学位論文要旨



No 119732
著者(漢字) 井村,泰子
著者(英字)
著者(カナ) イムラ,タイコ
標題(和) 発達期大脳皮質における層特異的な一酸化窒素の産生に関する研究
標題(洋)
報告番号 119732
報告番号 甲19732
学位授与日 2004.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第72号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 久恒,辰博
 東京大学 教授 片岡,宏誌
 東京大学 助教授 青木,不学
 東京大学 助教授 松本,直樹
 東京大学 講師 尾田,正二
内容要旨 要旨を表示する

 成体の脳は学習、記憶、認識、思考などさまざまな高次脳機能を有している。これら高次機能は脳形成期に作られた神経回路網により、果たされていると考えられている。しかし、仮に脳形成期に作られた回路網のまま高次脳機能が果たされるならば、成体期を通じて学習することなく、思考力も変化しないことになってしまう。実際には、神経回路網の形成後も新しい知識を記憶したり、それにより認識が変化したりする。この自己改変性こそが高次脳機能を高次たらしめている。高次脳機能の可塑性はどのようにして成立するのか。これは神経科学の最も重要な問いの一つであることは間違いない。

 高次脳機能の変化は新しい回路網の形成を仲介として実現されているはずという視点で、脳回路網形成の機構についての研究が行われてきた。成体での新しい回路網の形成は、脳発達期において行われる回路網の形成機構に類似して起こると考えられる。発達期の脳回路が可塑的に変化する過程において、神経細胞上に発現する受容体(NMDA型グルタミン酸受容体)や酵素群(nNOSなど)が重要な働きをしていることが示唆されている。そして、この発達期において、一酸化窒素(NO)を産生する一酸化窒素合成酵素(nNOS)が一過的かつ大量に発現するといった特徴的な現象が報告されている。しかし、大量発現したnNOSがNOをどのように産生しているかについては今までのところ不明であった。なぜならば、NOは半減期の短いラジカル種であるため、通常の方法で直接測定することが困難であったからである。しかしながら、近年になって、NO特異的な蛍光物質が開発され、生理学的条件下でNOを直接観察、測定できることが可能になった。本研究は、この原理を利用して、発達期大脳皮質におけるNOの産生をリアルタイムで捉えた世界初の報告である。

 NOは神経伝達物質として、重要な働きをしていることが知られている。ほとんどの神経伝達物質は、液性因子であり、これらは情報伝達の際に神経細胞内から神経細胞外に放出されても、ごく近傍の細胞膜上にある受容体やトランスポーターと結合するに過ぎない。またその特性から、細胞膜を超えて拡散することはありえない。これに対し、NOは、三次元的な拡散、細胞膜透過性の点から極めてユニークな物理的性質を有するガス状のラジカル分子である。そのため、nNOSが活性化され、産生されるNOが三次元的に拡散することは、NOの機能を推定する上で非常に重要なポイントである。以上のことから、生理条件下で産生されたNOを検出・解析し、その産生部位を評価することは、今後のNOの機能を推定するために必須な情報であり、NOの機能解明の、さらには高次脳機能の理解のためのブレークスルーとなることが期待される。

 本研究では感覚系の回路網が形成される発達期の大脳皮質体性感覚野を題材にして、この時期に大量に発現するnNOSにより合成されるNOの産生部位を特定するために、NOの蛍光の標識物質を用いたNOイメージング法を確立し、リアルタイムでNOの検出・測定を行った。

 第1章 発達期大脳皮質体性感覚野におけるNOイメージング法の確立

 発達期大脳皮質において免疫組織化学的手法によりnNOSが一過的かつ大量に発現していることが報告されている。しかし、各々の論文によりnNOSの時間的空間的な発現分布が微妙に異なっており、この違いの根拠を知るために、これらの論文で使用された出生直後(P0)のマウスの脳を用いて免疫組織染色を行うことから、本研究を開始した。

 免疫組織染色の結果、二種類のnNOS発現細胞が確認された。一つは神経突起の末端に至るまで、細胞全体が強く染色された神経細胞、もう一つは細胞膜様の形状のみが弱く染色された神経細胞であった。強く染色された神経細胞は数個程度で、大脳皮質の皮質層の深層側で観察され、弱く染色された細胞は皮質層全体で観察された。これまで、nNOSの時間的空間的な発現分布が一致しなかったのは、上記のような染色の強弱の度合により、どのレベルでの染色をnNOSの発現とするかが違っていたからではないかと推察できた。

 そこで、次に、発達期大脳皮質において生理条件下でのNOの産生を直接可視化できるリアルタイムイメージング法の確立を進めた。近年開発されたDAR-4Mは、細胞の自家蛍光と重ならない赤色の蛍光を発するため、backgroundが非常に低く、少量のNOでも検出できる優れた色素である。そこで、本研究ではこの性質を生かし、DAR-4Mを用いたNOイメージング法を開発した。また、nNOSを活性化するために典型的な上流シグナルであるNMDA受容体刺激を利用した。P0の体性感覚野の脳スライスを用いて、NMDA刺激によるNOイメージングを行った結果、大脳皮質の浅層側ではほとんどNOの産生が観察されなかったが、深層側では観察され、阻害剤を用いた実験結果から、検出されたNOはnNOSによることが明らかになった。また、このNO産生は、数個の強く染色された細胞のNO産生では説明できないほど広範囲にわたっていることから、NO産生は弱く染色された細胞から放出されたNOであると考えられた。以上のことから、P0の発達期大脳皮質体性感覚野において、免疫組織化学的手法により弱く染色されたnNOSがNOを産生すること、皮質層の浅層側ではnNOSの発現はあるもののNMDA刺激によるNOの産生が認められないことが判明した。

 第2章 NMDA受容体の活性化によるカルシウム応答とNO産生の相関関係

 第1章の結果から、浅層側ではNMDA受容体を介した細胞質内へのカルシウム流入が起こらなかったために、NOが合成されなかったと推察することもできた。そこで、NMDA受容体を活性化させた際のカルシウムの動態をカルシウムイメージング法により解析した。その結果、予想に反してNMDAによるカルシウム流入は深層だけでなく浅層においても観察された。このことをさらに確かめるために、NOとカルシウムを同時にイメージングする方法を開発し、同条件でカルシウムとNOの動態を観測した。しかし、この結果においても、カルシウム応答は大脳皮質の層全体で見られたが、強いNO産生は深層側でのみ検出され、統計処理の結果からも、有意にNO産生が深層側に限局して観察されることが示された。一般にカルシウム流入が起こっているnNOS陽性細胞ではNOが産生されると考えられてきたが、浅層側においてはnNOSの活性化に必要なある種の調節因子が不足しているために、nNOSの活性化に用いられているカルシウムの細胞質内流入だけではNOは産生できないということではないかと考えられた。

 第3章 大脳皮質の発達に伴うNO産生領域の変化

 第1章、2章の結果から、発達期大脳皮質体性感覚野において発現しているnNOSは細胞質内カルシウム流入に加えてある種の活性化の調節を受け、NOを産生していることが判明した。このNOの産生が、脳の発達に伴う、神経細胞の成熟化や脳容量の増大により、どのように変化していくのかを知ることは、何による調節なのか、何を調節するためなのかを解明するのに必要な情報である。そこで、発達段階を追ってNOイメージングを行い、さらにイメージングに用いた切片を、層構造を解析するための後染色をすることで、NOの産生部位を詳細に解析した。P0でNO産生はV、VI層で観察された。さらに発達が進んだP10では、NOの産生部位はIV層にまで拡大した。これは、P10においてNMDA受容体活性化により、IV層に発現しているnNOSは活性化されNOを産生することが可能になったことを示している。P10 の体性感覚野のIV層において、IV層が同一平面状になるように、脳表面に対して平行な切片を作成し、NOイメージングを行った。その結果、バレル状にNOが検出された。また、これは、NMDA受容体を活性化させた場合、NOが三次元的に広がったことを示している。さらに、シングルセルイメージングを行い、バレル状に検出されたNOはIV層の神経細胞による可能性を示した。さらに発達が進み、バレル形成が完了したP30では、皮質層全体にわたりNOの産生はほとんど観察されなかった。

 まとめ

 発達期大脳皮質体性感覚野において、nNOSの発現解析と発現しているnNOS によるNO産生をNO蛍光標識物質を用いたイメージング法により解析した。nNOSの染色により発達期大脳皮質の細胞は、神経突起を含め細胞全体が強く染色された細胞と、細胞の膜と考えられる構造が弱く染色された細胞の二種類に分けられた。これらの染色性の異なるnNOSのうち、NMDA受容体活性化により産生されるNOは弱く染色されたnNOSにより産生され、その活性化はカルシウムの流入以外の調節も受けていることが明らかになった。

 NMDA受容体活性化により産生されるNOは脳の発達に伴って、その時間的空間的な産生パターンが変化した。P0ではV、VI層で観察されたNO産生は、P10ではIV層にまで拡大したが、P30においては皮質層全体でほとんど観察されなかった。

 このような発達と伴に変化するNO産生パターンは視床から大脳皮質へ投射するニューロンが大脳皮質において形成するシナプスの層特異性と酷似していることから、産生されたNOは視床から大脳皮質へ投射するニューロンが大脳皮質ニューロンとシナプスを形成する際に何らかの関与をしていることが推定された。成体脳においても、NOはシナプス形成の過程に寄与することで、高次脳機能の発現に貢献していることが予想された。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は3章からなり、第1章では発達期大脳皮質体性感覚野におけるNOイメージング法の確立、第2章ではNMDA受容体の活性化によるカルシウム応答とNO産生の相関関係、第3章では大脳皮質の発達に伴うNO産生領域の変化、について述べられている。

 第1章において、免疫組織染色の結果、二種類のnNOS発現細胞が確認された。一つは神経突起の末端に至るまで、細胞全体が強く染色された神経細胞、もう一つは細胞膜様の形状のみが弱く染色された神経細胞であった。強く染色された神経細胞の数は非常に少なく、大脳皮質の皮質層の深層側で観察され、弱く染色された細胞は皮質層全体で観察された。次に、発達期大脳皮質において生理条件下でのNOの産生を直接可視化できるリアルタイムイメージング法の確立を進めた。近年開発されたDAR-4Mは、細胞の自家蛍光と重ならない赤色の蛍光を発するため、backgroundが非常に低く、少量のNOでも検出できる優れた色素である。そこで、本研究ではこの性質を生かし、DAR-4Mを用いたNOイメージング法を開発した。P0の体性感覚野の脳スライスを用いて、NMDA刺激によるNOイメージングを行った結果、大脳皮質の浅層側ではほとんどNOの産生が観察されなかったが、深層側では観察され、阻害剤を用いた実験結果から、検出されたNOはnNOSによることが明らかになった。

 第2章において、NMDA受容体を活性化させた際のカルシウムの動態をカルシウムイメージング法により解析した。その結果、予想に反してNMDAによるカルシウム流入は深層だけでなく浅層においても観察された。このことをさらに確かめるために、NOとカルシウムを同時にイメージングする方法を開発し、同条件でカルシウムとNOの動態を観測した。しかし、この結果においても、カルシウム応答は大脳皮質の層全体で見られたが、強いNO産生は深層側でのみ検出され、統計処理の結果からも、有意にNO産生が深層側に限局して観察されることが示された。一般にカルシウム流入が起こっているnNOS陽性細胞ではNOが産生されると考えられてきたが、浅層側においてはnNOSの活性化に必要なある種の調節因子が不足しているために、nNOSの活性化に用いられているカルシウムの細胞質内流入だけではNOは産生できないということではないかと考えられた。

 第3章において、発達段階を追ってNOイメージングを行い、さらにイメージングに用いた切片を、層構造を解析するための後染色をすることで、NOの産生部位を詳細に解析した。P0でNO産生はV、VI層で観察された。さらに発達が進んだP10では、NOの産生部位はIV層にまで拡大した。これは、P10においてNMDA受容体活性化により、IV層に発現しているnNOSは活性化されNOを産生することが可能になったことを示している。P10 の体性感覚野のIV層において、IV層が同一平面状になるように、脳表面に対して平行な切片を作成し、NOイメージングを行った。その結果、バレル状にNOが検出された。これは、NMDA受容体を活性化させた場合、NOが三次元的に広がったことを示している。さらに、シングルセルイメージングを行い、NMDA受容体活性化によりIV層の神経細胞がNOを確かに産生していることを明らかにした。さらに発達が進んだP30では、皮質層全体にわたりNOの産生はほとんど観察されなかった。

 これらの研究は、神経発生過程の新しい原理を提唱しており、脳科学的に判断して十分に価値がある。したがって、論文提出者は、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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