No | 119700 | |
著者(漢字) | 小松,信義 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | コマツ,ノブヨシ | |
標題(和) | 数値的不可逆性に関する分子動力学的研究 | |
標題(洋) | Numerical Irreversibility in Molecular Dynamics Simulation | |
報告番号 | 119700 | |
報告番号 | 甲19700 | |
学位授与日 | 2004.09.30 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(工学) | |
学位記番号 | 博工第5905号 | |
研究科 | 工学系研究科 | |
専攻 | 航空宇宙工学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | はじめに Newtonの運動方程式に代表されるミクロな物理法則は時間可逆であるが,我々が日常経験するマクロな物理現象は不可逆である。このマクロな不可逆性の問題を説明するため,19世紀にBoltzmannは気体分子運動論を用いてその証明を試みている。しかし,不可逆性の問題は未だ解決されておらず,現在も様々なアプローチに基づいて研究が行われている。例えば,N体解析手法として分子熱流体の分野にも普及している分子動力学法(Molecular Dynamics:MD)を用いて,不可逆過程に関する数値的研究が近年盛んである。しかしながら,MDによるN体系の数値解析には,解決を要する基本的な問題が幾つか残されている。その一つが数値解析に特有な浮動小数点演算に起因する丸め誤差の問題であり,実は,この制御不能な丸め誤差が不可逆過程に関する数値的研究の障害となっているのである。 丸め誤差の影響は,不可逆性の問題として代表的な時間反転モデルを解析する場合に顕著に現れる。時間反転モデルとは,非平衡な初期状態から平衡状態へN体系を時間発展させ,ある時刻t=trevに全粒子の速度ベクトルを一斉に反転させる力学モデルのことである。力学の可逆性に基づくと,速度反転後にBoltzmannのH関数(-Hがエントロピーに相当する)は,平衡状態から徐々に非平衡状態に戻り,時刻t=2trevには厳密に非平衡な初期状態に復帰するはずである。この平衡状態から非平衡状態への遷移は,熱力学の第二法則に代表されるマクロな不可逆性には相反するが,ミクロな物理法則には抵触していない(可逆性パラドックス)。しかし,浮動小数点演算に基づく通常のMD(Float MD)を用いると,アルゴリズム上は可逆であるにも関わらず,時間反転後にH関数は初期状態に復帰せず不可逆性が発生する(図1(I))。このため,Float MDはミクロな力学法則の可逆性を厳密には模擬していないものの,マクロな不可逆性を含めて物理現象を模擬しているとも解釈されている。しかし,この数値的な不可逆性の特性は不明であるため,ここでは,丸め誤差がマクロな物理現象に類似した数値的不可逆性を誘発させると考えられていると指摘するに留めておこう。 一方,通常のMD解析において,このような丸め誤差の影響はほとんど考慮されていない。なぜならば,丸め誤差は充分小さく,解析結果に与える影響は無視できると多くの研究者が期待しているからである。しかし,丸め誤差が発生する通常のMD解析では,ノイズ効果の検討に不可欠な「ノイズなし」という条件設定ができないため,実は,不可逆性等に関するノイズの影響は現在まで定量的に評価されていないのである。従って,MD解析におけるノイズの影響を明らかにすることは,可逆なN体系に発生するマクロな不可逆性の特性を解明する上で重要であるだけでなく,MDを解析・設計ツールとして使用している研究者にとっても意義あるものと考えられる。 以上を踏まえて,本論文では,MD解析において微小ノイズが数値的不可逆性等に与える影響を解明するため,著者の提案する新手法を用いて,微小ノイズ効果の定量的検討を試みる。はじめに,第2章で,本研究で使用するMD手法の解説を行う。第3章では,MD解析における数値的不可逆性の知見を得るため,時間反転モデルを解析対象にして,数値的不可逆性と微小ノイズの相関等の詳細な検討を行う。最後に,第4章で,具体的な工学問題を対象に微小ノイズの影響を把握するため,一例として,非平衡度の強いナノクラスタ生成現象であるfragmentationを取り上げ,微小ノイズ効果を検討する。尚,本要旨では,第3,4章の概要について以下にまとめるものとする。 時間反転モデルを用いた数値的不可逆性の検討 MD解析における数値的不可逆性の特性を解明するため,再び時間反転モデルを考えよう。例えば,図1(I)に示す通り,Float MDを用いるとH関数は初期状態に復帰せず,数値的な不可逆性が発生する。しかし,1993年,LevesqueとVerletがBit可逆アルゴリズム(Bit MD)を開発し,力学の可逆性に基づく時間反転モデルの厳密な解析が可能になった。Bit MDは,時間可逆なVerletアルゴリズムに整数演算を組み合わせることで丸め誤差の影響を取り除き,厳密な時間可逆性を実現するアルゴリズムである。具体的には,セル長Lと適当な整数Mに基づき最小格子幅△L(=L/M)を設定し,この最小格子幅を長さの基準単位として座標空間を離散化する。従って,粒子は離散化された座標空間の格子点上のみを移動する。このBit MDの可逆性を確認するため,図1(I)と同一条件の時間反転モデルにBit MDを適用してみよう。すると,時間反転後にH関数は厳密に初期状態に復帰し,ミクロな力学の可逆性が実現されていることが分かる(図1(II))。ここで,Bit MDには不可逆性は発生しないことから,逆に,Bit MDに制御されたノイズ(Controlled noise)を付加すれば,そのノイズが誘発するマクロな不可逆性の効果だけを厳密に評価することが可能になると考えられる。 このアイデアに基づき,本論文では,MD解析における微小ノイズ効果を検討するため,Bit MDにControlled noiseを付加するという新手法を提案した。このControlled noiseのパラメータには,ノイズが与えられる粒子数:NCN,ノイズが付加される頻度:FCN,ノイズ粒子のシフト量:dXCNの3つがある。具体的には,任意に選択したNCN個の粒子をシフト量dXCN,頻度FCNでランダムな方向に移動させることでControlled noiseを与える。このBit MDとControlled noiseを組み合わせた新手法により,N体系の微小ノイズ効果を定量的に検討することが可能になった。本論文では,MD解析における数値的不可逆性の特性を解明するため,斥力部分のみを考慮したrepulsive Lennard-Jones potentialを用いた2次元解析により,(1)力学系の変化と数値的不可逆性の相関,(2)ノイズ量と数値的不可逆性の相関 を検討した。さらに,通常のFloat MDに発生する丸め誤差による数値的不可逆性の特性を明らかにするため,(3)Float MDの解析結果との比較 を行った。尚,本検討に先立ち,アルゴンの自己拡散係数の解析等(第2章)により,事前にBit MDの妥当性を確認している。 力学系の検討例として,温度を変化させた場合の結果を図2に示す。ここで,ノイズパラメータは最小値に設定している。すなわち,全粒子1600個の中から1個の粒子を任意に選択し,その1個の粒子に最小格子幅1△Lに相当するシフト量(粒子直径の7.5×10-8倍)を,時間反転時の1回だけ与える。また,図2の縦軸,横軸はそれぞれH関数の復帰度RR,反転時刻trevを表している。尚,各反転時刻におけるH関数の復帰度RRは,図1(II)のdHと△Hを用いて,RR=dH/△Hと定義され,可逆性の喪失度(不可逆性)に相当するパラメータである。図2から,反転時刻trevの増加,または温度T0の増加に伴い,H関数の復帰度RRは急激に減少することが分かる。ここで,上記三項目の検討から得られた主要な成果を以下にまとめる。 ●力学の可逆性を厳密に模擬するN体系において,微小ノイズが不可逆性を誘発する様子がはじめて定量的に示された(図2)。 ●力学系(温度,密度)が同一,すなわち系の不安定性が同一な条件下でも,ノイズ量の変化がH関数の復帰度RR(不可逆性)に影響することが判明した(図3)。すなわち,従来の検討は不可逆性の一面だけしか捉えていないことが示されると同時に,本手法の有効性も明らかになった。 ●Float MDに発生する丸め誤差の特性は,Bit MDに付加した適切なノイズを用いて模擬できることが判明した(図4)。 工学的問題への適用例 MD解析が用いられる工学的問題において丸め誤差の影響を把握するため,一例として,非平衡度の強いナノクラスタ生成現象について微小ノイズ効果を検討する。ナノクラスタとは,半導体製造,表面処理等の分野に応用される粒子数103オーダ以下の粒子群であり,例えば,高圧の液滴が真空中で急膨張すると生成される。この現象は'fragmentation'と呼ばれ,燃料噴射等に見られる現象でもあるため,MDを用いて盛んに研究されている。従って,本研究では,3次元fragmentation解析を対象に,丸め誤差を模擬した微小ノイズの影響を検討した。その結果,以下の知見が得られた。 ●微小ノイズがクラスタ分布,温度等のマクロ量に与える影響は比較的小さく,本解析では通常のFloat MDを用いても大きな支障がないことが判明した。但し,微小ノイズの影響は小さいものの,ノイズ量が増加するとその影響も増大するため,温度制御等により発生するノイズに関しては別途注意が必要である。 まとめ 本論文では,MD解析において微小ノイズが数値的不可逆性等に与える影響を解明するため,Bit MDによる新手法を用いた検討を行った。その結果,数値的不可逆性と微小ノイズの相関が定量的に解明され,また,丸め誤差による数値的不可逆性の特性が明らかになった。さらに,ナノクラスタ生成現象に関する微小ノイズ効果の検討から,この新手法が不可逆性の検討だけではなく工学的問題に関しても広く適用できることが示された。 図1 時間反転モデルによるH関数の時間発展 (時刻t=trew=a,b,c,dにおいて時間反転操作(速度ベクトルの反転)を実施した4ケースの解析例) (I)Float MD (II)Bit MD 図2 力学系(温度)の効果 図3 ノイズ粒子数NCNの効果(NCN/N=0.06%~100%) 図4 Float MDの特性 | |
審査要旨 | 修士(工学)小松信義提出の論文は「Numerical Irreversibility in Molecular Dynamics Simulation(数値的不可逆性に関する分子動力学的研究)」と題し、本文5章及び付録3項から成っている。 高層大気を飛行する機体が遭遇する希薄な流ればかりでなく、マイクロマシーンが遭遇する流れなど、分子運動そのものを取り扱うことが必要となる流れの解析では、分子動力学的手法が広範囲に用いられている。その一方、分子動力学法には基本的な課題も残されている。その一つが、本論文で取り上げるものであり、多粒子系の時間発展において生じる不可逆性の由来に関するものである。すなわち、分子動力学の基本となる力学系は、多粒子系の時間発展として可逆となるにもかかわらず、計算機による演算の結果は不可逆性を示すというものである。物理現象を表すという点では、計算機による演算結果は望ましい性質を示すものの、その由来は不明であり、応用に際して予想外の結果を与える懸念も生じる。本論文は、分子動力学法における不可逆性の由来を明確にし、その原因を定量化する手段を与えることを目的としている。 第1章は序論であり、分子動力学法において生じる不可逆性について、これまでの認識を概観し、物理現象としての多粒子系において生じる不可逆性の由来にも通じる問題であることを述べている。分子動力学法において生じる不可逆性は、計算機による演算上避けられない丸め誤差がその由来であるとの予想が述べられる。一方、そのような丸め誤差を回避できる分子動力学法が最近開発され、その手法に基づくことにより、丸め誤差の影響を定量化できる可能性があることが述べられている。 第2章では、分子動力学法について概観し、とくに、Levesqueらによって最近開発された、丸め誤差の影響を回避できる手法(Bit MD法)を概説している。この手法では、空間を微細格子に分け、各分子は格子点上のみの位置をとり得るものとしている。典型的な格子の大きさは、分子の大きさの10-7程度であり非常に小さい。このBit MD法の分子動力学法としてのパフォーマンスの検証として、アルゴンの自己拡散係数を求め、浮動小数点演算を用いた標準的な分子動力学法(Float MD法)による結果との比較検討を行い、信頼できる値が得られることを確認している。 第3章では、不可逆過程を検討するためのモデルとして、よく用いられる速度反転問題を概説し、それに基づいて不可逆性の現れ方をBit MD法を用いて詳細に検討している。速度反転問題とは、初朔状態において非平衡な状態にある、箱内の多数の分子の挙動を考えるもので、時間とともに平衡状態に近づいた後、ある時刻においてすべての分子速度を反転し、その後の時間発展を見るものである。即ち、分子速度反転時刻以降は、時間が逆転したことに相当する。従って、もし時間発展が可逆的であるとすると、同じ時間の後、初期の状態が出現することになる。Bit MD法による結果は厳密に可逆的な時間発展を示すことを確認している。この確認においては、分子個々の位置、速度が厳密に復帰することのみならず、可逆性の定量的把握のため、エントロピーに相当する量として分子の速度分布関数から定義されるH関数を用いて、初期の値に復帰することを確認している。一方、Float MD法による結果は、従来より知られているように、不可逆的な振る舞いを示し、初期状態は出現しない。 まず、このような不可逆的な振る舞いが丸め誤差に起因するとの予想のもと、速度反転時に極微少な数値的ノイズを与え、それが元になって不可逆性が出現することを見いだしている。極微少な数値的ノイズとは、特定の1分子の座標を1格子長分ずらす操作であり、通常無視し得るほど極微少なずれであると言える。 つぎに、不可逆性の現れ方と、系を規定しているパラメータ(温度、密度)との関係を明らかにするため、不可逆性の現れかたをH関数の復帰度(初期のH関数の値と、初期に復帰すると目される時刻におけるH関数の値との差)で評価し、その関係を調べている。系を規定している種々のパラメータは系の不安定性を変え、その結果として、H関数の復帰度として不可逆性の現れ方に影響を与える。一方、種々のパラメータは、いわゆる衝突頻度として、不可逆性の現れ方に影響を与えることも明らかにしている。 Float MD法においては、単精度、倍精度演算等の演算精度に依存して、丸め誤差の大きさは異なり、不可逆性の表れ方も異なる。この振る舞いを明らかにするため、制御された数値的ノイズの「量」(数値的ノイズの大きさ、頻度、及びノイズが与えられる粒子の数)の効果を検討している。Float MD法における演算精度による不可逆性の表れ方の違いは、数値的ノイズの「量」に依存していることを見いだし、具体的にFloat MD法で現れる数値的ノイズの「量」を定量化している。 第4章では、実用問題において、丸め誤差に由来する影響を検証することを目指し、フラグメンテーションの問題を取り上げている。フラグメンテーションとは、高温高圧の物質が急膨張した際、クラスターが生成される過程であり、さまざまな工学的応用を持つものである。この現象は高い非平衡性を示し、数値的微少ノイズを含む様々なノイズに敏感であることが予想されている。この問題に対して、Bit MD法をもとに、様々な丸め誤差程度の数値的ノイズの効果を検討している。その結果、丸め誤差程度の数値的ノイズは、生成されるクラスターの量・サイズ分布には、さほどの影響を与えないことが結論され、従来の研究の妥当性が示されている。 第5章は結論であり、分子動力学法において現れる不可逆性の由来が数値演算上生じる丸め誤差であることを確認し、さらに、実用問題においても、そのような丸め誤差が決定的な誤差要因になるかどうかの検証法を提案したことが述べられている。 以上要するに、本論文は分子動力学法において生じる不可逆性の原因を明確にするとともに、原因である丸め誤差の与える効果を検証する新たな手法を提案しており、宇宙工学に貢献するところが大きいと認められる。 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 | |
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