学位論文要旨



No 119623
著者(漢字) 鄭,恩禎
著者(英字)
著者(カナ) チョン,ウンジョン
標題(和) 日本語疑問文におけるイントネーションの実験研究
標題(洋)
報告番号 119623
報告番号 甲19623
学位授与日 2004.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第448号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,善道
 東京大学 教授 熊本,裕
 東京大学 教授 林,徹
 東京大学 助教授 福井,玲
 名古屋学院大学 教授 清水,克正
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、日本語東京方言の疑問文のイントネーション・パタンを、特に話し手の発話意図とイントネーション・パタンとの関係、およびそのイントネーション・パタンが聞き手にどのように認識されるか、の2点について考察する。

 本研究は、東京方言の疑問文、そのなかでもとくに疑問終助詞を含まない疑問文について、各種の発話意図の下でどのようなイントネーション・パタンが現れるかを客観的記述に基づいて明らかにすることを第一の目的とする。また、あわせて聞き手の側にも焦点を当て、話し手の発話意図と聞き手の解釈の一致・不一致について考察することを第二の目的とする。

 本研究では、できるだけ客観的なイントネーションの記述を可能にするために、音響音声学的な手法を導入し、

 1)話し手の側の発話意図の区別が、イントネーションのパタンにどのように反映されているか。

 2)それぞれのパタンにしたがった具体的な発話文が、聞き手によってどのように解釈されるか。

 3)話し手の発話意図と聞き手の解釈が一致する場合と一致しない場合について、その音響要素としてはどのようなことが考えられるか

以上の3つに分けて実験・分析および考察を行うことにする。

 本研究の対象になる疑問文については、口語表現のみを対象にし、また、語アクセントの影響を避けるためアクセント核を含まず、音響分析のために無声音を含まない単語として「やる」を述語とする。

 文末の語が「やる」である疑問文のなかで、疑問詞も不定詞もないもの、疑問詞があるもの、不定詞があるものの3つについて実験を行うこととする。具体的には、単純疑問文「やる?」・疑問詞疑問文「なにやる?」・不定詞疑問文「なんかやる?」の文になる。

 これらの疑問文それぞれについて、「判定要求」・「情報要求」・「確認」・「不満」の5つの発話意図の中から、自然な発話意図が設定できるものを選んだ結果、次のような組み合わせが得られた。平叙文は対比のために付け加えた。

 「やる?」    「判定要求」・「確認」・「不満」

 「なにやる?」  「情報要求」・「確認」・「不満」

 「なんかやる?」 「判定要求」・「不満」

 上記のそれぞれの組み合わせについて、それを表現しようとする話し手の発話意図がどのようにイントネーションに現れるのかを観察した。実際のイントネーション・パタンの記述に当たっては、まず、対象となる発話はすべて録音し、音声分析プログラムを用いてそのイントネーション・パタンの音響的特徴を記録した。記録に当たって測定した関連音響要素は次の8つである。

 (1)文の出だしのピッチの値

 (2)文の終わりのピッチの値

 (3)文の後半部(述語部「やる」)における出だしのピッチの値

 (4)文の後半部(述語部「やる」)における、終わりのピッチの値と出だしのピッチの値との差

 (5)文の前半部(疑問詞、または不定詞の部分)における終わりのピッチの値

 (6)文の前半部のピッチの最高値

 (7)文中のピッチの最低値

 (8)発話持続時間。必要に応じて、前半部の発話持続時間と後半部の発話持続時間に分ける。

 このような音響要素を設定して話し手の発話意図に基づいたイントネーション型を分析していくが、その実験の具体的な手順は次の通りである。

 疑問文のイントネーションには、話し手の発話意図に応じて異なるパタンが存在することを音響音声学的な分析方法を用いて明らかにする。

 次に、話し手の発話意図に対して聞き手の認識の違いを調べるために知覚実験を行う。すでに抽出した疑問文におけるそれぞれのイントネーション・パタンを取り上げ、分析した話し手の発話音声資料のそれぞれの音響要素の数値を順次入れ替えた合成音をパソコンで作成し、これを用いて知覚実験を行うことで、どの音響要素を手がかりとして聞き手が話し手の発話意図の解釈を行っているのかを明らかにする。

 最後に、このような一連の実験を通して得た話し手の発話意図と音響要素との関係と、聞き手の知覚実験の結果に基づき、話し手の発話意図と聞き手の解釈の一致・不一致の問題を考察する。

 以上のように、日本語東京方言の疑問文のイントネーションを対象に一連の実験に基づく研究を行った結果の詳細は次のようにまとめられる。

 1.話し手について

 1)「やる?」・「なにやる?」・「なんかやる?」のすべての疑問文において、文末の上昇が観察され、それが疑問の発話意図と結びつく特徴であることが確認された。

 2)「やる?」・「なんかやる?」における「判定要求」・「確認」の話し手の発話意図の表現には、文の後半部(単純疑問文においては文全体)の「やる?」における、文の終わりと出だしのピッチの値の差が関与していることが明らかになった。

 3)「なにやる?」の「情報要求」・「確認」においては、ピッチの全般的な高さ(文の前半部のピッチの最高値と文の後半部における、終わりと出だしのピッチの値の差を含む)と発話持続時間が関与していることが明らかになった。

 4)単純疑問文、疑問詞疑問文、不定詞疑問文すべてにおいて「不満」の発話意図には、発話持続時間、とくに「やる?」の「る」の部分の発話持続時間が大きく関与することが明らかになった。

 5)単純疑問文の「やる?」と、疑問詞疑問文「なにやる?」の「やる?」の部分の文末上昇を比べると、アクセント核のある疑問詞(「なに」)に先立たれる方が、その文末の上昇がかなり小さいことが観察された。これは疑問詞の部分に質問の焦点が来て、その次を下げるというアクセント核の影響が強く出て文末の上昇が抑制されたものと考えられる。

 6)一方、不定詞疑問文「なんかやる?」の場合は、「なにやる?」の場合とは異なり、不定詞(「なんか」)のピッチの最高値より文末のピッチの値が大きいことが観察された。これは「なんか」が不定詞で、疑問詞のように文の焦点とはならないため、「なんか」のアクセント核による影響がそれほど強く出ないからであると考える。

 2.聞き手の意識の側から

 1)単純疑問文「やる?」の場合。一般的に文の終わりと出だしのピッチの値の差を手がかりにして「平叙」・「判定要求」・「確認」の区別をしていること、「不満」では、発話持続時間を重要な弁別要素として他と区別していることが明らかになった。

 2)疑問詞疑問文「なにやる?」の場合。「情報要求」と「確認」については、この2つの文のイントネーションは確かに違うとは聞いているが、それを「情報要求」と「確認」という意図の違いには結びつけず、文の後半部「やる?」の発話持続時間の違いと文全体のピッチの高さを手がかりに「情報要求」のなかでのニュアンスの異なる変種として聞き分けていることが明らかになった。

 3)不定詞疑問文「なんかやる?」の場合。「判定要求」および「不満」については、発話持続時間、とくに文の後半部「やる」の発話持続時間が聞き手の判断に大きく関与していることが分かった。

 3.話し手と聞き手の関係

 1)本研究で取り上げた疑問文の項目では、話し手の発話意図、および聞き手の解釈にかかわる音響要素として重要な弁別要素になるのは、単純疑問文では「文の終わりのピッチの値と文の出だしのピッチの値の差」と「発話持続時間」の2つ、疑問詞疑問文では「文の後半部における発話持続時間」、不定詞疑問文では「文の後半部における、終わりと出だしのピッチの値の差」と「文の後半部における発話持続時間」の2つであると結論づけられる。

 2)ただし、疑問詞疑問文「なにやる?」の「情報要求」と「確認」において話し手の発話意図と聞き手の解釈の間には大きなずれがあったことが観察された。

 以上、本論文では、日本語東京方言の疑問文のイントネーションを対象に実験音声学的研究を行った。先行研究では「疑問文」としてひとくくりにして「上がり調子」と記述されがちであった疑問文のイントネーションについて、その種類を分け、細かな音響要素を設定して分析することにより、話し手は発話意図に応じてパタンを用いていることを明示的に示すことができた。

 また、合成音声を用いた知覚実験を行うことにより、聞き手が解釈の手かがりとしている音響要素を抽出することができた。これらの結果を比較することにより、実際に用いられる疑問文のイントネーション・パタンでは、話し手の発話意図と聞き手の解釈が必ずしも一致しない場合があることが明らかになり、そのずれは話し手の発話意図に用いられる音響要素である発話持続時間と文全体に加わるピッチの値の高さが、聞き手の側にとって発話意図の解釈の弁別要素として働いていないことによって起こることを示すことができた。

 本研究では東京方言のイントネーションに関するモデルを取り扱っているが、ここで用いた研究方法は、対象言語を制限するものではない。したがって、将来、日本でのほかの方言(例えば:茨城方言)、さらに他言語の方言(例えば:韓国語のソウル方言、プサン方言など)のイントネーション研究への応用が考えられる。本稿は、このような意味で、日本語の疑問文の音声現象を客観的に捉える一つの試みである。これを手がかりとしてイントネーションの研究をさらに深めていきたいと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

 イントネーションは,意味との関わりを解明する方法が未確立であり,文の音調全体の精密な観察も難しく,その研究は遅れている。本論文は,若い世代の日本語東京方言の疑問文を対象に,話し手の意図と聞き手の知覚を組み合わせる新手法を用い,併せて音響分析で精密化をはかることによってこの問題にアプローチしたものである。

 具体的には,3種の疑問文型と4つの発話意図を組み合わせた文例を用意する。文型は(A)単純疑問文「やる?」,(B)疑問詞疑問文「なにやる?」,(C)不定詞疑問文「なにかやる?」,発話意図は(1)「判定要求」(YES-NO疑問),(2)「情報要求」(WH疑問),(3)「確認」(問い返し),(4)「不満」で,それらの実際に可能な組み合わせは8種類見つかり,対比のために平叙文を加えた計9つの文が考察の対象となった。

 まず,発話提供者の音声を録音し,次の8つの音響要因に着目して音響分析を行う。(1)文の出だしのピッチの値(S),(2)文の終わりのピッチの値(F),(3)文の後半部における出だしのピッチの値(s),(4)文の後半部における,終わりと出だしのピッチの値の差(F-sまたはF-S),(5)文の前半部における終わりのピッチの値(f),(6)文の前半部のピッチの最高値(P),(7)文中のピッチの最低値(L),(8)発話持続時間(D,必要に応じて前半はd1,後半はd2)。そして,9つの文のイントネーションパターンが相互に区別されていることを明らかにした。

 次に,その音響データの各値を入れ替えた合成音を作り,6名を対象に知覚実験を行った結果,話し手の発話意図は聞き手も聞き分けており,単純疑問文では「F-S」と「D」が,疑問詞疑問文と不定詞疑問文では「F-s」と「d2」が弁別特徴として働いていることを明らかにした。ただし,疑問詞疑問文の「情報要求」と「確認」の区別だけは聞き手に伝わらず,ともに情報要求と受け取られた。もとの録音音声による知覚実験でも同じことが確認された。「情報要求」(WH疑問)と取られる理由として,疑問詞疑問文は疑問詞(WH)に対する答えを要求するのが最も自然であり,焦点のある疑問詞のピッチが最高値になって文末の上昇は抑えられるために「確認」(問い返し)とは受けとめられにくい,という解釈を施している。

 実験に用いた例文の中に東京方言として自然とは言えないものが含まれていること;8つの音響要因が完全にコントロールしきれておらず,弁別的音響要因として提唱された「F-S」ないし「F-s」にはさらに別の要因がからんでいる可能性があるなどの問題点は残る。しかしながら,先行研究が研究者の主観的観察に依っているか,1つないし2つの文を少数の要因で音響分析している現状を考えると,鄭氏の扱った範囲はそれを大きく超えているし,特に新たに聞き手の観点を取り入れて話し手の意図と聞き手の受け取りが一致しない例があることを明らかにし,その不一致の原因まで解明した点は十分に評価できる。その意味で,今後のイントネーション研究発展の礎となる研究と見て,本審査委員会は本論文を博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

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