学位論文要旨



No 119637
著者(漢字) 北原,恵
著者(英字)
著者(カナ) キタハラ,メグミ
標題(和) 「天皇ご一家」の表象 : 歴史的変遷とジェンダーの政治学
標題(洋)
報告番号 119637
報告番号 甲19637
学位授与日 2004.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第516号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩佐,鉄男
 東京大学 教授 吉見,俊哉
 東京大学 教授 刈間,文俊
 東京大学 助教授 田中,純
 東京大学 助教授 中島,隆博
内容要旨 要旨を表示する

 私たちはなぜ元旦になると「天皇ご一家」写真を見せられるのか、「ご一家」写真と合わせて、正月の一般参賀が象徴する天皇家の「プライベート/パブリック」なイメージは、どのように構築され、どんな機能を果たしているのか。これらの疑問から始まった本論文では、正月新聞の「天皇ご一家」像の歴史的変遷をたどり、それが「家庭」の実体化が進む1920年代に原型を表わしやがて戦争化に向かうにつれて定着したことを明らかにした。

 まず第1章では前史として、明治期の錦絵や石版画、新聞附録における皇室の視覚化の過程を検証した。明治初年から天皇の巡幸などをビジュアル化し人々にその存在を広めてきた錦絵は、明治10年代に入ると次第に天皇の容貌を具体的に表現するようになり、一方、明治10年代半ばから普及し始めた新しいメディアの石版画は、20年代前半に最も隆盛を極め、天皇とその家族も主要なテーマのひとつとなった。石版画に描かれた天皇・皇后と家族像は、錦絵と異なりその容貌の類似性を特徴とする記念碑的肖像である。明治に入り近代新聞が次々と創刊されるなかで、附録は顧客獲得のための重要な手段として発達し、明治20年代になると天皇やその家族たちの肖像が、附録として頻繁に登場した。新聞附録はその後も続くが、正月に発表される皇室の肖像は、次第に正月紙面のなかに主要な場所を移し変えていくことになる。本論文で、正月新聞を分析のメディアのひとつとして選択した理由は、正月新聞が、各年の「日本国家」としての凝縮された表象を見るのにふさわしいメディア空間だと考えるからである。植民地の正月新聞についても調査したが、その結果は補論にとどめた。

 第2章では、大正末から元旦紙面に定期的に表出するようになる皇室像の変遷と特徴を分析した。当初、近代化・西洋化・科学の推進者として単独で登場した皇太子は、昭和に入ると皇后とともに御真影として姿を表わすようになった。それは、第一次世界大戦後の世界的な君主制の崩壊と国内での大正天皇の病気という二重の危機のなかでの天皇制再編であった。このような危機を察知した支配層が着目したのが、新中間層の出現により実体化されつつあった「家庭」である。日中戦争が本格化する1937年には子どもたちを含めて「家族」全員で登場するが、その後、激化し泥沼化する戦局に合わせるかのように、家族から離れた御前会議の天皇が出てくることが検証された。当時、皇室を表わす言葉として正月の新聞には、中国の故事に起源を持つとされた「竹の園生」という用語が用いられていた。筍のように次から次へと生を再生産する「竹の園生」は、皇室の長寿や連続性を祝うと同時に、兵士が次々と死に行く戦争の最中に「国民」を死へと駆り立て、大日本帝国という空間の最高の特権性のメタファーとして登場した。正月新聞に現れる天皇の家族の写真は、近代天皇制の創出、近代家族の誕生、家族国家による国民統合システムの推進、カメラの大衆化、写真を撮る習慣化と受容者の意識変化、家族崇拝の儀式・記念化、正月の国家的祝日化等々のなかでこそ創出され得た表象であり、その表象が天皇制を遂行的に再構築したのである。

 第3章では、戦前の天皇・皇后の役割を象徴化する図像「(1)祈る、(2)統率する、(3)癒す」を考える。扱う素材は、1943年の第二回大東亜戦争美術展に特別奉掲された藤田嗣治の《天皇陛下伊勢の神宮に御親拝》、宮本三郎の《大本営御親臨の大元帥陛下》、小磯良平の《皇后陛下陸軍病院行啓》である。これらの三枚の油彩画は、当時、第二回大東亜戦争美術展において他の戦争画を率いる役割を果たし、ヒエラルキーの最高位に位置していたにもかかわらず、戦後、画家の業績一覧からも「戦争画」の美術史研究からも消し去られ忘却されていく。戦争に関与する天皇・皇后像を排除して戦後再構築された「戦争画」というジャンルと言説化の政治性にも疑問を提起した。

 第4章・5章では、1945年の敗戦から独立を迎える1953年までの時期に、天皇や一家の表象の再編成を検証した。まず第4章では、1945年9月27日に撮られた昭和天皇とマッカーサーの会見写真に焦点をあて、撮影・流通の経緯だけでなく図像学的に分析し、敗戦の事実と屈辱を日本国民に刻印したと言われるこの会見写真の再考を試みた。「屈辱的な写真」であるにもかかわらず、人々はなぜ忘れようとしないのか、「屈辱」を成立させる根拠と写真の言説化の歴史を、ジェンダーやナショナリズムを軸に考察した。会見写真の天皇は「女性化」されることによって「自己犠牲の母性」像として受容され、戦争責任・戦後責任を忘却するための装置としても機能したのである。

 第5章では、敗戦後の天皇制の危機にあたって、再編成された天皇と家族の身体表象、新たに創出された「一般参賀」と「ご一家」写真という表象装置について分析する。敗戦は、天皇のジェンダーに危機的な境界喪失と動揺をもたらす。戦前の大元帥イメージを継承した新たな天皇服の制定や、1946年元旦に背広を着て女性家族のみと写真に収まった「人間天皇」のイメージは、天皇の存続と地位をめぐる政治を背景に、まさにジェンダーを軸として展開された政治学として読み解くことができる。このジェンダーの錯綜した「人間天皇」の写真は、日米合作によって撮影され広められた。撮影したのは、戦争中、戦意高揚のための国家的プロパガンダを最先端で担っていた写真家や技術者たちだった。

 天皇・皇后・皇太子の団欒する写真は、占領期を終えた独立前後の元旦に登場し、「ご一家」という言葉を伴って初めて登場する。一方、巡幸で多大な力を発揮した天皇の現前性は、1948年の「国民参賀」、そして1953年からは、「一般参賀」という呼名に替わって保証されるようになった。日本の独立と国際社会への復帰の祝福と決意は、「天皇ご一家」像の(再)構築と、皇室の「公私」の表象によって完成されたのである。創出された皇室の「公私」の表象と境界区分を機能させることによって、宮中祭祀は一家族の伝統行事の「私事」として生き残ることができた。

 第6章では、まず2001年の雅子妃の妊娠・出産、育児について、大量に流されたテレビや週刊誌、新聞のビジュアルイメージを分析、共同して育児にあたる夫婦像や「育児する皇太子」像が、男女共同参画時代を背景として新しく提示されたこと、労働の構造的変化のなかで決定されていくことを明らかにした。さらに、皇后や皇太子妃たちの出産や出産後の授乳が、どのように表象され伝えられてきたのかを明治初年までさかのぼって検証した結果、戦前、良子皇后の授乳が、「母性愛」や「慈悲」と直接的に結びつけられ象徴化され、皇族女性の出産報道が大正末から急増すること、皇后の母性讃歌と皇室の子どもたちが正月新聞に登場する時期と一致することが検証された。

 戦後、皇太子妃の授乳は、あらたな役割を担って象徴化されることとなった。美智子妃の母乳育児と乳人廃止は、「旧弊を廃し民主的に改革された天皇家」のイメージと、育児責任を一身に担う母親像をアピールするために、その後もくり返し言説化された。

 最後に、雅子妃の妊娠・流産・出産報道のなかから新たに焦点化した皇室の「プライバシー」概念を検証した。皇室の「プライバシー」は、所与の概念として存在してきたわけではない。「プライバシーだから公表しない」のではなく、公表しないことによって「プライバシー」は築かれてきた。その結果、妊娠・出産のプライバシー化は、相対的に皇室の「私事」の領域を狭めて公的行為との境界線の引き直しを加速させているように思われる。戦後の天皇制は、「秘匿/公開」と「プライベート/パブリック」のそれぞれのふたつを基軸に表象されてきた。この二本の軸は、天皇一族の表象の細部に適用される。秘匿されつつ晒されなくてはならない皇族の身体――。身体内部の秘匿性が崩れたとき起こるのが、「不敬」、あるいは「王殺し」である。昭和天皇が死に瀕したとき、体温・脈拍数など天皇の身体内部を曝す連日の報道は、王殺しの通過儀礼として必要とされた。下血報道に対しては、それゆえに「プライバシーの侵害」だとも「不敬」だとも非難されることがなかったのである。

 <女>の身体は、戦後の天皇制の再編成において常に要となってきた。皇室の表象において、最も多くメディアに姿を露出させるのは、皇族女性である。それは、女性が眺められる存在であり、消費される対象であるというジェンダーと視線の政治学に基づいているからでもあるが、それだけではない。皇族をめぐる現象は公私の境界線を横断することを特徴とし、そのとき、社会では女性領域とされる妊娠・出産などの情報が公の場で光を当てられることに意味がある。とりわけ、戦後、美智子妃に代表されるように「民間」から皇室入りした皇太子妃たちは、その境界横断性の特徴を最も体現する身体である。「民間/皇室」「公/私」の境界を彼女たちは大胆に侵犯する。初めて「民間」から「皇室」へ入ったといわれる美智子皇后は、この越境性を力として「皇室改革」イメージの推進者となった。女性皇族たちは、キモノと洋装をたくみに使い分けることによって、日本の「民族性」や「伝統文化」の象徴となることを期待され、外交では事実上のファーストレディとしての役割を担っている。ある意味において、<女>の越境性と<女>の身体が、天皇制の再編成を支えてきたといえる。ジェンダーの視点からこれまでの天皇や天皇一家の表象を読み解く本研究は、天皇制研究や家族研究、表象研究の理論的・方法論的発展をさらに深めるものである。

審査要旨 要旨を表示する

 北原恵氏の学位請求論文「『天皇ご一家』の表象――歴史的変遷とジェンダーの政治学」は、明治期から現代にいたるまでの大衆メディア、とりわけ正月の新聞紙面に掲載される天皇および皇族の図像がどのような移り変わりを見せ、またそれがどのような社会的意味をもつかを、厖大な文献・図像資料を精査しながら、表象文化論的観点から考察した労作である。元旦の新聞紙面を飾る「天皇ご一家」の肖像写真は、われわれにとってなじみ深いものであるだけにいっそう、そのビジュアル・イメージをつくりあげている、あるいはその背後ではたらいている、文化的・社会的・政治的ないくつもの力とその相互作用を見きわめることは困難である。北原氏は、天皇制研究、美術史、家族社会学、ジェンダー論、メディア論など、きわめて広範囲にわたる複数の視点からこの問題に取り組んでおり、イメージをたんに閉ざされたテクストとして読解するのではなく、イメージをそれが生み出された時代と空間のなかに置きなおすことによって、その形成過程と歴史的変遷、機能と意味を解明しようとしている。

 論文は、序論で論文の主題と構成、方法論が述べられたあと、明治・大正から戦時期、占領期、そして現代と時代を追いながら6つの章がおかれ、最後に結論がまとめられている。以下、論文の章立てに添う形で、その概要を見ておこう。

 第1章では、「天皇一家像」成立の前史として、明治から大正・昭和前半にかけての天皇・皇室の視覚化の様態が分析される。まず最初に新聞以前の大衆メディアである錦絵と石版画がとりあげられ、行事記録としての色彩の強い錦絵のなかで生みだされた皇室のビジュアル・イメージが、より写実性を増した石版画において「記念碑的肖像」に変容し、それがさらに「新聞附録」の皇室肖像へと引き継がれていくさまが、具体的な図像をもとに説得力をもって述べられる。

 第2章では、大正後半からまずは皇太子・摂政として、後に「御真影」として元旦紙面に定期的に姿を現す昭和天皇の肖像とその家族の図像が分析される。ここでは、第1次大戦後の世界的な君主制の没落と、大正天皇の病気という国内外の二重の危機に対処すべく、近代化・西洋化・科学の推進者のシンボルとして「可視化」された皇室(皇太子)像が、さらに子どもたちを交えた「家庭」というイメージをまとうことによって、天皇制再編のなかで重要な役割を果たすようになっていくプロセスが、メディア論、絵画・写真史、家族論、ジェンダー論の視点からダイナミックに解明される。即位後しばらくは天皇が姿を消して、子どもたち中心だった皇室像が、時局が戦争へと向うなかで「竹の園生」という家族像として再編成されていく過程を扱った第1節、その意義を多面的に分析する第2節という構成もバランスが取れており、多方面にわたる先行研究も適切に利用されている。なお、この章には補論として「植民地における正月新聞の皇室表象」が付されており、戦前に朝鮮、台湾、満州で発行されていた日刊新聞における皇室像が分析されている。調査範囲や内容分析に関して不十分な点も見受けられるが、今後の課題としてこの補論をいっそう充実させることによって、本論の議論もさらに広がりと深みをもつものになることが期待される。

 第3章で取り上げられるのは、1943-44年に開かれた第二回大東亜戦争美術展に出品され、その後姿を消した3枚の絵画を中心とした「戦争画」の問題である。戦時中の天皇・皇后の図像を、「祈る・統率する・癒す」という3機能に分節し、戦後のそれらの図像の扱いを問い直すという問題提起は(失われた絵画の行方も含めて)ひじょうに興味深いものだが、失われてしまったがゆえの資料不足ということもあり、議論の展開としてはいささか不満が残る。今後のさらなる調査・検討を求めたい。

 第4章でも天皇/マッカーサー会見写真(1945年)という具体的な図像が取り上げられる。撮影された3枚の写真とそれをめぐる言説の詳細な分析によって、この写真の「屈辱」の実相が明らかにされ、ジェンダー論的な新たな視点が提示される。現代美術におけるパロディ作品まで視野に入れつつ表象文化論的に展開される議論は示唆に富んでおり、天皇の戦争責任まで含めた今後の議論の展開におおいに寄与するものと評価される。

 第5章で扱われるのは、この論文の主題ともいうべき、戦後つくりだされた「天皇ご一家」像である。占領体制のもとで危機に瀕した天皇制が「人間天皇」「象徴天皇」として再編成されていく過程を、天皇およびその家族の身体表象の推移を通して考察したこの章の前半では、北原氏のいう「ジェンダーの政治学」が全面的に展開されており、史実を的確に追いながら、そこにはたらく錯綜した力関係が明確に解き明かされる。後半では、この「元旦写真」(プライベートなご一家)と対をなすものとして創出された「一般参賀」(パブリックな皇室)が検討され、次章の中心的課題となる皇室の「公私」問題へとつながっていく。章を通じて、論の展開に一部強引な感を与える個所があり、論点の掘り下げが不十分な点も指摘されたが、「天皇ご一家」像が「表象装置」として成立していくプロセスの解明とその機能の分析は十分説得力をもち、高く評価することができる。

 第6章では、最近の皇太子妃の出産をめぐる報道や言説を出発点にして、皇族の妊娠・出産、そして病と死の表象の問題が、前章を引き継いだ「プライベート/パブリック」という項目に加えて、「秘匿/公開」という軸を立てて考察される。テレビや週刊誌まで含めた厖大な資料をもとに、歴代の皇后・皇太子妃の「母性」がいかなるイメージと結びつき、それぞれの時代の皇室像の形成にいかなる役割を果たしてきたかを分析していく手際はここでもみごとである。ただし、皇室の「プライバシー」問題を契機に導入される「秘匿/公開」の基軸は、昭和天皇の「下血」報道をめぐるきわめて興味深い論点を提起しながらも、十分に機能しているとは言いがたく、今後のさらなる考察の深化を待ちたい。

 最後に「結論」と題する章がおかれ、皇室の「公私」問題、天皇家の家族イメージが再考された後、全体がジェンダー論的な視点から総括されている。

 以上見てきたように、北原恵氏の論文「『天皇ご一家』の表象――歴史的変遷とジェンダーの政治学」は、近代天皇制の成立およびその再編成という歴史的過程のなかで、天皇および皇室がビジュアル・イメージとしていかに表象され、いかに機能してきたかを綿密に考証したものである。本論とほぼ同等のヴォリュームをもつ別冊の資料集に収められた多数の画像は、それだけでも多大な資料的価値をもち、多くの研究者を触発するものである。これらの資料を丹念に収集した熱意・努力と、それを誠実に読解した真摯な研究態度は、まず第一に高く評価されねばならない。論文の各章がやや独立性が高く、序論から結論にいたる全体を貫く筋道の設定にいくぶん弱さがあることが、ほとんどの審査委員から指摘されたが、テーマ自体の広がりと複雑さからすればやむをえない面もあり、むしろ個々のトピックに関して慎重かつ複合的な考察を重ねた結果と判断される。この研究を通してあらたに提起された論点も少なからずあり、北原氏の研究のさらなる深化・発展が期待されるのみならず、さまざまな分野の専門家にとって今後の研究に資するところは大きい。したがって、本審査委員会は本論文の学術的意義を高く評価し、全員一致で博士(学術)の学位を授与するのにふさわしいものと認定する。

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