学位論文要旨



No 119625
著者(漢字) 吉田,真樹
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,マサキ
標題(和) 『源氏物語』の倫理思想序説
標題(洋)
報告番号 119625
報告番号 甲19625
学位授与日 2004.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第450号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 菅野,覚明
 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 助教授 熊野,純彦
 東京大学 教授 藤原,克巳
 共立女子大学 教授 佐藤,正英
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は『源氏物語』についての倫理思想史的考察である。

 序章において、『源氏物語』を「倫理思想として読む」とはどういうことであるかについて、現在の読みの二大潮流である通常の読みと近代国文学研究の読みとを対比しながら述べ、また倫理思想として読むことの先行研究にあたる和辻哲郎・相良亨・佐藤正英の三著作を検討し、本論文の立場を明確にした。「倫理思想として読む」ことは、「倫理」の直観を媒介した作品の検討を通じて、直観の対象としての「倫理」の自覚、また直観の主体としての「自己」の自覚を深めてゆく行為である。

 第一章「『源氏物語』における反復」では、光源氏の原点を探るために、光源氏という存在の性格、ひいては『源氏物語』の性格を特徴づける「多くの近親者が先立つ」ということから、光源氏が体験した「死」、あるいは「死」を体験する者としての光源氏について考察した。第一節では、光源氏における死の経験の始まりについて検討した。まず更衣と更衣の母君の死の場面から、光源氏の死の捉え方としての「あやし」「恋ひ泣く」「悲しむ」という三段階の感情を抽出した。さらに死に直面した大弐の乳母との面会を通して、自分を「思ふ」人の存在が、この世に自分が存在する証しであると光源氏が捉えており、自分が取り残される不安を「心細し」という感情で表していることを指摘した。第三の夕顔の死に際して、光源氏は夕顔と相互に「思ふ」関係を断ち切られ、最後には「心細く」思う。「心細し」は、死の経験の反復において、「あやし」「恋ひ泣く」「悲しむ」という死の捉え方、それに伴う「捨てられた」「浮いている」「隔てられた」という思い、さらには自己の死の予感をも包含する。光源氏の「心細さ」は、夕顔の「心細さ」を通して、あるいは夕顔の「心細さ」の反復として露わになる。光源氏は以後も、他の死の経験によって自己の死の予感を抱き、また自己の死の予感を潜在させながら他の死に出会うということを繰り返す。いいかえれば、光源氏は「心細さ」をもつ者に出会い、また別れることによって、自己の「心細さ」を露わにし増幅させるということを、人生において繰り返してゆくのである。第二節では、『源氏物語』における「反復」の一般構造について、「夕顔」巻までの物語展開から補足的に考察した。例として、桐壺更衣及び夕顔に見られる「反復」を取り上げ、それが光源氏によって「因縁を辿る」行為に相当することになり、桐壺更衣・夕顔からすれば鎮魂という意味をもち得ることを論じた。そして、『源氏物語』における「反復」の原型である、桐壺帝による「反復」の意味を考えた。桐壺帝と桐壺更衣とは、前世からの因縁ある間柄であり、桐壺更衣の死後、帝が更衣に容貌・姿形の似ている藤壺宮を迎えたことは、更衣の霊魂にとって「慰め」であり、「鎮魂」の意味をもった。藤壺宮を通して更衣を祀ることは神祀りを行う者である帝の無意識的な構造であることを論じた。

 第二章「光源氏の存在の基底」では、光源氏の述語としての「見る」に着目して、光源氏がいかなる存在であるかについて考察した。

 第一節では、「見る」には、「否定的な視線」(冷たい視線)と「肯定的な視線」(暖かい視線)があることを指摘した。否定的な視線とは、恐ろしい対象を肯定的に見ることによって心の不安・動揺が生じてしまったために、それを外なる対象に押し付け押し返す視線であり、何らかの媒介を通して対象を間接的にのみ捉える態度である。一方、肯定的な視線とは、対象を内在的に捉えようとする視線であり、『源氏物語』においてはより高い価値を与えられている。この肯定的な視線は、光源氏が質・量ともに圧倒的にもつものである。以下、肯定的・内在化的視線を〈見る〉と表記する。

 第二節では、「桐壺」巻に即しつつ、光源氏がなぜ〈見る〉のかという前提について考察した。まず、光源氏のもつ「光る美」は、内在化的な〈見る〉視線を要求し、引き出す力をもつものであることを確認した。さらに、光源氏の父桐壺帝が、眼力ある〈見る〉存在であったことを、桐壺更衣への視線を通して指摘した。桐壺帝は、何の外なる条件をも介在させず、更衣の存在そのものを内在的に〈見る〉ことができており、更衣の本質としての〈心細さ〉を〈見〉出していた。桐壺帝はまた、その眼力によって光源氏の本質(「光」性のもつ〈ゆゆしさ〉)に最も迫り得た。一方、光源氏の最初の行為は、母更衣の死に導かれた〈見る〉ことであった。これは不可解さそのものとして死を〈見る〉ことであり、死の超越性を正しく捉えていた。光源氏の〈見る〉は、死という限界点を負って始まる。また、光源氏は、母更衣からは〈見られ〉得なかった。父に〈見られ〉得たことと母に〈見られ〉得なかったことの落差において、光源氏は〈見られる〉ことを求めつつ〈見る〉ことを始める。そして、同質性をもつ女として〈見〉た藤壺宮において、母に見られ得なかったことを問題化する。藤壺宮は光源氏の〈見〉た者として初めて、〈見られる〉ことを求める光源氏を、〈見る〉側として受け止める。母に〈見られ〉得なかったという問題を一時克服したかにみえたが、光源氏の元服によって藤壺宮と光源氏はへだてられ、〈見られ〉得ないという問題を光源氏に残す。問題は現存の藤壺宮に〈見られ〉得ない・得なくなったということとして捉え直される。光源氏は〈見られ〉得ないという問題を克服してくれるような、しかも高度な同質性をもつ女君たちを求め〈見る〉という道を歩み出す。

 第三節では、「若紫」巻に即して、光源氏の〈見る〉がいかなるものであるかを考察した。ここで問題となるのは、光源氏が己れの〈見る〉の結節点たる紫の上に何を〈見〉たのかということである。光源氏は、まず紫の上を女として肯定的・内在的に〈見る〉。次の段階として、紫の上を藤壺宮と重ねて〈見る〉のであるが、これはどういうことか。藤壺宮は帝によって桐壺更衣と重ねられた存在であり、光源氏にとっては、〈見〉たことのない母更衣に似ている、つまり、具体像を伴わない、あらかじめ間接化された存在であった。このことにより、光源氏にとって藤壺宮の生は、死の超越性を帯びた輝きをもつものであり、光源氏の生も藤壺宮の入内後の新たな生も、更衣の死と引き換えに齎されたという点で、更衣の死によって間接化されているといえる。一方、光源氏が紫の上を藤壺宮と似ていると〈見る〉ことによって、光源氏の中で紫の上は間接化され、藤壺宮の生を背負わされる。藤壺宮に課された、〈見る〉ことによって〈見られ〉たいという重大な課題が、紫の上においてもう一度間接化されることによって宥められ、対象化されて光源氏に捉えられるものになる。そして、光源氏は紫の上を通して生(本来死を背後にもつ生)の本質直観をすることになる。稚い紫の上の行く末を祖母の尼君が案じるのを垣間見た光源氏は「すずろに悲し」と感じる。その中核には、光源氏が〈見〉出した、「見棄て」られ「後見」や「拠りどころ」なく、どこまでも独りになろうとしている紫の上の〈心細さ〉があった。

 第四節では、以上のことをふまえ、光源氏とはいかなる存在であるかについてまとめた。光源氏は自身の抱える巨大な〈心細さ〉ゆえに、女君たちの中に〈心細さ〉を見る存在であり、己れの〈心細さ〉を増幅させる〈へだて〉の克服を求めて〈見〉、また〈見られる〉願望をもつ。だが、光源氏はどこまでも〈見る〉存在であり、〈見られる〉願望が達せられることはない。光源氏の本質は〈心細さ〉であるといえるが、その〈心細さ〉が〈ゆゆしき〉「光」性を光源氏にもたらすことになる。

 第五節では、以上の考察をふまえ、『源氏物語』とはどのような倫理思想であるのかについてまとめた。光源氏は女君たちの中に〈心細さ〉を〈見〉、同じ〈心細さ〉をもつ者どうしとして、同質性において共同体を生き切ろうという境地にいたが、女君たちにとって光源氏の視線は〈心細さ〉自体を救い取るものではなかった。光源氏の視線は、己れの底なしの〈心細さ〉を外化させるものであり、様々な女君たちを〈見る〉ことによって外化が繰り返されたが、紫の上を最後に終わることになる。最大の〈見られる〉存在であった紫の上が絶対的視線を求める〈心細き〉存在へと移行することが、光源氏自身が絶対的視線を求める〈心細き〉存在へと移行することを促したのである。『源氏物語』とは、光源氏という、人間の可能性を限界まで尽くし得る者が、その近くの者たちと限界まで絡み合いながら、どのようにして絶対性の入り口にまで辿り着くかを描いた物語であった、と結論づけた。

 第三章「〈心細さ〉と仏教」では、本居宣長の仏教批判の再解釈を通じて、発心という問題、内なる仏教の発生を考察し、『源氏物語』の根本概念たる〈心細さ〉を定義することを試みた。第一節において、宣長が「佛の道」に対して独自の神道説を確立しようとしたとき、最大の焦点となったのが「死んだらどうなるか」という問いであること、そしてその問いには答えがなく、己れの死の問題は、他者の死に接し、肥大化していくことを指摘した。第二節において、「死」を捉えようとする際には、どうしても「死」の超越性が現れ出てこざるを得ず、仏教の作為性を批判する宣長の神道説においても、「死」を扱う限り作為性が不可避的に現れてくることを検証した。第三節では、宣長が理論的根拠としている『古事記』において、超越性をもつ死の問題がどのように回収されるかを検討した。死の問題は、『古事記』においてはイザナミ―(イザナキ)―スサノヲ―アマテラス―八百万の神という長い系列において、何重もの間接化によって宥められつつ、新たな「生」の論理に回収されるものであることを論じた。第四節では、宣長の、確定した死を死ぬ自己に対する諦めとしての悲しさに対して、答えのない不確定な死が迫ってきたときの間柄的な不安が〈心細さ〉であると定義した。第五節では、以上をふまえつつ光源氏の仏教性について考察した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、『源氏物語』の倫理思想を、「光源氏とはいかなる存在であるのか」という問いを通して読み解く試みである。

 光源氏の物語は、親密な他者(桐壺更衣)の死に始まり、親密な他者(紫の上)の死に終わる。他者に先立たれることによって枠取られた光源氏の生は、その内部においても、さまざまな他者に先立たれる経験を反復する。論者は、光源氏と女君達の関係の分析を通じて、光源氏という「存在の根幹」を、先立たれてあること、すなわち、死の予感を潜在させた「間柄的な不安」として捉える。

 光源氏にとっては、あるべき間柄の理想の成就態は、すでに、常に、死による断絶が分かちがたく食い入ったものとして直観されている。このいわば存在論的な不安は、「心細さ」という基調的な感情となって、物語の随所に発現している。光源氏の「心細さ」は、「人間世界の本来的な綻びの主体的な捉え方」であると、論者は指摘する。

 さらに論者は、テクストの細部に丹念に分け入りながら、この「心細さ」が、「見られる」ことを求めつつ「見る」という、光源氏の特徴的な営みを導き出していることを示し、それが「光る」という象徴とも結びついていることを論証する。「心細さ」ゆえに「見る」、「心細さ」ゆえに「光る」ことを、物語の具体的場面に即しつつ明らかにした第二章は、本論文の核であり、その説得力ある論述は高い評価に値する。

 テクストに内在して得られたこれら諸概念をもとに、死や超越をめぐる日本思想史の問題系をも参照しつつ、論者は、次のように結論づけている。光源氏の生は、「心細さ」を「見る・見られる」ことにおいて、存在の根幹における他者との共同性を求める営みである。光源氏の物語は、その営みの極限が、どのような形で絶対的なるものの入り口に到達するかを描いた物語であった。

 以上、本論文は、「光源氏という存在の性格」に着目しつつ、『源氏物語』がいかなる意味で人間存在の根底に触れる作品であるかを明らかにしたものである。普遍的な倫理への問いを、物語の内部から提示しえている点は、本論文の大きな特色であり、『源氏物語』を倫理思想史的に捉える一つの基本的枠組みを提示したことの意義は大きい。テクストの分析は精密であり、方法的立場の反省、先行研究への目配りもよく行き届いている。一方で、テクスト概念抽出に際しての用例挙証にやや荒さも見受けられるが、これは本論文全体の価値を損ねるほどのものではない。

 よって、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

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