学位論文要旨



No 119707
著者(漢字) 中村,光晃
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ミツテル
標題(和) スパイク時刻依存シナプス可塑性によるシナプス集団の学習への影響
標題(洋)
報告番号 119707
報告番号 甲19707
学位授与日 2004.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5912号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 渡辺,正峰
 東京大学 教授 古田,一雄
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 助教授 出町,和之
 玉川大学 教授 深井,朋樹
内容要旨 要旨を表示する

 動物における情報処理の主要を担う神経回路は、ニューロンがシナプスと呼ばれる構造を介して結合したネットワークである。シナプスはニューロンからニューロンへの情報伝達を行うが、ニューロンの出力であるスパイクとも呼ばれる電位のパルス発火は発生するかしないかのデジタル的な信号であるのに対して、シナプスにおける情報伝達はアナログ的であり、このシナプスにおける情報伝達の効率をシナプスの結合強度という。シナプスは結合強度を変化させることによって同じニューロンからなるネットワークの挙動を変化させることができ、神経回路の学習や記憶といった機能にとって極めて重要な働きをする。この性質をシナプスの可塑性という。

 こうしたシナプスの可塑性がどのような場合にどのような形で起こるかといったルールについては、古くから考えられているのは、シナプス前後のニューロンが同時に発火率を上げたときに、そのシナプスが強化されるというHebb則である。Hebb則は、発火率を基準とするため、ある期間のスパイク発火の活発さによって活動状態を判断することになる。これに対して、比較的最近になって、シナプス前後のスパイクの発火時刻の関係が結合強度の変化の大きさ、さらにはそもそも結合が強化されるのか弱化されるのかを左右するという実験結果が得られている。その結果では、シナプス前ニューロンがシナプス後ニューロンよりも少し先に発火するとシナプスが強化され、逆にシナプス前ニューロンがシナプス後ニューロンより少し遅れて発火するとシナプスが弱化されるというもので、このような可塑性をスパイク時刻依存シナプス可塑性(Spike-Timing Dependent synaptic Plasticity; STDP)と呼ぶ。STDPの時間依存性については様々な生物・部位でいくつかのバリエーションが知られている。その中でも主な研究対象とされるのは、結合強度wに起こる変化Δwの時間依存性を示す関数をG(t)とするとt>0ではG(t)=Aexp(-t/τ)、t<0ではG(t)=-A'exp(t/τ)となるようなタイプのSTDPである(ただし、A'>A>0)。これは、シナプス前ニューロンの発火がシナプス後ニューロンの発火に寄与していると考えられる場合にそのシナプスを強化し、逆の場合にシナプスを弱化すると言う、ニューロンの発火の関係にある因果律に適する必要なシナプス結合のみを選択してその他を淘汰する機能に結びつくためである。

 STDPの存在によって、ある一つのシナプス後ニューロンに結合をもつ多数の興奮性シナプスの結合強度の分布が、入力を与えつづけることによってそれぞれSTDPによって個々のシナプス結合強度が変化し、全体として相対的に強い結合強度を持つシナプスのグループと、弱い結合強度を持つシナプスのグループに分かれる、シナプス競合と言う作用が見られ、シナプス後ニューロンの発火率変動が入力発火率の変動に比べて小さく抑えられる発火率調整が起きることが、Integrate-and-Fireモデルニューロンを用いたシミュレーションやFokker-Planck方程式

(d/dt)P(x,t)=-(d/dx)A(x)P(x,t)+1/2(d/dx)(d/dx)B(x)P(x,t)

を用いた理論的解析から予測されている(P(x,t)は時刻tにおけるxでの分布密度)。

 他方、実験によって、STDPによるシナプス結合強度の変化量が、単にシナプス前後のスパイクの相対的な時間関係のみではなく、元のシナプス結合強度にも依存する、というデータが示されている。このような、可塑性がスパイクの時間関係とシナプス結合強度の両方に依存するSTDPを乗法的STDPといい、それに対してその以前から考えられていた、可塑性がスパイクの時間関係のみに依存するSTDPを加法的STDPという。Integrate-and-Fireモデルニューロンを用いたシミュレーションに発見された乗法的STDPを適用すると、シナプス結合強度の分布が二極化せず、単一のピークを持つようになり、シナプス競合が起きないとする結果が発表されている。

 STDPによる結合強度の変化量が示す依存性について、元のシナプス結合強度の大きさが異なれば変化量も異なると言う乗法的な依存性は、必ずしも特殊なケースではなく広い範囲で見られても不思議はないと考えられる。一方で、シナプス競合が生じることによって多数の入力から処理すべき情報を与えるシナプスのみを選択的に残す淘汰作用や、ダイナミックレンジを適切に保つ発火率調整が働くメリットは大きいと考えられる。

 そこで、本論文では、乗法的でありながらシナプス集団の競合作用及びシナプス後ニューロンの発火率調整作用を示すようなSTDPルールを新たに提案する。具体的には、従来の加法的STDPルールで時間依存性を示す関数をG(t)とすると、本論文で提案する乗法的STDPルールは結合が強化される場合にシナプス結合強度wの変化量はΔw=(w+ε)(1-w)G(t)、結合が弱化される場合にΔw=w(1-w+ε)G(t)のように表される(ただし、0≦w≦1)。εはノイズ成分で、本論文では指数分布にしたがうものとしている。また、加法的STDPにおいてFokker-Planck方程式に基づきシナプスの結合強度分布の変化を解析的に予測する手法を、任意の乗法的STDPルールに適用できるように拡張し、本論文で提案する乗法的STDPルールについてシナプス結合強度の平衡状態における分布を予測した。

 本論文で提案した乗法的STDPルールについて、拡張したFokker-Planck方程式から解析的に予測した平衡状態における結合強度分布、およびIntegrate-and-Fireモデルニューロンを用いたシミュレーションによる検証の結果、新たに提案する乗法的STDPルールによって、シナプス集団が競合作用を起こすこと、及び、シナプス集団の競合作用によってシナプス後ニューロンの発火率変動が入力の長期的な発火率変動に比べて小さくなる発火率調整作用が生じることを示した。

 これまでに述べてきたシミュレーション及びFokker-Planck方程式による解析では、入力として情報表現力に乏しいPoisson分布に従うランダムなスパイク列を想定している。実際の動物で意味のある情報を処理できる神経回路をSTDPによる学習で獲得するモデルとして、鳥類や哺乳類の聴覚系にあると考えられる、左右の耳に入った音の位相差を検知する神経回路を、提案した乗法的STDPを用いて学習できることを、シミュレーションを用いてしめした。

 ここまで、STDPによるシナプス集団の競合や淘汰といった作用は、単一のシナプス後ニューロンに結合し、共通のシナプス後ニューロンスパイクの影響を受けるモデルで考えてきている。回路を構成する素子としてのニューロンは、その動作の再現性があまり高いとはいえず、STDPによるシナプス集団の学習も、確率的な要素が大きい。先に示した音の位相差検知回路を含め、実際の神経回路は多数のニューロンから構成されるため、それらのニューロンが独立して単に確率的に学習するのみでは、全体として効率のいい情報処理を行う回路を構築するのは困難である。

 そこで、シナプス後ニューロンの間に、主に抑制的な相互作用を導入することで、確率的ではありながらもKohonenの自己組織化マップモデルに用いられるようなWinner-Take-Allによる学習を行わせることで、神経回路を構成するニューロンが入力の位相空間を適切に分担するモデルを提案し、これをシミュレーションによって検証した。さらに、位相空間内で近い関係にあるニューロンとの間には興奮性結合を導入することによって、学習によって獲得される神経回路が位相保存マップを構築しうることも示した。

審査要旨 要旨を表示する

 「スパイク時刻依存シナプス可塑性によるシナプス集団の学習への影響」と題する本論文は、シナプス結合強度のスパイク時刻依存シナプス可塑性(STDP)に着目し、シナプス結合強度分布の理論的な予測手法、および神経回路の働きに有利になると考えられる機能を発現しうる新たなSTDP更新則を提案している。また、生体内で実際の情報処理を行うのに用いられると考えられている神経回路を学習によって獲得するモデルにおいてSTDP以外に適切な水平結合を必要とすることを示している。本論文は大きく2部構成、全体で9章から構成されている。

 第1章は序論であり、本論文が対象とする、STDPに関する電気生理学的な知見、およびSTDPの存在によって実現されると考えられる機能について、大まかに説明している。近年になって新たに知られるようになった、STDPによるシナプス結合強度の変化量が元のシナプス結合強度にも依存する、乗法的STDPについても簡単に説明している。

 第2章は本論文の目的を述べている。まず第I部では、乗法的STDPの存在下におけるシナプス集団の結合強度分布変化を記述するFokker-Planck方程式を提案している。合わせて、機能的にシナプス競合や発火率調整を示しうる乗法的STDP更新則も提案している。また第II部では、音源定位神経回路のSTDPによる学習について、ニューロン間にメキシカンハット型の結合強度分布を持つ水平結合を導入することで確率的Winner-Take-Allが実現し、複数のニューロンが回路全体として適切に役割を分担できるようになることを述べている。さらに、第I部で提案する乗法的STDP更新則を用いても、加法的STDPと同様に音源定位神経回路を学習できることを示している。

 第I部はFokker-Planck方程式をシナプス集団の結合強度分布のSTDPによる経時変化に適用する手法を拡張し、乗法的STDPによるシナプス結合強度分布の時間変化を予測する手法を提案している。

 第3章はSTDPによるシナプス結合強度分布への影響に関する先行研究についてより詳細に説明している。乗法的STDP以前に知られていた加法的STDPを対象にしてシミュレーションで調べられた結果ではシナプス競合や発火率調整といった機能が実現されるのに対して、ある種の乗法的STDPではそれらの機能が実現しない、とされていることを紹介している。

 第4章はFokker-Planck方程式を用い、モデルニューロンの挙動を時間に沿って追跡することなく、シナプス結合強度分布のSTDPによる変化を予測する手法を乗法的STDP更新則全般に適用できるよう拡張する手法を提案している。

 第5章は第4章で提案したFokker-Planck方程式を用い、シミュレーションによる先行研究で用いられたある種の乗法的STDPに基づいて平衡状態におけるシナプス結合強度分布を導出している。この結果は、先行研究のシミュレーションによる結果と一致するとしている。また、加法的STDPと同様にシナプス競合や発火率調整を示すような乗法的STDPを提案し、このSTDP更新則に対してFokker-Planck方程式およびモデルニューロンを用いたシミュレーションでその性質を示している。

 第II部はSTDPによって音源定位回路を学習するモデルについて、複数のニューロンが存在する場合はSTDPに加えて水平結合を用いることで位相保存マップを形成できることを示そうとしている。

 第6章はニューロンの情報符号化に関する大きな二つの仮説、発火率符号化と時間符号化のうち、時間符号化的な性質が強いという観点から音源定位能力に着目し、音源定位に関する生理学的な知見、およびシミュレーションを用いた先行研究について紹介している。音源定位神経回路の後天的な獲得手段としてSTDPによる学習のみのモデルが抱える問題点を指摘している。

 第7章は第6章でSTDPのみを用いる音源定位回路学習モデルの問題点を解決する手段として、ニューロン間に広い範囲の抑制性結合を持たせることで確率的なWinner-Take-Allを実現してニューロン相互の役割を分担させ、同時に狭い範囲の興奮性結合を持たせることによって位相関係を保存し、全体として位相保存マップを形成できることを示している。

 第8章は第5章で提案した、加法的STDPと同様にシナプス競合・発火率調整を可能にする乗法的STDP更新則を用い、単一ニューロンで加法的STDPと同様の学習が可能であり、複数ニューロンを持つネットワークモデルでは広い範囲に抑制性、狭い範囲に興奮性の水平結合を導入することで、全体として位相保存マップを形成しうることを示している。

 第9章は論文全体を結論し、乗法的STDPに対応したFokker-Planck方程式によるシナプス結合強度分布予測手法を提案し、シナプス競合・発火率調整機能を持ちうる乗法的STDP更新則が存在しうることを示したとしている。また、音源定位神経回路において、STDPに加えて適切な水平結合を導入することで位相保存マップを形成できると主張している。

 以上、近年発見されたスパイク時刻依存シナプス可塑性に対して、理論的、数値シミュレーション的解析を行うことによって、生体神経網の自己組織化および学習の研究に大きく貢献している。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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