学位論文要旨



No 119716
著者(漢字) 叶,
著者(英字)
著者(カナ) イエ,シュージ
標題(和) 分子固体中での振動ダイナミクス
標題(洋) Vibrational Dynamics in Molecular Solids
報告番号 119716
報告番号 甲19716
学位授与日 2004.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5921号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 助教授 新井,充
 東京大学 助教授 大久保,達也
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 助教授 三好,明
内容要旨 要旨を表示する

 近年、二次爆薬などの結晶固体における衝撃誘起化学反応過程が注目されているが、いまだ衝撃誘起の化学反応の開始過程は解明されていない。衝撃誘起された瞬間的な高圧力、状態下での化学反応の開始過程に関してはDlottやWilliamsによって二つの異なる理論が提案されている。ひとつの理論は衝撃波によって結晶中の分子振動がまず励起され、この振動励起エネルギーによって化学反応が開始されるという理論である。一方、衝撃波により、電子励起されこれにより化学反応が引き起こされるという考え方もある。この二つの機構のどちらが正しいのかはいまだ明らかにされていない。両方のプロセスが同時に進行しているものと予想されるが詳細は不明である。本研究においては、二次爆薬などについての衝撃誘起振動励起過程を実験的・理論的に明らかにすることが目的である。また、衝撃圧縮過程に対する分子結晶の応答過程をモニターするために時間分解ラマン分光法を用いた観測を行った。衝撃波圧力はVISAR(Velocity Interferometer System for Any Reflector)により測定した粒子速度を用いて評価した。

 弟1章は序論であり、近年の衝撃起爆過程に関する研究の概要を特に分子論の観点から述べた。

 第2章はRDX,β-HMX,Tetryl,硝酸アンモニウム(AN)などの高エネルギー物質について、フォノンとビブロンの間のエネルギー移動過程についての詳細を3-300Kの温度範囲でラマンスペクトルの観測を行って検討した。ANは離子結晶であるが、時として爆轟することがあり、たびたび大規模な事故が引き起こされえている。したがってこのような物質の衝撃起爆過程の解明は安全工学上とくに重要である。低温ラマンスペクトルにおいて、いくつかのニトロ基のN-N変形振動モードに帰属される振動モードがDavydov分裂を起こしていることがRDXおよびβ-HMXで確かめられた。またフォノンバンドの線幅は結晶の質と不純物に極めて敏感であることが確かめられた。不純物や格子欠陥によるスペクトル形状に及ぼすこれらの不均一幅の影響をデコンボリューションにより取り除いた。不均一幅は観測したほとんどのスペクトル線で温度によらず一定であった。均一幅の温度依存はフォノンとビブロンの緩和過程によって説明される。均一幅の温度依存の解析から、RDX,β-HMX,Tetrylについては緩和過程の主要な部分は3-フォノン+位相緩和によって決められることが明らかになった。ANについては710cm-1のモードは4-フォノン過程によってのみ緩和する。これはAN結晶の最大のフォノンモードが246cm-1であることによる。他のモードは3フォノンモードと位相緩和過程により緩和する。RDXにつては200-900cm-1、β-HMXについては200-1450cm-1、Tetrylについては200-1100cm-1、ANについては700-1460cm2-1の範囲で低温ラマンスペクトルを測定し、均一幅からフォノンとビブロンの寿命を求めた。

 ビブロンについて寿命は2.5-11psの範囲内であり、またフォノンについては16-53psの範囲内であった。フォノンの寿命はモードの波数の増加とともに短くなることが見出された。

 第3章では2章で測定したフォノンおよびビブロンに関する寿命のデータに基づいて、フォノンとビブロンの間のエネルギー移動速度を理論的に評価した。Dlo++により提案された理論によれば、ドアウエイ状態(フォノンとビブロンのエネルギーの中間領域のエネルギーを持つ量子状態)のエネルギー移動速度はドアウエイ状態の状態密度jと温度T=0Kにおける寿命(τ1(0))の積に比例する。ドアウエイ状態における寿命の平均値はRDXについて5.3、β-HMXについて5.1、Tetrylについて4.3、ANについて5.5psである。この結果および文献から、この大きさの分子について寿命は大きな違いはなくほぼ一定であると結論できる。この仮定の下ではドアウエイ状態における総括エネルギー移動速度は状態密度jに比例する。PETN,β-HMX,RDX,Tetryl,TNT,FOX-7,m-DNB,ANTA,PN,NQ,NTOおよびDMNについて、基準振動モードを密度汎関数法(B3LYP/6-31G(d))により計算した。またTATBについても基準振動数を経験的な分子内ポテンシャルを用いて評価した。計算した基準振動数に基づいて、200-700cm-1の範囲(ドアウエイ状態)の状態密度jを求めた。これらの分子にっいて状態密度と落鎚感度との間には極めてよい直線関係があることが見出された。このことは、爆薬の衝撃感度が分子のエネルギー移動速度と創刊することを示している。

 第4章においてはさらに精密な理論によりフォノンとビブロンのエネルギー移動速度を評価するために必要な結晶中のポテンシャルを開発した。第3章で用いた方法では、ビブロンのエネルギー移動速度に対するフォノンモードの影響が考慮されていない。Friedらの理論ではフォノンからビブロンヘのエネルギー移動速度をビブロンの状態密度とフォノンービブロンのカップリング項に基づいて評価できる。彼らは中性子散乱実験から得られる状態密度を用いて、0-600cm-1におけるフォノンからビブロンヘのアップコンバージョン速度をTATB,RDX,およびHMXについて評価した。一般に状態密度のデータは高エネルギー物質については得られていないので、本研究においてはPETNI,PETNII,δ-HMX,α-HMX,RDX,β-HMX,ANTA,DMN,NMなどの分子について結晶中のフォノンとビブロンの状態密度を計算により評価した。この計算を行うために、これらの分子結晶に適用できるフレキシブルポテンシャルを新たに開発した。分子内ポテンシャルとしては結合伸縮、結合角変角、面外変角、ねじれ振動、非結合間ポテンシャルを考慮し、分子間ポテンシャルとしては6-expバッキンガムポテンシャルにクーロン相互作用を加えたポテンシャルをPETN,HMX,RDX,DMN,NMに対しては用い、ANTAについては6-12L-Jポテンシャル、クーロンポテンシャルに水素結合ポテンシャルを考慮した。構成したポテンシャルの精度は内部エネルギー、格子定数などの結晶物性の計算値を実験値と比較することにより確認した。これらの物性値はここで開発したフレキシブルポテンシャルを用いて精度よく再現されることがわかった。

 第5章においては4章で開発したポテンシャルを用いて、PETNI,PETNII,δ-HMX,α-HMX,RDX,β-HMX,ANTA,DMN,NMについてエネルギー移動速度を計算した。これらの分子の状態密度をプログラムパッケージGULP(General Utiliy Lattice Program)を用いて評価した。単位分子体積あたりの非調和カップリング項の大きさはNM,DMN,ANTA,β-HMX,RDX,α-HMX,δ-HMX,PETN(I),PETN(II)について-28.61,-22.85,-30.26,-25.35,26.12,-23.70,-21.72,-20.91,-23.24kJmol-1〓-6であった。DMNおよびNMについてニフォノンービブロン状態密度は極めて疎であることが見出されたが、このことはこれらの分子のエネルギー移動速度が遅いことを示している。高エネルギー物質のエネルギー移動速度と衝撃感度の実験値を比較した結果、極めて良好な直線関係が見出された。PETN,HMX,RDXなどの高感度なエネルギー物質のエネルギー移動速度は低感度なANTA,DMN,NMなどの低感度な物質に比して数倍早い。PETN(I),PETN(II),β-HMX,DMN,NMについてはエネルギー移動速度の圧力依存性も0-3.0GPaの範囲で計算した。エネルギー移動速度は圧力の増加とともに増加することが見出された。PETN(I),PETN(II),β-HMX,DMN,NMの2.0GPaにおけるエネルギー移動速度は常圧に比して1.98,1.98,1.98,1.77,および1.71に増加する。3章および5章の結果は、衝撃起爆過程においてエネルギー移動過程が本質的な役割を果たしていることを示している。

 第6章においては、0-3.0GPaの範囲でPETN(I),PETN(II),β-HMX,DMN,NMについてビブロンの周波数の圧力依存を理論的に評価した。モードGmneisen係数γはラマンシフトの圧力依存から評価することができる。フォノンモードについてのγの値は、常圧から3.0GPaでDMNについては2.33から3.02へ、NMについては1.1から2.7へ、β-HMXについては1.27から2.94、PETN(I)については1.88から4.09へ、PETN(II)については1.5から3.2へと変化する。これらのモードグリューナイゼン係数の値をもちいて、衝撃波励起によるフォノンとビブロンの非平衡緩和過程を調べた。DMN,NM,β-HMX、PETN(II)、PETN(I)について、衝撃圧力が3.0GPaのとき衝撃波励起後の温度は430,418,387,412,427Kであった(初期温度300K)。衝撃波は背後ではフォノンモードの分布がビブロンの分布よりはるかに多い。

 第7章においては動的高圧力下での高エネルギー物質の挙動を調べた。レーザを用いて高エネルギー物質中に衝撃波を発生させ、時間分解ラマンスペクトルの測定により衝撃波により引き起こされる構造変化や化学変化を調べた。Nd:YAGレーザの基本波(1064nm、500mJ/pulse、FWHM=10ns)を用いて衝撃波を発生させ、532nm光を光源としてラマンスペクトルを測定した。プローブレーザと衝撃波発生レーザの遅延時間は遅延時間発生器により制御した。マルチレンズアレーにより衝撃波発生レーザの空間分布をトップハットにして、アルミニウム薄板上に集光し、アブレーションを起こさせる。このレーザアブレーションの反作用によりアルミニウム薄膜は高速に運動しアルミニウム薄膜に密着した高エネルギー物質中に高圧の衝撃波を生成する。この衝撃波のパラメータ(粒子速度など)はVISARにより測定し、保存則から衝撃波背後の圧力を評価した。これらのシステムを検証するために、硫黄の結晶中に衝撃波を印加し、構造相転移の様子をラマンスペクトル変化から観測した。ラマンスペクトル強度は衝撃波通過後に時間とともに減衰する。減衰したスペクトルの回復はきわめて遅く、3時間後においてもスペクトル強度は極めて弱かった。また1.3GPaの衝撃波を印加したとき、218および475cm-1のピークは5cm-1ほどシフトすることが確認されたが、このスペクトルシフトは文献値とよく一致した。今回開発したナノショック発生装置により、1-2GPa程度の高圧パルスが発生でき、また時間分解ラマンスペクトルの測定が可能となった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「Vibrational Dynamics in Molecular Solids (分子固体中での振動ダイナミックス)」と題し、分子結晶性の高エネルギー物質中でのフォノンとビブロン間のエネルギー移動速度を実験および理論の両面から解明すること、およびこれらのエネルギー移動速度と高エネルギー物質の起爆感度との間の関係を明らかにすることを目的として行った研究をまとめたもので、6章からなっている。

 第1章は序論であり、近年の衝撃起爆過程に関する研究の概要を述べている。衝撃誘起された瞬間的な高圧力状態下での化学反応の開始過程に関しては二つの異なる理論が提案されている。ひとつは衝撃波によって結晶中の分子振動がまず励起され、この振動励起エネルギーによって化学反応が開始されるという理論である。一方、衝撃により結晶中の分子が非結合状態へ電子励起され、これにより化学反応が引き起こされるという理論もある。前者の理論に注目し、分子結晶である高エネルギー物質についてエネルギー移動過程を実験的・理論的に研究して、衝撃起爆感度との関係を明らかにすることが本研究の目的であるとしている。

 第2章ではシクロトリメチレントリニトラミン(RDX),βテトラメチレンテトラニトロアミン(βHMX)、テトラニトロメチルアニリン(Tetryl)、硝酸アンモニウム(AN)などの高エネルギー物質について、3.3-300Kの温度範囲でラマンスペクトルの観測を行いスペクトル線幅の温度依存性を検討している。この線幅の温度依存性から、フォノンおよびビブロンの寿命を決定し、ビブロンの寿命はフォノンの寿命より短く、またフォノンの寿命は波数の増加とともに短くなることを見出だしている。

 第3章では、測定した寿命のデータに基づいてフォノンとビブロンの間のエネルギー移動速度を理論的に評価している。ドアウェイ状態(フォノンとビブロンの中間領域のエネルギーを持つ量子状態)のエネルギー移動速度はドアウェイ状態の状態密度と絶対零度における寿命の逆数の積に比例する。2章の結果から、ドアウェイ状態における分子結晶中のビブロンの寿命には大きな違いはなくほぼ一定であると結論できるが、この仮定の下では総括エネルギー移動速度は状態密度に比例する。13種類の高エネルギー物質について、基準振動モードを密度汎関数法により計算しドアウェイ状態の状態密度を求めて、これらの分子について状態密度と落鎚感度との間には極めてよい相関関係があることを見出し、このことから爆薬の衝撃感度が分子のエネルギー移動速度と相関すると推論している。

 第4章では、フォノンとビブロンの状態密度を評価するために必要な結晶中のポテンシャルを開発している。第3章での取り扱いでは、たとえばαHMXとβHMXのように同じ分子の異性体からなる結晶の起爆感度が大きく異なることは説明できない。異なる相の結晶のエネルギー移動速度を論ずるためには、結晶場(フォノン)とビブロンの相互作用を取り入れた理論によりエネルギー移動速度を求めなければならない。これを行うためには結晶中の分子のポテンシャルを構築する必要がある。分子内ポテンシャルとしては結合伸縮、結合角変角、面外変角、ねじれ振動、非結合間ポテンシャルを考慮し、分子間ポテンシャルとしてはバッキンガムまたはL-Jポテンシャルにクーロン相互作用を加え、水素結合を考慮したポテンシャルからなるフレキシブルポテンシャルを採用し、各種のポテンシャルパラメータを格子定数や内部エネルギーなどの実験値に一致するように決定している。

 第5章においては4章で開発したポテンシャルを用いて、11種のエネルギー物質についてエネルギー移動速度を計算している。計算に必要な状態密度は4章で構築したフレキシブルポテンシャルを用い、非調和項はポテンシャルの微分値から直接求めている。計算した高エネルギー物質のエネルギー移動速度と落槌感度の実験値を比較し、極めて良好な直線関係を見出している。

 第6章においては、エネルギー物質に衝撃波が印加されたときのフォノンとビブロンの励起過程を調べている。モードグリューナイゼン係数をスペクトルシフトの圧力依存から計算し、これを用いて衝撃波励起によるフォノンとビブロンの非平衡緩和過程を調べ、衝撃波背後ではフォノンモードの分布がビブロンの分布よりはるかに多いこと、低衝撃感度の物質ではフォノン励起が遅いこと、などを見出している。

 以上要するに、本論文は高エネルギー物質についてフォノンとビブロンの寿命を測定し、そのエネルギー移動速度を理論的に予測した点、エネルギー移動速度と起爆感度との間に強い相関があることを見出した点、さらに高エネルギー物質化学の分子論的方法論を提示した点において、結晶化学、高エネルギー物質化学および化学システム工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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