学位論文要旨



No 119646
著者(漢字) 姜,東局
著者(英字)
著者(カナ) カン,ドングック
標題(和) 「属邦」の政治思想史 : 19世紀後半における「朝鮮地位問題」をめぐる言説の系譜
標題(洋)
報告番号 119646
報告番号 甲19646
学位授与日 2004.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第186号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高見澤,磨
 東京大学 教授 平石,直昭
 東京大学 教授 馬場,康雄
 東京大学 教授 太田,勝造
 東京大学 教授 交告,尚史
内容要旨 要旨を表示する

 中国的世界秩序下で「属邦」と位置づけられた朝鮮が西洋近代国際秩序において如何なる地位を持つかという「朝鮮地位問題」が、19世紀後半において、日清戦争開戦の口実以上の重要性がある。本論文は東アジアに西洋近代国際秩序が影響を与える19世紀後半に、「(1)東アジアの人々は中国的世界秩序下に存在してきた中国と朝鮮の関係を如何に再解釈し、それに関してどのような議論をかわしたか、(2)再解釈をめぐる問題を対話によって解決しようとする試みは、どのような過程を経て失敗に終わったのか、(3)この失敗はその後の歴史にどのような影響を与えたのか」を明確にすることを課題とする。

 ところが、このテーマを探求するためには、政治外交史と政治思想史の両方からの理解が必要であるが、これまでの研究の多数は、学制的分離に基づいていたため、政治外交史と政治思想史の境におけるこの暗黒空間に注意してこなかった。そのため、本研究は、政治外交史と政治思想史の両面からの理解を基本的立場にした。

 そして研究の結果、次のような事実の確認ができた。

 中国的世界秩序における不平等な二国間関係、すなわち「上国―属邦」関係は、両国が「字小」「事大」の原理に従う関係であった。17世紀以降、2世紀以上の期間に及んだ「海禁体制」下で、日本、清、そして朝鮮は各々思想的変化を成し遂げたが、「上国―属邦」をめぐる議論においては、中国的世界秩序の外にあった日本で激しい変化が出現した。日本における「属国」概念は清と朝鮮における中国的世界秩序の「属邦」とは違って、西洋近代国際関係の占領地や植民地のイメージに変化したのである。日本と清・朝鮮との国際秩序認識と言葉の差異は、1860年代に『万国公法』が翻訳され、東アジア三国に伝播されることにより解決の機会を迎えたが、統一の可能性は海禁体制の残した差異によって阻まれたのである。

 1870年代にはいってから、東アジア三国は互いの関係を再設定し、「海禁体制」から抜け出すに至る。日本は、「海禁体制」下で中国的世界秩序の外に位置してきたため、日本と清、日本と朝鮮との関係は基本的に西洋近代国際関係上の両国関係として素早く変化した。ところが、清と朝鮮との関係は中国的世界秩序での関係であったし、当時も朝貢などの「事大」の礼が続いていたので西洋近代国際関係を適用する際に、両国の既存の関係を如何に把握するかについては複雑な議論となったのである。これをめぐり1870年代には、西洋近代国際秩序観の立場による日本の「独立国論」と中国的世界秩序の立場による他の両国の「属邦論」の間で議論は繰り返されたが、結局充分に理解しあうことはできなかった。

 1880年代に入ってから、清は朝鮮との関係を改めはじめ、「海禁体制」における「属邦自主」から内政外交への関与政策に対朝鮮政策を変換したのである。清はこの変化を正当化するために中国的世界秩序のイデオロギーを利用した。すなわち、「属邦国論」を維持することによって、朝鮮には「字小事大」関係を深化するという論理で支配の現実を正当化し、西洋諸国には清において朝鮮は、西洋近代国際関係における「属国」であるという「属国論」を使うことで、支配を正当化したのである(=「属邦・属国論」)。中国的世界秩序と西洋近代国際秩序は、構成単位の性格や関係の様相などが全く違う秩序観であったが、清はこの二つを融合し、隔離・通訳の掌握などの巧みな策略を利用して、朝鮮と西洋諸国を納得させることにより、朝鮮における特別な地位の維持を図ったのである。

 日本は、壬午軍乱(1882)や甲申政変(1884)に際し、民間を中心に清の論理に強く反発したが、ロシアの南下を阻止するには清との協力関係が必要だと判断した政策決定者は、清の論理を黙認し清との妥協として天津条約(1885)を結ぶのである。ところが福沢諭吉を中心とする民間レベルでは、「独立国論」を堅持し、そして朝鮮における独立の失敗を説明するために、朝鮮には「事大主義」を崇拝する「事大党」があるためだとする議論が出現したのである。「事大」は中国的世界秩序に対する朱子学的な理解においては、「天(=理)」に従う普遍的道徳であったが、日本での「事大主義」は守るべき独立の反対概念として潤色され、否定的に位置づけられた。この意味において「事大主義」という概念は、伝統の連続ではなく、近代による伝統の再解釈の産物であるといえるのである。

 一方、朝鮮では1880年代中盤になって、清による朝鮮政策の変化の現実や、清の論理の二重性が漸く理解されるに至った。それに対する朝鮮からの論理的対応は、「属邦・独立国論」であった。この論理は、清の「属邦自主・属国論」の「属国」を「独立国」に置きなおしたものではなかった。これまでの「朝鮮地位論」―「独立国論」における中国的世界秩序の排除、そして「属邦自主・属国論」や「事大主義論」における二つの秩序の無理な接合―は、19世紀における文明の衝突を一方の勝利と、もう一方の敗北として捉えるか、又は両方の断片的一致点を繋ぐ努力であったといえよう。「属邦・独立国論」は、中国的世界秩序と西洋近代国際秩序と二つの国際秩序が共存している現実を踏まえ、その各々を尊重することを主張した。すなわち、一方を無視することではなく、両方を勝手に繋げることでもなく、もともと異なる秩序の分離を認めることで、二つの国際秩序の両立を訴えたのである。その中で朝鮮は、中国的世界秩序の下で清には朝貢する「属邦」でありがらも「自主」を維持し、また西洋近代国際秩序の下で西洋諸国とは「独立国」として対等な関係を結ぶことを主張したのである。

 この様々な「朝鮮地位論」は、対話により一つの結論に到達することはなかった。すなわち、日清戦争という武力衝突によって、言説の問題が解決されたのである。ところが、武力による解決は論理への信念までは消すことはできなかった。そして、日清戦争以降における言説をめぐる文明的・権力的状況の変化が、生き延びた論理の運命を決めたのである。

 20世紀初に東アジア国際関係史を研究した西洋の学者は、近代の観点から清と朝鮮の関係を把握し、西洋近代国際関係の「属国論」を選択した。そして、この議論は東アジアに逆輸出されるに至った。また、「事大主義論」は帝国日本で植民地支配の論理として採択された。そして、「属国論」と「事大主義論」は19世紀の激しい対立から生まれたのにもかかわらず、日本帝国主義の利益のため、融合して「属国・事大主義論」―近代以前に、朝鮮は中国の支配を受ける属国として、恥知らずにも中国に事えつづけたという論理―に変化し、今日でも常識的な認識の一つとなっている。中国的世界秩序観と西洋近代国際秩序観の衝突による様々な「読み替え」は、結局「近代以前」における自己と他者の関係を誤解させる認識の枠組みを東アジアにもたらしたのである。

審査要旨 要旨を表示する

19世紀後半の東アジアでは、中国的な世界秩序と近代西洋の国際秩序が激しく衝突し、様々の問題を発生させた。なかでも朝鮮の国際的地位をどう理解し位置付けるかは、中国・朝鮮・日本を中心に大きな国際問題となり、やがて日清戦争の開戦理由ともなった。本論文はこの朝鮮の国際的地位に関して、とくに1880年代を中心として、上記三国の関係した外交折衝過程で現われた有力な言説や、民間ジャーナリズムの世界で影響力をもった言説を取り上げ、それらの形成と展開、相互の対立や誤解の諸相を総合的に分析し、あわせてそれらが後世の歴史認識にどう作用しているかを跡付けたものである。

論文は「はじめに」と本論の五章、および「終りに」からなる。「はじめに」では本論文が答える問題として、(1)19世紀後半の東アジア人は中国的世界秩序下での中国・朝鮮関係をいかに再解釈したか、(2)「朝鮮地位問題」を対話によって解決する試みはいかに失敗したか、(3)その失敗はその後の歴史にどう影響したか、という三つをあげる。ついで研究方法として、外交史分野の研究が近代西洋の国際秩序観を前提にしており、異質な中国的世界秩序下での中国・朝鮮関係の内在的理解に欠けるとし、その理解こそ政治思想史の課題だとして、外交史と思想史の接点を追究するという。さらに丸山眞男の「思想の成層」に関する議論をふまえ、19世紀後半の東アジア人が国際秩序観に関してどのような「学説・理論」をもち、「朝鮮地位問題」に関していかなる「意見」を交換し、その結果が後の「思潮・時代精神」にどう影響したかを扱うという。そして東アジア三国を包括する統一的な分析の枠組みとして、上記二つの秩序観が接触することから生ずる「朝鮮地位」認識の複数のパターンを示し、それらと関係付けて本稿の章別構成を説明している。

第一章「「海禁体制」成立以降の「属邦」の軌跡」では、「朝鮮地位問題」に接近する前提として、中国的世界秩序における二国間関係の理念型を明らかにし、それが1870年代までにとった形態を歴史的に跡付ける。この秩序において中国・朝鮮の関係は、字小・事大、「上国・属邦」の原理に基づくとされ、朱子学の解釈では両者は絶対的倫理性(天理)に遵う点で等価であった。清もこれを踏襲し、属邦=朝貢国である朝鮮が内政外交上は「自主」するという了解が清・朝間に存在したという。一方日本型華夷秩序の下にあった徳川日本では、中国的な「上国・属邦」関係の理解が弱く、蘭学を通じた世界地理知識等が流入する中で「属国」「属邦」を西洋の植民地とするような理解が流布していった。19世紀半ばにおける『万国公法』という共通の漢訳テキストの登場は、こうした見方の相違を統合する機会を三国に与えた。しかし著者は、諸文献で「藩属」「自主」「独立」などの言葉が使われた意味や原語と翻訳語の対応関係などを精査することで、このテキストが三国間に解釈共同体を成立させなかった事情を明らかにしている。ところで1870年代の清の洋務派官僚は、「皇清の大一統」の領域には中国的世界秩序を、その他の領域には西洋近代国際秩序を適用するという使い分けの方針をとった。他方日本は清、朝鮮との修交条規(それぞれ1871、76)の締結後、両国を近代国際法的な意味で日本と対等な独立国とみなした。しかし清・朝鮮側には従来の「上国・属邦」関係を廃棄する意図はなく、こうして外交上の紛議を抱えつつ三国は1880年代を迎えたという。

第二章「「属邦・属国論」の登場と定着:1879-1884」では、1881年から82年にかけての朝・米外交折衝に際して出された「属邦照会」や「清・朝商民水陸貿易章程」等を主な素材として、李鴻章らの洋務派官僚等が示した「属邦・属国論」(朝鮮は中国的世界秩序の「属邦」であると同時に西洋近代国際秩序の「属国」であるという主張)を扱う。著者によれば、それは二つの秩序観を融合させる試みだったが種々の点で整合性に欠け、その欠如を補うために清は、朝・米間の折衝を媒介し、通訳を掌握して議論を操作し、さらに属邦に対する上国の権威を利用して自己の論理を押し付けるなど、種々の政治的手段を行使した。また「上国・属邦」論の読み替えによって朝鮮に対する支配の強化を正当化しようとした。他方こうした「属邦・属国論」は、西洋近代国際秩序的な意味で朝鮮が清の「属国」であることを必ずしも他国に説得できず、また伝統的な「字小事大」理念からは功利の追求として批判される余地があった。こうして二つの秩序観からこの論への批判が生じたという。

第三章「「独立国論」の挫折と「事大主義論」への逃避:1880-1894」では、70年代には朝鮮を「独立国」とみなし、中国的世界秩序を否定して東アジア地域秩序の再編を目指していた日本が、壬午軍乱(1882)や甲申事変(1884)の失敗を経て、80年代後半には清の軍事的強大化(文明化)やロシアの朝鮮進出という状況の変化をうけ、清が主導する東アジア地域秩序にいかに適応するかを課題とするようになった経緯を分析する。著者によれば、地域レベルで清と共同歩調をとる必要から政策決定者の間では「独立国論」が弱まり、日清「共同内政干与論」が現われた。一方「独立国論」に固執する民間では、朝鮮での変法的開化派の壊滅をうけて福沢派が「事大主義論」を提起した。このように80年代日本における朝鮮策論の分裂を分析しつつ著者は、この「事大主義論」により、中国的世界秩序の二国間関係では中心的な「徳」の一つだった「事大」が、西洋近代国際秩序観の「独立」の反対語として読み替えられこと、また日本の朝鮮「独立国論」が、文明化と自国の国益の条件次第で、「他国による関与」を許容する性質のものだったことなどを指摘している。

第四章:「「属邦・独立国論」の創生と挫折:1885-1894」では、80年代後半における清による朝鮮支配の強化の実態を述べたあと、それに対する朝鮮側からの抵抗が高宗を中心とするグループによって試みられたとし、その論理を示すものとして、外務協弁デニーの議論、とくに兪吉濬の両截体制論を取り上げる。兪は国家を「独立国」「受護国・贈貢国」「属国」の三つに分類した上で朝鮮を「受護国・贈貢国」にあたるとし、伝統的な「上国・属邦」関係をここに適用する。そして清に対して朝貢国(属邦)である朝鮮は、内政外交上は「自主」の「独立国」であるとし、その面では西洋近代国際秩序関係が該当すると主張した。こうして伝統的な「属邦自主」を読み替えて「属邦・独立国論」が生れたわけである。著者はこの議論を、中国的世界秩序観と西洋近代の国際秩序観を独特な形で共存・両立させたものとして評価する。

「第五章:武力による解決と歪んだ認識の定着:1894年以降」では、対話によって解決されなかった「朝鮮地位問題」は日清戦争で武力による解決をみたが、その後の事態は清・朝関係についての誤った理解を齎したとして、20世紀初頭以来蓄積されてきた東アジア国際関係史をめぐる歴史学の業績を分析している。これを通じて著者は、元来西洋産であったsuzerainty(宗主国)の観念が次第に清・朝関係の理解に浸透し、「属邦自主」という歴史の現実とは異なるイメージを世に流布させたこと、近代西洋の国際秩序観における「属国」観と、日本の植民地支配の論理として作られた「事大主義」とが組み合わされて、「事大主義的な属国」というネガティヴな朝鮮史像が定着していったことなどを指摘している。

最後に「終りに」では、本論での分析を要約した後、かつての「朝鮮地位問題」に関する言説が残した影から我々はまだ完全には解放されておらず、このことを認識することは、相手や自分自身に対する誤解から我々を少しは自由にしてくれるのではないかと述べて論述を終っている。

以上が本論文の要旨である。本論文の長所としては次の点をあげることができる。

第一に、19世紀後半の東アジア国際政治において大きな問題となった「朝鮮地位問題」という主題に対して、政治思想史と外交史(ないし国際関係史)という二つの分析視角を組み合わせて接近することにより、東アジア三国で生れたこの問題をめぐる主要な言説やその間の対立が、どのような思想史的背景と現実的利害関心からうまれたかを、多面的多層的に明らかにしている。とくに中国的世界秩序観における字小事大(上国・属邦)関係がもつ独特の構造(属邦自主)を明らかにし、その立場に対する他国の無理解や清・朝におけるその読み替えの試みが、各国・各グループの利害関心によって媒介されながら様々な誤解の連鎖をうみ、「朝鮮地位問題」の対話による解決を阻んだとする分析は見事であり、外交史研究の面では厚い蓄積のあるこの分野に新しい貢献をなしたといえる。

第二に、当時の東アジアの思想空間を、中国的世界秩序観と西洋近代国際秩序観という二つの秩序観の接触から生ずる重層的な意味空間として捉え、両者間の融合、対立、共存という統一的な視角から接近することにより、三国の諸言説を総合的に捉えることに成功している。従来もいわゆる一国史や二国間関係史の文脈から、これらの言説に接近する研究は多くあった。しかし本論文は上記の視角に立って、各国の多様な言説の形成や展開を、東アジアレベルにおける言説の相互連関という見地から捉えることで、それらがもつ複雑に媒介された意味連関を明らかにしている。統一的な視角からする三国思想に対する分析として成功しており、この時代を対象とした東アジア政治思想史の試みとして、学界に対する大きな貢献として評価できる。

第三に、中国的世界秩序下における「属邦自主」という朝鮮のあり方を解明し、それを基準として従来の東アジアの国際関係史理解を批判的に吟味することで、歴史の新しい見方への展望を切りひらいている。歴史研究を通したヨリ客観的な自己理解、相互理解の試みへの貢献として評価できる。

他方で本論文にも短所がないわけではない。第一に外交史と政治思想史という二つの視点を分析に投入したことの反面として、個々の問題を論ずる際に議論のレベルの相違が不明確になり、このため説明が分かりにくくなっている部分がある。第二に、この論文では、朝貢国、保護国などの概念が、当時の国際法学界においてどのように解釈されていたかについて、散発的な言及はあるもののまとまった論究がない。その点が論じられていれば、議論はより厚みを増したであろう。第三に、清・朝関係における上国・属邦関係を裏付ける制度的実体について言及があれば、論文としての完成度はより高まったであろうと惜しまれる。しかしこれらは本論文の価値を大きく損なうものではない。

中国語、韓国語、日本語、英語の一次史料、二次文献を駆使し、テキストの精緻な読解と大きな歴史的視野をあわせもつ本論文はすぐれた学問的成果であり、筆者が自立した研究者として高度な能力を持っていることを証明している。また国際関係史の分野にとっても大きな意味をもつ東アジア政治思想史研究として学界の発展への貢献がきわめて大きい。よって本論文は、博士(法学)の学位を授与するにふさわしい、特に優秀なものと認める。

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