学位論文要旨



No 119641
著者(漢字) 山本,和也
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,カズヤ
標題(和) ネイションの複雑性 : マルチエージェントモデリングによる理論分析
標題(洋)
報告番号 119641
報告番号 甲19641
学位授与日 2004.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第520号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,明彦
 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 後藤,則行
 東京大学 助教授 遠藤,貢
 青山学院大学 教授 山本,吉寛
内容要旨 要旨を表示する

 本論は、コンピュータ・シミュレーションを使ったネイション形成の分析である。コンピュータ・シミュレーションにも、さまざまなタイプのモデリング方法があるが、本論は、マルチエージェントモデリングという手法を使ったシミュレーションである。マルチエージェントモデリングを使うのは、最先端のシミュレーション技法であるとともに、ネイション形成の理論分析には、きわめて適した方法と考えられるからである。

 ネイションがいかに形成されるかについては、1950年代にカール・ドイッチュが統計・数理モデルで先駆的な研究を残したが、その後、アーネスト・ゲルナー、ベネディクト・アンダーソン、エリック・ホブズボウム、アントニー・スミスなど、社会学的・政治学的な分析で、1980年代に飛躍的に発展した。他方、これらの理論は、ネイションに対する見方でさまざまに対立もしている。本論は、シミュレーションモデルを使って、さまざまなネイション形成理論を素材としながら、どんな理論が現実に対して妥当なのかを明らかにしようとするものである。

 本論は、9章(序章とまとめを含む)から構成される。本論では、シミュレーションといういささか新奇な方法を使うので、序章ではまず、少し抽象的な方法論を扱う。ネイション形成研究は、これまで(1)歴史的実証、(2)統計的計量、(3)数理的定式化という3つの方法のいずれかで行われてきた。序章では、これらの方法には限界があり、新たな方法としてマルチエージェント・シミュレーションが有望な方法であることを指摘する。

 第1章では、シミュレーションモデルを作るために、これまでのネイションとナショナリズムの理論を整理する。ここではまず、ネイション・ナショナリズム理論はいろいろな主張をしているものの、ネイションとナショナリズムとは何か、ネイションを発生させるメカニズムは何かということについて、ある程度の共通理解があることを指摘する。

 しかし他方、これらの研究は、いくつかの点で対立もする。第1章では、4つの理論的対立と1つの相互補完的な主張を取り上げ、これを整理する。そして、これらの理論対立と補完的主張をもとにして、5つの問いというのを立てる。この5つの問いに答えるのが、本論のシミュレーションの目的である。本論では、ネイション形成を分析するこのシミュレーションモデルをNEME(ニーム:the Nations and Ethnicity Model of Emergence)ということにする。

 第2章では、これまでの国際関係論のシミュレーション研究をみる。第2章の目的は、これまでのシミュレーション研究をみることで、NEMEのシミュレーションモデルとしての特徴を明らかにすることにある。

 第3章からは実際のシミュレーション分析である。第3章では、「近代的動員は国民統合をもたらすか」という問いに答える。学術的にみれば、これは近代化論と近代化論批判の理論対立に対応する。シミュレーション分析では、(近代化論争が前提とした)植民地からの新しい独立国にみられるような激しいナショナリズムが蔓延する状態で、急速な動員が行われると、国民統合ではなく、かえって国民分化が起こることを明らかにする。

 第4章では、ネイション形成理論が典型的なパターンとする2つのネイション形成モデルを考える。具体的にいえば、(a)領域内部の支配的な勢力がネイションを統合していく西欧的ネイション形成モデルと(b)宗主国によって恣意的に引かれた行政上の境界がネイション形成に影響したとする植民地的ネイション形成モデルである。第4章では、シミュレーションを使って、これらのネイション形成モデルでは本当に、ネイション形成理論が主張するようにネイション形成が起こるのかを問う。

 第4章の分析が明らかにしたのは、次の2つである。第一は、植民地でのネイション形成では、アンダーソンがいうような出版資本主義の発達が大きな影響を持ったということである。第二に、ナショナリズムが極めて強い状態という特殊な状態を除けば、2つのネイション形成モデルでは確かに、シミュレーションでもネイション形成が起こったということである。つまり、これまで記述的なネイション形成理論が主張してきた2つのネイション統合パターンが、多くの場合、妥当であることがシミュレーションでも確かめられたわけである。

 第5章では、エスニシティがネイションにどう影響するかという問いを2つに分けて分析する。第一は、アントニー・スミスなど、ネイション形成論の歴史主義が主張するように、前近代的なエスニシティはネイションの起源となっているかを分析する。分析では、前近代からの持続的なエスニシティはネイションの起源とはなっていないこと、現代世界でエスニシティがネイションの起源になっているようにみえるのは、近代以降、エスニシティ自体が変化することで、起源であるかのようにみえているだけだということを明らかにする。

 第5章での第二の分析は、エスニシティはネイション統合にどう影響しているかである。シミュレーションでは、近代的なネイション統合が起こるためには、エスニシティの性質を原初的と考えることはできず、エスニシティを可変的な存在とみなす必要があることを明らかにする。

 第6章では、エスノナショナリズムによるネイションの分化を分析する。第6章では、(i)経済格差、(ii)エスニックな自我への目覚め、(iii)民族自決のメッセージの伝播という3つのエスノナショナリズムの要因をモデル化する。ここでは、これら3つの要因のうち、どの要因がネイションをより分化させるかというのが問いである。シミュレーションでは、(iii)の規範的なメッセージの伝播という要因よりも、(i)経済格差と(ii)アイデンティティへの目覚めという人々にとってより根源的な要因のほうが、ネイションをエスニックに分化させることを明らかにする。

 第7章では、多元的な世界を形成するにはどうすればよいかを考える。具体的には、人々が多様なエスニック集団でありながら、ネイションとしては統合される条件は何かを問う。

ここでは、人々が財の再配分をしたり、文化的に寛容な行動をとるなど、いくつかの行動ルールをモデル化して、シミュレーションを行う。これによって、人々がどんな行動をとれば、多元的な世界を形成できるかをみるわけである。分析では、西欧と植民地のどちらでも、多元的な世界を作るのは、なかなか難しいことが明らかになる。とくに、植民地では、これはいっそう難しいというのが、シミュレーションの結果であった。つまり、現実世界でのネイションの扱いの難しさが、シミュレーションでも確認されたということである。

 まとめでは、シミュレーション分析の現実と理論へのインプリケーションをもう一度まとめる。また、第7章の分析は、いわゆる多文化主義とも関係するが、シミュレーションモデルでの多元的状態が、現実の多文化主義とどう違うかを指摘して、本論を締めくくる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「ネイションの複雑性:マルチエージェントモデリングによる理論分析」は、マルチエージェントモデリングの手法を使い、これまで世界の学界で議論されてきたネイションの形成過程をコンピュータによるシミュレーションによって分析しようとする試みである。国際関係からみても、また一国内の問題としてみても、現代社会最大の問題の一つはナショナリズムの問題である。ネイションとはいかなる現象なのかをめぐって、これまでさまざまな議論が展開されてきた。学術的研究としても、ネイションの形成については、カール・ドイチュ以来、アーネスト・ゲルナー、ベネディクト・アンダーソン、エリック・ホブズボウム、アントニー・スミスなどさまざまな論者が、社会学的・政治学的分析を行なってきた。そして、これらの分析の間には、理論的対立も少なくない。本論文は、このようなネイションの形成に関する理論的対立をコンピュータ・シミュレーションによって明示的に表現し、これを分析することによって、その得失を評価しようとするものである。

 論文は、序章と7つの章からなる本論およびまとめによって構成される。

 序章は、ネイションの形成論に関するこれまでの方法論を(1)歴史的実証、(2)統計的計量、(3)数理的定式化の三つに整理し、新たな方法としてのマルチエージェント・シミュレーションの有望性を説く。

 第1章は、これまでのネイション形成に関する学説を整理し、ネイションとナショナリズムに関する本論文としての定義を導き出し、その上で以下の5つの問いを提示する。

(1) 近代的動員はネイションを統合させるか?

(2) 近代ネイションが形成されたとされる領域空間モデルで、はたしてネイション統合はおこるのか?

(3) 近代ネイションの起源はエスニシティか?ネイション統合にエスニシティはどう影響するか?

(4) エスノナショナルな分化を引き起こす要因は何か?

(5) 多元的アイデンティティを形成する条件は何か?

 第2章は、シミュレーションという方法論をとる前提として、これまでの国際関係論において使用されてきたシミュレーション研究を整理・検討し、本論文で使用するマルチエージェント・シミュレーションの特徴づけを行なう。

 第3章では、本論文で使用するマルチエージェント・シミュレーションモデルであるNEME(ニーム:the Nations and Ethnicity Model of Emergence)の基本設計を解説し、その上で「近代的動員は国民統合をもたらすか」という第1の問いに答えるためのシミュレーション結果を提示する。NEMEは、二次元空間の上に存在する無数の地域共同体が、自らの文化とネイションとしてのアイデンティティを相互接触やさまざまな過程を通じて維持・変容することをシミュレートするモデルである。ネイション形成のさまざまな理論を表現するために、知識人・行政官エージェントというもう一つのエージェントのタイプが定義され、さらにそれぞれのエージェントの属性として、文化、非動員/動員、ネイション、同化力、動員力の5つが特定される。この基本モデルを操作して行なったシミュレーションの結果は、近代化論のいうような動員が国民統合をもたらすとする単純な結論を支持せず、かえって、急速な動員が行なわれると国民統合ではなく、国民分化がおこることを示した。

 第4章は、ネイション形成のこれまでの理論が想定してきた二つの典型的空間モデルをシミュレーションで検証する。つまり(1)領域内部の支配的勢力がネイションを統合していくとする西欧で典型的にみられたとされるネイション形成と(2)宗主国によって恣意的に引かれた行政上の境界がネイション形成に影響したとする植民地で典型的にみられたネイション形成の二つのモデルである。このような二つの空間において本当にネイション形成が実現するのかが、第4章の課題である。シミュレーションの結果は、第1に、植民地でのネイション形成では、アンダーソンがいうような出版資本主義の発達が大きな影響をもったということを示し、第2に、ナショナリズムが極めて強い状態という特殊な状態を除けば、二つの典型的空間モデルにおいて、たしかにネイション形成が実現するということを示した。

 第5章は、エスニシティがネイションにどう影響するかという問いを、二つに分けて分析する。第1は、アントニー・スミスなど、ネイション形成論の歴史主義者が主張するように、前近代的なエスニシティはネイションの起源となっているかどうかという問いであり、第2は、エスニシティがネイション統合にどのように影響を与えているかである。シミュレーションの結果によれば、前近代からのエスニシティがネイションの起源とはなっていないことが示され、また、現代においてエスニシティとネイションが一致しているように見えるのは、近代以降エスニシティ自身が変化することでネイションの起源のように見えているだけだということが示唆された。これと関連して、ネイション統合に影響を与えるためには、エスニシティは可変的なものでなければならず、原初的なものとみなすことはできない、ということも示された。

 第6章は、エスノナショナリズムによるネイションの分化が分析される。エスノナショナリズムの要因として(1)経済格差、(2)エスニックな自我の目覚め、(3)民族自決のメッセージの伝播という三つが導入され、シミュレーションが行なわれ、これら三つの要因のいずれがネイションをより分化させるかが検討される。結果が指し示したことは、(1)経済格差と(2)エスニックな自我の目覚めという人々にとってより根源的要因の方が、ネイションをエスニックに分化させるということであった。

 第7章では、文化やエスニックな意味で多元的なネイションは、どのようにしたら形成しうるかを問う。多様なエスニック集団でありながらネイションとして統合されるためには何が必要なのかをシミュレーションで検討するのである。この問題に適合するため、シミュレーションのモデルにさらに統合推進エージェントと統合抵抗エージェントの二つのタイプのエージェントが導入される。その結果、この問題を、西欧型の空間モデルと植民地型の空間モデルの両方で分析したところ、西欧型のモデルにおいては、統合推進エージェントが財の再配分に積極的であり、統合抵抗エージェントが妥協的である場合に、そのような多元性が実現する可能性のあることが示唆された。しかし、植民地型の空間においては、どのように試みても、多元的なネイションに統合することは困難であることが示された。

 最後の「まとめ」では、本論文の結果を総括し、最後にこのシミュレーションで示された多元主義といわゆる多文化主義についての議論を行い、今後の研究の方向性を示す。

 以上が本論文の要旨であるが、以下に評価を記す。

 第1に、本論文は、現代社会における大問題の一つであるネイション形成というような分析の困難な対象に、マルチエージェント・シミュレーションという手法が適用可能であることを示した方法論的に極めて野心的な業績であると評価できる。本論文で提示されたNEMEというモデルは、これまでのマルチエージェント・シミュレーションのいくつかの先行事例を参考にして作成されたものであるが、各所に著者なりのオリジナルな概念が導入されており、文化やアイデンティティと社会集団を扱うシミュレーションの今後のモデルともなるべきものである。

 第2に、本論文のシミュレーションの指し示すいくつかの結果は、本論文が、ナショナリズム研究としても、学界に大きな貢献をなしていることを物語っている。これまでのナショナリズム形成の理論があいまいなまま主張してきたいくつかの命題が、コンピュータ・シミュレーションとして定式化されたことは、今後のネイションの理論研究をより明確化するのに役立つであろう。また急速な動員がかえって国民分化をもたらすとか、エスニシティとネイションが同一にみえる背後には、エスニシティ自身が変化しているという現象があるとの結果は、ナショナリズムに関する事例研究にも指針を与えるであろう。

 第3に、本論文は、複雑なネイション形成に関する先行研究に関しても、一般には理解しがたいさまざまなシミュレーションの方法についても、きわめてわかりやすく論述・整理してあるなど、文体的にも平明であるところに特徴がある。マルチエージェント・シミュレーションによるモデルは、厳密にはコンピュータ・プログラムとしてしか表現し難いが、本論文は、これを自然言語によって、それなりにわかりやすく論述している。このことが、本論文をネイションに関する通常の社会科学の論文としても、価値あるものとすることに貢献している。

 このように評価すべき点の多い本論文であるが、いくつか短所も指摘せざるをえない。

 第1は、マルチエージェント・シミュレーションという方法を使うことについての積極的な正当化の論理がいささか弱いことである。たしかに、ネイションのような複雑な社会現象を表現するのに本論文のような定式化が一つの方法であるのは間違いないが、この定式化が他の方法と比べてどのような特徴があるかは、もう一歩踏み込んで論述すべきであった。

 第2に、シミュレーションの結果と現実との関係についての議論が、十分とはいいにくいことである。このモデルが、その結果を現実のデータと照合してその妥当性を検討するというタイプのモデルでないことは、論文が当初から断っていることであり、それ自体に問題はない。しかし、それにしてもモデルが単なるコンピュータゲームを超える現実性を持つとすれば、それがどこに反映されているかについて議論が十分尽くされているとはいえないのである。

 第3に、論文全体の平明さは高く評価されるところであるが、それでも、論文後半の第6章および第7章の論述は、モデル自身が複雑さを増していることもあって、ややわかりにくくなっている。また、第7章で導入される多元主義のためのモデルについては、その理論的背景についての議論が十分なされているとは言い難く、わかりにくい面が生まれている。第1章におけるネイションについての先行研究の整理の中で、このような多元主義についての規範論についても整理しておけば、よりわかりやすくなったと思われる。

 しかしながら、このような短所にもかかわらず、本論文が、ネイション形成という社会科学の一大テーマをマルチエージェント・シミュレーションという形で定式化し、その理論的含意をさまざまに導き出した学問的貢献は高く評価されなければならない。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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