学位論文要旨



No 119630
著者(漢字) 呉,美姃
著者(英字)
著者(カナ) オ,ミチョン
標題(和) 安部公房研究 : 植民地経験を基点として
標題(洋)
報告番号 119630
報告番号 甲19630
学位授与日 2004.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第455号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 安藤,宏
 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 助教授 井島,正博
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では、安部公房(一九二四〜一九九二)とそのテクストを〈植民地経験〉、そして〈戦後〉という時代性と関連させながら考察してみることを試みた。ある戦後作家が自らの植民地経験と戦いながら、たえずそれを現在の足元へひきよせ、時代と向き合っていく作業は、その文学世界にどのような陰影を作り、どのような方向性を与えたのかに、分析者の主な関心があった。

 安部公房という作家を安易に日本文学史の異端児として規定する態度に懐疑をもちながら、この作家をあらためて戦後という時代の中で捉えなおして見ると、原点としての民族や国家という〈起源〉へ遡及しようとする欲望を無限に相対化していく様相を確かめることができる。安部はその起源がいかなる性格のものであれ、国家であれ、理念であれ、または日常であれ、それはそもそもそうであるべきという源泉的な起源でははく、自在に変化し、流動するものとしてしか捉えられないという思考を表現に貫いてきたといえる。そしてその背後にはトラウマ的な経験、すなわち植民地経験が横たわっていたものと考えられるのである。

本論

一章  『終りし道の標べに』論―故郷・辺境・植民地―

 一章では『終りし道の標べに』を中心に、敗戦状況における外地日本人のアイデンティティ・クライシスがどのような文学的テーマを形成したかをたどってみた。植民地に日本人をひきつけた理想や、普遍主義的理念が敗戦によってその根拠を失った時、〈敗戦〉とは自己の〈挫折〉の体験として捉えられることになる。したがって、その語りは自虐的に屈折しており、それは自己のアイデンティティに絡んだ経験を対象化することの困難さを示していたのである。

二章  戦中から戦後へ―初期テクストの変貌について―

 二章では「名のなき夜のために」について方法論の転換を中心に考察してみた。戦時中、リルケの『マルテの手記』のような自意識の文学に深酔していた安部が、メタモルフォーゼの概念を「転身」から「変身」へと変容させることによって、戦後のアヴァンギャルド文学の表現と繋がっていく契機を考察してみた。

三章  トラウマとしてのメタモルフォーゼ―『壁』論―

 三章においては、『壁』を中心に戦後日本のアメリカ占領という現実がどのように形象化されているかを考察してみた。ここでは戦後日本とアメリカとの関係を認識するにおいて、常に安部の植民地経験が陰画として作用している様相をたどってみた。また、そこから安部テクストの大きな一つの主題系を形成する〈父殺し〉の問題も胚胎された事実を把握してみた。

四章  アメリカの表象をめぐって―「闖入者」論―

 四章においては、日本という〈父〉と訣別した戦後の主体にアメリカはどのような他者像を形成しているかを、「国民文学論争」のコンテクストから考察してみた。つまり六〇年代以降形成された安部公房のイメージとは違って、五〇年代にはアメリカからの独立という目標からナショナリズムに肯定的であった問題を、安部の左派的文学運動への参加と国民文学に関する言説を通して見なおしてみた。

五章  記録文学運動への志向

 五章においては、前衛文学を目指していた安部がどのように〈記録〉という方法を見つけていくかという問題を同時代の文学運動の中で、たどってみた。そもそも記録文学運動は反米愛国主義的なナショナリズムの創出という観点から考えられていたが、以降、安部が寓意的な文体から写実的な文体へと変貌していく上にも、重要な意味を持っていた。さらにテレビ、ラジオ、映画、ミュージカルのような他ジャンルに目を向かわせた要因でもあった事実を明らかにしてみた。

六章  『けものたちは故郷をめざす』論

 六章では『けものたちは故郷をめざす』が表象している植民地主義の自覚の独自性をあきらかにする試みであった。敗戦当時の〈引揚げ〉というテーマを通して、引揚げ記の犠牲神話を、引揚げできなかった少年の視線から相対化しているこのテクストが、植民地へのノスタルジア物語の中で捨象されていた問題を前景化している点について考察してみた。

七章 〈戦後〉的パラダイムの終焉―『砂の女』論―

 七章では『砂の女』(一九六二)における安部の〈戦後〉的パラダイムがどのように変容していくかについて考察してみた。主人公の「愛郷精神」の拒絶という問題を中心に、流動する家とモザイクのような世界への憬れが、ノマド的文化への志向を明らかにしている事実に注目してみた。それは政治的急進主義、六〇年安保の挫折という一九六〇年代の状況によって、いわゆる日本という〈起源〉を求める動きが高まっていく中で、この作家はむしろ絶えず起源と原点を否定する姿勢をとり、新たなパラダイムを作り出そうとしていたことを意味していた。

八章 クレオールの夢―安部公房の植民地経験―

 最後にクレオールへの関心と安部の植民地経験との関連性について論じ、論全体の概括を試みた。一九八〇年代の安部はクレオールに強い関心を表明しており、それは彼の植民地経験の裏返しでもあった。安部公房の満洲時代の経験をたどることによって、その経験がある意味ではきわめて重層的で、複雑な性格であったことを確かめることができた。逆説的にも、その虚偽の多民族主義という経験はクレオールという混合文化への関心を導いていたのである。

 結

 安部の植民地経験と関する言説は時代によって変化していて、同一とはいえないが、この表象は「汚れとねじれ」の起源探しではなく、起源の不在を絶えず訴え、その主体の多様性に着目していく立場であるといってよい。支配者としての植民地経験と、被支配者としてアメリカ占領下の経験を通して、安部は被害者と加害者の両面から自らの主体を形成すると共に、さらにこうした主体すらをも相対化していくあくなき作業を続けていったのであった。

 その植民地経験の表象は、初期においては植民地での安定した日常性へのノスタルジアと、その植民地性を自覚しようとするはざまで、揺れ動くような様相を呈している。次第に自らの植民地経験を構造的に定位させる方向へと向かっていくのだが、それはいわば〈故郷としての満洲〉という表象を切断していくプロセスに通じるものでもあった。植民地経験と敗戦の記憶は、ある種のトラウマとしてこの作者に作用している。それはナショナルなものへの傾倒と離反、一方ではあまりにもたやすくインタナショナルなものへと飛躍する印象を与えている。本論文は、この二つの拮抗する方向を編年体で辿ってみたわけだが、それによって、六〇年代以降に形成された安部像に異議申し立てをし、比較的まだ研究が進んでいない五〇年代の様子を明らかにしてみたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は安部公房の「満洲」からの引き揚げ体験に着目し、帰属の根拠の喪失、支配関係の反転を意味したこの経験が、戦後日本の状況を特異な視点から相対化していくことになる道行きを論じたものである。

 一、二章では、初期の『終りし道の標べに』と『名もなき夜のために』の二作品が検討されている。故郷へのノスタルジアが、かえってそのイメージの重層化、主体の分裂を招くことになる様相、共同体への「帰郷」の不可能が自己言及的な構造のうちに浮き彫りにされていくプロセスを指摘したくだりは、いずれも従来の評価の変更を迫るものであり、昭和十年代のリルケブームを媒介に、かつての「純粋小説」論議を戦後に接続することになる史的意義の評価と共に、注目に値するものといえよう。

 二、三章では、変身と寓意をテーマにした、『壁』『デンドロカカリヤ』『闖入者』が分析の対象にされている。1950年代、左翼陣営の側に反米愛国主義が高まる機運を背景に、植民地体験による主体の喪失がメタモルフォーゼ(変身)のテーマを育んでいくことになる道行きが明らかにされた上で、アメリカの占領政策が戦前日本の植民地政策とアナロジカルに捉えられる必然性が分析されている。

 五、六章では、現実の政治的な要請からドキュメンタリーへの志向が強まり、それと共にそれまでの観念的な文体が即物的な文体に移行していく経緯が解明されている。『けものたちは故郷をめざす』において引き揚げが頓挫するその過程が、当時の「引き揚げ」の概念に対する痛烈な批判にもなっている、という指摘と共に傾聴に値しよう。

 七、八章では安部がそれまでの左翼的ナショナリズムに違和を感じ、60年安保以後の戦後的理念の変質を背景に、マクロな問題をミクロな立場から見るようになる変化が『砂の女』を通して明らかにされ、あわせてクレオールに、複数言語の混交よりもむしろ、伝統を拒否する側面を評価しようとした安部の特色について言及されている。

 今後なお、より多くの作品検証が期待されるが、従来安部公房の文学を論じる際に自明の前提とされてきたコスモポリタニズム、メタモルフォーゼといった概念を、あらためて引き揚げに伴うアイデンティティの自己相対化、という観点から、戦後の状況論と相関させて論じた独創性は高い評価に値する。以上の点から、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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