学位論文要旨



No 119628
著者(漢字) 小林,ふみ子
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,フミコ
標題(和) 天明狂歌研究
標題(洋)
報告番号 119628
報告番号 甲19628
学位授与日 2004.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第453号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 肥爪,周二
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、近世中期末、天明期(1781-1789)前後に江戸において大いに人気を呼び、以後、近世後期にかけて大流行をみた、天明狂歌と呼ばれる狂歌の流行現象とその所産について考察するものである。全体を三章で構成し、第一章で総論的にその特質を把握し、第二・三章でその流行の中心となった人々・集団について個別に検討する。

 第一章「天明狂歌の特質」では、天明狂歌の本質的要素や、その展開において中心となった興行・出版形式を取り上げ、それらのあり方とその変遷について考察する。

 第一節「天明狂歌の狂名について」においては、天明狂歌特有の戯れの筆名、すなわち狂名が表象する狂歌師の人格の虚構性について資料に即して検討する。狂名は、当初、狂歌という戯れを演出し、その場に参加するための名前として虚構の人格を表すものではあったが、狂歌師を表す記号であるという以上に、作者実体と密接に関わって、実体そのものを滑稽化するものであって、従来言われてきたような画一性・匿名性をもたない。そうした像が、大流行にともなって媒体上で肥大化することで、この戯れが元来内包していた韜晦の要素が失われ、狂歌師人格の虚構性に対する意識も薄れる。天明狂歌を一面で特徴づける大衆化は、このように狂歌師人格と実人格の距離が狭まり、狂歌が作者の媒体を通じた自己顕示の手段となったことがもたらしたことを論じる。これは、以後の江戸狂歌の衒学的な傾向の由来を説明するものとも言える。

 第二節「天明狂歌の江戸」においては、江戸賛美が最大の特徴であるとされる天明狂歌がどのように江戸の街を表したのか、その表現的特質を、狂詩や狂文など周辺ジャンルと比較しながら論述する。天明狂歌はたしかに江戸の地名を多く題にとってはいるが、実際には、狂歌としての滑稽の表現に不可欠な技巧・趣向を優先し、それらの地を叙景的に表現することは一般的に少ない。それはおそらくそれらの各地の表現に前提として作者・読者に共通に認識されている型があるためと推測される。そうした作風が、江戸名所絵本に取り込まれ、また狂歌壇が大衆化し、作者層が地方にまで広がりを見せるにともなって、平明な叙景的表現へと変化することを述べる。

 第三節「点取り狂歌の発達」においては、狂歌の大衆化とともに発達した遊戯的な点取り制度の形成過程を解明した。天明期に歌合の通俗版として始まった狂歌合の形式が変化し、寛政(1789-1801)期に、俳諧・雑俳と同じく、判者・催主が兼題を提示し、入花料をとってそれに対する狂詠を一般募集し、その成果として、判者の採点に基づいて、判者ないし催主が高点歌を簡易な丁摺り(返草摺物)のかたちで摺りだして出詠者に配布するという方式が成立するまでの興行形式の発達・変遷過程を追う。あわせて、この返草摺物を集めて出版される書籍の、編集・刊行方法の具体相を明らかにする。

 第四節「摺物と狂歌本―狂歌連の出版活動」では、天明狂歌の大流行にともなう一枚刷り(摺物)の発達過程とその意義について、類似の性格をもつ、入銀物の狂歌画賛入り錦絵や私家版の絵入狂歌本の出版状況と照らし合わせつつ検討した。個人の配り物として大小暦から派生した狂歌摺物が、集団の作品刊行の手段として役割を拡大する。その中で天明狂歌に特有の揃物の型式を工夫したことによって、狂歌師連中にとって、揃物摺物が春興歳旦狂歌集に代わり得る、より柔軟な対応が可能な新たな出版形式による正月の刊行物となったことを論じた。この時期以後の狂歌史の把握において、摺物への目配りの必要性を証明するものでもある。

 第二章は「大田南畝の狂歌と狂文」と題して、天明狂歌壇の盟主であった四方赤良こと大田南畝の文事における狂歌・狂文の位置と意義、また南畝自身が本領とした漢詩文との関係について考察した。

 第一節「南畝と江戸狂歌の先人」は、それ以前の狂歌との相違、独自性が強調されることが多い天明狂歌を、その中心人物であった大田南畝が、狂歌史上にどのように位置付け、前代の狂歌をどのように受容したかについて、他の唐衣橘洲や朱楽菅江、元木網といった狂歌師と比較しながら論じた。近世初期狂歌を尊重する一方で、それ以後の上方狂歌を軽んじる南畝の狂歌観には、江戸に対する愛着が大きく影響していることを述べ、とくに『春駒狂歌集』を著した藤本由己という近世中期の江戸の作者と南畝との歌風・技巧の類似に、影響関係が想定できる可能性を指摘した。

 第二節「寛政期の南畝と狂歌」では、寛政年間には狂歌から離れていた考えられてきた南畝が、私的な場では狂歌を作っていたことを示し、ほかに「よみ人しらず」など匿名のかたちで刊行物に掲載された狂歌がある可能性を指摘する。改革政治への遠慮、大衆化・通俗化した狂歌壇への嫌気など、自身を狂歌から遠ざける要因がありながら、狂歌を捨てきれなかった理由として、表現形式としての狂歌に対する、遊びの次元を超えた親しみを確認し、さらに狂歌に典型的に見られる彼の言語遊戯への関心と適性を、自身の和歌の作例を参照することによって照射する。その上で、南畝の寛政期を、自身にとっての狂歌の意義、この表現形式への適性、また周囲の期待を再認識した時期と位置づける。

 第三節「詩文と戯作―『七観』をめぐって」では、江戸の土地風俗を描いた、南畝の漢文作品「七観」が、『文選』以来の文体を備えた古文辞格調派の正統な作文作法を踏まえながらも、江戸自慢の主題や賦に類する文体・表現法が、むしろ狂文・戯作に由来することを論じ、南畝における漢詩文と戯作・狂文類の表現形式としての連続性、「俗」なるものからの峻別を至上の価値とした同時代の雅文芸(漢詩文・和歌)のあり方に照らしてやや特異ともいえる南畝の相対的な雅俗意識について論じる。

 第三章「元木網夫妻とその門人」では、多くの門人を抱え、天明狂歌壇に一時、南畝の四方連などと並ぶ一大勢力をもった元木網とその妻智恵内子、またその門人の中でも特徴的な活躍を見せた鹿都部真顔とその仲間連中である数寄屋連の活動を追う。

 第一節「落栗庵元木網の天明狂歌」は、南畝らとともに天明狂歌を主導した重要な狂歌師の一人である元木網の伝記的研究である。従来、定説とされてきた生没年が訂正される可能性を示すとともに、狂歌壇の重鎮として活躍した前半生、各地を遊行しながら、一方で、狂歌をよくする地下歌人を理想を見出して歌学・和学へと傾倒してゆく後半生、およびその転身の背景を探った。詠作の尚古的な傾向について考察し、一般的に戯れの余技と言われることの多い天明狂歌の、真摯な自己表現としての一面を照射した。

 第二節「鹿都部真顔と数寄屋連」では、近世後期における江戸狂歌の全国規模の大流行の立役者となった鹿都部真顔と、その活躍を支えた仲間連中数寄屋連の動向を概観した。真顔の文学的出発から、狂歌壇の頂点を象徴する「四方」号を、四方赤良こと大田南畝から継承するまでの過程を追う。真顔の詠風そのものは、南畝のそれよりも、むしろ最初に師事した木網に近い温雅なものであり、第一節とあわせて、近世後期の狂歌壇で主流となるそうした詠風の系譜を明らかにし、狂歌史研究の空白であった寛政期の狂歌壇の動向を把握する。また数寄屋連の活動と作品の独自性を明らかにし、黄表紙等の同時代の他ジャンルの文芸との親近性を検証した。

 第三節「智恵内子の狂歌と狂文」では、天明狂歌随一の女性作者で、元木網の妻であった智恵内子の作風の研究。一般に〈女性らしい〉とされてきたその作風の、語彙から文体にわたる作為性/構築性を、他の女性狂歌師を参照しつつ検討し、その女性性の強調と古典歌人のやつしとしての天明狂歌師像の演出が一致したところに智恵内子としての自己表現があったことを論じる。その文体を可能にした背景について和文史に照らして考察し、規範的存在としての同時代の古学派の女性たちの影響の可能性に言及する。

 以上の検討を総括すれば、「天明狂歌」は、第一章に見たように、一つの流行現象として、そのあり方、作風、それに関わった人々の動向や活動方法、出版方式などさまざまな面で、一定の傾向・特質が見出せることは事実であるが、一方で、背景・経歴を異にする多くの狂歌師連中がさまざまに関わり合って行われた活動と、そこから生み出された作品の総体であるだけに、その意義もあり方も多様である。南畝のように、狂歌が徹底した遊びと言語表現の追求という二つの性格・意義をもつ作者もいれば、また木網、智恵内子、真顔のように、唯一の自己表現の形式として狂歌に真摯に取り組んだ作者もいる。天明期における江戸狂歌壇の空前の活況は、その明るいおかしさに満ち溢れた戯れが多くの人々を惹きつけたことに加え、そうした多様なあり方がいっそう多くの人々の共感を呼び、その参加を促すものであったことが重なって、もたらされたものでもあったろう。本論文では、そうした天明狂歌の全般にわたるいくつかの特質を明らかにし、その一つである多様なあり方の具体相を提示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、天明期以後、江戸を中心として大流行したいわゆる天明狂歌の特質を、多角的な視点から明らかにしたものである。従来の天明狂歌研究は、その中心と目される大田南畝の書誌学的・伝記的研究、もしくは連・側などと呼ばれる狂歌師グループの人員構成や、グループ相互の友好・対立関係に関する研究に偏っていたが、本論文は、点取り狂歌、狂歌摺物など、狂歌の興行形態や作品の出版に関わる実態を追究し、また南畝の雅俗意識や言語遊戯への関心の特徴を明らかにし、さらには南畝以外の天明狂歌壇の重要人物である元木網・鹿都部真顔・智恵内子らの事績や詠歌の特徴を詳細に検討して、天明狂歌の新しい像を描き出している。

 第一章では、天明狂歌の本質や、興行・出版の実態に触れる。狂名により韜晦をはかろうとする意識が狂歌大衆化によって徐々に薄れていき、狂歌がむしろ自己顕示・自己宣伝の手段となってゆくという明快な指摘や、狂歌合から、俳諧・雑俳にならった点取り狂歌への興行形態の展開を跡づける考察は、従来まったく閑却されてきた重要な問題を明らかにしている。

 また第二章では、南畝の文事の意義を新しい観点から探っている。特に、それまでの江戸狂歌の伝統とは無関係だと思われていた南畝が、江戸の初期狂歌に相当の関心を持ち、藤本由己からの影響が見られるという指摘や、漢文作品「七観」に戯作や狂文に共通する要素が多く、そこに雅俗を峻別しない南畝独自の意識が表れているという言及は、新たな南畝像を提示し得ている。

 さらに第三章では、一時南畝と並ぶ勢力を誇った元木網・智恵内子夫妻、有力門人である鹿都部真顔を取り上げる。言語遊戯に徹する南畝と異なって、元木網・智恵内子夫妻は狂歌を自己表現の手段・形式としたとし、また機知と過激な滑稽を好む南畝に対し、温雅な真顔の詠風が、その後の狂歌壇の主流となっていく経緯を論じて、多様な天明狂歌のあり方を闡明している。

 本論文であまり触れられていない朱楽菅公・唐衣橘洲らの動向や、狂歌と戯作の関係等、今後の課題とすべきところはあるが、従来等閑視されていた天明狂歌の特質を、狂歌師の伝記資料から狂歌の一枚摺にいたる厖大な資料を駆使して、明確な史的展望のもとに描き切った点は、画期的なものと評価できる。よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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