学位論文要旨



No 119634
著者(漢字) 高山,与志子
著者(英字)
著者(カナ) タカヤマ,ヨシコ
標題(和) 情報化と企業統治の変化による労働市場の二極化 : 米国と日本
標題(洋)
報告番号 119634
報告番号 甲19634
学位授与日 2004.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 博人社第459号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 須藤,修
 情報学環 助教授 田中,秀幸
 情報学環 助教授 岡崎,毅
 情報学環 助教授 佐倉,統
 情報学環 助教授 北田,暁大
内容要旨 要旨を表示する

 本稿では、米国の労働市場の変容過程を分析すると同時に、情報化の進展と市場からの圧力による企業統治の変化が、米国の雇用システムにどのような影響を与えてきたかを明らかにした。そして、米国の労働市場の分析に基づき、日本の現状を米国と比較し、日本の雇用システムが今後どのように変化する可能性があるかを検討した。

 近年、我が国では、米国の経済成長を支えている米国特有の雇用システムを高く評価し、日本の社会と企業は米国型モデルを採用すべきだという意見が強くなってきている。実際、日本企業の中には、すでに終身雇用や年功序列に基づく給与体系を改め、実績に基づく年棒制に移行するところが増えてきた。しかし、米国の雇用システムには、プラス面だけでなくマイナス面があることを忘れてはならない。米国においては、雇用保証(ジョブ・セキュリティ)の低下や賃金格差の拡大が、大きな社会問題となっているのである。

 しかし、現在の日本では、このような米国の雇用市場の現状は、正しく認識されていない。メディアを通して入ってくる大量の情報はいずれも断片的なものであり、米国雇用市場に関わる書物や論文のほとんどは、特定の問題を限定的に扱ったものである。米国の雇用システムの変容過程を総合的見地から分析し、説明したものは存在していないのである。そのため、多くの論者が、そのような米国雇用市場に関わる断片的な情報あるいは特定の問題に限定した研究を根拠に、現在の日本の状況を分析し、対処法を提言している。本稿は、そのような現状を前提に、総合的な視野から米国労働市場の変容過程を詳細に分析し、現状を認識するための枠組みを提示することを目的とする。

 米国の労働市場では、1980年以降現在に至るまでの間に、ホワイトカラーの雇用状況が急速に悪化した。同時に、企業がより柔軟な雇用形態を求めた結果、従来の正社員とは異なる形態の非正規雇用労働者が登場した。また、この1980年代以降、労働者の賃金格差が大幅に拡大した。所得の高い上位のグループは実質賃金が一層上昇したのに対し、中位および下位のグループの実質賃金は低下している。上位とそれ以外のグループの格差が広がっているのである。

 そして、情報化の急速な進展に支えられ経済繁栄を享受した1990年代後半においてさえも、その問題は解決するどころか一層大きくなっていた。ハイテク産業や金融サービスなどいわゆるニュー・エコノミーの恩恵を受ける産業に従事している人々は、1999年には総就業人口の17%を占めており、その1999年の賃金は1988年に比して12%増加した。しかし、残る83%の、いわゆるオールド・エコノミーに属する人たちの賃金は逆に4.5%減少している。これは、情報化による経済的繁栄と賃金格差の拡大が同時進行している現実を明瞭に示している。情報化が進展する社会において、「持てるもの」と「持たざるもの」との間のギャップはますます拡大しているのである。

 米国においては、この賃金格差の拡大に加え、この20年の間には、雇用保証が大幅に低下した。従来安定的であった高学歴で管理職のグループもその例外ではない。すべての労働者の間で、雇用に対する不安が高まってきたのである。雇用保証の低下は、職の内容、地位、教育レベルに関係なく広範囲に生じており、構造的な問題として社会の関心を集めている。これは単に失業率の上昇を意味するのではない。2000年以降の景気低迷と株式市場の下落を反映して、米国の失業率は2003年12月現在5.7%まで上昇しているが、この数字は約20年前の1982年におけるリッセッション時の9.7%よりはるかに低い。しかし、1990年代以降は、従来は長期にわたって安定的な職が保証されていた高学歴・高収入のホワイトカラー層が解雇の対象となり失業期間も長期化した。経営トップ層であっても決してその例外ではない。

 もちろん、失業のリスクの度合いやそれに伴うコストの大小は、個人の能力や立場により大きな差がある。優秀な専門家や管理職であれば、一つの職を解雇されても待遇や賃金が同等あるいはそれ以上のレベルの職を比較的容易に見つけることができるだろう。また、経営トップであれば解雇のリスクに見合う多額の報酬を得ている。彼らにとってはハイリスクだが、ハイリターンなのである。しかし、これらの層が就労者全体に占める割合は少ない。多くの労働者が、リターンが少なくリスクが大きいハイリスク・ローリターンともいうべき状況に置かれているのである。

 私は、米国の雇用市場で上記のような変化を引き起こした主要な要因は、(1)国際化や規制緩和により、参入が容易な巨大市場が誕生し、企業が激しい競争にさらされたこと、(2)情報化により仕事の内容が大きく変化したこと、(3)市場(株主・投資家)が経営者に対して大きな影響力を行使するようになったこと、の三つであると考えている。

 本稿では、この「情報化の進展」と「市場からの圧力」という二つの問題に焦点を当て、これらが米国の雇用システムにどのような影響を与えてきたかを明らかにした。このように、情報化と企業統治の変化の二つを視野にいれて、米国社会の変化と雇用システムの変化を分析した研究は、わが国にはまだ存在していない。「情報化の進展」と「市場からの圧力」の影響は、以下のようにまとめることができる。

 米国において情報化が雇用に与えた影響としては、以下の点が挙げられる。情報化には、雇用創出効果と雇用代替効果の両方があるが、情報化の進展により新しい産業が次々に誕生した1990年代後半には、前者が後者を上回り雇用が増加した。しかし、その一方で、情報化により、要求されるスキルのレベルが低くなる脱スキル化現象と、逆に、要求されるスキルのレベルが上がるアップ・スキル化現象が、同時に進行している。より高いスキルを要求される職への需要と賃金は上昇し、低いスキルしか要求されない職の賃金は低下する。つまり、情報化の進展が、賃金格差の拡大を引き起こしているのである。また、情報機器により多くの事務業務が代替あるいは効率化され、中間管理職が削減された。その結果、ごく少数の管理職とそのほかの従業員というように、企業内において二極分化が進み、組織がフラット化した。

 米国の企業統治の変化が雇用に及ぼした影響としては、以下の点が明らかとなった。機関投資家の影響力が増大したことにより、企業経営がより株主の利益を重視する株式市場志向型に変化した。その結果、雇用のあり方も変化した。企業内部の労働市場が、外部の労働市場と株式市場の影響を直接受けるようになり、同一企業内で働く労働者の給与格差が個々人の能力の差を反映し拡大していった。また、各労働者の給与の中で、当人の業績、あるいは、当人が属するチーム、企業全体の業績に連動する部分の割合が拡大し、以前は企業が負っていたリスクが各労働者に転嫁されるシステムが定着していった。

 日本でも、米国の後を追うように、急速に情報化が進展している。インターネット普及率を比較すると、日本では2002年末のインターネットの普及率は人口比で54.5%、米国では2001年9月の普及率は人口比で約54%となっており、ほぼ同じ割合となっている。しかし、米国では情報技術を活用した結果、急速に仕事の内容や組織構成が変化したが、日本では情報化による企業組織の変革、とりわけホワイトカラーの業務の変更が、まだ十分に行われていない。

 しかし、近年、株式市場からの圧力が急激に高まり、多くの企業が経営を市場志向型へ転換しつつある。日本企業の持合株比率は1990年代を通して低下し、2003年3月期には7.4%と調査開始の1987年度3月期以来過去最低となっている。また、持合株に金融機関が保有する株式、事業会社が保有する株式、上場企業が保有する関係会社株式を加えた安定株の保有比率も、同じ2003年3月期には27.1%にまで低下しており、やはり、調査開始以来最低を記録している。他方、1990年以降、外国人持ち株比率が急速に上昇している。外国人持ち株比率は、1990年代にほぼ一貫して増加しており、2003年3月期には金額ベースで17.7%に達している。海外投資家が、持合株の解消の受け皿となっているのである。これらの海外投資家は企業に対してより株主重視の経営をするように求めている。一方、従来はもの言わぬ株主であった日本の機関投資家においても、2000年以降、受託者責任の観点から、議決権行使などの株主権の行使を行う投資家が増えつつある。

 その結果、日本企業の多くは、市場からの圧力のもとで、業績重視の給与体系を導入し、非正規雇用の拡大など、柔軟な雇用システムの構築を進めている。米国で生じた、ホワイトカラーの職務の見直しや、それに伴う賃金格差の拡大と雇用保証の低下は、すでに始まっているのである。この動きが進めば、日本企業で働く労働者の間でも、中核となる一握りのグループとその他のグループに二極分化する可能性が高い。

 実際、そのような賃金格差の傾向は既に現れている。家計経済研究所の平成14年度「消費生活に関するパネル調査」によれば、高所得階層(第90分位)と中位所得階層(第50分位)の世帯の所得比を示す比率は、1994年は1.62であったがそれ以降一貫して上昇し、2002年調査では1.76まで上昇している。また、中位所得階層(第50分位)と低所得階層(第10分位)との所得比を示す比率も、1994年調査の1.65から2001年調査の1.75へと上昇している。さらに、所得層を移動する世帯が少なくなっており、所得層の固定化が進行している。所得層の最上位と最下位の両端の階層に位置した世帯は、その約半数が8年後も同一所得層に位置している。賃金格差の拡大とともに階層の固定化が進んでいるのである。

 今後日本でも生じると予測される社会構成員の二極分化と企業から個人へのリスク転嫁は、中流意識により支えられていた安定的な日本社会に大きな変化を引き起こすことだろう。新しいシステムへ移行する過程において、変化に速やかに適応できないグループを中心に不安が増大し、社会の不安定化が危惧される。しかし、日本経済がグローバル市場での競争力を維持しようとするならば、市場原理に基づいた雇用システムや、それによってもたらされるハイリスク社会への突入を避けることは難しい。日本社会全体に課された緊急の課題は、リスク社会の到来を前提としたセイフティ・ネットを確立し、人々の不安を可能なかぎり除去することである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「はじめに」、11の章、結論と展望を述べた「おわりに」、そして引用・参考文献リストから構成されている。筆者は、膨大な統計資料を用いて米国における労働市場・雇用システムの変容過程を分析し、情報化の進展と市場(株主と投資家)からの圧力による企業統治の変化が賃金格差の拡大と雇用保証(ジョブセキュリティ)の低下をもたらした点を客観的かつ論理的に析出している。さらに日本の現状を米国と比較し、日本の雇用システムが今後どのように変化する可能性があるのか検討を行っている。本論文は、統計資料を用いて丹念に実証的考察を展開し、定性的かつ定量的に有意義な結論を得ることに成功している。

 まず第1章-第3章では、主として1980年代から現在に至る米国の労働市場と雇用システムの変容過程を精査し、まとめている。米国では、1980年代以降、ブルーカラーのみならず、ホワイトカラーの雇用状況が急速に悪化してきた。さまざまな形態の非正規雇用が拡大し、正規雇用においても賃金格差の拡大と雇用保証の悪化が認められる。本論文は、このような変化をもたらした主要要因として、(1)グローバル化と規制緩和、(2)情報化、(3)企業統治の変化があるとし、本論文では情報化と企業統治の変化の雇用システムへの影響を主題的に考察している。第4章-第8章では、情報化が雇用に与えた影響について考察し、情報化には、雇用創出効果と雇用代替効果があるが、同時に脱スキル化とアップ・スキル化が認められ、米国では賃金格差の拡大を引き起こしていること、日本でもその動向が生じつつあることを明らかにしている。第9章-第11章では、機関投資家の影響力が増大し、企業経営がより株主の利益を重視した株式市場志向型に変化した。その結果、米国では雇用も賃金も株式市場に連動するものとなり、以前は企業が負っていたリスクを各労働者に転嫁させるシステムが定着し、賃金格差と雇用保証の低下が生じていること、日本でもその動向が始まっていることを明らかにしている。そして最後に、もし社会構成員の二極分化によるハイリスク社会への突入が不可避である場合、社会の安定化に貢献するセイフティ・ネット確立の必要性について提言している。

 本論文は、情報学、労働経済学、金融論、企業統治論に関する研究蓄積に学問的基盤をおき、その上で統計学、経営学、社会学など関連する研究領域の重要な先行研究を十二分に踏まえて、情報化と企業統治変化のもたらす雇用システムへの影響についてとりわけ米国の状況について丹念に考察し、米国との比較を通して日本の将来を展望しようとしている。情報化と企業統治の両面から労働市場を本格的に実証分析した研究は、少なくともわが国では本論文以外には存在しない。その意味で本論文は独自性を有している。本論文は、これまでの先行研究の成果を十二分に踏まえ、労働市場および雇用システムに関する研究を更に前進させ、厳密な論理的展開の上で有意義な結論を導き出しており、学術的水準の高い論文である。よって審査委員会は、本論文が博士(社会情報学)の学位に相当するものと判断する。

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