学位論文要旨



No 119636
著者(漢字) 柴崎,秀子
著者(英字)
著者(カナ) シバサキ,ヒデコ
標題(和) 語彙知識と背景知識が第二言語のテキスト理解に与える影響
標題(洋)
報告番号 119636
報告番号 甲19636
学位授与日 2004.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第515号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,安月子
 東京大学 教授 岡,秀夫
 広島大学 教授 玉岡,賀津雄
 東京大学 教授 鈴木,英夫
 東京大学 助教授 藤井,聖子
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は,第二言語習得研究の読解研究に位置するものであり,読解を意味命題表象の構築と定義した上で,語彙知識,背景知識,一般的語学力などの読み手要因と,第二言語のテキスト理解における表象との関係をモデル化しようと試みるものである.読みの研究が単一の文を対象としたものではなく,複数の文のまとまりからなるテキストを対象としたのは,1970年代からである.テキスト理解の研究にはテキスト要因と読み手要因を対象としたものがあるが,読み手要因の中で最初に研究対象となったのは読み手の知識であり,これまでに様々な研究が発表されてきた.先行研究における読解の測定方法は,再生テスト,再認テスト,クローズテスト,自由記述テスト,選択肢を用いた内容理解テストなどが採用されているが,測定方法が一様でないということは,各先行研究は「読解」と呼ぶものの異なる側面を評価したということになるのではないだろうか.また,読解の測定方法が一様でないということは,「読解」の定義を試みないまま,読解を評価したと言えるのではないだろうか.認知心理学の分野では,理解を「意味の表象」と捉える点で,多くの研究者間で合意がある.認知心理学者キンチュは,理解を意味命題表象ととらえ,意味をもつ最小単位をエレメントと呼んだ.複数のエレメントが結合し,最小命題を形成する.次に,複数の最小命題,あるいは,最小命題とエレメントが結合し,部分レベルでの命題を形成する.これはミクロ命題と呼ばれるもので,複数のミクロ命題が統合され,テキスト全体の命題,すなわちマクロ命題が構築される.このミクロ命題とマクロ命題のちがいはそのままテキストベースと状況モデルの違いを反映する.テキストベースとはテキストの記憶表象であり,状況モデルとはテキストによって読み手の心内に表象される状況のことである.本研究では,テキストベースを測定する方法として再生課題と明示課題を,状況モデルを測定する方法として推論課題と問題解決課題を,命題のマクロ化を測定する方法として要約課題を採用し,6つの実験から第二言語のテキスト理解に読み手の語彙知識と背景知識がどのように貢献するかを検証した.

 実験1では,語彙知識は再生課題,明示課題,推論課題に対する予測変数であり,背景知識は問題解決課題の予測変数であることが示された.また,語彙知識,再生課題,明示課題,推論課題の4変数間には双方向で因果関係があり,背景知識と問題解決課題,推論課題と問題解決課題の2変数間にも双方向で因果関係があることが示された.多くの先行研究が「語彙指導は背景知識を与える指導に比べて効果が低い」と主張しているが,実験1では語彙知識と背景知識が第二言語読解の異なる水準に貢献することも示された.このことから先行研究で行われた実験を再度確認し,検証する必要があると考えた.

 実験2では,先行研究の実験上の問題点を解決した上で,語彙リストの効果を検証した.その結果,語彙リストは再生IUの数を飛躍的に増やすことが確認され,表象されるミクロ命題の量が増えたことが示された.実験2では命題の量だけでなく,命題の質という点からも分析が行われた.その結果,語彙リストは,意味が推測できない未知語部分において十分な効果があることが示されたが,同時に,語彙リストの有無に関わらず,背景知識が豊富な内容は再生しやすく,背景知識が少ない内容は再生しにくいことが観察された.しかし,背景知識に誤った自然科学の認識がある場合,その誤った概念は語彙リストでは何ら変化を示さないことも観察された.また,未知語の推測が出来る読み手は,出来ない読み手よりも,背景知識を多く持つことが観察された.このことは,読み手が状況モデルからテキスト内の未知語の意味を推測することが可能であり,テキストベースの質を良くしていくことが可能であると言えよう.

 テキスト内の語彙を量的にどのぐらい指導すれば理解に効果があるか,という先行研究は多いが,今だ結論は出ていない.そこで,実験3では,語彙の量ではなく,語彙の質,すなわち,どのような内容の語彙を指導すれば理解に効果があるか,という語彙の選定を確認するための実験を行った.実験3の結果から,母語の語概念と第二言語の語概念が重なり,母語と概念にリンクがある場合,第二言語の母語訳を与えることは,再生課題において効果があることが示された.このことは,先行研究が与えた語彙が適切でなかったことを意味するものであり,適切な語彙を選択してその母語訳を与えることは,第二言語のテキスト理解に効果があることが証明された.しかし,命題のマクロ化には貢献しないことが示された.先行研究では,「語彙指導は効果が低い」と主張したものは多いが,なぜ効果が低いのかという点まで明らかにしたものはなかった.実験2と実験3では,語彙指導の効果を実証し,ミクロ命題の量は増えるが命題のマクロ化につながらないという,語彙指導の効果と限界を明らかに出来た.

 次に読み手の語彙知識と背景知識の高低の差で,テキスト理解にどのような差が生じるかを実証するために,実験4と実験5が行われた.先行研究は,二つのグループの一方に語彙指導,もう一つのグループに背景知識を与える指導を行い,両者の成績を比較したものが多い.しかし,本研究の実験1において,語彙知識と背景知識が,テキスト理解の異なる水準に貢献することが明らかにされた以上,語彙知識と背景知識を比較して効果を測定することは意味をなさないと考えた.質の異なる知識を比較するのではなく,語彙知識の高低の差,背景知識の高低の差で,テキスト理解にどのような差異が生じるかを示すことにした.

 実験4では,背景知識の量が異なり,語彙知識と一般的英語力の成績が均質である2群のテキスト理解の相違を観察するための実験が行われた.その結果,背景知識を豊富に持つ読み手と,背景知識が少ない持つ読み手を比べた場合,命題の量に差はないが,状況モデルの質において差があることが示された.テキストベースの質も状況モデルほどではないが,差は示された.要約課題においても有意な差が示されたことから,豊かな背景知識は命題のマクロ化を実現することが示唆された.

 実験5では,語彙知識の量が異なり,背景知識と一般的英語力の成績が均質である2群のテキスト理解の相違を観察するための実験が行われた.その結果,語彙知識を豊富に持つ読み手は,語彙知識が少ない持つ読み手より,質の良いテキストベースを構築することが示されたが,状況モデルの質には差が示されなかった.要約課題においては有意傾向が示されたのみであった.

 実験4と実験5の結果から,語彙知識と背景知識のテキスト理解への貢献が顕著に示されたと言えよう.すなわち,語彙知識はテキストベースを構築することに貢献し,背景知識は状況モデルを構築することに貢献する.そして,要約課題において,語彙知識の高低の差においては有意傾向が,背景知識の高低の差においては有意差が示されたことは,表象命題のマクロ化への貢献度が異なることを示唆するものと言えよう.

 実験6では,実験1から実験5までの結果を統合し,読み手要因として,背景知識,語彙知識,一般的英語力の3変数,理解の水準として,テキストベースと状況モデルの2変数で相互の関係をパス図で表現した.5変数間のパス図からは以下の知見が得られた.

 まず,テキストベースと状況モデルは双方向で強い因果関係を持つことから,この2表象はどちらか一方が不完全であっても,また,双方とも不完全であっても,互いに補い合って構築されていくことが明らかになった.そのため,語彙知識と背景知識には因果関係はないが,背景知識が豊富な場合,質の良い状況モデルが構築され,そこから語の意味や,語と語の関係など,テキストの未知の部分を推測し,理解の溝を埋めていくことが出来る.また,逆に状況モデルの質があまり良くなくても,語彙知識が豊富で,質の良いテキスト表象が構築されれば,そこからある程度,状況モデルを修正していくことも可能である.このことは,読み手のパフォーマンスとして観察すれば,知識や技能が相互補完しているように見えるが,心内では,2表象間が互いに補完しあって,より深い,より正しい理解へと進んでいくのである.

 次に,語彙知識が状況モデルとテキストベースの2表象の予測変数であることが示されたことから,第二言語のテキスト理解において語彙力の重要性が明らかになった.そして,語彙知識が一般的英語力とも強い因果関係があることから,読み手の習熟度も第二言語テキスト理解の大きな要因であることが明らかになった.読みの過程において,読み手はまず,テキスト内の語の意味を符号化し,統語知識で語と語の関係を理解し,句や文などの小さい単位での意味の符号化をし,テキスト全体の意味をとらえていく.このような読みの過程を自動化するほどその言語に習熟していれば,背景知識の活性化も起こりやすく,質の良い状況モデルが構築されていくであろう.その意味で,本研究では語彙知識と習熟度が第二言語のテキスト理解の主要な要因であることが明らかにされ,多くの先行研究の主張に異を唱える結果となった.

 以上の結果から,実験6で得られたパス図は,将来母語の読解力や第二言語の作業記憶容量も変数に加えることで,第二言語のテキスト理解と読み手の知識のモデル化を実現できるであろうと考える.

(1) テキストファイルデータ

 本研究は,第二言語習得研究の読解研究に位置するものであり,読解を意味命題表象の構築と定義した上で,語彙知識,背景知識,一般的語学力などの読み手要因と,第二言語のテキスト理解における表象との関係をモデル化しようと試みるものである.読みの研究が単一の文を対象としたものではなく,複数の文のまとまりからなるテキストを対象としたのは,1970年代からである.テキスト理解の研究にはテキスト要因と読み手要因を対象としたものがあるが,読み手要因の中で最初に研究対象となったのは読み手の知識であり,これまでに様々な研究が発表されてきた.先行研究における読解の測定方法は,再生テスト,再認テスト,クローズテスト,自由記述テスト,選択肢を用いた内容理解テストなどが採用されているが,測定方法が一様でないということは,各先行研究は「読解」と呼ぶものの異なる側面を評価したということになるのではないだろうか.また,読解の測定方法が一様でないということは,「読解」の定義を試みないまま,読解を評価したと言えるのではないだろうか.認知心理学の分野では,理解を「意味の表象」と捉える点で,多くの研究者間で合意がある.認知心理学者キンチュは,理解を意味命題表象ととらえ,意味をもつ最小単位をエレメントと呼んだ.複数のエレメントが結合し,最小命題を形成する.次に,複数の最小命題,あるいは,最小命題とエレメントが結合し,部分レベルでの命題を形成する.これはミクロ命題と呼ばれるもので,複数のミクロ命題が統合され,テキスト全体の命題,すなわちマクロ命題が構築される.このミクロ命題とマクロ命題のちがいはそのままテキストベースと状況モデルの違いを反映する.テキストベースとはテキストの記憶表象であり,状況モデルとはテキストによって読み手の心内に表象される状況のことである.本研究では,テキストベースを測定する方法として再生課題と明示課題を,状況モデルを測定する方法として推論課題と問題解決課題を,命題のマクロ化を測定する方法として要約課題を採用し,6つの実験から第二言語のテキスト理解に読み手の語彙知識と背景知識がどのように貢献するかを検証した.

 実験1では,語彙知識は再生課題,明示課題,推論課題に対する予測変数であり,背景知識は問題解決課題の予測変数であることが示された.また,語彙知識,再生課題,明示課題,推論課題の4変数間には双方向で因果関係があり,背景知識と問題解決課題,推論課題と問題解決課題の2変数間にも双方向で因果関係があることが示された.多くの先行研究が「語彙指導は背景知識を与える指導に比べて効果が低い」と主張しているが,実験1では語彙知識と背景知識が第二言語読解の異なる水準に貢献することも示された.このことから先行研究で行われた実験を再度確認し,検証する必要があると考えた.

 実験2では,先行研究の実験上の問題点を解決した上で,語彙リストの効果を検証した.その結果,語彙リストは再生IUの数を飛躍的に増やすことが確認され,表象されるミクロ命題の量が増えたことが示された.実験2では命題の量だけでなく,命題の質という点からも分析が行われた.その結果,語彙リストは,意味が推測できない未知語部分において十分な効果があることが示されたが,同時に,語彙リストの有無に関わらず,背景知識が豊富な内容は再生しやすく,背景知識が少ない内容は再生しにくいことが観察された.しかし,背景知識に誤った自然科学の認識がある場合,その誤った概念は語彙リストでは何ら変化を示さないことも観察された.また,未知語の推測が出来る読み手は,出来ない読み手よりも,背景知識を多く持つことが観察された.このことは,読み手が状況モデルからテキスト内の未知語の意味を推測することが可能であり,テキストベースの質を良くしていくことが可能であると言えよう.

 テキスト内の語彙を量的にどのぐらい指導すれば理解に効果があるか,という先行研究は多いが,今だ結論は出ていない.そこで,実験3では,語彙の量ではなく,語彙の質,すなわち,どのような内容の語彙を指導すれば理解に効果があるか,という語彙の選定を確認するための実験を行った.実験3の結果から,母語の語概念と第二言語の語概念が重なり,母語と概念にリンクがある場合,第二言語の母語訳を与えることは,再生課題において効果があることが示された.このことは,先行研究が与えた語彙が適切でなかったことを意味するものであり,適切な語彙を選択してその母語訳を与えることは,第二言語のテキスト理解に効果があることが証明された.しかし,命題のマクロ化には貢献しないことが示された.先行研究では,「語彙指導は効果が低い」と主張したものは多いが,なぜ効果が低いのかという点まで明らかにしたものはなかった.実験2と実験3では,語彙指導の効果を実証し,ミクロ命題の量は増えるが命題のマクロ化につながらないという,語彙指導の効果と限界を明らかに出来た.

 次に読み手の語彙知識と背景知識の高低の差で,テキスト理解にどのような差が生じるかを実証するために,実験4と実験5が行われた.先行研究は,二つのグループの一方に語彙指導,もう一つのグループに背景知識を与える指導を行い,両者の成績を比較したものが多い.しかし,本研究の実験1において,語彙知識と背景知識が,テキスト理解の異なる水準に貢献することが明らかにされた以上,語彙知識と背景知識を比較して効果を測定することは意味をなさないと考えた.質の異なる知識を比較するのではなく,語彙知識の高低の差,背景知識の高低の差で,テキスト理解にどのような差異が生じるかを示すことにした.

 実験4では,背景知識の量が異なり,語彙知識と一般的英語力の成績が均質である2群のテキスト理解の相違を観察するための実験が行われた.その結果,背景知識を豊富に持つ読み手と,背景知識が少ない持つ読み手を比べた場合,命題の量に差はないが,状況モデルの質において差があることが示された.テキストベースの質も状況モデルほどではないが,差は示された.要約課題においても有意な差が示されたことから,豊かな背景知識は命題のマクロ化を実現することが示唆された.

 実験5では,語彙知識の量が異なり,背景知識と一般的英語力の成績が均質である2群のテキスト理解の相違を観察するための実験が行われた.その結果,語彙知識を豊富に持つ読み手は,語彙知識が少ない持つ読み手より,質の良いテキストベースを構築することが示されたが,状況モデルの質には差が示されなかった.要約課題においては有意傾向が示されたのみであった.

 実験4と実験5の結果から,語彙知識と背景知識のテキスト理解への貢献が顕著に示されたと言えよう.すなわち,語彙知識はテキストベースを構築することに貢献し,背景知識は状況モデルを構築することに貢献する.そして,要約課題において,語彙知識の高低の差においては有意傾向が,背景知識の高低の差においては有意差が示されたことは,表象命題のマクロ化への貢献度が異なることを示唆するものと言えよう.

 実験6では,実験1から実験5までの結果を統合し,読み手要因として,背景知識,語彙知識,一般的英語力の3変数,理解の水準として,テキストベースと状況モデルの2変数で相互の関係をパス図で表現した.5変数間のパス図からは以下の知見が得られた.

 まず,テキストベースと状況モデルは双方向で強い因果関係を持つことから,この2表象はどちらか一方が不完全であっても,また,双方とも不完全であっても,互いに補い合って構築されていくことが明らかになった.そのため,語彙知識と背景知識には因果関係はないが,背景知識が豊富な場合,質の良い状況モデルが構築され,そこから語の意味や,語と語の関係など,テキストの未知の部分を推測し,理解の溝を埋めていくことが出来る.また,逆に状況モデルの質があまり良くなくても,語彙知識が豊富で,質の良いテキスト表象が構築されれば,そこからある程度,状況モデルを修正していくことも可能である.このことは,読み手のパフォーマンスとして観察すれば,知識や技能が相互補完しているように見えるが,心内では,2表象間が互いに補完しあって,より深い,より正しい理解へと進んでいくのである.

 次に,語彙知識が状況モデルとテキストベースの2表象の予測変数であることが示されたことから,第二言語のテキスト理解において語彙力の重要性が明らかになった.そして,語彙知識が一般的英語力とも強い因果関係があることから,読み手の習熟度も第二言語テキスト理解の大きな要因であることが明らかになった.読みの過程において,読み手はまず,テキスト内の語の意味を符号化し,統語知識で語と語の関係を理解し,句や文などの小さい単位での意味の符号化をし,テキスト全体の意味をとらえていく.このような読みの過程を自動化するほどその言語に習熟していれば,背景知識の活性化も起こりやすく,質の良い状況モデルが構築されていくであろう.その意味で,本研究では語彙知識と習熟度が第二言語のテキスト理解の主要な要因であることが明らかにされ,多くの先行研究の主張に異を唱える結果となった.

 以上の結果から,実験6で得られたパス図は,将来母語の読解力や第二言語の作業記憶容量も変数に加えることで,第二言語のテキスト理解と読み手の知識のモデル化を実現できるであろうと考える.

実験6により読み手要因と理解の水準における関係を示したパス図

注1: 図の数値は重回帰分析の標準偏回帰係数である.

注2: n=175. *p<.05. ***p<.001.

実験6により読み手要因と理解の水準における関係を示したパス図

注1: 図の数値は重回帰分析の標準偏回帰係数である.

注2: n=175. *p<.05. ***p<.001.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「語彙知識と背景知識が第二言語のテキスト理解に与える影響」は,語彙知識,背景知識,一般的語学力などの読み手要因と,第二言語のテキスト理解との関係のモデル化を試みたものである.

 論文は全8章から成り,第1章は,本研究の第二言語習得研究に占める位置と本研究の概要の記述に充てられ,第2章で,第二言語習得の先行研究を研究史的に概観し,先行研究の問題点を指摘した.

第3章では,本研究がよりどころとする理論として,認知心理学者Walter Kintschの理解に関する知見を取り上げる.Kintschの理論が1)言語学習という研究分野をテキスト学習という分野に拡大したこと,2)理解を意味命題表象で分析し,命題には階層構造があり,ミクロ命題とマクロ命題という異なる命題単位で説明したこと,さらに,3)理解の表象をテキストベースと状況モデルという2つの次元から捉えたことに着目する.本研究は,読解を意味命題表象の構築と定義し,テキストベースを測定する実験方法として再生課題と明示課題を,状況モデルを測定する実験方法として要約課題を採用した.合計6つの実験を通して,読み手の語彙知識と背景知識が第二言語のテキスト理解に与える影響を分析する.実験結果と考察が第4章から7章で詳述される.

 まず,第4章では,読み手の語彙知識と背景知識が読解のどの水準に影響があるかを明らかにする.日本人大学2年生42名と高校2年生73名の計115名を対象に実験1を行い,再生課題,明示課題,推論課題を課した.その結果,語彙テストの成績に基づく語彙知識は,再生課題,明示課題,推論課題の予測変数であり,背景知識テストの成績に基づく背景知識は問題解決課題の予測変数であることが示された.また,語彙知識,再生課題,明示課題,推論課題の4変数の間には双方向で因果関係があり,背景知識と問題解決課題,推論課題と問題解決課題の変数の間にも双方向で因果関係があることが示された.

 実験1の結果から,以下の4点に関するリサーチ・クエスチョン(以下RQ)を導く.テキスト理解における語彙指導の効果(RQ1),第二言語のテキスト理解を促進する効果的な語彙(RQ2),第二言語学習者の背景知識の高低と語彙知識の高低による読解の質の比較(RQ3),第二言語読解の分析のモデル化(RQ4),である.

 第5章では,RQ1に関連した実験2の結果,(1)未知語を多く含む命題部分の理解には,語彙リストは十分な効果がある,(2)語彙リストの有無に関わらず,背景知識が豊富な内容は再生しやすく,背景知識が少ない内容は再生しにくい,(3)未知語の推測ができる読み手は,できない読み手よりも背景知識を多く持つ,(4)語彙リストは,文の長さ,項の数などのテキストの読みにくさを軽減する,(5)読み手の背景知識に誤概念がある場合,語彙リストがあっても誤概念によるバグは解消されない,ことが明らかになった.

 ついで,RQ2に関わる実験3では,母語の語の概念と第二言語の語の概念が重なり,母語と概念にリンクがある場合に,第二言語の母語訳を与えることは第二言語のテキスト理解に効果があるという結果が得られた.また,母語訳は命題の数を増やすが,テキストベースや状況モデルの構築にいたる効果が得られないことが分かり,母語訳を与えるという語彙指導の限界が示唆された.

 第6章では,RQ3に関わる実験4と実験5が報告される.実験4は,読み手の背景知識の高知識群と低知識群の理解を比較する.再生課題には有意傾向が見られた.特に問題解決課題に顕著な差が見られ,要約課題でも有意差が示された.実験5は,語彙知識の高知識群と低知識群の理解を比較する.再生課題と明示課題で有意差が示されたが,推論課題と問題解決課題では有意差が示されず,要約課題では,有意傾向が示されたに過ぎなかった.実験4と実験5から,語彙知識は命題のマクロ化への貢献度が低く,背景知識は命題のマクロ化に貢献することが示唆された.

 第7章では,RQ4に関して実験1から実験5の結果を統合し,実験6を行った.読み手要因として,語彙知識,背景知識,一般的英語力の3変数,理解の水準として,テキストベースと状況モデルの2変数,計5変数の間で計5回の重回帰分析を行い,その相互関係をパス図として示した.その結果,次の結果が得られた.(1)テキストベースと状況モデルは双方向で強い因果関係を持つ,(2)語彙知識,一般的語学力,テキストベースは双方向で強い因果関係を持つ,(3)語彙知識は状況モデルの予測変数である,(4)背景知識は状況モデルの予測変数である,(5)語彙知識と背景知識の間には因果関係はない.

 特に結果(5)は,長年読解研究で支持されてきた,語彙知識と背景知識は相互補完するという主張に矛盾する結果を呈した.この点に関して,本研究は,読み手のパフォーマンスの外側からの観察ではこの2つの知識が相互補完するように見えるが,読解プロセス,つまり読み手の心内では,語彙知識と背景知識が相互補完するのではなく,テキストベースと状況モデルが双方向で因果関係を持つことが読解を成立させるのであろうと推論する.

 第8章では,本研究の概要をまとめ,今後の課題を述べる.今後の課題として,第二言語のテキスト理解と読み手知識の関係のモデル化の実現には,先述のパス図に読み手の母語の読解力や第二言語の作業記憶容量を変数に加えることが必要であるとする.ただし,そのためには,読み手の母語の読解力の測定方法の選定という課題があるとする.

 以上が本論文の概要である.第二言語のテキスト理解に焦点をあてた研究はまだ少なく,その意味で,本研究の当該研究領域への貢献と学問的意義は大きい.実験6のパス図から,未知語が多いテキスト理解において背景知識が豊富で良質の状況モデルが構築できれば,そこからテキストベースを修正することが可能であり,一方、背景知識が乏しく状況モデルが良質でない場合も語彙知識から良質のテキストベースが構築できれば,そこから状況モデルを修正することが可能であろうということが示唆され,第二言語のテキスト理解における語彙知識と背景知識の位置づけを明らかにすることに貢献した点が最も評価に値する.また,第二言語の習熟度が読みの過程が自動化するレベルまで達していれば背景知識の活性化が起こりやすく良質の状況モデルが構築されるであろうとし,読み手の習熟度が第二言語のテキスト理解に果たす役割についても実証的に論じている。語彙知識,背景知識と言語の習熟度が第二言語のテキスト理解の主要な要因であることを,周到に計画された一連の実験を通して段階を追って実証的に明らかにした手法は,本審査委員会委員より高く評価された.とりわけ,先述のパス図は,第二言語のテキスト理解と読み手の知識との関係のモデル化の実現可能性を示唆するものであり,今後の著者の研究成果が大いに期待される.

 とはいえ改善の余地が全くないわけではない.審査では,いくつかの指摘がなされた.まず,第二言語読解の語彙知識に関連して,既知語率の閾値に関連させた議論がなされてもよかったこと,状況モデルは母語を介してのみ構築されると言い切ることは可能かということ,また,語彙知識と背景知識の間に,本研究が主張するほど明確な線引きが可能であるかなどである.今後の課題である第二言語読解のモデル化に向けて,テキスト要因の変数の扱いについての指摘があったことも記しておく.しかし,これらの指摘は,本研究の根幹を左右するようなものではなく,また多くは著者の将来の研鑽に期すべきことがらであり,本論文の大きな学術的貢献をいささかも損なうものではない.

 以上の理由により,本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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