学位論文要旨



No 119633
著者(漢字) 渡邊,克義
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,カツヨシ
標題(和) ポーランド人の姓名 : ポーランド固有名詞学序説
標題(洋)
報告番号 119633
報告番号 甲19633
学位授与日 2004.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第458号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 教授 金澤,美知子
 東京大学 教授 沼野,充義
 京都大学 教授 佐藤,昭裕
 ワルシャワ大学 教授 フシチャ,ロム
内容要旨 要旨を表示する

 固有名詞学はポーランド本国では一世紀を超える歴史と伝統ある研究領域であるが,日本ではそうした扱いを受けておらず,研究は主に在野の研究者によって進められてきた.本稿は日本におけるポーランド固有名詞学に関する初の論考である.

 序章では,固有名詞学の研究スコープと研究史を問題にした.固有名詞学の主たる研究フィールドは人名学と地名学であるが,その他,動植物名学も入る.本稿は固有名詞学の中心領域を扱うものであるが,すべてをカヴァーするものではないことを全体の系譜を示す中で断っている.次いで,ポーランドの固有名詞学研究を概観した.人名研究では,Jan St. BystronやWitold Taszyckiの先人として果した役割が大きい.

 第1章はポーランド人の苗字を扱った.日本とは異なり,ポーランドではほぼ確実な形で苗字の総数が判明している.その数は40万強であるが,人口比を考えるとその数は膨大である.苗字は人物特定の補助手段として形成されていったが,それは万国共通に見られるプロセスである.

 苗字の型をポーランド起源型と外国起源型に分けて調べた.

 ポーランド起源型については,「職業・役職名派生型」「地形派生型」「地名派生型」「父名派生型」「母名派生型」「綽名派生型」「その他」に分けて考察した.

 「職業・役職派生型」には,Bedanarz(桶職人),Soltys(村長)などが入る.「地形派生型」は当該人物の居住地を示すもので,Dolina(谷),Pagorek(高台)などの苗字が属す.「地名派生型」は先祖の出身地を苗字にしたもので,「クラクフ」(Krakow)から派生したKrakowski,「トルン」(Torun)から派生したTorunczykなどがそれである.「父名派生型」は父(先祖)の名前をそのままの形で用いるか,接尾辞を付すなどして苗字に変えたものを指す(例:Karolczak<Karol).「母名派生型」も,極めて数が少ないが,存在する(例:Ewiak<Ewa).「綽名派生型」は綽名そのものと同様,ヴァリエーション豊富である.「その他」には,普通名詞に接尾辞を付して苗字になったものなどを挙げた(例:Latosz<lato(夏)).苗字の分類は実際にはかなり難しいものが多い.Grochotaという苗字がgroch(グリーンピース)に由来すると即断するのは禁物である.

 ポーランドの苗字には方言色(苗字の発音および表記に方言が影響していること)があると言われるが,今日ではその影響を確認することはかなり難しい.

 古来からのポーランド人と異民族との接触・交流は苗字にも痕跡を留めている.本稿では,起源別に外国起源の姓を取り上げた.今後もこの種の姓は増えていくものと考えられる.

 先の大戦の影響で,ポーランド語から「翻訳借用」の形でポーランドの苗字の多くがドイツ語された.大戦後,元のポーランドの姓に戻さず,ドイツ姓をそのまま用いている人もいる.

 複合姓についても問題した.複合姓は既婚女性が「旧姓+夫の姓」という形で用いている場合が多いが,そればかりでもない.男性がこのような複合姓を使っている場合は,何らかの理由が存在するが,事情は複雑多岐にわたっており,特定することは難しい.

 苗字の表記は,原則的には現正書法を用いるべきであろうが,実際には旧正書法を用いている事例が多数あり,また許容されてもいる.

 「名+姓」の順で表記するのがポーランドの伝統的スタイルであるが,役所風に「姓+名」で表記する人がかなりいる.この場合,ポーランドでは名前が苗字に転化したものも少なくないので,混乱が生じかねない.

 日本では改姓は婚姻などの場合を除けば極めて難しいが,ポーランドは比較的緩やかと言えるであろう.改姓の条件は,4つある.(1)滑稽あるいは人間の尊厳を傷つけるような姓の場合,(2)非ポーランド的な姓の場合,(3)名前の形をした姓の場合,(4)申請者が自身の姓を,多年にわたり使用している戸籍上の姓とは別の姓に変更したいと望む場合,である.

これらのうち,(1)を理由に改姓する人が最も多い.名詞型の苗字から -ski型に改める人が抜いて多いことが明らかとなった.(2)を改姓理由とする人は今日では多くない.(3),(4)を理由とする人は意外にもほとんどいない.

 女性の苗字をめぐる問題点では,接尾辞 -owa, -ankaなどによる派生型を取り上げた.今日この型の苗字はポピュラーではないが,これは,女性が婚姻の有無を他者に示したくないことや,父や夫への依存を特徴付ける考えが嫌われるようになったからであろう.

 第2章ではポーランド人の名前を扱った.名前はスラヴ起源型と外国起源型に分けて考えることができる.スラヴ起源型はさらに合成型,短縮型,単型に分けられる.合成型は2つの要素が結びついてできた名前のことであり,Bogumil(<Bog(神)+mily(愛らしい))などが入る.短縮型は合成型名前の愛称形が苗字になったもの(例:Slawek<Slawomir)が属す.単型は一般名詞が名前に転じたもの(例:Gwiazda(星))であるが,現代ポーランドでは数が極めて少ない.外国起源型は数が多い.

 命名にあたっては法的に一定の制限がある.(1)名前は1つないし2つしか付けることができない.3つ以上は不可,(2)性別判定不能な名は不可,(3)名前は原則的に選択性であり,自由に創造することができない,(4)ポーランド科学アカデミーが作成した「ポーランドで使用されている名前の一覧」(男性名655,女性名521収録)から外れる名前を付けたい場合は,科学アカデミー言語文化局の判断を仰がなければならない,などがそれである.言語文化局はポーランド語の正書法に合わない表記については不可とする方針を示してきたが,その原則に反する相当数の名前(約2万種)が登録されているのが実情である.

 命名理由はさまざまであるが,「愛称形の響き」が重視されていることがわかった.それぞれの名前が持つ語源的・歴史的由来についてはほとんど考慮されていない.この辺の事情は,表意文字の漢字が表音文字として使われている(「当て字」の利用)昨今の日本の命名事情と共通する点が見られる.

 ポーランドの命名にも流行り廃りがあることはデータからも確認された.なぜ命名にブームがあるのかは定かでない.仮に中程度の人気で,多くの人にとって響きも悪くないと感じられる名前があったとする.それが,テレビや映画の主人公などの名前として用いられるようになると,爆発的に広まるきっかけとなるのであろう.ただ,「平時」でない時には名前は時代を映す鏡のような機能も持ち合わす.ポーランドでは亡国の19世紀に,英雄の名前に肖ることがブームになっていたことがある.

 ポーランドでは改姓に準じて改名が認められている.名前が原則選択性になっているポーランドで"悪い"名前というものは基本的に存在しない.にもかかわらず,さまざまな理由から改名が申請され,認可されている.改名動機は主観的理由によるものがほとんどである.また,どの名前が嫌われ,どの名前が好まれるかも一般化はすることはできない.

改姓の場合は前姓との繋がりを残しておく人が少なくないが,改名ではそうした人は3割程度に過ぎない

 本稿は日本で初めてのポーランド固有名詞学の論考であり,扱っている事項の多くがこれまで我が国で知られることのなかった内容となっている.しかし,なお探求すべき課題は少なくない.まず,ポーランド人の姓を造語論的に詳しく分析してみること必要であろう.命名に関連し,愛称形の響きが重要であることは明らかになったが,愛称形そのものに関する研究は遅れている.なぜ親は特定の愛称形が"良い響き"を持つと感じるのであろうか.おそらく,「音相」(木通隆行氏の造語)から切り込めば問題解決の糸口が見つかるかもしれない.それが分かれば,命名に働く心的要因をかなり明らかにすることができるであろう.これも今後の課題である.

 固有名詞学がカヴァーする領域は人名学,地名学に留まらない.本稿が取り扱った領域は限られたものでしかない.本稿が副題で「ポーランド固有名詞学序説」と銘打ち,「序説」という言葉を用いているのはこうした理由からである.劇場名,会社名,製品名など,その研究対象は実に広範である.それらも含めた固有名詞学の総合的・包括的な研究が今後の課題となろう.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文で著者渡邊氏は,ポーランド語学の1野である固有名詞研究の扱う対象のうち,主に現代ポーランド人の姓および名のそれぞれにつき,近年の膨大な研究成果を手がかりとして,文法学的および社会言語学的観点から,幅広く考察している。

 まず序章においてポーランドにおける固有名詞学研究一般の研究史および人名学研究の現状が概観された後,現代ポーランド人の姓を扱った第1章の前半においては,1990年代にポーランドにおいてまとめられた大規模かつ詳細な調査の結果が紹介される。続いて,この調査で示された40万強の,人口に比してかなり膨大な数に上る現代ポーランド人の多種多様な姓の「型」が渡邊氏によって詳細に分類され,それぞれの区分ごとに論じられる。「ポーランド起源」の姓については,意味および語形の「派生型」に基づく下位区分が設けられて分析され,方言との関係についても併せて考察される。「外国起源」の姓については,いずれの外国語起源であるかによる下位区分が設けられ,その際,たとえば翻訳借用による姓や,第2次世界大戦中にドイツ語化された姓などの諸問題についても併せて論じられる。ついで後半では,複合姓,呼び掛け(名乗り),女性姓,改姓等の姓に関わる主として社会言語学的な諸問題が幅広く示され,考察が加えられている。こうした分類,考察の作業の過程で,文法学的には,現代ポーランド人の姓の語構成論・形態論上の類型が明快に整理され,また隣接するポーランド史学・民俗学・社会学等の諸領域に関連する言語学上の研究課題が,数多く具体的に提示されることとなる。

 姓に比べ種類のかなり少ない現代ポーランド人の名を扱った第2章でも,まず第1章同様,1990年代の調査結果に基づく,起源の別に基づく名の分類と主に語構成論的な考察がなされる。次に,愛称形,ポーランドにおける現行法規上の命名規定,20世紀および近年における命名の流行の推移(著名な実在の人物や文学作品の登場人物の名との関連の問題等にも言及される),現代における改名等のさまざまな問題が取り上げられている。

 以上のように,本論文は現代ポーランドの人名の文法学的な類型化の作業を主軸とし,併せて人名に関連する広範な問題群の発見(解決には必ずしも至らない)にも力が注がれている。前者については,論旨は説得的であり今後の研究にも有益であると高く評価されたが,特に姓の起源に関するロシア語を始めとする他のスラヴ諸語との比較の視点の欠如等の欠点,その他,一部の記述の不正確さが指摘された。後者については,研究意欲を刺激する多様な魅力的問題群を発見したことは大きな功績であるが,たとえばポーランド・カトリック教会やかつての社会主義イデオロギーとの関連,ユダヤ人の人名等,論じられるべき重要な問題がいくつかまだ残されているとの指摘があった。しかしいずれの不備も本論文の意義を損なうまでには至っていない。よって本委員会は上記の優れた成果を考慮し,本論文が博士(文学)の学位に十分値するものと判断する。

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