学位論文要旨



No 119639
著者(漢字) 金,楨薫
著者(英字)
著者(カナ) キム,ジョンクン
標題(和) 横光文学における「嘘」のエクリチュール : 第四人称成立への表現史的道程及びその意義
標題(洋)
報告番号 119639
報告番号 甲19639
学位授与日 2004.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第518号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 門脇,俊介
 東京大学 教授 エリス,俊子
 早稲田大学 教授 十重田,裕一
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、「嘘」を「書く」こと及び「書く」ことにおける「嘘」の問題をめぐって展開する横光文学の特徴的様相を、彼が「純粋小説論」の中で提示した「第四人称」という方法論の成立への表現史的道程及びその意義と関連づけて考察することを、その目的とする。 本論文において「嘘」のエクリチュールecritureとは、「嘘のように書く行為」及び「書かれた嘘の世界」を同時に言い表すための用語として使用している。

 日本近代文学表現史の流れの中で、横光利一(1898-1947年)の文学的出発及びその特徴のもつ意義は、それまで続いてきた「話すやうに書く」表現の方法に対し、「書くやうに書く」表現の方法を主張したところに求めることができる。本論文の観点から言うならば、「話すやうに書く」ことは「真実」のように書くことを意味し、「書くやうに書く」ことは「嘘」のやうに書くことを意味する。

 本論文で取り上げる「嘘」を「書く」ことをめぐる問題は、一般に罪なるものとして考えられている宗教的・倫理的意味のそれと峻別して考える必要がある。宗教的・倫理的な場で問題とされる「嘘」は、基本的に「話すやうに書く」方法の立場とつながっている。なぜなら、宗教的・倫理的意味での「嘘」と、話し言葉で問題とされる「嘘」は、既に存在した固定の「真実」のみを追う立場である点で共通するからである。つまり、その世界では常に「真実」はただ一つであり、そこから逃れたものはすべて「嘘」として退けられてしまう。それに対し、文学的方法としての「嘘」、つまり、書き言葉で問題とされる「嘘」は、文学テクストの成立以前に既に存在した固定の「真実」のみを追うのではなく、文学テクストの成立によって存在し得るあらゆる「真実」の世界を創り出していこうとする立場である。その意味で、「真実」のように書く方法よりは、「嘘」のように書く方法の方が、文学においては、新しい意味生成の可能性により開かれた立場だと言える。

 それと深く関連して、本論文で取り上げる「嘘」は、文学的「虚構」の方法とも区別している。「虚構」として特徴づけられたリアリズムの世界は、いくら現実との距離を縮めたとしても、結局、現実それ自体を言うのではなく、むしろ現実そのものとは何らかの形で異なる何ものかを指す。それに対し、「嘘」というのは、常に現実の中から排斥されてしまう運命をもちながらも、実際は現実の一部をなすと同時に、また現実それ自体をそのまま指す場合がある。つまり、文学的方法の一環として考えられる「嘘」は、真実のように書くという意味での虚構の方法と厳密に区別されながら、しかし他方では、それらの要素(真実・虚構)と密接にかかわり合うという特性を持つ。文学的真実及び虚構の方法は、その存在価値を嘘という概念との関係を絶つことによって確保するのに対し、嘘の方法は、むしろその存在価値をそれら双方の概念と密接に関わらせることによって確保するのである。結果的に、横光の文学的方法として主張される「嘘」は、そのリアリティ(実在)的特性をもって「虚構」と区別され、また、そのフィクション(架空)的特性をもって「真実」と区別される。が、また同時に、フィクション的特性をもって「虚構」とかかわり、リアリティ的特性をもって「真実」とつながるという事実をも見逃してはならない。本論文において方法的「嘘」の問題に焦点を合わせて考えるとは、単に真実や虚構と比肩される嘘の価値を見つけることを言うのではなく、むしろ最終的に、真実・虚構・嘘という三つのファクターをお互いに相互依存的循環の関係として捉え直すことを意味する。実際に横光文学を特徴付けている方法的「嘘」の特徴及び意義は、文学的真実性及び文学的虚構性という概念と関連づけて考えることによってその意味がよりはっきりとしてくると考えられるからである。

 日本の近代文学は、その出発点である言文一致運動の時代から自然主義文学運動の時代に至るまで、真理及び真実の重視という特徴をほぼ確実な路線として固めており、当然のことながら、その流れの中で「嘘」という概念は公式的、暗黙的に排除されてきた。そしてその流れは、横光の主導する新感覚派文学の成立以前まで確実に続いてきた。特にそのような真理及び真実の標榜は、横光の新感覚派時代とほぼ同時に出発したプロレタリア文学の主眼とするところでもあり、当然のことながら、横光は自然主義文学伝統とマルクス文学陣営という二つの敵と同時に立ち向かわざるを得なかった。横光の活躍した当時、真理や真実たるもの、或いは、真らしい表現の価値が重んぜられる文壇的状況のなか、特に「真実」志向文学の代表とも言える自然主義文学伝統やマルクス主義の文学運動の最中に、「嘘」という方法を前面に押し出して自らの文学観を展開していくことは、それ自体無謀で唐突な試みだったのかもしれない。私見によれば、日本近代文学史の中で、理論と実践のレベルともに方法的「嘘」の問題にこだわり続けた作家はおそらく横光利一が最初であり、当時における文学的革命たる新文学運動の動きは、「嘘」を書くことの問題をめぐって展開する横光の文学観と必然的に連動している。

 このように、書き言葉としての「嘘」、即ち「嘘」のエクリチュールという観点からみる横光の文学的立場は、例えば、西洋のロゴス中心主義的伝統に厳しい批判を加えたデリダの学問的立場と関連づけて考えることができる。なぜなら、横光文学の基本的な立場が既成の真理・真実観に対するアンチテーゼとしての史的意義をもっていたように、デリダの立場も、基本的に「真理一般の根源」とされるロゴス中心主義への批判にあったからである。(デリダのこのような考え方については、特に、デリダ/足立和浩訳『根源の彼方に グラマトロジーについて』、現代思潮社、1976年、16頁を参照)。デリダの考え方を借りて言うならば、横光文学(特に新感覚派文学時代)のもつ史的意義は、日本近代文学史の中に受け継がれてきた真理及び真実重視の文学的伝統に対する反抗、即ち音声言語(パロール)に対する文字言語(エクリチュール)(「話すやうに書く」ことに対する「書くやうに書く」こと)の重要性を唱えたところに求めることができる。つまり、両者は書き言葉(エクリチュール)の復権を唱えたところにその意義がある。既にあらゆる先端の文学理論に慣れてしまっている現代の読者たちに、そのような反時代的な考え方はそう目新しいものに受け入れられないかもしれないが、しかし横光の文学的立場自体、現代文学理論の一時期を風靡したデリダの見解よりずっと先立つものである点で、その史的意義を認めることができる。

 本論文の観点に基づいて話し言葉と書き言葉の違いを改めて説明するならば、われわれの日常生活の中で常に悪なる行為または罪なる行為とされる「嘘を話すこと」(パロールparoleとしての「嘘」)は、常に「真実」の世界に反する(・・・)行為と考えられるのに対し、文学の世界において「嘘を書くこと」(エクリチュールecritureとしての「嘘」)は、むしろ「真実」の世界に向かう(・・・)ための行為と考えられなければならない。ドイツの言語学者ハラルト・ヴァインリヒが『嘘の言語学』(井口省吾訳注、大修館書店、1973年)で言うように、そもそも「文学によって欺かれる人は誰もいない」のであり、たとえ文学の中に明らかに「嘘」の意図があったとしても、それはあくまでも文学的リアリティの効果及び機能として理解されるからである。

 横光の文学世界を全体的に検討してみると、理論と実践の両面で「嘘」を「書く」こと及び「書く」ことにおける「嘘」の問題に徹底して取り組み続けた彼の文学的軌跡を読み取ることができる。しかし、このように展開される横光の文学観及び創作世界の特徴は、横光の活躍当時は勿論、現在に至る横光研究史の中で、また、日本近代文学研究史の中でほとんど注目されてこなかった。本論文の問題意識はここに端を発している。つまり、横光の文学世界を特徴付けている方法的「嘘」の問題は一体どのように展開されており、また、どのような意味をもつのか、それは「純粋小説論」における四人称の方法論とどのようにつながっており、また、それらの特徴は日本近代文学表現史の中でどのような意義をもつのか、などについて検討するのである。

 そもそも文学の世界で言う「嘘」と「真」の関係は、言文一致運動や自然主義文学の信奉者たちが主張するような二項対立の図式だけでは説明できない。その両者の関係は、少なくとも相互依存及び補完の関係として理解しなければならない。その観点から、小説の中に描かれる主体としての「私(彼)」と、あらゆる自意識という形で登場する「自分」たる要素との関係でより具体的に説明するならば、横光が「純粋小説論」の中で四人称を定義する上で説明した「自分を見る自分」とは、即ち「真」の「私(彼)」を見る「嘘」の「私(彼)」という意味であり、また、「嘘」の「私(彼)」を見る「真」の「私(彼)」という意味である。小説において、「嘘」と「真」、或いは、「私」と「彼」の間の交錯的相互関係の中で創り出される「四人称」的存在は、自己という実体の中に存在しながらその自己とは全く別の主体として存在する見えざる他者の視点として現前する。小説の中で実体的自己の視点として存在する一人称や、実体的他者の視点として存在する三人称に対し、四人称は、実体的自己でも実体的他者でもなく、常に自己と他者の間を浮遊する第三項的他者の視点として現われてくるのである。当然のことながら、そのような四人称の視点が、小説における様々な架空的まなざしの新しい生成可能性という問題を同時に含むことになるのは言うまでもない。その意味から、小説における四人称の視点は、実体的で固定的なものとしてではなく、常に架空的で流動的なものとして、また、ある点から点へとつながる単線的な視点の現われとしてではなく、複数の点と点の間に介在し得るあらゆる交錯的視点の生成可能性として理解すべきである。四人称の視点は、「真」と「嘘」の関係がそうであるように、絶対的なものとしてではなく常に相対的な関係性の中で創り出されていくのである。

 しかし、より視野を広げて考えれば、四人称は、必ずしも小説というテクスト空間の中に閉じ込められた存在ではない。なぜなら、「私」であれ「彼」であれ、小説の中に書かれるあらゆる人称及び視点たる存在は、結局、読者の「読む」行為及びその視点を通して始めて現前することになるからである。その観点からより厳密に言うならば、四人称は、小説というテクスト的現実の中に生きている「私」及び「彼」の視点と、生まの現実の中に生きている読者(私)の視点との間に浮かび上がってくるあらゆる「嘘」(的視点)の生成可能性として存在する、とも説明できる。小説の中に書かれる「私」及び「彼」は、最初から一人称や三人称として絶対的に固定された人称を与えられているのではなく、小説の中に仕掛けられたあらゆる「嘘」のからくりの中で、読者の「読む」行為を通して、常に新しい人称の生成可能性として存在するのである。われわれが「嘘」たる文学の中から常に何らかの「真実」たる要素を読み取るように、小説のエクリチュールの中に存在する「四人称」は、常に「嘘」の人称及び視点の可能性として存在しながら、同時に「真」の人称及び視点としてわれわれ読者の前に立ち現れてくるのである。

 上記の問題意識を議論するために、まず本論文の第一章では、横光の文学的言説をたどりながら、方法的「嘘」の問題をめぐって展開する横光の文学意識が一体どのような状況の中で成立し、それはどのように展開していくのかについて検討する。また、そのように展開する横光文学の特徴及びその意義を、反自然主義文学派の代表作家と言われている漱石の文学・形式論、及び反マルクス主義の代表的論客であるシクロフスキーの形式・異化論、そして横光文学の成立に多大な影響を与えたヴァレリーの文学・芸術論に見られる「嘘」-「真」観との関連の中で探る。次に第二章と第三章では、第一章で検討した「嘘」をめぐる文学的言説の問題を、横光の作品世界を読み、分析する中で見つけられる様々な特徴的要素を通して検証する。ここでは「嘘」のエクリチュールをめぐる様々な書く方法の問題を、具体的な作品分析のレベルで取り上げる。区別して言うならば、第二章は主として嘘のように書くことをめぐる議論であり、第三章は嘘について書くことと嘘のように書くこととの必然的関連性をめぐる議論である。そのような「嘘」のエクリチュールの特徴が、結果的に、彼自身の「真」観とはどのように絡み合い、また、リアリズム及びリアリティの方法とはどのように結びついていくのかをめぐる議論となる。続いて第四章では、まず横光がなぜ心理(・・)主義の問題を真理(・・)主義の問題として捉え出したのかという問題を、彼自身の「嘘」観との関連から考え、それが作品の中ではどのように展開しているのかについて検討する。また、「純粋小説論」の中に提示される四人称の方法論が、そのように「心理」を書くための「スタイル」の問題とどのようにかかわっており、そしてそれが横光の初期文学から続く方法的「嘘」の問題をめぐる言説とどのように連動するのかについて議論する。最後に第五章では、横光文学において四人称を書くこととは何か、即ち四人称のエクリチュールという問題を、前章まで議論してきた「嘘」のエクリチュールという問題と関連づけながら具体的なテクスト分析のレベルで考察する。以上の議論を通して、横光の文学世界を特徴づけている方法的根幹としての「嘘」と「四人称」の必然的な相互関連性、及びその表現史的意義を探ることが本論文の最終的な狙いである。

 文学的方法としての「嘘」をめぐる問題提起は、勿論横光が最初ではない。が、少なくとも日本近代文学史の全体を通して、「嘘」を「書く」こと及び「書く」ことにおける「嘘」の問題を理論と実践の両面にわたって横光ほど徹底的に問い続けた作家はいない。そのように特徴付けられる横光の文学世界を厳密に読み直すことによって、横光の文学的出発のもつ史的意義を明らかにし、同時に、そのような彼自身の文学的特徴及びその態度が後世の文学にどのような影響を与えているかについて探ることも本論文における副次的な関心事の一つである。本論文で取り上げた文学的方法としての「嘘」及び「四人称」をめぐる問題は、単に横光文学自体の特徴を明らかにするための観点としてのみでなく、日本近代文学(表現)史の流れを総体的に捉え直す上でも、また、あらゆる書き言葉(エクリチュール)のもつ本質的な特性を探る上でも非常に有効な一視座になるだろうと確信している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「横光文学における「嘘」のエクリチュール――第四人称成立への表現史的道程及びその意義」は、横光利一(1898-1947)の文学作品における「嘘」の問題を分析したものである。そこには2つの要素、「嘘」について書くという問題と、「嘘」のように書くという問題とが存在している。金〓薫氏はその2つの問題を連関するものとして扱い、分析している。その観点は、横光利一が作り上げた作品において、あれほど多くの「嘘」についての言及があるにもかかわらず、横光利一作品を「嘘」というキーワードで精細に分析した先行研究がなかったという判断から選び取られた。そしてまた本論では「嘘」と「虚構」との違い、「嘘」と「四人称」との関係が吟味されている。

 以下、論文の構成に即して、論文の内容を説明する。本論文は「はじめに」で始まり、それに引き続いて第1章「「嘘」のエクリチュールの成立」、第2章「文学の現実と文字の現実」、第3章「様々なる「嘘」の生成形式」、第4章「四人称の成立に至るまで」、第5章「四人称のスタイル及びその行方」、そして「結び」で終わるという構成を取っている。「はじめに」では、横光の文学的言説の中で「嘘」という問題がいかに重要であるかが概説される。それをうけて、第1章では横光利一が「話すように書く」のではなく、「書くように書く」という立場をとった理由とその背景とが議論される。その際、横光と夏目漱石、ロシア・フォルマリストのヴィクトル・シクロフスキー、そしてポール・ヴァレリーとの関連が議論される。第2章では、横光が「嘘のように書く」際、いかなる文学的技法が使われたかが跡付けられる。その時、前景化される文学的技法は「象徴」と「比喩」である。第2章第2節「現実の<場>と<場>の現実」では、『上海』を題材として、そこで描かれたテクスト空間が分析されている。そこには「風呂場」「踊場」「工場」といった可視的な場と「市場」「相場」といった非可視的な場とが存在しているが、それぞれが言語空間としての「上海」を表象していると氏は論じる。また横光が多用する直喩について、横光がどのような批評的言説を残しているかが、同章第3節「文学的騒音としての形容詞」で議論される。第3章では、横光が作品の中で「嘘」を描いたことの意味が分析される。その作業は、横光において「嘘について書く」ことが「嘘のように書く」という形式的方法と密接な関係があることを示すことになった。また、作品中で嘘を描くことは、「嘘」について発話する登場人物の視点、語り手の視点、作品に内在する作者の視点という視点の絡まりとも連動することが明らかとなった。

 第4章は、そうした議論の展開を受けて、横光文学において四人称がいかに成立したかの分析となる。まず、横光が「新感覚派」から「新心理主義」に移行した時、彼が主張した「真理主義」の内容の吟味が行われる。横光がたえず「嘘」を重視してきた立場を考えると「真理」を標榜することはこれまでの彼の立場と齟齬をきたすことになるのではないかという疑問が生ずるが、金氏は横光においてその二つは連動していたと結論付ける。人の心理(真理)には必ず二つ以上の心理が存在し、それを小説では同時に描けない以上、小説は必然的に嘘とならざるをえないと横光は主張するからだ。その観点から、一体、横光はいかに「嘘」としての心理を描いたかという問題が分析される。ここの作品分析は本論文の最も優れた部分となっている。横光の新心理主義文学時代を代表する『機械』(単行本、創元社、1935年刊)を取り上げ、そこに収録してある作品の文体分析をすることで、横光の心理分析の特徴を明らかにしている。特にそこでの横光の副詞の使用によって示される、登場人物の心理変化の描写は、これまでの研究に指摘されたことのないものであり、文体分析研究においても、また横光文学研究においても新しい局面を開いたものとして評価できる。そこから横光の提唱する四人称が実体というよりは、いくつかの心理の間に存在する概念であり、実体的でありながら、同時に架空的なものとして捉えられていたことが分かる。その特徴は横光が「嘘」について考えていたことと共鳴しているのである。第5章では「純粋小説論」で提起された四人称が具体的にどのような表現として結実しているかが確認される。また「嘘」と四人称とがどのように関連しているかが「偶然性」という概念によって説明されている。「結び」においてはそれまでの氏の議論がまとめられ、より大きな文脈に位置づけられている。

 以上でわかるように、金〓薫氏の本論文は、氏が韓国外国語大学校在学中から行ってきた横光利一文学研究の文体分析、形式分析からのまとめとなった。これまで氏が横光文学を丹念に読み込んできた成果がここにはよく現れた。先行研究もよく調査されており、審査員から賞賛を受けた。しかし、「嘘」を書くことと、「嘘」のように書くことの連関性、それと「偶然性」との関連はまだよくつめられてはおらず、さらなる分析が必要であるというのは審査委員の一致した見解であった。これは金〓薫氏のこれからの課題となるであろう。そうした問題点があることは否定しえないにしても、本論文は課程博士論文としての水準を優に越えていることは明らかである。

 したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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