学位論文要旨



No 119626
著者(漢字) 勢力,尚雅
著者(英字)
著者(カナ) セイリキ,ノブマサ
標題(和) ヒュームにおける人間的自然の生成史
標題(洋)
報告番号 119626
報告番号 甲19626
学位授与日 2004.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第451号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 教授 関根,清三
 東京大学 助教授 熊野,純彦
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
 東京女子大学 教授 浜井,修
内容要旨 要旨を表示する

 第一章ではデカルトからバークリの系譜と比べることによって明らかになる、『人間本性論』(以下、『本性論』)の革新性を論じた。デカルト以来、観念と精神(自我・知性)の関係には独特の共通理解が支配してきた。すなわち、精神は自らの内なる観念を直観するという不可謬の作業を通じて、自分自身以外の世界について誤りなく知ることができるという理解である。さらに、観念がある以上、観念を生じさせた何らかの原因が別にあるということが自明視され、その原因として、神や外的対象が想定されたのであった。その結果、それだけでほんとうに存在する実体は、精神、神、外的事物のどれなのかという知的争乱を招いたのであった。ヒュームは、そのような意味での精神(観念に対して能動的な力を発揮する、観念とは独立した存在者)を想定しなかった。ヒュームにとってそれ自体で存在するものは、継起する諸知覚だけである。精神と観念の関係についてのこのデカルト的な想定を拒否することは、ヒュームの探究にとっての出発点であり、結論ではない。ヒュームがこのことを明示的に宣言したのは『本性論』第一巻も終わりにさしかかる箇所であったために、多くの解釈者たちは、ヒュームがデカルトやロックと同じ「観念」についての理解を前提としていたと誤解してきた。しかし、ヒュームの問題設定はまったく異なる。すなわち、継起する諸知覚がどのように統合されていくのかを観察し、諸知覚が統合されていく運動をできるだけ少数の原理で説明すること。これがヒュームの企てであった。

 この企てが『本性論』の冒頭からすでに始まっていることを第二章で論証した。『本性論』第一巻第一章の用語はロックのそれと似ているが、この章からしてすでにロックが知性に想定した役割の排除が明確に示されている。すなわち、ロックの場合、どの単純観念を集めるか選択する際に知性の能動性が想定されていたのに対し、ヒュームの場合、継起する諸知覚を呼び起こし統合する想像力や記憶は、連合原理によってかなりの程度支配された受動的な働きである。ヒュームがこの想像力の働きについて観察する際の特徴は、継起する諸知覚を統合して何らかの一般名辞を用いた反省や会話を可能にする働きとはどのようなものかという問題設定をしたところにある。例えば、「長い時間」とか「白い球」といった名辞の使用を可能にする原理は何か。我々の知覚の有無にかかわらず外的対象が連続的に存在すると考えることを可能にする原理は何か。変化しているものに同一性を帰すことを可能にする原理は何か。ヒュームは、これらの原理を想像力の働きに帰したのであった。では、因果関係を発見する推理はどうか。ロックによれば、それは媒介する観念の介在を根拠とした営為である。しかし、ヒュームによれば、蓋然的推理は、「自然の斉一性」を無根拠のままに前提として初めて可能となる非合理な推理である。論文では、ヒュームがこのような蓋然的推理批判に少なくとも二つの明確なねらいを込めていたと指摘した。第一は「現実に存在するものは何か」について混乱したデカルト以来の思弁への回答、第二は蓋然的推理を無批判に拡大使用する自然宗教の知の正当性への批判である。つまり、「現実」とは諸知覚がある仕方で統合され思い浮かべられるときに、それらの諸知覚に対して付与される名辞にすぎないと論じることで、ヒュームはデカルト以来の「実体」概念をめぐる知的争乱を解消しようとしている。また、「蓋然性」といっても「太陽は明日も昇る」というような確実なものもあれば、「宇宙はクモが吐いてできた」のような確実性の低い仮説もある。どのような場合に蓋然性が「非哲学的」で確実性の低いものとなるのかを論じることによって、ヒュームは自然宗教の思弁を批判したのであった。以上のように、我々の現実の見方、語り方は、我々が知性によって能動的に決定しているのではなく、むしろ継起する諸知覚をある仕方で次々と統合する想像力の働きによって受動的に決定されている。ならば、「このような想像力の働きに身を任せてよいのか」と反省するデカルト的な発想の下でこそ知性は活躍できるだろうか。ヒュームによれば、自らが誤りに陥る事情を潔癖に枚挙していくこの種の知性は、すべての信念を消し去るまでこの枚挙を続ける自己破壊的な働きとなる。したがって、完全な真理に固執する知性を単独で働かせ続けることは我々にはできない。これが、いわゆる「ヒュームの懐疑」と呼ばれるものである。論文では、この懐疑がヒューム自身の知的探究の行き詰まりを宣言したものなどではないこと。そして、デカルト的な発想の下では知性がかえって自らの無能さを暴こうとするだけとなることへの警告であることを指摘した。我々の知性は、生活において生じるさまざまな情念を満たすために働こうとする想像力の作用であり、それは完全な真理に到達しようとすると自己破壊的になってしまうが、それでもある程度の批判に耐える探究を可能にする。懐疑論を経た知性の抱負をヒュームはこの点に見出している。ニュートンが天体の運動を少数の原理で説明したのと同様に、「人間」と呼ばれる者たちの認識や行動、道徳、文明などの現象を少数の原理で説明し、その原理の蓋然性を高めていくことはできる。これこそがヒュームが奨める「人間の科学」、すなわち「人間的自然(human nature)」の生成を支配する諸原理を想定して、帰納によってそれを探究しようとする知的探究である。したがって、human natureとは、観察対象としての「人間的自然」であると同時に、その生成の仕方について想定され、探究される諸原理という意味であるということを論文では指摘した。

 第三章では、我々がいかに頻繁に観察者の視点を採って、世界や自己や他者を理解しようとしているかを強調したヒュームの論点を整理した。我々が何かをするときには確かに内的な「束縛のなさ」を感じ、これを我々は「自由意志」と呼んでいる。しかし、自分の行動をふりかえって理解しようとするときには、その行動の原因となった動機があると考える。他者についての場合も同様である。他者の発言や表情や行動を見るときに、我々はそれを、何かしらの情念のサインや結果として理解する。そして、その情念がどのようなものであるかを思い浮かべるために、我々は他者と自分を関係づけ、他者が自分と同じような存在者であると想像し、自分に馴染みの情念を他者の感じている情念と同一視する。これがヒュームの共感論の特徴である。すなわち、他者の心を思い浮かべたがる情念に促されて想像力が他者と自分とを関係づけ、自分に馴染みの情念を想起して、それを他者の心に帰すというプロセスである。ヒュームがこのプロセスを「情念の伝達原理」と述べたために、従来の解釈ではヒュームが他者の情念と「同一」の情念を感じることができると想定していたかのように誤解されてきたが、これは誤りである。論文では、『宗教の自然史』を参照することによって、より妥当な解釈を提示した。

 第四章では『本性論』第三巻をホッブズへの応答として読むことを提案した。他者と自分との関係づけによって共感の作用が変動するとすれば、我々は自分との関係づけを強く感じる者に対する偏愛的な傾向を癒しがたくもっていることになる。したがって、この偏愛傾向はホッブズの言うような自然状態を必然的に招くのかということが、『本性論』第三巻の最大の関心であった。ヒュームが論証しようとしたことは次のことである。すなわち、我々が互いに共感しあう傾向性をもっていることが原因となって、我々は互いにとって有用なさまざまなルールに気づき、それらを発展させることができるという論点である。例えば、自分自身が安定して考えるために、また他者と安定した会話ができるために、我々は自分に特異な視点からのパースペクティブをそのまま宣言するのではなく、宣言において他者と一致できるような言語(例えば道徳の言語)の有用性に互いに気づき、そのような言語を使用可能にするパースペクティブを身につけるようになる。これが「一般的視点」という概念のポイントである。我々は身近な他者との会話や交際を通じて、一般名辞の適切な使用法とされるものに合致した仕方で諸知覚を分類するルールを学ぶようになる。一般的視点からのパースペクティブが一般名辞で語られることによって、公共的な世界、すなわち「コモン・ライフ」が生成するのである。さらには貨幣の使用法、所持に関するルール、道路での車の走行に関するルールなど、我々は身近な人々とのあいだでその有用性に気づきあうルールを学び、それを守ることによって、コモン・ライフでの適切な語り方、ふるまい方を身につけるようになる。このような実践が広まり、慣習や法といったかたちで有用なルールが残存していくと論じることによって、ヒュームはホッブズのような契約論を批判したのであった。

 しかし、『本性論』第三巻で強調されたような、共同体内での一致・協調を目的としたルールを身につけることは、かえって共同体内での価値観の閉塞と、外部への排他性を生む。ヒュームはこの問題を看過していない。つまり、共同体内でのたんなる同調ではなく、より適切な判断力を身につけるにはどうすればよいのか。第五章では、この問題についてのヒュームの論点を、アダム・スミスのそれと比較することによって明らかにした。つまり、「下級の法廷」(世間の判断)に違和感を覚え、「上級の法廷」(真の判断)があるのではないかと考える点で両者は一致している。しかし、スミスがこの二つの法廷の源泉における断絶を強調したのに対し、ヒュームは連続性を説いている。すなわち、「真の視点」を想定するということ自体が、他者との協調を促進する有用な想定であるとヒュームは考える。我々はそのときどきの情念の必要に迫られて世界・自己・他者についての信念を想像したがる。このような我々の知性が抱える逃れがたい偏見への自覚に促されて、自分の視点とは異なる「真の視点」の実在を想定し、意見の異なる他者との「寛容な」対話を続けること。これこそがヒュームの呼びかけた「人間の党」への連帯である。ヒュームの知性批判は、この連帯への賛歌となっている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文において、勢力君は、18世紀スコットランド倫理学を代表するデイヴィッド・ヒュームの思想の全体像を浮かび上がらせるために、彼の「人間的自然(Human Nature)」という概念を考察対象とする。このHuman Natureという概念は、ヒュームの主著のタイトルにもなっているものであるが、同君は、まず、これを「人間的本性」と訳さずに「人間的自然」と訳すことによって、認識問題に関しても、実践的問題に関しても、感性的なものや想像力や情念といった人間に自然に備わる能力に人間理解の主要な手がかりを求め、理性という人為的な能力を人間にとっての第一義的なものとはしないというヒュームの根本思想を明示しようとするのである。その上で、この「人間的自然」の概念の含む意味内容に、勢力君は多面的な角度から考察を加えていく。

 まず、ヒュームの「人間的自然」には、デカルトに代表される、またその論敵とみなされるロックにも認められる、精神が能動的に観念を直視するという考え方に対抗する意味内容が与えられているとされる。そのように人間の心を実体化された容器のようなものとして捉え、それとそこに浮かぶ諸観念との関係を問うというのではなく、人間の心を、継起する知覚とそれを統合する想像力や記憶の作用そのものと捉える所に、ヒュームの独自性が示されているというのである。そこから、自我の同一性、事物の同一性、因果性等が自明の真理であるわけではなく、感性的な「単純印象」という前提に基づいて、想像力が自らの連合法則によって「捏造」した産物にすぎないという有名な命題も登場するに至るのである。しかし、勢力君は、このヒュームの懐疑論は、決してただ知性の無力を暴き立てて良しとする類の懐疑論のための懐疑論であるわけではないのであって、完全な真理に到達しようとするとかえって自己破壊的なものに陥ってしまうという人間的知性の固有の性格と、その知性が到達する真理の蓋然性を指摘することによって、むしろ逆に、真の意味で批判に耐え得る探求を可能にする方式が何であるかを示そうとするものであったという重要な指摘をする。そこに、人間的自然に即した科学の可能性が展望されるのである。

 実践に関しては、理性に対して情念の優越性を説くヒュームの思想のなかでの共感の位置づけについての同君の克明な考察が行われている。そこでは、特に、この共感に基づいて、他者とのコミュニケーションの成立と共通の利益の認識が可能になっていく経緯が説明されていくなかで、この過程に対してはたす一般名辞の使用という人間の能力の持つ意義が、言語分析的に研究されているのが注目される。

 これらのヒューム哲学の中心主題というべき概念の考察をするに当たり、勢力君は、一方において、大陸観念論やイギリス経験論についての広い知識に裏打ちされた論証を試みるとともに、他方において、現代における内外の論争を引用しつつその現代的性格を浮き彫りにしようと試みてもいる。ただ、それでも、人間的自然という概念にとっての理性reasonおよび推論reasoningという概念の位置づけがまだ十分に確定されていないこととか、情念に対する功利性の役割についての分析が十分になされていないこととかの問題点を残してはいるが、ここで示された、同君のヒュームの思想全体に対するバランスの取れた見識、また何よりもねばり強い研究には、本審査委員会は博士(文学)論文として十分な評価に値すると判断した。

UTokyo Repositoryリンク