学位論文要旨



No 119673
著者(漢字)
著者(英字)
著者(カナ) フダコーン,オンアート
標題(和) ラーマ5世治世下(1868-1910)におけるバンコクの交通・運輸計画とその展開
標題(洋) Transportation Planning and Development of Bangkok City during King Rama V reign, 1868-1910 A.D.
報告番号 119673
報告番号 甲19673
学位授与日 2004.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5878号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 篠原,修
 東京大学 教授 清水,英範
 東京大学 助教授 中井,祐
 東京大学 教授 伊藤,毅
 日本大学 助教授 福田,敦
内容要旨 要旨を表示する

現在のバンコクにおける都市の交通、運輸の構造は、歴史的な交通網発展の結果として成立しており、将来に向けた交通整備においてもこの歴史を踏まえる必要がある。バンコクの交通の歴史に関する既存研究には、政治、経済、社会的な観点から時代の流れを追う歴史的研究や具体的な道路や運河などの交通モードの発展に関する研究がある。しかし、これらの研究成果は、バンコクの交通網について、その発展の全体像や計画コンセプトを明らかにはしていない。

本研究の目的は、交通ネットワークの計画とその計画にかかわった人物に焦点をあて都市全体の交通ネットワークの統合計画とその形成を明らかにすることある。分析の対象はバンコク内とバンコク周辺における交通モードである運河、道路、鉄道、路面電車である。研究対象時期は運河と陸上交通の転換期と考えられるラーマ5世治世(1868-1910年)とする。

本論文は7章から構成される。

第2章 バンコクの都市形成(1910年まで)

この章では、バンコクの都市の構造がアユタヤをモデルにして形成されるたことを指摘した。このモデルは水の交通ネットワークであり、ラーマ5世治世の構想においても継承されている。この時期の重要な出来時はボーリング通商条約が締結され、輸出産業を促進するために居住地域の拡大と農業開発が行われたため、バンコクの都市構造に大きな影響を与えたことである。

第3章 バンコクの道路

この章では、道路に関する分析を行った。西欧スタイルの道路はラーマ4世治世に初めて現れ、それ以前のバンコクには、王室用の宮廷周りの広い道路と、国民用の狭い道路の2種類しかなかった。ラーマ5世治世に目覚しい道路開発が行われた。その方法は5つに分類される。1)すでにある道路の拡幅と改良2)新しいルートの建設3)既存施設(運河、城壁、家屋・宮廷の壁)沿いの建設4)すでにある道路の延長5)運河埋め立て。また、この時代には8つのタイプの道路があった。1)メインストリート2)大通り 3)ストリート4)ロード5)ソーイ6)トローク7)堤防上8)城壁沿い道路。道路建設の目的は次のように分類できる。1)都市の象徴2)火災防止3)宮廷の境界4)統治領域の境界5)王宮儀式用空間6)都市再開発7)バンコクと郊外の連絡8)土地開発。西欧からの影響を受けた後の道路コンセプトに関するタイの語源を分析した結果、ターノン(道路)という単語の意味は変わり(宮廷周りの広い道路から一般の広い道路へ)、トロークという単語の意味は変わらず(国民用の狭い道路)、ソーイ(土地開発のための区画道路)という単語は初めて使われたことが明らかになった。

第4章 他の交通モードと全体の交通ネットワーク

この章では、交通網の計画コンセプト、交通網の発展、交通網形成における西欧技術の影響を分析した。各交通モードの分析により、バンコクの交通網は水上交通と陸上交通の結節点における乗り換えを前提とした、水陸交通網のコンビネーションとして計画されたことが明らかになった。またラマ4世期には水上交通の計画目的が、軍事目的や距離短縮から、土地開発や農産物運搬に変わったことを指摘した。ラマ5世期には西欧技術が導入され、大規模な農地開発が行われた。鉄道導入の当初の目的は、第一には水上交通に替わる軍事輸送手段整備であり、第二にはバンコクと地方を結ぶ流通手段の整備であったが、実際に鉄道が整備されると、圧倒的な移動時間の早さから旅客輸送が大勢を占めた。

第5章 バンコク都市計画のキーパーソン

バンコクの交通網整備は外国人エンジニアやタイ政府の官僚により進められたが、ラーマ5世は意思決定者であり、プランナーであり、時には検査官や投資者でもあった。交通網整備はタイ政府の予算とラーマ5世個人による投資によって実行された。ラーマ5世は西欧都市計画の思想適用したバンコクの交通施設や交通網の改良を試みたが、その結果、従来の水上交通と、西欧の影響を受けた陸上交通が融合した交通網が誕生した。これにはラーマ5世の2度の訪欧経験が大きく影響しているものと考えられる。外国人エンジニアもバンコクの交通網発展に重要な役割を果たしているが、それぞれの技術者の滞在期間が短いため、キーパーソンと言えるほどの大きな役割を果たした者はいない。しかし、交通網の設計や建設に責任を持つエンジニアがついた役職として王立鉄道局長、王立測量局長、王立衛生局主任技師、王立灌漑局長を挙げることができる。

第6章 現在のバンコク

ラーマ5世が陸上交通を導入したことにより、バンコクの主な交通モードは水上から陸上に移った。バンコクにおいてラーマ6世期以後は運河が掘削されることはなかった。さらに道路建設のために運河の埋め立ても始まった。1932年の民主化後、バンコクの交通網は道路を主体として急速に拡大した。1957年には道路モードを重視したリッチフィールド教授の指導のもとでバンコクの都市計画が作られた。その結果として現在のバンコクでは水上交通、路面電車、鉄道などの車以外の交通モードは軽視されることになった。

第7章 結論

ラーマ5世による西欧技術の導入で、バンコクの交通網は水上交通から水陸交通のコンビネーションへ変容した。ラーマ5世は西欧の技術やコンセプトを用いて、バンコクの交通手段や交通網の改良を実践した。しかしながら西欧技術の導入は具体的な設計や建設技術にとどまり、計画思想にまでは十分な影響を与えなかったと考えられる。

ラーマ5世によるバンコクの交通計画は、陸上交通と水上交通の結合という構想であった。それは交通網全体の構造変更を考えたもので、当時の水上中心のバンコクの交通網と思想上も技術上も大きく異なる西欧の技術を共存させる計画であった。

審査要旨 要旨を表示する

 タイは日本とともに、戦前アジアの中で植民地化を免れた数少ない国であるが、その首都バンコクは、ちょうど日本における明治〜大正と同時期に本格的な都市近代化に着手している。明治日本よりも直接的に植民地化の脅威にさらされていたタイにおいて、都市の近代化が誰の、どのようなビジョンに基づいて進められたかというのは非常に興味深い問題である。近代都市バンコクの成立過程における極めて重要な転機は、19世紀後半に進められた交通インフラの近代化であるが、これまでバンコクの交通網体系の近代化がどのようなプロセスで、またどのような計画的意図に基づいて為されたものか、充分な知見は得られていなかった。

 本研究は以上の認識に立ち、バンコクの近代化に大きな役割を担ったと見られるラーマV世治世下(1868-1910)における、バンコクの交通ネットワークの形成過程を明らかにするとともに、その背景にある計画的意図の考察を試みたものである。

 分析の対象としている交通モードは道路(街路を含む)、運河、鉄道、路面電車である。これまでの近代バンコク都市史研究は、経済史的、都市地理学的、あるいは社会学的関心に基づくものがほとんどで、交通インフラの近代化、特に交通モード相互の連絡や全体の交通網体系、及びその計画プロセスに対しては概ね無関心であった。その点、バンコク近代交通網全体の形成過程を計画史として明らかにしようとする本研究の姿勢は、既往研究に比して新しいアプローチを示すものであると言える。

 まず第二章では、近代化以前のバンコクの交通網形成について概説している。特に、バンコクの都市構造がアユタヤをモデルにして、即ち水の交通ネットワークを基盤として形成されたこと、そしてこの考え方はラーマV世の時代においても継承されていることを指摘している。

 第三章では、バンコク及びその郊外の道路網形成に関する分析を行っている。ここではラーマV世治世時に目覚しい道路開発が行われた事実を明らかにしており、特に建設目的、手法、道路タイプの三項目に着目して道路年表及び図として整理している点が貴重な成果である。この年表と図は本研究の重要な成果の一つであり、今後のバンコク都市史研究において重要な基礎データを提供するものであると評価できる。

 第四章は、交通網の計画コンセプトの考察及び交通網形成過程における西欧技術の影響の考察にあてられている。各交通モード(道路、運河、鉄道、路面電車)の分析により、バンコクの交通網は水上交通と陸上交通の結節点における乗り換えを前提とした、水陸のコンビネーションとして計画されたことを論じている。またラーマIV世世期に水運の計画目的が一般交通・軍事から土地開発・農産物運搬に変化したが、さらにラーマV世期には西欧技術が導入されて、大規模な農地開発のために多くの運河が整備されたことを指摘している。また鉄道は、英仏による植民地拡張への防備を意図しつつ、水上交通に替わる軍事輸送手段として導入されたことを明らかにしている。

 第五章は、バンコクの近代化を進めたキイ・パーソンに関する考察である。ラーマV世が意志決定者、プランナーを兼ねた最大のキイ・パーソンであったこと、また外国人エンジニアもバンコクの交通網発展に一定の役割を果たしてはいるが、それぞれの技術者の滞在期間は短くその仕事も個々の施設の設計に限定されていたため、キイ・パーソンと言えるほど大きな役割を果たした人物はいないことが明らかにされている。さらに、ラーマV世は西欧都市計画の思想を取り入れてバンコクの交通施設や交通網の改良を試みたが、その結果、従来の水上交通と西欧の影響を受けた陸上交通が融合した交通網が誕生したこと、その背景として、ラーマV世の二度にわたる訪欧経験が大きく影響している可能性を指摘している。

 第六章ではラーマV世の後のバンコクについて概説しており、バンコクの主な交通モードが水運から陸運に切り替わった経緯がまとめられている。

 第七章では結論を述べている。バンコクの交通体系が、西欧技術の導入により水運主体から水陸交通のコンビネーションへ変容したこと、それが陸上交通と水上交通の結合というラーマV世による構想に基づいていたことを明らかにした点は、本研究の最も重要な成果である。またラーマV世は西欧の技術やコンセプトを用いて、バンコクの交通網の改良を実践したが、西欧技術の導入は具体的な設計や建設レベルにとどまっており、計画思想の根本にまでは影響を与えなかった(従前の水運中心の交通網と、道路・鉄道等の西欧技術による陸運体系とを共存させた)と結論付けている点は興味深い見解である。

 本研究の優れている点は次の三点にまとめられる。第一に、道路、運河、鉄道、路面電車を対象に、ラーマI世からラーマV世期に建設あるいは計画された判明する限りの路線について、建設目的・建設手段・タイプ等の項目に基づいて整理した年表及び図を作成した点である。これは、バンコク近代都市史研究にとって重要な基礎データを提供するものであり、本研究の大きな成果である。第二に、アジア全体の植民地化が進む時代背景にあって、バンコクは欧米の計画や設計をとりいれながらも独自の近代化路線を実現していたこと、そしてそれがラーマV世のビジョンに基づいていたことを示した点である。最後に、ラーマV世のビジョンが、道路・鉄道・路面電車といった近代交通モードと近代以前の主交通モードであった水運とがそれぞれ役割を分担しながら、一体としてのバンコク近代交通網形成を志向し、実現したことを論じた点である。

 これらの成果は、現在決して充分であるとは言えない近代バンコク都市計画史の今後の展開に資する、重要な基礎的知見をもたらすものと高く評価することができる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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