列遷移金属原子の4s-3d配置間エネルギー

Δsd=E(4s13dn-1)-E(4s23dn-2)[eV]

Fig.2遷移金属二量体における解離エネルギー値の誤差

単位はeV.

Fig.3 Fe18スラブモデルの模式図

TableII. 原子の吸着エネルギー[kcal/mol]

TableIII. Fe(110)表面への最安定吸着構造での吸着エネルギー

TableIV Pt10/COにおける励起エネルギー値[eV]

TableV Pt10/COにおける最大行列次元数

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「密度汎関数法による遷移金属化合物の電子状態に関する理論的研究」と題し、全7章からなる。密度汎関数法(Density Functional Theory,DFT)を利用して遷移金属化合物や金属表面吸着系など複雑な電子状態を定量的に計算し、多くの新しい知見を得たものである。遷移金属元素を含む電子系の定量的計算法を確立するとともに、励起状態を選択的に取り扱う状態選択時間依存密度汎関数法を提唱している。

 第1章は序論であり、理論化学、特に電子状態理論の現状を分析し、複雑な電子状態を高精度に記述するDFT理論の開発及びDFT理論による励起状態の定量的計算法の開発が急務であることが強調され、本論文の研究目的が述べられている。

 第2、3章はDFTによる遷移金属二量体の分光学定数計算に関する研究をまとめたものである。第2章は第一列遷移金属二量体、第3章は第二列遷移金属二量体を扱ったものである。遷移金属二量体は最外殻s-d軌道間の擬縮退効果のために狭いエネルギー領域に多数の電子状態が存在し、従来のab initio MO法で取り扱うには高精度理論計算が必要である。DFTは電子密度の汎関数により電子相関を取り込むため、多配置ab initio MO法よりも少ない計算コストで電子相関の取り込みが可能である。DFT-BOP及びB3LYP法では、高精度のab initio MO法と同等の精度で二量体の解離エネルギーを再現するが、BOPでは開殻d軌道を含む二量体(e.g.Sc2,Ti2,Fe2,Co2)の解離エネルギーを過大評価する。他方B3LYPではV2とCr2では解離エネルギーを著しく過小評価する。これらの二量体では解離原子との不対スピン電子数が大きく異なり、B3LYPのようなHartree-Fock交換エネルギーを混成した汎関数では交換・相関寄与をバランスよく取り込めないからである。DFTでは第一列遷移金属原子の4s-3d配置間エネルギーの過小評価する傾向にある。これが二量体の解離エネルギー過大評価の原因である。4s-3d配置間エネルギー過小評価は交換汎関数の長距離交換相互作用の欠如によるものであり、4s-3d軌道間相互作用の不十分な取り込みにあると解析している。この研究は遷移金属化合物へのDFT計算法を確立したものとして国際的にも高い評価が得られている。

 第4章は遷移金属化合物にも重要な相対論効果が分子の分光学定数に及ぼす影響を理論計算から実証したものである。

 遷移金属表面の中でも、鉄表面は高い活性を持つ触媒表面として期待されているが、有機化合物の吸着性に関する理論研究はほとんどない。第5章では典型的な有機分子(CH3COOH、CH3OCH3、CH3COOCH3、CH3OH、CH3NH2、CH3CONHCH3)の鉄(110)表面への吸着を理論的に扱ったものである。周期的境界条件を課す鉄スラブモデルとしては2層からなるFe18スラブを用いている。CH3COOH及びCH3OHでは解離吸着による吸着構造が極めて安定である。他方、CH3OCH3、CH3COOCH3、CH3NH2では解離せずに分子状吸着する傾向にあることを明らかにしている。CH3CONHCH3は分子状吸着の構造が不安定であり、実際には吸着しないと推測している。解離吸着では表面からの大きな電荷移動による静電力により吸着エネルギーが大きくなると考えられるが、CH3NH2やCH3COOHの比較的強い分子状吸着では、局所的な分極により生じる静電力に加え、吸着分子から表面にわずかに電荷移動が起こることで吸着エネルギーが大きくなると解析している。

 励起状態のDFT計算には時間依存密度汎関数法(TDDFT)がもっともよく使われている。しかし遷移金属表面吸着系では、狭いエネルギー領域に多くの状態が混在し、計算がきわめて複雑である。また計算結果の解析も難しい。一般に興味があるのは金属-吸着分子間及び吸着分子内の励起であり、表面金属の励起には興味がない。第6章で申請者は吸着分子の励起状態のみを選択的に算出する状態選択TDDFTを提唱している。この理論ではTDDFT計算の過程で吸着分子の励起に関与する占有軌道-仮想軌道対の励起配置のみを選びだし、吸着分子の励起のみを選択的に求めることが出来る。この方法は特定の励起状態のみを選択的に計算できる半定量的理論であり、複雑な分子系の励起状態計算法として期待されている。

 第7章は本論文のまとめであり、分子のDFT理論に関する将来の展望が述べられている。

 以上のように本論文は、DFT法の遷移金属化合物に対する理論計算法の確立と新しい励起状態理論の開発により、DFT法の適用可能性を大きく拓いたものであり、理論化学、分子工学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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