学位論文要旨



No 119729
著者(漢字)
著者(英字) Paul Rajib Kumar
著者(カナ) パール ラジーブ クマール
標題(和) ミツバチの脳においてキノコ体選択的に発現する遺伝子の同定および発現パターンの解析
標題(洋) Identification and Expression Pattern Analysis of Mushroom Body-Selective Genes from the Honeybee Brains
報告番号 119729
報告番号 甲19729
学位授与日 2004.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1102号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 三浦,正幸
 東京大学 助教授 仁科,博史
内容要旨 要旨を表示する

 ミツバチは社会性昆虫であり、精緻で多彩な社会性行動を示す。例えば、働き蜂はダンスという象徴的言語を用いて花蜜の位置を仲間に伝達する。また働き蜂では若齢蜂では巣内で育児を行い、老齢蜂は巣外で採餌をする(加齢分業)。ミツバチの脳はわずか約1mm3にも満たず、単純で小さな脳を持つミツバチがなぜこのような高度な行動ができるのかは古くから神経生物学の謎であった。

 キノコ体は昆虫脳の感覚統合及び記憶・学習の中枢であり、ミツバチでは特徴的に発達している。ミツバチキノコ体は全脳容積の10%以上を占めるが、ショウジョウバエやイエバエではキノコ体の容積は全脳容積の数%に過ぎない。一方でミツバチでは、キノコ体の構造が加齢分業に従って変化することも報告されている。働き蜂では、加齢に従い役割が変化するとき、神経細胞体が集合しているキノコ体の皮層の容積が30%も減少し、シナプスが集合しているニューロパイルの容積が15%増大する。このことからキノコ体の機能がミツバチの高度な社会性行動に関わると考えられてきた。

 キノコ体は34万個の固有の介在神経(ケニヨン細胞)によって構成されている。ミツバチにおいては、ケニヨン細胞は神経細胞体の大きさにより、大型と小型の2種類に分類される。大型ケニヨン細胞は嗅覚情報または視覚情報を専門に処理する2種類のサブタイプから構成される。一方で、小型のケニヨン細胞は様々な感覚情報を統合・処理をしていると考えられている。神経回路レベルの知見からもキノコ体は感覚情報処理の高次中枢であることが予想される。

 私が所属する研究室ではミツバチの高次行動に関わる候補遺伝子を同定する目的で、ミツバチ脳内でキノコ体選択的に発現する遺伝子群の検索及び同定が行われていた。これまでにDifferential display法(DD法)を用いて、スモールスケール(約1000種類の遺伝子を比較)での検索を行った結果、キノコ体選択的に発現する遺伝子として5種類の遺伝子(PKC, CaMKII, IP3受容体, IP3ホスファターゼ、 Mblk-1遺伝子)が同定されている。

 Mblk-1はキノコ体の中でも大型ケニヨン細胞選択的に発現し、DNA結合型の転写因子をコードする。生化学的な解析からMblk-1タンパク質は特定のDNA塩基配列(MBE配列)に選択的に結合し、Ras-MAPK シグナル経路のリン酸化によりその転写促進活性が制御されることが分かっている。またMblk-1の構造は種間で保存されており、そのホモログ遺伝子は線虫、ショウジョウバエ、マウス、ヒトにおいて同定されている。ショウジョウバエホモログであるE93は変態過程において昆虫ステロイドホルモン依存に誘導されるアポトーシスに関わる。昆虫ステロイドホルモンはE93, BR-C, E74などの転写因子群の発現を誘導することにより、変態過程においてアポトーシスなどの組織の再編成を誘導する。私はE93以外の昆虫ステロイドホルモンの機能に関わる転写因子(BR-C, E74)も、ミツバチキノコ体の機能に関わる可能性を考えて、これらのミツバチホモログ遺伝子を同定し、In situ hybridization法により脳内での発現解析を行った。その結果、予想通り両遺伝子は脳内でキノコ体に強く発現しており、さらにBR-C, E74は大型または小型ケニヨン細胞にそれぞれ選択的に発現していた。以上の点からミツバチでは昆虫ステロイドホルモンに関わる転写因子群(Mblk-1, BR-C, E74)は ケニヨン細胞のサブタイプ選択的に発現する遺伝子群の発現調節に関わることが示唆された。昆虫ステロイドホルモンはショウジョウバエの変態過程において、キノコ体の神経回路の再編成を引き起こす。またミツバチキノコ体は加齢分業に従って構造が変化することから、これらの転写因子群は成体脳における神経回路の再編成に関わる可能性を考えている。

 次はキノコ体選択的に発現する遺伝子を網羅的に同定する目的で、ラージスケールでの検索を行った。このことにより、キノコ体だけでなく大型ケニヨン、小型ケニヨン細胞選択的な機能に関わる分子機構がさらに明らかになることを期待した。方法はミツバチ脳をキノコ体、嗅覚中枢である触角葉、視覚中枢である視葉の3領域を解剖により単離し、Differential Diaplay法により3領域の遺伝子発現様式を比較した。約10000種類のバンドの強度を比較した結果、165種類のバンドがキノコ体選択的に検出された。そしてこれらのバンドに含まれるPCR断片を再増幅し、プラスミドにクローニングした。DD法は偽陽性の比率が高い為、他の方法で発現確認をする必要がある。また周辺バンドの混入により1種類の目的バンド由来に複数のcDNAがクローン化されることがある。そこで、それぞれ1種類のバンド由来に6つのクローンをプリントしたマイクロアレイを作製し、多数の候補cDNA群の発現を一度に確認することにした。二蛍光標識法を行うことにより、キノコ体vs視葉、及びキノコ体vs触角葉の2通りの組み合わせで発現強度を比較し、キノコ体に強く発現する候補クローンを112種類得た。全てのクローンについてIn situ hybridization法を行い、脳内の遺伝子発現を解析した結果、29種類のcDNA断片(200〜700bp)に対応する遺伝子がキノコ体のケニヨン細胞選択的に発現することが確認された。In situ hybridization法により、これらの遺伝子群はキノコ体での発現様式により、3種類(ケニヨン細胞全体:14種類、大型ケニヨン細胞選択的:11種類、小型ケニヨン細胞選択的:4種類)に分類できることが分かった。ホモロジー検索の結果、既知の転写因子(dachshund, fruitless(Clone No. 440, Clone No. 567))、Phospholipase C (Clone No. 231) 、 PDZドメインを持つ新規タンパク質(Clone No. 314)、GEF活性ドメインを持つ新規タンパク質(Clone No. 466)、イムノグロブリンドメインを持つ新規タンパク質(Clone No. 60)をコードする遺伝子群を同定した。これらの遺伝子がコードするタンパク質はケニヨン細胞固有のシグナル伝達経路や発現制御機構に関わると予想される。残りのcDNA断片はいずれも非翻訳領域をコードしており、遺伝子産物の構造は不明である。現在、ミツバチゲノムプロジェクトの結果を利用したin silico クローニングが進行中である。今後、同定した遺伝子群の情報をミツバチゲノムプロジェクトデーターベースとリンクし、遺伝子構造や遺伝子座の情報や遺伝子産物の機能についてデーターベース化する予定である。

 これまでの結果から神経可塑性や神経回路形成に関わる遺伝子が、ミツバチキノコ体に選択的に発現することが分かってきた。例えば、5種類のカルシウムシグナル伝達系に関わる遺伝子(PLC, PKC, CaMKII, IP3受容体, IP3ホスファターゼ)がキノコ体選択的に発現するが、これらの遺伝子はマウスなどのモデル生物を用いた解析から神経可塑性に関わる事が示されている。Mblk-1遺伝子は線虫ホモログを用いた遺伝学的解析から、線虫の正常な神経回路形成に必要であることが示されている。またdachshundについては成体脳における機能は不明だが、ショウジョウバエの変態過程においてキノコ体の発生に必要であることが分かっている。このようにミツバチのキノコ体では神経可塑性や神経回路形成に関わる因子をコードする遺伝子群の発現が協調的に増強している。このような発現様式が、ミツバチのキノコ体の神経機能を特化し、分業に伴う神経回路の再編成やダンス言語に代表される高度な脳情報処理を可能にしたのではないかと考えている。

 また逆にミツバチキノコ体で選択的に発現する新規遺伝子群は、動物一般の高次神経機能に関わる候補遺伝子になることが予想される。例えばClone No.318やClone No.579がコードするタンパク質は既知のドメインを持っておらず、神経系における役割は全く不明である。モデル生物を用いてこれらの因子の機能解析し、カルシウムシグナル伝達系などの既知のシグナル伝達経路との関連を明らかにすることにより、動物一般の高次神経機能に関わる新規なシグナル伝達経路の発見に寄与できるのではないかと思われる。また興味深い事に、Clone No. 466は、ヒトの遺伝病であるNiemann‐Pick 病の原因遺伝子のミツバチホモログであった。Niemann‐Pick 病の患者は知能発育低下、筋緊張低下、運動障害など神経系にも異常が観察されるが、原因遺伝子産物の神経細胞内における機能については不明な点が多い。Clone No. 466は大型ケニヨン細胞に限局して発現しており、大型ケニヨン細胞での細胞内シグナル伝達系を明らかにすることにより、ヒトの神経疾患に関わる新規な分子機構の解明にもつながることも期待している。

審査要旨 要旨を表示する

 ミツバチは社会性昆虫であり、8字ダンスによる記号的コミュニケーションを示すなど精緻で多彩な社会行動を示す。しかしながら、こうしたミツバチの高次行動の分子的基盤には不明な点が多い。キノコ体は、昆虫の脳で感覚統合や記憶・学習の中枢とされており、ミツバチでは特徴的に発達している。ミツバチのキノコ体は、細胞体の大きさが異なる2種類の介在神経(大型と小型のケニヨン細胞)から構成されており、その構造は性や分業により異なることが知られている。このことから、キノコ体の機能がミツバチの高度な社会行動に関わる可能性が考えられてきた。

 当研究室ではこれまでに、ミツバチの高次行動に関わる候補遺伝子を同定する目的で、Differential display法により、脳でキノコ体選択的に発現する遺伝子の検索が行われており、小規模の検索(約1,000本のバンドを比較)の結果、5種類の遺伝子(IP3受容体、IP3phosphatase、CaMKII、PKC、Mblk-1遺伝子)が同定されている。このうちMblk-1は、キノコ体の大型ケニヨン細胞選択的に発現し、Ras/MAPK経路により制御される塩基配列特異的転写因子をコードする。Mblk-1のホモログは、線虫やショウジョウバエ、マウス、ヒトにも存在し、ショウジョウバエホモログであるE93は、変態期に昆虫ステロイドホルモン(エクダイソン)依存に誘導され、幼虫組織のアポトーシスに関わることが知られている。またこの過程には、E93の他に、BR-CやE74というエクダイソン関連転写因子が関わることも報告されている。しなしながら、これらの転写因子の昆虫の神経系における機能は不明であった。

 本研究の第一章では、BR-CやE74がキノコ体の機能に関与するか調べるために、それらのミツバチホモログ遺伝子を同定し、In situ hybridization法により脳内での発現解析を行った。その結果、両者ともキノコ体選択的に発現しており、BR-Cは大型、E74は小型ケニヨン細胞にそれぞれ発現していた。このことは、ミツバチではエクダイソン関連転写因子群(Mblk-1, BR-C, E74)が、ケニヨン細胞のサブタイプ選択的な遺伝子群発現調節に関わることを示唆している。

 第二章では、キノコ体のサブタイプ選択的な機能に関わる候補遺伝子を同定する目的で、Differential display法とcDNA microarry法を組み合わせ、キノコ体選択的に発現する遺伝子の大規模な(約10,000本のバンドを比較)検索を行なった。まず、キノコ体、触角葉、視葉の3つの領域から調製したRNAを用いてDifferential display法を行なった結果、165本のバンドがキノコ体選択的に検出された。次いで、これらのバンドに含まれるPCR断片をサブクローニングした後、それぞれ1つのバンドに由来する6つのクローンをプリントしたcDNA microarrayを作製した。二蛍光標識法による解析の結果、キノコ体選択的に発現する候補遺伝子が112種類得られた。In situ hybridization法の結果、このうち29種類がキノコ体選択的に発現しており、キノコ体での発現様式により、3つのグループ(キノコ体全体に発現:14種類、大型ケニヨン細胞選択的:11種類、小型ケニヨン細胞選択的:4種類)に分類できることが分かった。また、ホモロジー検索の結果、転写因子やPhospholipase C、PDZドメインを持つ新規タンパク質、GEF活性ドメインを持つ新規タンパク質、イムノグロブリンドメインを持つ新規タンパク質をコードする遺伝子などが同定された。

 以上、本研究により、ミツバチ脳におけるケニヨン細胞のサブタイプ固有な細胞内情報伝達系や遺伝子発現制御の存在が初めて示唆された。また、キノコ体の機能がエクダイソン関連転写因子によって制御される可能性が指摘された。このような遺伝子発現制御様式を獲得したことで、キノコ体の神経機能が特化し、分業に伴う神経回路の再編成や、8字ダンスに代表される高度な情報処理が可能になった可能性がある。また逆に、キノコ体選択的に発現する遺伝子は、動物一般の高次神経機能に関わる候補遺伝子になる可能性がある。同定した遺伝子の一つは、知能発育低下や、筋緊張低下、運動障害など、神経系に異常を起こすヒトの遺伝病であるNiemann‐Pick 病の原因遺伝子のミツバチホモログであった。Niemann‐Pick 病の原因遺伝子産物の神経細胞における機能には不明な点が多い。この遺伝子は、ミツバチでは大型ケニヨン細胞選択的に発現しており、大型ケニヨン細胞の細胞内情報伝達系を明らかにすることにより、ヒトの神経疾患に関わる新規な分子機構の解明にもつながることが期待できる。以上、本研究は、分子神経生物学の進展に寄与するところがあり、博士(薬学)の学位を授与するに値すると判断した。

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