学位論文要旨



No 119627
著者(漢字) 住家,正芳
著者(英字)
著者(カナ) スミカ,マサヨシ
標題(和) 宗教的多元性の探求 : 宗教社会学における宗教的多元性と世俗化の理論的構図に関する研究
標題(洋)
報告番号 119627
報告番号 甲19627
学位授与日 2004.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第452号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 鶴岡,賀雄
 東京大学 助教授 池澤,優
 東京大学 助教授 佐藤,健二
 日本大学 非常勤講 金井,新二
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、宗教的多元性とはどのような事態であり、それは理論的にはどのように表現されるものなのか、そしてその実現のためにはいかなる要件が課されるのか、という問題を、従来の宗教社会学理論の検討を通じて探究する。

 序では、「宗教的多元性」の語について語義規定を行うとともに、J・ヒックの論考を批判することによって、従来主に用いられる「宗教多元主義」の語との違いを明らかにする。その上で従来の宗教社会学における宗教的多元性の論じられ方の変遷を簡略に概観し、全体概要を示す。

 1章では、ある社会において、ある宗教が独自の価値観を保持することと、全体社会の秩序ある状態が実現することとの間に存在する齟齬や矛盾点をあぶり出すため、米国のヨーダー事件とその判決についての議論を取りあげる。ヨーダー事件とは、アーミッシュに属する親が宗教上の信念に反するとして、自分たちの子供に一定学年以上の公的義務教育を受けさせることを拒否した事件である。州法違犯として州は親たちを訴えたが、最終的に連邦最高裁判決において、アーミッシュの親たちの主張が認められた。この事件について、判決を支持するM・サンデルと、反対の立場をとるW・キムリッカ、井上達夫の議論を検討し、井上による、宗教を政治的な議題とすることよりも市場的な自由選択の対象とすることによって多元性は実現すべきであるとの議論から、続く2章では宗教と市場の関係についての考察へ進む。

 2章では、P・バーガーが1960年年代に行った宗教の市場的状態についての考察と、主として1990年代以降盛んな宗教の合理的選択理論の論考とを検討する。市場の自動調整機能を期待した井上と同様、宗教の合理的選択理論によっても、市場の自動調整機能がその立論の前提とされ、市場の設定が半ば自動的に多元的状況をもたらすと想定されている。これに対して、すでに1960年代に宗教の市場的状態について考察していたバーガーの論考においては、市場は必ずしも多元的状況をもたらすとはみなされていなかった。市場についてのこのような評価の変化を世俗化についての理解の変化とともに確認し、市場という「場」さえ設定されれば自動的に宗教的多元性が実現されるわけではなく、宗教的多元性を基礎付ける原理的基盤として市場原理は適切ではないことを確認する。

 市場原理が適切でないなら、では、どのような「場」が設けられれば宗教的多元性は実現されるのか。どのような原理的基盤が宗教的多元性を可能とする、あるいは宗教的多元性と両立するのだろうか。3章ではこの問題を、公的な場としての公共空間の問題として考える。まず、主体間の同質性を前提としないことを公共空間の規範的条件としたうえで、その条件を満たし、宗教的多元性を担保するためには、どのような要件が公共空間に課されるのか、というかたちで考察を進める。公的なものと宗教との関係についての従来の論考は、公共宗教論の主張とリベラリズムの「信教の自由」とにモデル化されるが、両者はともに宗教的多元性の原理的基盤としては不充分であることを確認する。

 4章では、公共宗教論やリベラリズムの「信教の自由」に代わるべき原理は何なのかを考えるために、社会を何らかの価値の共有として理論化する、より基底的な議論を扱う。社会を、一定の価値共有状態として理論化し、そこから宗教や宗教的多元性、世俗化について論及したパーソンズと、価値共有状態としての社会そのものを「聖なる天蓋」たる宗教として捉えたバーガーをとりあげる。

 パーソンズついては、「近代多元主義社会の中での宗教」と題する論文を起点として、その宗教論が、多元的社会の統合原理を宗教的価値の共有ないしはその価値への合意に見出そうとするものであって、パーソンズの論考は、多元性を成立させる原理として、根底的な価値への合意を設定するものであることを確認する。この合意の内容を宗教の私事化とすれば、政教分離の論理につながり、合意の内容を、ある伝統的・宗教的価値への合意とすれば、ベラーらの公共宗教論につながることとなる。だがこれは、諸宗教の同一性を論じるものではあっても、多元的であることの成立原理とはなり得ていない。

 理論上の難点ないし不備は、バーガーについても指摘することができる。バーガーは、その初期の論考において、人間が現実として経験する世界は意味的な統一によって形成された世界であり、そのような意味的な統一をもたらすものこそ宗教に他ならないとして、「聖なる天蓋」としての宗教規定を打ち出し、世俗化論の重要な理論的支柱を築き上げていた。だが、バーガーの論考においては、本来の概念規定と、個別の論述を進める際にその語に込められた意味内容とにずれが生じており、「聖なる天蓋」としての宗教規定はこのずれに依拠している。現実として経験される世界そのものを「聖なる天蓋」たる宗教とみなすことは、その世界を経験する主観によっては不可能であり、社会成員にとって宗教がどのようなものであるか、という社会における宗教のあり方を、バーガーは自らにとっての宗教にすり替えていたことになるのである。このような宗教概念の外部からの挿入は、パーソンズについても同様に指摘することができる問題であることを明らかにする。

 5章では、パーソンズやバーガーが混同し、すり替えていた、当事者の主観的観点と観察のレベルからの観点とを区別することによって、世俗化論がどのように捉え直されるかを考察する。まず世俗化論の現状と、これまでに提起された世俗化論への批判を概観したうえで、社会についての理論を一次理論と二次理論とに分ける見地から、従来の世俗化論がそもそも「理論」としての要件を満たしていなかったことを明らかにする。世俗化論として問うべき課題は、ある社会は世俗化しているのか、世俗化しているのだとしたら、それはどのようにして世俗化したのか、といった問題ではなく、「近代化」の過程を通じてある社会の一体性がどのように形成され、その歴史としての脱「宗教」論・世俗化論がいかにしてつくり出されてくるのかという問題を、その社会のうちに「宗教」が見出される過程とあわせて問うことであると主張する。

 6章では、以上に検討した議論を秩序問題の構図を利用して整理し、そもそも社会を構成する基礎単位とは何かについて検討し、宗教的多元性と公共空間の捉え直しを行う。社会を構成する基礎的な単位とは何であるのかという問題については、ヴェーバーの組織論と、行為を社会の基礎単位としたパーソンズの社会理論を検討し、社会は意味によって成り立つものであることを示す。組織は、成員・意味・行為とに分解されるが、行為はそれを「行為」として分節する意味が先行することによって「行為」としてのまとまりを与えられるのであって、社会の成員としての他者もまた、それを「他者」として分節する意味が先行していなくてはならない。よって、社会にとってより基底的であるのは意味ということになる。そしてさらに、その意味は、行為と行為とを弁別する「区切り」ならびに区切られた部分に充填された具体的内容としての「意味」と、そのような区切りを与える「見方」としての意味とに分けられる。そこで、前者を括弧付きの「意味」、後者の「見方」を「認知様式」と呼ぶこととする。

 4、5章の議論からは、宗教や世俗化過程の存在根拠は実在的なものから観念的なものへ移行することになるが、それにともない宗教的多元性もその存在の根拠を観念へ移行させることとなる。宗教が多元的であることの根拠は、実体視された宗教ないしは宗教教団が複数存在する、または複数の教団の存在が実体視される、といったことではなく、観念上に「宗教」という意味領野を分節する認知様式の共時的かつ通時的多元性にその根拠を有することとなるのである。

 そして、宗教的多元性の場、ないしは装置として公共空間というものを捉えるなら、認知様式のこのような共時的かつ通時的な差異を可能とすることが公共空間の要件となるのであり、宗教的多元性に関する限りにおいては、この要件を審級として公共空間の制度的実現の度合いや、その制度の社会工学上の有効性が判定される。

 以上より、宗教的多元性とは、「宗教」を「意味」として分節する認知様式が多元的である様態であり、その多元性は「社会」の再分節化としての再審に開かれた、批判の準拠点たる公共空間が各認知様式に組み込まれていることを要件とする、と結論する。

審査要旨 要旨を表示する

 住家正芳氏の学位請求論文「宗教的多元性の探究――宗教社会学における宗教的多元性と世俗化の理論的構図に関する研究」は、現代の宗教社会学の動向を踏まえて諸理論を批判的に吟味し、現代社会理論の水準に対応した新たな理論的視点を提起しようとした野心的論考である。

 住家氏が批判的に吟味しようとする、第二次世界大戦後の宗教社会学の動向は次のようなものである。現代社会において信教の自由が認められ、政教分離が制度化される一方、市場経済の拡充や社会の多元化が進んでいくと、宗教は社会の中でどのような位置を占めることになるのか。世俗性が支配して宗教は私的な領域へと後退していくとする「世俗化」の理論に対して、新たに公共空間において宗教が重要な役割を果たすようになるとする「公共宗教」の理論や、市場原理の下で自由競争を行うことでかえって宗教が活性化するとする「合理的選択理論」が新たに注目されるようになってきた。しかし、住家氏はこれら現代宗教社会学の主要な理論的立場は、いずれも社会理論として徹底しておらず、現代の宗教状況を的確にとらええていないと論じる。

 これらの理論はどれも、宗教や価値観の多元的な併存の下で、いかにして社会秩序が成り立つのかという問題を十分に考察していないが、そこにこそ住家氏の掘り下げようとする視点がある。宗教や文化的価値によって構成される秩序と、多元性を前提とした公共空間との関係をどのように調整するのかが問われることになる。この問題を考察する恰好の素材として、1972年にアメリカ合衆国連邦最高裁で判決が下された「ヨーダー事件」が取り上げられる。伝統的な宗教的生活様式を守り続けようとするアーミッシュ派の親が、子供の高校進学を拒んだことを州側が違法として告発した事件だが、最高裁は親の主張を是とする判決を下した。宗教的少数派の主張が認められたことになったが、この判決の解釈から、個人の自由と信教の自由の関係について、市場原理や公共空間の概念と関わる新たな説明理論が求められることとなった。住家氏はそこに現代的な宗教的多元性を考察する鍵があるととらえる。

 この問題をさらに解きほぐすために、住家氏は社会の基礎単位としての「意味」や「認知様式」といった概念にまで遡って、「社会」や「宗教」をとらえ返すという理論的検討の方法を選ぶ。タルコット・パーソンズやピーター・バーガーのような、社会理論と宗教理論を不可分のものとして考察してきた社会学者の仕事を踏まえつつ、彼らを超える理論的構図を素描しようとする。結論として住家氏は、宗教の多元性の根拠は、認知様式の共時的かつ通時的な多様性にあり、「社会」や「宗教」といった概念範疇の設定への批判を保障し得る公共空間の、合意や価値的統一とは異なった次元での制度的実現が要件となるとする。「宗教」とは何かが問われ続ける状況の中では、従来の宗教社会学のように宗教集団の併存のあり方として多元性を考察するのではなく、「宗教」についての認識の多様性に優位を与えそこから多元性のあり方を探っていくのが妥当だという主張である。

 考察が抽象的な理論の検討に傾き、現実の宗教や個々の社会のあり方には十分にふれておらず、経験的な事実に即した検証がしにくい定式化となっているのは本論文の弱点である。しかし、宗教的多元性や世俗化をめぐるこれまでの諸理論、諸学説を巧みに整理し、新たな展望の下でそれを位置づけ直そうとする試みは成功しており、この分野での独自の貢献として高く評価されるべき業績である。よって本論文は博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると判断する。

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